最終話 燃える太陽 新たな一歩
「セレビィ。森の守り神として祀られている幻のポケモン」
部屋の窓際。机に向かって座っている少年が、本の中を眺めながら呟いた。
彼が目を落とした先では、額縁のような枠の中で、一匹のポケモンが写実的な森を自由に飛び回っていた。
勾玉を連想させる形の頭、背中には妖精のような薄い羽根。黄緑色の神秘的なポケモン、セレビィだ。
「……結局、会えなかったなあ」
その言葉にほんのちょっぴり悔しさを込めながら、本を閉じて、鞄に収めた。
朝日の差し込む窓。ゆっくりと開いて、白く太陽が照らす景色を眺める。
ムックル達がさえずりながら、白い雲が流れる青空を羽ばたいていく。まだ昼と言うには気の早い時間帯だからだろう、空気も幾分か涼しさを残していた。
まだ街は人通りも無く閑散としている。肌を仄かに冷やす清涼の中に身を委ねていると、心地の良い穏やかな風が、ヨウタの頬を優しく撫でた。
……なんて気持ちの良い朝だろう。まるで、僕達の新しい門出を祝ってくれているみたいだ。
窓を閉じて、机の上に目を向ける。そこには、黄金に輝くトロフィーが飾られていた。
そして様々な景色を背景に仲間達と撮られた、数え切れない多くの写真が貼られているコルクボードも立てかけられている。
どちらも、この旅で得た大切な証だ。鞄の中には収まり切らず、目を離せば零れ落ちてしまいそうな程多くの体験をした、過ぎ去りし日々。
かけがえの無い大切な宝物を胸に抱いて、行人達は帰って来たのだ。彼らの故郷、ヒガキタウンに。
……遥かに遠く、果てなく続く夢への道。僕達はいつからか、それを歩き出していた。
今では遠い昔のように感じられる、ポケモンリーグ。僕達の夢、ポケモンマスターへの登竜門。
僕はその盛大な大会で、ただの一度だって負けるつもりは無かった。これまで一緒に戦ってきたみんなと心を一つに合わせて、持てる力全てを振り絞って戦い抜いた。
僕達の旅の集大成を見せる、コウジン地方の大舞台。決勝戦で、僕とミツキが対決した。
一瞬の油断が敗北を招く。絶えず緊張の糸が張り詰めるフィールドで互いに鎬を削り合い、死力を尽くした激戦。僕が僅かな差で勝利を掴み取り、僕、ヒガキタウンのヨウタの優勝で盛大な催しは幕を降ろした。
そして僕達が故郷ヒガキタウンに帰って来たことで、ついに長かった僕達の旅は一旦の終わりを迎えたのだ。
けど……。
「ヨウタ、もう行くの? もう少しゆっくりしていけばいいのに」
玄関で靴を履いている僕の背に向かって、別れを惜しむ言葉が投げかけられた。振り返ると、母さんが少し寂しそうな顔……をしていなかった。
「母さん、そう言ってる割りには嬉しそうじゃない?」
理由を尋ねると、母さんはふふっと微笑みを零す。
「だって、こんなすぐに旅に出るなんて……。ほんと、誰に似たのかしら」
母さんは昔を懐かしむように、目を細めて微笑んでいる。
……ああ、分かった。きっと僕の父さんも、こんな人だったんだろう。
「じゃあ行ってくるよ、母さん」
靴箱の上、佇む木彫りのリングマの腕に掛けられた鍵を手に取り鞄にしまう。
「ええ、無茶はほどほどにね。じゃあ行ってらっしゃい」
母さんに手を振ってから帽子をかぶりなおして、僕は家を出た。
そう、僕はまた旅に出る。
今度の行く先は隣の地方、トウシン地方だ。
僕にとって、二度目の旅立ち。けど、あの時とは違う。今の僕には、立派な夢がある。
僕が旅の中で見つけた、みんなのおかげで見つけられた夢。地平の果てから昇る太陽みたいに、いつの間にか芽生えていた譲れない夢。今も胸の奥で爛々と照り輝き、僕の心を眩く照らしてくれる、ポケモンマスター。
僕はこれからも、旅を続ける。夢を叶える為に、アカリとヒロヤさんと、レントラー達と一緒に、進み続ける。
今回はさすがにルミはお留守番だ。確かにルミに助けられたことはある、とはいえ、また悪の組織などと遭遇してしまったら今度こそルミを守れるか分からない。大切な妹を、兄としてこれ以上危険に晒すわけにはいかない。
