03 夕日は入り果てて
オレは重たい体を引きずりながら、一歩、一歩と足を進める。酷く圧し掛かる倦怠感から思わず足がもつれてしまう、それでも歩みを止めるわけにはいかないのだ。何故なら……そうだ、オレには行かなければならない場所があるのだから。
「……無駄に格好をつけているけれど、どうやら人のお金で摂る食事は余程美味しかったと窺える」
「うん、すごくおいしかったよ! ありがとうショウマ!」
「えへへ、あたしもお腹いっぱいー!」
日もすっかり落ちて、燭台の光が夜道に敷かれた石畳を橙に染める帰路。甘く芳しい菓子の匂いや食欲を煽る焦げたバターとパンの香りがどこからともなく鼻をくすぐる。とはいえ今はたらふく食べたあと、逆に胃もたれしそうになるのだが。
満足そうに腹を膨らませているのはアキラとエリシアだけではない、足元のチコリータも同様だ。リザードだけは平静を装って澄ました顔をしているものの、そのお腹は三人と同様、いやそれ以上であり、一番食べまくった何よりの証でもある。
「ああそうかい。まったく、キミは相変わらず……恥と節度というものを知りたまえ」
悪態をつきながらショウマは財布を覗き見ているが……そう言いたくなるのも無理はないだろう。何故なら腹八分で止め平均よりやや少ない程しか食べなかった彼と相棒のカメールに対し、アキラは何度もお腹いっぱいと言いながら己の限界を越えても必死に食べて、更にはちゃっかり食後のデザートまで頼んでいた。リザードに至ってはしっかり咀嚼もせずに運ばれて来る餌を矢継ぎ早にと口へ放り込んでいく始末だ。
エリシアとチコリータは流石に幼くそこまで主食を食べてはいなかったが、そこは流石に女の子、パンがあるにも関わらずケーキをいくつも注文し、食べきれなかった分はショウマが処理をさせられたのだ。……彼は甘いものを好んではいるが、流石にいくつも食べるとなれば胸焼けするには十分だったろう。
そして代金は大半がアキラ達の分、確かに奢ると言ってはいたが、遠慮もせずに食べまくる彼らに文句の一つも言いたくなる。
「あはは、ごめんごめん……。か、代わりに次はオレが奢るからさ……」
「ハ、アキラ、それをキミの口から聞くのは三度目だぜ。もっとも僕が奢ってもらったことは一度もないのだがね」
「え? そ、そうだっけか……」
「案の定覚えていないか、そうだろうね。安心したまえよ、ハナから期待など抱いていないさ」
「……ごめんショウマ。つ、次こそは! 次こそは絶対忘れないって、約束に関してはオレより頼りになるエリシアだっているからさ、ね!」
「キミより頼りにならない人などただの問題児ではないか」
「そ、そこまでじゃあないだろ」
「経験に基づく妥当な判断さ」
情けない声をあげるアキラにあくまで冷静に切り返すショウマ。睨み付けるカメールに気付かず静かに食後の満足感に浸るリザード。相棒は主に似るとは言うが、鈍感さではリザードが勝るようだ。
「ふふ、アキラとショウマさんってライバルだけど仲良しなんだね!」
「いやそれはない」
「……声をそろえて言ったら、ホントに仲良しさんに見えるよ?」
エリシアの言葉に最早二人は不服そうに口を噤むしかなかった。食ってかかったのはリザードとカメールであるが、そんな二匹も口にカヌレを突っ込まれて「よしよし」と怒りを流されてしまう。その時だ、突然大地が震動したのは。
「んむっ?! んん、んふっ、けほっ……!」
「うわっと、……って大丈夫かリザード、喉にカヌレ詰ま……ってないね、うん、飲み込むの早いよ。あ、エリシア大丈夫かい」
「またか、嫌になるな……。カメール、キミは……そうか、まだ咀嚼している最中だったようだね、安心したよ」
唐突な地震にエリシアは驚き喉にカヌレをつまらせて、道行く人は頭の上に持っていた壺を思わず落としてしまう。また露店では陳列していた品物が多少落ちてしまったり、吊られていたカンテラがぶらぶら揺れて鬱陶しかったりと大変そうではあったが、大方の人々は慣れた様子でまた平素に帰る。
いや、慣れた様子で、ではない。何故なら彼らは慣れているのだ。
