第55話 望郷は遥か遠く
少し肌が冷えるような、群青色に染まる澄んだ夜天。星々は思い思いに瞬いて、ちいさなわた雲は穏やかに空をたゆたっている。
「……きれいだな」
宿舎の裏庭、くすんだベンチに腰掛ける彼は己が所感の単純さについ苦笑をこぼしてしまう。だが隣に佇む深緑の相棒は静かに首を振り、同じく夜空を仰ぎ見る。
「ああ、そうだなゴーゴート。やっぱり……どんな場所でも、夜空の美しさは変わらない」
ふと、目元に熱を感じ視界が滲む。慌てて拭い相棒を見ると、恐らく察してはいただろう、それでも触れずにいてくれる。
ゴーゴートは昔からそうだ、オレの心をすごく理解してくれていて、隣に居るとすごく安心感がある。
だからこそ……つい、一人で抱えようと思っていても彼には弱音をこぼしてしまったのだろう。
「あのさ、ゴーゴート」
意識的に発したものではないからか、わずかに震える声で呼び掛けていた。
ゴーゴートが顔をあげると、……自身の角を握る感触から悟った、今の主の心境を。
「……ああ、本当は分かってるんだ。オレはどうしたらいいか、なんてさ」
すん、と冷えた空気が鼻をつく。しばらく躊躇うように喉元で反芻を繰り返し、ようやく形になったのか吐き出し始めた。
「……きっとオレは今まで、何かを、大切なものを守る為に戦ってきたのは本当で。とにかく目の前のことに必死で余裕なんて全然なかった」
脳裏に浮かぶのは幾度とオルビス団の構成員や……時には幹部とも戦ってきた光景だ。かつては構成員一人に対しても三人がかりで辛勝がやっとであり、今でも幹部を相手にしては遊ばれたとしても到底敵わない。
それでも、エクレアちゃんや街の施設、オルビス団に奪われたポケモン達……この旅の中で、少しはなにかを守ることが出来たと思う。オレ達が戦うことで見知らぬ"誰か"が笑顔になって、感謝を伝えてくれて、頼りにされて……。
思い返せば胸が柔らかな温かさに包まれて、それが守れた証なんだとほんの少しは臆病な自分に自信が持てる。ノドカやソウスケ達にも励まされ、だからきっと今までの旅は間違いじゃなかったんだと、そう思えるようにはなった。やっぱりオレは、『大切なものを守りたい』のだと、その為に旅を続けて来たのだと。
「……そうだ、だから今までみたいに戦い続ければ良い筈なんだ。だけど、どうしても……」
……それでも、どうしても仮面の男の姿が、憎悪が、 恐怖が脳裏を過る。どうしても踏ん切りがつかずに後退ってしまい……。
我ながら本当に情けない、傍らに寝かせた赤い帽子を見やり、自嘲するようにひとりごちる彼にゴーゴートが蔓を伸ばしかけたところで……不意に聞き馴染んだ声から呼び掛けられた。
「やあジュンヤ、眠れないのかい」
おもむろに腰を上げて、振り返れば幼なじみの少年……ソウスケが、その相棒ヒヒダルマが柔らかな笑みを浮かべながら立っている。
彼はジュンヤの隣に来ると「綺麗だ」と短く呟き、自分も頷くと顔を見合わせ互いに微笑む。
「旅に出て、色々なことがあったけれど……どんな場所でも、この美しさは変わらないね」
「ああ、分かるよ、オレも……さっき同じことを考えてた」
まぶたを伏せて、遠いいつかに想いを馳せれば……脳裏に過ぎるのは無邪気で幼かった故郷での日々だ。
光る芝生をふざけて寝転び、電信柱の影を踏んで遅くまで帰らないこともあった。日が暮れるまで遊んだかくれんぼではわざとノドカを見つけていないふりをしたり、おいかけっこではいつもソウスケが勝ってたっけ。
「……そういえば、覚えてるか。昔お前と登り棒で競ったこともあったよな」
「ああ、あったね、結局勝ったのはメェークルとダルマッカだったけれど。……あれは卑怯だった!」
「はは、本当にずるかったよな。メェークルなんてツルで一気に登ってたしな……!」
二人の愚痴に気を悪くしたのか、隣に佇んでいた相棒達がぶーぶー不平を露にする。二人して「悪かった」となだめると落ち着いてくれたが、……あれは言われてもしかたないだろ!