それにルミは、僕が自分のポケモンを貰える日を待っていたのと同じように、僕を見習ってちゃんと待っていたい、らしい。
「……良い天気だなあ」
……空を仰ぎ見て、呟いた。晴天はどこまでも青く広がり、白雲はゆったりと流れていく。その中心では、太陽が燃えていた。きっと夜になったら月が輝き、散りばめられた星も瞬いていることだろう。
穏やかな風が、優しく髪を揺らす。だが今の自分の心は、決してまどろみの中にたゆたってはいない。
これからようやく、新たな旅立ちだ。あの時とは違う、自分の夢を持っての出発。
待ち合わせ場所は29番道路、目的地はお隣にあるトウシン地方。
まだ時間は少し早いが、逸る気持ちは抑まりが効かない。
白い石畳を踏みしめる脚は、いつの間にかテンポを上げている。
気が付けば、僕は走り出していた。
ポケギアの時計を見る。時間は十時二十八分。待ち合わせ時間三十分まで、もう間もなくだ。
「おーいヨウタ、アカリ!」
ヨウタより先に待っていたアカリと二人で話していると、自分達を呼びかける耳馴染んだ声が聞こえて振り返る。
「あぶねえ、なんとか間に合ったか」
「ギリギリだったね」
慌てて走ってきた二人は、ぜえぜえと息を切らしている。
「うん、えっと、今二十九分になった」
……って、ん、二人?
真ん中分けで空色のシャツの青年、ヒロヤの隣で、ツインテールが肩の上下運動に合わせて僅かに揺れている。
その服装、身長、声。……紛うこと無く、
「る、ルミ! どうして……!? お前、ポケモンが貰える日が来るまで待つんじゃ……」
「うん、まつよ! お兄ちゃんとチルットと、みんなといっしょにたびをつづけながら、ね!」
目をまん丸にして驚いているヨウタ、彼の妹、ルミだ。
「悪いヨウタ! どうしてもって頼まれて断りきれなかった!」
「お兄ちゃん、またお願い!」
今回お留守番、のはずのルミとチルットは、瞼を固く引き結んで懇願してくる。
「ふふ。だって、ヨウタ君」
アカリはまるで、自分がどんな判断を下すか分かっている、そんな笑みを浮かべながら、こちらに顔を向けてきた。
ルミとチルットは、半ば祈るように手を組んで未だ目を瞑っている。
「……」
僕は兄として、妹を危険に晒すわけにはいかない。ルミもきっと、ダメ、と言ったら大人しく引き下がるだろう。……だけど。
旅の中でルミも成長したのだ、その言葉がただの遊び気分では無いのも伝わってくる。
「……分かった、いいよ」
僕は頭を軽く掻きながら、深くため息を吐いて、返事をした。
僕はどうやら思っていたよりもルミに甘いらしい。ルミの真っ直ぐな気持ちをどうしても断りきれなかった。
「やったあ! ありがとうお兄ちゃん、だいすき!」
それを聞いた瞬間に、一人と一匹は高く飛び跳ねた。
……まったく、ルミは……。
「ただし、危ないから一人で勝手に出歩いちゃダメだからな」
「はーい! お兄ちゃん、アカリちゃん、ヒロヤさん! これからもよろしくね!」
二人もそれによろしく、と返す。
……ちょっと予想外のこともあったけど、とにかく、これでみんなが揃った。
「よし、じゃあ……。行こうか、みんな!」
ここから始まる、僕達の新しい旅。どんな旅になるかはまだ分からない。けど、一生の思い出になる素敵なものになるといいな、なんて考える。
「うん!」
「ああ!」
「いこー!」
僕のかけ声に、みんなも威勢良く返した。
僕達は決して振り返らない。止まることなく流れる時間の中を、歩き続けていく。
僕とヒロヤさんはポケモンマスター。アカリは変わらずジムリーダー。ルミは多分、自分の夢を見つける為の。僕達みんなの、新しい旅だ。
空はどこまでも青く広がって、白雲は遠くへ流れていく。きっとどこかで月が輝き、星も瞬いているだろう。
燃え盛る太陽に照らされ草木もきらきらと輝く中、みんなで一緒に、新たな一歩を踏み出した。