『また』そう、ショウマの言う通りである。近年は自然災害が頻発しており、地震が起きるのはもはや稀によくあることなのだ。当然始めは困惑や混乱が頻発したものの、やがてそれにも慣れ始め、今では軽いトラブル程度の認識である。
「やれやれ、未だ地震に驚くとはね。近年は頻度が高いんだ、この程度慣れたまえ」
「だってぇ〜……! やっぱりこわいものはこわいし、こんなことなれたくなんてないよ〜……」
「そうだねエリシア、オレもそう思うよ。ショウマは天才だからオレ達一般人の気持ちは分からないんだよ」
「……キミに言われたくはないな」
「え? いや、あはは、まあオレも慣れちゃったけどさ」
「そういうことを言ってはいないのだがね……」
苦虫を噛み潰したような顔でこめかみを抑えるショウマを、しかし理由も分からずアキラとエリシアは首を傾げる。何故なのか、問おうとした時にはもう遅い。腕時計をちらと見遣った彼はわずかに顔に驚愕を浮かべる。
「……もうこんな時間か。相変わらずキミとリザードと過ごす時間は加速しているかのようだ」
「もー、あたしもいるのにー!」
「はは、それは楽しいってことだよねショウマ」
「アキラまでムシしないでよー! んむっ」
でしゃばってくるエリシアがうるさかったのだろう、アキラは会話をしながら無言で彼女の口にマフィンを突っ込む。
「どうだか。……まあ、充足感を得られるのは認めよう」
「素直じゃないな、楽しければ楽しいって言えばいいのに」
「下らない、僕は忙しいんだ、先を急がせてもらうよ」
「あ、え、どこに」
行くんだ、帰り道はトレーナーズセンターなら一緒じゃないか。言い切る前に彼とカメールは横道に逸れ、駆け足でオレ達を置いていってしまった。……。………………。
「えへへー、おいしいー!」
……あいつも大変そうだなあ。まあ、オレ達は先に帰るか。
既にショウマ達はいなくなったというのに未だにその背を睨み続けるリザードを引っ張り、エリシアに学園生活での思い出を語りながら帰路を辿った。
****
漆塗の天幕は黒く夜空を覆い尽くし、幽けく明る星々の中で朧に揺蕩うは弓形の月。
町から離れた林間で仰向けになり空へと指輪を翳せば、嵌め込まれた虹色の珠は月光を受けて七色に煌めく。
「……僕らは、遂に旅に出たのだね」
静寂を破り、呟いたのはショウマだ。カメールが同意と疑問を告げるとそのまま言葉は続けられていく。
「いやなに、今になってようやく実感しただけだ。もう周囲の大人に守られることは無く、真に自分の力で立ち上がらなければいけなくなったのだ、とね」
脳裏を過るのは、つい先日まで青春を駆けた学舎だ。誰か生徒と共に居た想い出というのは殆ど残っていないが、僕らに多くのことを教えて下さった周りの先生方については鮮明に記憶に刻まれている。
「……かつて夢を追い闘いに明け暮れた方も居た、かつて暴徒に染まりながらも更正し真っ当に働いている方や、高い志を持って後進の育成に励む熱心な方も居た。僕はその全てを尊敬している」
彼らの授業の内容については予習復習を済ませていた為におおよそ承知していたが、興味深かったのはその経験から生まれる滋味豊かな教訓の数々だ。ある方は理想を追う尊さを語り、ある方は己の行いを悔い同じ轍を踏まないよう注意喚起を促し、また出会いと別れの意義について説いてくださった方もいた。
……そして誰より尊敬する一人は、夢を捨て僕を育てる為に必死に働いた父上と、共に励んだ母上だ。決して裕福とは言えない家庭であったが、二人は僕には夢を叶えて欲しい、と僕の求めるものをなんでも買い与えてくれた。僕はそんな両親を誰より尊敬している、愛するものの為に己を擲つその背中に刻まれた心は何より輝いて見えていた。
皆我々に数え切れない教えを伝え、また様々な形で僕ら子供達を見守ってくれた。……だが、それも卒業と共に終わりを告げたのだ。
「あの学舎からの卒業を果たした今、僕らはもう子どもじゃないんだ。庇護の下から離れ、自由で責任の伴う大海へ出航しなければならない」
濃霧に視界を奪われ見失っても、確かな解答が見付からず彷徨い続けても、漕ぎ続けるしかない。先の見えない霧の中、それでも道を拓くことが僕ら全ての命に与えられた使命なのだ。