「ふふ、ラルドタウンでは本当に色々あったものだよ」
遠くを見つめて、懐かしむ彼にジュンヤも素直に同意を示す。なにせつい最近までそこで暮らしていたのだ、思い返せばキリが無いほどに本当に色々なことがあった。
走馬灯のように心へ映し出される郷愁は色褪せることなく輝いている。
そして二人で協力していじめっこの上級生達を公園から追い払ったことや、修学旅行でノドカが迷子になって一生懸命探したことなど……。
思い出話は二人で更に盛り上がり、語り疲れたのかしばらく何も言わずに並んで夜空を眺めていたが……ふと、ソウスケが何か閃いたのか「そうだ!」と人差し指を立てて微笑む。
「久々にキャッチボールでもしないか?」
思わず虚を突かれて目を白黒させるが……はは、懐かしいな、ソウスケらしい。オレが苦笑混じりに頷くと彼は軟球とグラブを取りに戻った。
「行くぞジュンヤ!」
互いに左手にグラブを嵌めて、ソウスケが軟球片手に高らか叫ぶ。
「流石に手加減してくれよ、ソウスケのボールは重いし早いんだから」
「はは、それじゃあ軽くやろうか」
穏やかに空気が流れる中で、彼は笑いながら軟球を放り投げ、空中で放物線を描いてオレに目掛けて降って来た。
左手を目の前に出すと球はぼふ、とグラブへ収まり、右手で掴んで己も放る。先程同様軟球は弧を描いてソウスケの眉間へ向かっていく。
「はは、流石だねジュンヤ、かなりうまくなったじゃないか。昔とは大違いだ」
低く柔らかな音でボールを捕らえ、先程同様動作を軽やかに投げ返してきた。
「しかたないだろ、小さい頃はあまり運動しなかったんだから」
「そうだね、それが今となっては相当上達したものだよ」
「お前のキャッチボールにいつも付き合ってたんだ、これで上手くならなかったら流石に驚くさ」
オレもキャッチすると再び投げ返し、それが幾度も幾度も繰り返されていく。
「お前は昔から運動が得意だったよな」
ぼす。
「負けず嫌いな性分だからね、それに元々体を動かすのは好きだったし」
「それでもすごいよ、いつも一生懸命で眩しいくらいだ」
ぼす、ぼす。
「僕からすれば凄いのは君さ、校内の誰よりもポケモンへの理解があって」
「家が育て屋だったし、父さんや母さんに憧れて本を読んでたからだよ」
「だとしてもさ、君は僕のライバルだからね」
ぼす。ぼす、ぼす。投球の応酬の中で、次第にジュンヤの投球が精度を落とし荒くなっていく。
「ジュンヤ、君は未だ迷っているようだね。おっと」
妙なところに飛んでくる、時には腰を落として時には脚を開いて辛うじて捕球しながら尋ねると、一瞬の沈黙の後に苦笑がこぼれた。
「はは、情けないよな、ずっと足踏みをしてるなんて」
返事はない、けれど言外で相槌を打ってくれていると一人で納得して続けていく。
「……考えたんだ、オレはどうして今まで戦ってきたのか。それでさ、思ったんだ、やっぱりオレは大切なものを守りたい……って」
「ああ、いつも隣で見ていたんだ、そんなの今更さ」
「はは、本当に今更だよな。なのに……こんな簡単なことも分からなくなってたんだ」
「けれど君の心は未だ晴れていない、……踏み出せないでいるのだね」
「……ああ。頭じゃあ分かってる、何をすればいいのか。だけどそれ以上に両親を殺した仮面の男が憎くて、奴に……殺されるんじゃって……怖くて、オレは……」
そして、ジュンヤは振り上げかけた手を止めてしまう。しばしの沈黙を経て、ソウスケは深く息を吸い込んだ後に……高らか叫んだ。
「ふ、らしくなくて見てられない。けれど……僕は信じているぞ!」
彼は全力で振りかぶり、左足で大地を踏み締め上体の回転に合わせて腕を振って握っていた球を投げ放った。
それは今までで一番勢いがあり、真っ直ぐジュンヤの額目掛けて突き進み……。
「うおっ!」
咄嗟に防ごうとしたが、間に合わない。かん、とやや高めの音と共に直撃し、勢いで思わずジュンヤは尻餅をついてしまう。
「……っ! い、今お前絶対全力で投げただろ!?」
「はは、やだな、僕はいつだって全力さ」
「そんなこと聞いてない!」
っていうかまだボール投げ返してないのになにを投げたんだ、と額を抑えながら足元に目を向けると……紅白球が転がっていた。
「ソウスケ、お前……」
