01 夜明けの旅立ち
夜天を覆う漆黒の帳は東の果てより崩れ去り、妖しい黄金の輝きを放つ三日月は地平の彼方へ沈み込む。入れ替わるように昇り出すのは黎明の日輪だ。瑠璃色の空は緩やかに曙に染め上がり、世界に新たな目覚めが齎されていく。
闇に包まれ静寂の支配する夜は終わりを告げた、これより希望と活気に満ち溢れた朝が明けていくのだ。
「ようやくだな、リザード」
少年の掛け声に、一匹がぶっきらぼうな返事を投げつける。
山の陰から顔を出し始めた太陽は爛然と目映い輝きを放ち、その眩しさに思わず目を細めた二人は……しかし一瞬間の後には草の絨毯を強く蹴り込み、風をその身に駆け出していた。
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瑞々しく生命力に満ちて生い茂る新緑が、風に揺らされ賑やかに騒ぐ。
青く広がる空の下、嬉しそうに駆けるのはこの街に住む無邪気な少年達だ。そしてその後ろを着いていくのは彼らの従える"魔獣"……巨大な出っ歯と大きな耳が特徴の『コラッタ』、同じく出っ歯で寸胴体型の『ビッパ』。
魔獣とは、動物図鑑には載っていない多くの不思議な生態や身体的特徴を持った存在の総称だ。誰が呼び始めたのかは定かではないそれは、古来よりそう呼ばれ続けている為に今日まで定着している彼らの呼称なのである。
「行こうぜー! 今日こそ負けねえからなー!」
「おれも絶対負けないぞー!」
二人と二匹が喧騒を振り撒き意気を高らか通り過ぎていく、少年達の無邪気な様子は自身にもとても身に覚えがあり……思わず、可笑しな笑みを溢してしまう。
彼らがやろうとしているのは恐らく、いや確実に"バトル"であろう。二匹の魔獣に指示を出しながら闘わせ最後まで立っていた者が勝者となる、という単純にして明解な競技ではあるのだが、「相棒と心が通じ合える」「勝っても負けても楽しめる」「試合をしていると心も体も熱くなれる」などと言った理由から人気が強く世界規模で広く親しまれている。
もちろんオレも楽しいし熱くなれるからバトルは大好きだ、だからこそも今こうして歩いているのだから。
「長かったなあリザード、ついにオレ達は旅に出られるんだ」
そう、本当に長い間待ち続けた日がようやく来たのだ。今日、とうとうオレ達は故郷を離れ「世界の頂点」を目指して旅に出る。
ここ"オルナ地方"では十一年の義務教育を終え卒業することで晴れて一人前と認められる。そして卒業認定を得られれば自由の身だ、色々な地を巡り強くなる為にポケモンと修業の旅をすることも、未だ多くの謎に満ちた世界を拓く為に探検ギルドへと入門することも、あるいは堅実な暮らしの為に更なる勉学に励むことも……他にも多くのことが自分の意思で出来るようになるのだ。
……とは言っても自由には同時に自己責任が付きまとう、下らないことで野垂れ死にたくはないので街に着く度準備は怠らないようにしなければ。
「じゃあな、みんな。じゃあな、カワタレタウン。……じゃあな、エリシア」
振り返れば眼下には十七年という長い歳月を過ごした故郷が広がっている。寂しくない、といえば嘘になるが……それでも旅への憧れは早鐘のごとく鼓動を高鳴らせる。この旅でどんな魔獣に出会えるのだろう、どんな闘いが待っているのだろう、どんな街や景色が見られるのだろう……考えるだけで昂る思いは止まらない。
いつまでもこうしていては埒が明かない、それにこのまま郷愁に浸っていてはどうしてもこの町が名残惜しくなってしまいそうだ。隣に佇む相棒リザードに目配せすれば、彼は「自分は平気だ」と言わんばかりに瞼を伏せて顔を背けながらも薄目で故郷を眺めていた。
「……お前もカワタレタウンが恋しいんだな、少し安心したよ」
言いながら頭をぽんと撫でると、リザードは羞恥心とともにオレの手を払い除けながら今度こそ顔を逸らしてみせた。……旅に出る前から情けないのがオレだけだなんて恥ずかしいし、そう続けようと思っていたがやめておこう、流石にかわいそうだよな。
「よし、じゃあ気を取り直して行こうかリザード」
羽織っている薄橙の外套は穏やかな風に揺れている。茶色の手袋をぐいと嵌め直し、踵を返して前を見る。オレはもう振り返らない、絶対リザードと一緒に最強のトレーナーになってやるぞ!