「けれど恐れは無いぜ、僕の傍にはカメール、キミがいるのだからね。僕はキミを信頼している、キミにもいつも心の中で敬意を表しているのだよ」
言うと、相棒は恥ずかしかったのかはにかみながらも頭を下げる。僕も笑顔を返して感謝を告げる。
「覚えているかい、始めて出会った時のことを」
僕とカメールが出会った日は、ある雨の日のことだった。周囲の木々や泥濘んだ地面が圧倒的な力によりひしゃげ、穿たれた跡とその場に残っていた無数の足跡の中に一つだけ、一際大きなそれが残っていた。それは明らかにカメックスのものであった。
ゼニガメの時も、カメールへと進化をしてからも何も聞いていない、だから彼も話さない。だがカメールは穏やかではあるが同時に強い自意識と向上心を備えており、僕と似ているのだ、ある程度の察しはついた。……彼は始めて出会った時傷だらけになりながら笑っていた、周囲に馴染めず度重なる軋轢の果てに決別を果たしたのかもしれない。
「あの時から、僕らの夢は変わらない。この道の先に何が待ち受けていようと、必ず一緒に乗り越えよう」
僕らの夢は最強だ。自分に、相棒に誇れる誰より強い自分になってみせる。そして必ず勝ってやる、アキラとリザードに……僕らの最大の好敵手達に。
「さあカメール、特訓を再開しようじゃないか」
アキラは僕とカメールのことを"天才だ"と評していた、しかしそうではない。確かに僕は一般と比べればたしかに非凡ではあるかもしれない、だがそれが傑出した才能かと問われると頷いてしまえば惨めなだけだ。
けれど、才能を敗北の言い訳にするつもりなどは微塵も無い。先天的に足りない部分は後天的に補えばいい、つまり現状に満足することなくひたすら努力を積み上げれば済む話だ。
二人で立ち上がって空を見上げる。そうだ、今は暗いこの夜も必ず明けて朝が訪れる。
……覚えているかい、キミの言葉さアキラ。もしかすると今キミも同じ月を見ているかもしれないね。僕は誰よりもキミを尊敬しているよ、だから必ず……キミという火群を越えてみせる。
****
降り注ぐのは、淡く妖美な金色の輝きだ。弛んだ弦さながら弧を描く儚い三日月は、雲間に隠れ星々の瞬く夜闇に浮かんでいる。
トレーナーズセンターの屋根の上で寝転がり、見上げた空は今まで見てきたどの夜よりもずっと綺麗で……空気は澄み渡り、耳には静けさが心地好く、夜の冷たさが肌に気持ちいい。この旅路に待つ僥倖を思わせる……そんな風情に、感動が思わず口から零れた。
「綺麗な景色だね、リザード」
隣に寝そべる相棒へ声を掛けると、ぶっきらぼうな同意が返って来た。
彼の瞼も確かに持ち上がり、暗所に適応した瞳孔は楕円に開いている。昼寝ばかりしてるから夜寝れなくなるんだぞリザード、生活習慣を改めような。
「……それにしても。ついにオレ達も旅に出たんだなあ、はは、まだあまり実感が涌かないや」
今でもまだ終わらない夢の中にいて。目が覚めたら学校に行かなくちゃいけなくて、エリシアと一緒に登校して、休み時間は友達と駄弁り授業中は居眠りする。気付いたらそんな日常に戻っているような……そんな気がして、まだこの浮き足立って、どことなく寂しい感覚は収まらない。
もっとも、隣に転がる相棒リザードは一見そうでもないようだ。いつもと変わらずカッコつけて口を尖らせやがって〜。オレは知ってるんだぞー、お前が内心すごくワクワクしてこれからの旅が楽しみでしかたのないことを。
「今にして思えば楽しかったなあ。ショウマと週一でバトルして、色んな行事があって、テスト前は赤点を取らないよう必死に勉強して……」
思い出せば輝く想い出は立ち上る泡のようにいくつもいくつも浮かんでくる。文化祭はしかたなくオレとショウマの二人で出店を周ったり、修学旅行ではショウマと一緒にこっそり女湯を覗いてオレだけバレて怒られたり、運動会ではエリシアにいいとこ見せる為にすっごい頑張ったりしたっけか。
……懐かしいよ。全てが昨日のことのように鮮明に脳裏で蘇り、胸にはほんの少しだけ、だけど空洞が空いたような……そんな寂寞の思いがわずかに過る。
ううん、違う、それでもだ。オレ達は既に旅路を踏み出した。今ならきっと引き返せる、故郷カワタレタウンには多くの想い出が詰まっている、けれど……後戻りなんて有り得ない!
