4‐5
この船の客室は二フロアあり、各フロアに十室ずつ用意されていた。
そのうちの一室、二〇六号室が、彼の部屋だった。
そして、大陸を越えることによって時差ボケをしないよう、彼は仮眠をとっている。ベッドのおかげで、実に心地のよい深い眠りを堪能していた。
だが何かを感じ、目が覚める。眼鏡をかけて、脇においていた時計を確認した。
時計の時針は八と九の間を指している。出港から七時間弱、といったところだろう。
深い眠りについていた彼を起こすほどの、強い力を全身に感じた。
発生源は、下のフロアだ。真下の部屋に違いない。
彼は飛び起きると、軽く身支度を済ませると、部屋を出た。
一〇六号室。
部屋の前に立ち、彼は改めて確信した。ここに間違いない、と。
コンコンコン
彼は三回、その部屋をノックする。
暫く待ってみるが、返事はなかった。
気づいていないのか、それとも居留守か。
ドンドンドン
今度は強めに叩いてみる。
相変わらず、返事はない。動揺による力の波も感じられない。
この強い音に気づかないほど、この部屋の主は集中しているのだ。
一体何をしているのか、そしてそれがどんな
人物なのか。彼は今、好奇心を掻き立てられていた。
しかし気づいてもらえないのだ。何かを仕掛けるしかない。
自らの爪に気を集中させる。器物破損だと訴えられるかもしれない、という考えは、今の彼にはない。
そして彼は、『ブレイククロー』を繰り出した。
めりめりめり。爪は扉に食い込み、その扉に大きな傷――貫通して、部屋の中が丸見えになるほど深い傷を残した。
バタン、と破損して本体から切り取られた金属が、部屋の内側に倒れた。
その音に驚いたのか、部屋の主――ヒトカゲは、肩をびくっと震わせて、その手の中にあった本を落とした。
「なんちゅうことしてくれんねん、自分……」
「いやあ、申し訳ございません。あまりにも気づいてもらえなかったもので、ついムキになってしまいました」
「弁償モンやで、これ」
「それについては問題ありません。オレが何とかします」
くいっとめがねを押し上げて、自慢げに言う。ヒトカゲは苦笑するしかなかった。
金属の塊は話の邪魔にならぬよう、壁際に寄せられていた。二人で退かしたのだ。
だが体の小さいヒトカゲにとって、それは大変な作業であった。
もし彼が――
壁を壊した張本人がいなければ、もっと時間がかかっていただろう。
「ほんで自分、オレに何のようなん?」
眉間に皺を寄せ、床に座り込んでいるヒトカゲ。
彼の言葉に、未だ自己紹介をしていなかったことを思い出したバクフーンは、「そうか」とはっとする。
「申し送れました。オレは、リヴァレインといいます。以後、お見知りおきを」
丁寧に頭を下げるバクフーンこと、リヴァレイン。
「ここの真上の部屋で時差ボケ防止のために休養をとっていたところ、とてつもなく強い力を感じたので、気になって来てしまいました」
そう言うと彼は頭を上げ、真っ赤な瞳をしっかり見据えて、尋ねた。
「単刀直入にお尋ねします」
リヴァレインの目は、好奇心に満ち溢れていた。
「貴方は何者なんですか?」
答えてもらえるのを、まるでプレゼントを待つ子供のように、わくわくして待っているリヴァレイン。
だがヒトカゲにとってこれは、本日二度目の質問だ。ため息をつきたくなるのを我慢して、
「……さあな」
わざとぶっきらぼうに答えた。
リヴァレインは不満そうな表情を浮かべる。よく表情が変わる奴だな、とヒトカゲは思った。
そして一つ、自らの脳内で立てた仮説を、リヴァレインにぶつける。
「もしかして自分、イスティオの乗船所におったオーダイルと知り合いなん?」
「あ、はい。オーダイルは古くからの友人ですよ」
やっぱりそうか、とヒトカゲは頷いた。リヴァレインとあのオーダイル、どことなく雰囲気が似ていたのだ。
こほん、とリヴァレインが咳払いをして、再び尋ねる。
「ところで、貴方のお名前は?」