「ああ、はは、それだけの元気があるなら大丈夫そうだ。何かきっかけさえあれば立ち上がれるね、というか再起してくれないと僕が困るのだけれどね!」
「ど、どうして」
「決まっているだろう、ライバルだからさ! 僕はまだ君に勝てていない、何としてでも君に勝ちたい、だから……いつまでだって待ち続けてやるさ」
なあ、と腰に装着された紅白球の一つ……ヒヒダルマのそれをピンと弾くと、勿論だ、と言わんばかりに荒々しく震える。
まったく、本当にソウスケはバトルが大好きだな。……いつだってそうだ、誰よりも諦めが悪くていつも真っ直ぐに己の未來を見つめている。……ソウスケも恐怖を乗り越え頑張っているのにオレは何をやっているんだ、と己が恥ずかしく思えてしかたない。
「……はは、相変わらずだよソウスケは。本当にポケモンバトルが大好きだよな」
「もちろんさ。それにジュンヤ達のことも大好きだよ」
「……ああ、オレもソウスケ達のこと大好きだぜ。いつもありがとう」
幾分か汚れてしまった尻を叩いて、苦笑混じりに立ち上がる。それから少し照れ臭いけれどお礼を伝えると……。
「そうか、それは嬉しいよ。ところでノドカのことはどうだい?」
「え? もちろん大好きだけど」
「どういう意味で、かな」
「……は? ……っ、バカ! お前本当……このバカ!」
「はっはっはっはっ、僕は先に帰らせてもらうよ、さらばだジュンヤ!」
「あーもう、勝手にしろ!」
モンスターボールと軟球、それからグラブを投げつけてその背中を見送って、……あのバカのせいで何だか顔が熱い。少し熱を冷ましてから、オレとゴーゴートもポケモンセンターへと戻った。
淡く、儚く光る幽玄の月が夜闇を裂いて空に浮かび、昼の熱気が嘘のように静まり返った周囲は冷ややかな空気に包まれている。
眠れずに、コテージに出たジュンヤが何をするでもなく夜空を眺め、先程のソウスケとのやり取りを思い返す。
「……思えば、ソウスケとノドカとは長い付き合いだよなあ。二人の居ない生活なんて考えたことがなかったな」
彼との思い出話は予想以上に盛り上がったが、その全てがお互いやノドカが居なければ成り立たないものばかりであった。……改めて、彼らという存在が居なければ今の自分はなかったと、その大切さを認識させられた。
「……オレは、ノドカとソウスケがいるから戦えたんだ」
ノドカのほがらかさに救われ、ソウスケの諦めない姿勢に励まされ、……夜空に手を伸ばし、強く拳を握り締める。
伸ばしたこの手は……願っている未来がその先にある。己の行くべき道、ずっと胸に描き続けていた確かな想い。
だから、だからオレは……。
「ふわぁ〜……。うぅん、なんで窓開いてるの〜……?」
「あっ」
だらしない格好で、あくびをしながら肌寒そうに起きてきたノドカが窓に手を伸ばしたところで……目があった。
「おばっ……もごもご!」
「オレだ、ジュンヤだよ!」
「え? あ、なーんだ、びっくりしたよ〜」
目の前で叫ばれそうになり、慌てて口を塞いでそう言うと彼女は安堵に胸を撫で下ろした。
……いくら寝ぼけていたとはいえ、流石にお化けに間違われるのは心外だ。ノドカの柔らかな頬をぐい、と引っ張ると面白い反応をしてくれたので許すことにしたけれど。
「ジュンヤもまだ起きてるんだ」
「……ああ、どうしても最近寝付けが悪くてさ」
オレ"も"というのは、ソウスケのことを指しているのだろう。あいつは以前に増して熱意的だ、今も鍛練に励んでいるらしく、部屋には彼の姿とモンスターボールが装着されたベルトが見つからなかった。今日だけでは無い、最近はずっとその調子なのだ。
「あのさ、ノドカ。少し話でもしないか」
「うん、いいよ。……ふふ、なにかいいことあったの? 口もとゆるんでるよ」
思わず不意を突かれたが、どうやら顔に出ていたらしい。たしかにソウスケと久しぶりにじっくり話し込んで、キャッチボールをして、からかい合って……幼い頃に少し戻った感じがして、楽しかったのは本当だ。
「お前のそういうとこ、意外だよなあ」
「そう? だってジュンヤ分かりやすいんだもん」
「はは、敵わないな、お前には」
やっぱり昔からずっと一緒にいるからだろう、容易に分かってしまうらしい。オレだってそうだ、……まあ、ノドカはすぐ顔に出るから分かりやすいのもあるだろうけど。
「そういえばさ、ノドカ」
「なあに?」