「なあリザード。絶対オルナリーグに優勝して、最強のバトルトレーナーになろう」
……帰って来たのは『当然だ』そう言わんばかりに短く、しかし何より力強く頼もしい一声。はは、安心したよ、ありがとねリザード。
オレとリザードには夢がある、"最強になる"という譲れない夢が。別に立派な大義を背負っているわけでも強さに焦がれる格好良い理由があるわけでもない。ただエリシアにかっこいい自分を見せたくて、ショウマに絶対負けたくなくて、自分がどこまで行けるか見てみたくて、相棒に誇れる自分で居たくて。そして憧れているのだ、"最強"という二文字の称号に。八年前にその称号を掴み取った彼……故郷でヒーローと持て囃されているエリシアの兄、ルクスのその背中に。
「ルクスはかっこよかったよなあ、バトルも強いし人柄も良い、ルックスもイケメンだ。……そのせいでオレは全然モテないし恋人も出来なかったけど」
いやそれは多分関係ない、単にお前がモテないだけだ。リザードは心でそう毒づいて、しかし必死に責任を擦り付けようとしている彼の胸中を思って黙っていることにした。
……ルクスは、まさしくヒーローと呼ぶに相応しい人だった。優しくて分け隔てなく、目の前で困っている人がいたら誰であろうと手を差しのべる。バトルだって誰より強いし、将来を期待されたトレーナーだった。そしてその相棒ジュプトルも寡黙だが確かな力強さと意思、うちに萌える想いを感じさせ、ルクスとジュプトルはまさしく希望の光として旅に出た。
世界の頂点を決めるオルナリーグでも、彼らはオレ達カワタレタウンのみんなの期待に応えて見事に優勝をその手に掴み、一刻も早く次の旅へ出たかったのか帰っては来なかったけれど新聞でそれを知ったときには村をあげて本人抜きのお祝いをした。
「……だけど、たまには帰ってあげないとだよな。エリシアだってルクスのことはすごい心配してるんだから」
……まあ気持ちは分かるし、オレも同じ立場なら帰るか分からないけどね。だって次の冒険が待っているならぐずぐずなんてしていられないよ。
「本当に色々なことがあった。……そういえば今は忘れがちだけど、リザード、お前最初に会った時はオレに散々やってくれたっけなあ!」
責めるように言うと慌てて顔を逸らす、……なんて可愛いげがこいつにあるわけがない。あくまで『しかたない、当然の報いだ』と言わんばかりの真顔を貫くスタイルだ。「このー!」と頬を摘まもうとすれば全力の抵抗を見せてきて、可愛くなさが浮き彫りになる。
……ああ、こいつには本当に何度も何度もやられたよ。まだオレが小さい頃で、リザードも進化してなくてヒトカゲだった時代のことだ。
オレが相棒になってほしい、とどれだけ必死に頼み込んでも容易くあしらい火を吹いてきたり、引っ掻いて来たりとかなり乱暴に追い払ってきて。一年くらいそんなことが続いたある日、オレとヒトカゲは不毛な根比べを続けているうちにいつのまにか迷子になってしまった。そして運悪く凶暴な野生の魔獣に襲われて、……二人で力を合わせて、なんとか撃退出来たんだ。その後は運良くカワタレタウンに帰ることが出来て……ようやく、ヒトカゲが力を認めてくれてオレの相棒になってくれた。
……まさか説得に一年も掛かるなんて思わなかったよ。本当にこいつは意地っ張りなやつだった。
「あの時に、オレ達は誓ったんだよな。絶対強くなろう、二人で最強になろうって」
リザードは静かに笑ってみせた。そうだ、あの時からオレとリザードはずっと強くなる為に頑張って来たんだ。旅の先に何が待っているかは分からない、けれど目的地だけははっきりしている。「オルナリーグ」世界一を決める大会に参加して優勝することだ。
これから多くのトレーナーや魔獣達と出会うだろう、数え切れない出会いと別れを経験するだろう。だけど……旅が終わった時に、後悔だけは残したくない。
「恐れずに前を見て進みたいね、だから……もしオレが怖じ気づいた時にはさ」
……いった! リザードのやつ、鼻で笑ってオレを叩きやがった! こいつはそういうとこがあるよな、そう言えばそうだ、オレが怖じ気づいたところでこいつは勝手に進むに決まっている。
「……そうだね、どんなに暗い夜でも必ず朝は訪れる。何があっても諦めず、心のままに歩いていこう」
そうだ、旅が終わっても胸を張れるよう、悔いの無いよう明日を信じて精一杯頑張ろう。そして目指すは……!
「色んなトレーナー達に……ショウマとカメールに絶対勝って、オルナリーグ優勝するぞー!」
リザードも短く、しかし力強く意思の込められた咆哮を上げ、その尾の先に点る炎は熱く穂先を揺らめかせている。
「さあて、じゃあそろそろ眠ろうか。明日からも頑張ろうか、リザード!」
こく、と頷くと同時にリザードは大きなあくびをこぼす。
今日はまだ旅が始まったばかりだ。明日からはもっと色んな事がたくさん起きるだろう。今からそれが楽しみでしかたがないが、寝なければ明日に堪えてしまう。
トレーナーズセンターで受け付けに宛がってもらった部屋に戻ったアキラとリザードは、これからの旅に想いを馳せながらやがて眠りに就いていった。