「もうっ、ダメよアキラ! 『じゃあな』じゃなくて『またな』でしょ?」
とやる気元気を鞄に詰めて歩き……歩き……。
「いや、なんでお前来てるんだよ!」
気付けばオレの利き手……左手が小さな少女の右手にぎゅっ! とかわいらしく握られていた。
隣に佇み元から丸くふっくらした頬を更に膨らませているのは先程(一方的に)別れを告げたはずの少女だ。薄金の長髪、翡翠の瞳、橙のケープにローブを纏った小柄な女の子エリシア。
「だって『またな』ならまた会えそうだけど、『じゃあな』だと……もう会えなくなっちゃいそうなんだもん……」
「あ、ああ、ごめん。……って、それよりだ」
オレより何歳か年下でまだ義務教育だって終わっていないのに、どうして旅の同行者みたいな顔で居るのだろうか。尋ねると、彼女は光を浴びた向日葵みたいな笑顔でこう答えた。
「えへへー! あたしも旅に出たくって学校の先生に頼んだら、アキラといっしょならいいよって言ってくれたんだー! ねーチコリータ!」
エリシアの相棒、頭に大きな葉を生やしたくさの魔獣"チコリータ"も彼女と顔を見合わせてにっこり笑う。いや『ねー』じゃない。
「勉強とか大丈夫なのかエリシア、いやそれ以前になんで人の許可無く勝手に同行しようとしているんだお前は」
「それはもっちろんだいじょーぶ! あたし成績は結構いいし、見ただけで知恵熱起こしそうなくらいたくさんの宿題とレポートの課題をもらったんだから!」
うん、たしかに勉強を疎かにしないその姿勢は偉いと思うけれど、そこはえへん、と胸を張って答えるべきじゃない。「すごいでしょー!」としたり顔をしている彼女に思わずデコピンしたくなるのをぐっと堪えてもう一つの疑問を追求する。
「あのさ、それでどうしてエリシアは一緒に旅に出ようとしてるんだ」
「だって旅って楽しそうだし、アキラとリザードといっしょならきっととっても楽しいよ!」
はは、嬉しいことを言ってくれるな。本人の許可無く根回ししたことに目を瞑れば、だけど。リザードも流石に肩をすくめているぜ。
「……あのさ、気持ちは嬉しいんだけど、先生に言う前にオレに言うべきじゃないか。そういうのはちゃんとお互いに話し合うものだぞ。それに最近地震とか災害だって多いし危ないんだ」
「だ、だってぇ〜……」
彼女は言いづらいのかしどろもどろに目を泳がせている。……きっとエリシアは怒られるのが怖いのだろう。「大丈夫、オレは別に怒ってないよ」と告げると途端に喜色を露にし、それから申し訳なさを浮かべて言葉を紡いだ。
「……だって、先にアキラに言ったらダメって言われそうで」
「うん、まあもちろん断るよ」
「ほらーやっぱり〜!」
いや、当然そうなるだろう、だってエリシアの歳で旅だなんて早すぎる。彼女だってそれくらいは分かっているはずだ、だのにどうしてそこまで……。
……考えてみれば、いつもは素直で聞き分けがいいというのに何故今回に限ってわざわざ根回しまでしているのだろう。それ程意固地に旅に同行しようなど、何か理由があるとしか思えない。
「……その、えっと、ね」
彼女は暫しの逡巡の後に瞼を伏せ、それから目元に雫を溜めながらようやく話し始めてくれた。
「八年前に……あたしがまだちっちゃかったころに、おにいちゃんが『じゃあな』って旅に出ちゃったでしょ? 最近は手紙を出しても返ってこなくて……。だから、またちゃんと会いたくって……」
……ああ、そうか。エリシアの兄……"ルクス"は八年前に旅に出て以来滅多に家に帰っていない、どころか最後に帰って来たのも何年も前だ。そして最近は手紙の返信も来ていないとは以前にオレも聞いていた、そんなの心配するに決まっている。
エリシアは遠足気分なわけではない、危険を承知の上でそれでももう一度兄に会う為に旅に出ようと言っているのだ。
「……分かった、一緒に行こうエリシア」
「い、いいのアキラ……?!」
「ああ、オレが悪かったよ。ごめん、お前の気持ちを分かってあげられなくて……」
ふわりとそよぐ髪を撫で、彼女にも彼女なりの想いがあると同行を許した瞬間エリシアはたちまち笑顔を咲かせる。
「ありがとーアキラっ! えへへ……だーいすきーっ!」
「うわっとと、はは、オレもだよエリシア」
そして抱き付いてくる彼女を抱き締め返すと、……リザードが真剣に人を蔑むような目で見てきた為に、とりあえず弁明だけはしておいた。
アキラとリザードは振り返ることなく歩き始めた、エリシアとチコリータは寂しそうに時おり故郷を見返しながらも遅れることなく付いていく。
「……ようやくだな、リザード」
……遂に、夢に見続けた旅が幕を開けるのだ。オレ達の目的はただ一つ、オルナリーグに優勝し"最強"の称号を手に入れること。この旅に何が待っているかは分からない、何が起きるか分からない。だけど……オレは信じてる、リザードと一緒ならどんなことがあっても絶対乗り越えられるって。
翳した左手を強く確かに握り締め、誰にでもなくアキラは誓う。
「オレとリザードは強くなる、オルナリーグに優勝して……いつか必ず、最強のトレーナーになるんだ」
と。