「七個目のジムバッジおめでとう。よく頑張ったな、かっこよかったぜ」
素直に、心からそう思う。彼女は何度も敗北してしまったが、最後には無事勝利を手に入れられた。とても喜ばしいことだし、負ける度に少しずつ前に進む姿は見ていて励まされた。
「ジュンヤのおかげよ。あなたが見てくれてるからがんばろうって思えたの」
「そうか、……ありがとな」
「え? ううん、私こそいつもありがとね!」
いや、礼を言うのはオレの方だよ。覚えてるんだぜ、ポケモンが傷付くのはかわいそうだ、ってバトルの苦手なお前がそれでも強くなろうとしたのは……オレが父さん達を失った悲しみから立ち上がったあの時だって。
きっと、思い上がりじゃあなかったら、……オレの為なんだよな。
「……ははっ」
「ふふっ」
なんだか空気がこそばゆくって、お互い意識を逸らすように夜空を見上げて頬を冷ます。
……群青の帳に覆われた天には幾多の星が色彩に満ち、その中で青と橙、二つの星が寄り添い合う。思わず己と隣に佇む幼馴染みにそれを重ねて見てしまい、お互い同じ気持ちのようだ、視線を交わして二人ではにかむ。
「昔こうして、ソウスケと三人で夜空を見たことがあったよねえ」
「はは、あったなあ。ノドカがすぐに寝ちゃって、オレも気付いたら寝てたっけか。昔オレとノドカの二人が森で迷子になった時には雨だったから、こんな綺麗な空は見えなかったっけか」
沸き上がる情想は思い返せばきりがない。しばらく盛り上がり、話し疲れて心地よい沈黙を過ごしていた後に……意を決すように生唾を呑み込み静寂を打ち破った。
「あのさ、ノドカ、オレは……決めたよ。いつになるかは分からない、どうすれば出来るかは分からない。だけど……もう一度歩き出そうって、もっと強くなろうって」
みんなと話して……改めて思った。やっぱりオレは仲間のことが何より大切で、今度こそ失いたくない、育て屋のみんなに顔向けしたい。……だから、頑張らなきゃいけないって。
「……きっと、ううん、絶対に。ジュンヤならだいじょうぶだよ、だってあなたの強さは誰より私が分かってるから」
ふわり、と穏やかな風にノドカの柔らかな髪が遊ばれて、可笑しくもないけれど微笑ましくってふと笑みがこぼれてしまう。
「ありがとう、ノドカ。……最後にひとつだけ、いいかな」
それは今までで何より重く、自分を苦しめ続けて来たことだ。声が緊張に震えるのを感じながら、それでも必死に言葉を紡ぎ出していく。
「もし、……もしもオレが仮面の男に勝てたとして。オレはどうすればいいのかな」
それはなかば未だ迷い続ける己自身への問い掛けであった。それでもノドカは必死に頭を働かせて、うんうんうなってしばらく考え込んで……やがていつになく真剣な声色で応えてくれた。
「あのね、ジュンヤ。きっと……どんな選択をしても、やなことはあると思う。もし殺したとしたら誰にも責められなくてもあなた自身が自分を責めて。殺さないとしたら、……あなたの怒りが行くとこを無くしちゃう。だからね、きっとどんな道を選んでも、ある程度納得出来たらいい……のかなーって」
そうだ、ノドカの言う通りだ。だから自分は悩み続けて……ずっと己に迷い続けていた。
奴に対する気持ちに、どう決着をつけるか。オレにはきっと誰かを殺すなんて荷が勝ち過ぎる、けれど殺したい程憎くてしかたがない。
二律背反に惑う感情は己にも満足な答えを得ることが出来ず……だからこそ、誰かに聞いておきたかった。
「だけど……そうだな、お前の言う通りだ。多分今のオレじゃあ……どんな選択をしても後悔に付きまとわれると思う」
きっとエクレアちゃんもサヤちゃんも、最初はこんな気持ちだったのかもしれない。それでも二人は自分なりの答えを出したのだ……だから。
「オレも、幸い時間はまだありそうだ、もう少しゆっくりと考えてみるよ」
「うん! また何かあったら私とかソウスケに頼ってね!」
「ああ、ありがとう、そうさせてもらうよ」
えへん、と胸を張る彼女の頭をぽふと撫でて、二人で再び部屋に戻る。
雲の絶え間に浮かぶ月陰は泡沫の如く、淡い幽玄の光となって射し込んでいる。深い趣に満ちた風情にしばし心を奪われて……しかし明日へ向けて帳を下ろし、ジュンヤは横たわって色々なことを考えている間に……浅い眠りへと沈んでいった。