困った質問をされてしまった。ヒトカゲにこの質問を答えることは、できない。
「せやな。……といっても名前、持ってへんのやけど」
目を逸らし、後頭部をぽりぽりと掻き、苦笑しながら言う。ヒトカゲは、以前のようにごまかそうとしたのだ。
だがリヴァレインには、通用しなかった。
「オレに嘘は通用しないと思っていただきたいですね、ヒトカゲさん」
眉間に皺を寄せるヒトカゲ。
「どういうことや?」
「一応、オレは探偵です。職業上、真実と嘘を見抜けなければなりませんから」
にこり、と笑うリヴァレイン。
これは駄目だ、本物だ――ヒトカゲの直感が、そう告げた。背中にいやな汗を描いているのを感じる。
「そないなことやったら、敵わんなあ」
仕方がないので、本当のことを伝えることにした。
「実は覚えておらへんのや、おのれの名前」
「……真実、ですね。そういうことでしたか。すみません」
「自分が謝ることとちゃうやろ」
再び、先ほどの笑いを取り戻す。といっても苦笑だが。
「あ、そうだ」
リヴァレインの脳内に、稲妻のような衝撃が走った。
「ヒトカゲさん、ひとつお願いを聞いてもらってもいいですか?」
☆☆☆☆
この船の設備やサービスは、値段の割に豪華だ。広い展望デッキ。安全な食事。安心して休める部屋。
そして、広い闘技場。障害物のない、まっさらな、作り物のフィールドだ。一応、動きやすいように砂は敷かれている。
また、屋根はないので開放的で、空を利用することもできる。そして頑丈なので、多少強い技を繰り出しても破損させる心配はない。屋根がないだけで壁はあるので、フィールド外に出る心配もない。
ここでは何の気兼ねもなく、思い切り戦うことができるのだ。
そしてそこで、ヒトカゲとリヴァレインは、距離をとって向かい合っていた。勿論、手合せをするために。
生暖かい夜風が、彼らの身体を包み込む。
「準備はいいですね?」
「当然や」
ヒトカゲは頷いた。
リヴァレインも身震いさせる。ヒトカゲからのぴりぴりとした雰囲気が、伝わってきていた。
「このコインが落ちたら、バトル開始ですからね」
そういいながらコインを掲げ、返事を待つ。了解という意思が伝わってきたので、リヴァレインはコインを指に乗せた。
きぃん、という音を立ててはじかれるコイン。
そのコインは回転しながら空高く上がっていく。
満月の明かりに照らされて輝く。
コインの光は交互に、二人の顔に反射していた。
――ちゃりん。
一瞬にしてその場の風が変わった。
ぶぉんっ。
早く鋭い風が、リヴァレインの脇を過ぎる。
咄嗟の判断で右に飛ぶと、彼がついさっきまで居た場所に、ヒトカゲの左拳が突き出されていた。ヒトカゲは一瞬のうちに、彼の背後まで移動してきたのだ。
「やるやん、自分」
にやりとヒトカゲは笑う。
「そりゃどうも……とっ!」
体制を立て直す暇もなく、今度は右拳がリヴァレインを襲う。
これを回避するのは不可能と考えた彼は、利き手の拳に力を込め、
「『グロウパンチ』!」
その拳をヒトカゲの拳とぶつけた。
衝撃で砂埃が舞い上がる。それに紛れて、リヴァレインは『煙幕』を繰り出し、ヒトカゲから距離をとった。
表情には出さないが、リヴァレインは心底驚いていた。『グロウパンチ』は、威力の高い技ではない。それに、リヴァレインは格闘タイプではないので、そのままの威力しか出せない。しかしそれでも彼の力は強いほうなので、何の技≠ナもない拳に威力を相殺されてしまったことが信じられないのだ。
また、一瞬で自分の背後に来るヒトカゲの素早さにも疑問を抱いていた。彼は別のリザードンと戦ったことがあるが、ヒトカゲの動きはそのリザードンよりも早かったのだ。普通ならば、どんなに鍛えたとしても、リザードンの速さにヒトカゲが敵うわけがないのだ。
面白い。リヴァレインは、心からそう感じていた。こんなに手応えのあるポケモンは、久しぶりだ。
ここからが本番だった。