ほたる
それを初めて見たとき、幼い頃の僕はどれほどの幻想に囚われたことだろう。
鬱蒼と草花が生い茂る平野にぽつんと隆起する小高い丘の上で、当時10才の僕は半開きにした口が塞がらなかった。空中を仰ぎ、そこに広がるのは煌めく星々のパフォーマンスだった。
パフォーマンスと定義できるのは、まさにそのとおりだったから。光が縦横無尽に夜空を駆け巡り、多種多様な模様を描き続ける。それらの躍動しているのは星ではなくポケモンの発している力によるものだった。
降り注ぐ流れ星を背景に、そのポケモンたちは休むことなく輝き続ける。彼らの真下に広がる湖畔にもそれは煌々と照らされ反射し、まるで自分が宇宙の中に飲み込まれたかのような幻惑に取り囲まれる。
「これが、ポケモン……っ!」
僕はその時からすっかりと彼らに夢中になってしまった。
あの夏の日、僕はこの二種類のポケモンたちに心惹かれたんだ。そう、バルビートとイルミーゼに。
とある夏の夜に圧倒されたポケモンの輝きから10年。僕は大学生になり、今では研究に没頭している。もちろん、バルビートとイルミーゼの生態についての研究だ。
この二体のポケモンを専門に研究しているのが、僕の通っているキンセツシティのキンセツ大学。通常キン大と呼ばれているところだ。
「よう、ヒビヤ」
「うっ……先輩」
大学内の廊下を歩いていると、いきなり首に巻き付けられてくる腕の重みに僕は毎度のことながらこうしたことをしてくる人物にすぐさま心当たる。
右斜め後方を見やれば、そこには悪戯心に満ちた笑みを浮かべたスギナ先輩の顔があった。この表情から察するに、きっとこれから僕を食堂に連行しようという魂胆みたいだ。
「飯まだだろ? 一緒に行こう」
「僕、今から教授にレポート提出しに行かないといけないんですけど」
「いいからいいから」
いつもの調子で、逆らえない僕は先輩になされるがままに歩いてきた道のりを逆行するようにして食堂まで連れ去られてしまう。
豪快な笑い声を発しながらスギナ先輩にさらわれていく僕の姿は、この学科内では結構有名で誰も助けようとはしてくれない。まあ、僕も助けて欲しいとは思ってないからいいんだけどね。後々面倒になるだけだし。
先輩は学年がどれくらい上なのかはわからいけど、大体が研究室にこもっているせいなのかどうなのか常によれよれな白衣を着用している。中にはいつもお馴染みの青色のジーンズを穿き、白のタンクトップというスタイルは先輩が到底女性であることを忘れさせるような程に女らしさの片鱗も伺えない。
「はぁ……」
「ん、どうした?」
「いえ、たまになんで先輩は男じゃないんだろうと思いましてね」
それでも僕が唯一彼女を女性として認識できているのは、先輩の長髪とタンクトップの上からもわかる胸の膨らみからだからだろう。
人間として、女性として、先輩はきちんとしたメイクとか服装に着替えれば美人だと思うんだけどこの男勝りな口調がどうしても彼女が女というイメージを遠のかせる。
「お前はもうちょっと研究以外に目を向けた方がいいぞ、おかしくなったか?」
「先輩にだけは言われるとは思いませんでしたよ!」
鏡を見てから言ってくれ、頼むから!
今も昔も僕が興味のあるのはバルビートとイルミーゼの生態だ。だからこの学部に入る時に必須とされた虫タイプ全般における勉強は地獄のような毎日だった。
それでも、これも全部は自分の夢の為にと死にもの狂いで知識を身に着けていった。
晴れて受験戦争で勝ち残り、念願の大学には入れたけど必修科目というやつが付き纏ってくるとは思いも寄らずなかなか好きなことに時間を費やすことは叶わなかった。それでも、毎日図書館で資料を漁っていたことが功を奏したのか、僕は二体のポケモンの研究に携わっている教授のおめがねにかなった。
「君は本当にバルビートとイルミーゼのことに熱心だな」
「はい、この大学に入ったのも先生がいらっしゃると聞いたからですし」
「それは嬉しいことだが、私はそんなに誉められた人間ではないよ」
「え?」
去年そう教授から聞かされた時は奈落の底まで落っことされるんじゃないかとひやひやしたものだ。
「十年程前に書いた論文はある夜の日に見たバルビートとイルミーゼの交尾がきっかけでね、その圧倒されるかのような光景に感銘を受けた。その衝動で書いただけのものだ」
「それって……」
「当時、二体の交尾をする際の目撃情報は少なかったから一目置かれたに過ぎない」
そう教授は自虐的な発言をしていた。それでも、それもある種の才能だと僕は思った。なぜってあの論文を読んで感動したのは、僕自身が教授と同じものを見ていたからじゃないかと確信したからだ。
「私はもうあれを見たいとは思わないんだがね」
「それなら」
「ん?」
「それなら、僕が教授の研究を引き継いでもいいでしょうか」
こう言って、僕は大学からの支援を受けながら二体の研究を学生の身ですることができている。最初は渋っていた教授だったけど、僕の熱意に心折れたのか「来なさい」といって彼が最も信頼している人を紹介してくれて、それが今僕の首根っこを掴んでいる先輩というわけだ。
先輩の虫ポケモンに対する知識というものは凄まじく、圧倒されるしかなかった。なんでも先輩は数々の虫ポケモン論文において注目を浴び続けていて、数々の社会的貢献を担っているらしい。らしいって言うのは、そんなすごそうなオーラや素振りを僕が感じないからだ。でもそんな彼女でもバルビートとイルミーゼについてはあまり詳しく知らないらしい。知らないというかなぜだか教えてくれようとはしない。
どうして彼らの研究がそこまでされていないのか、それは二体の生態に由来する。
もともとバルビートもイルミーゼも単体であろうが二体同時であろうが捕まえることも見つけることも難しくはない。むしろダブルバトル等のバトル形式の紹介で取り上げられたりもするほどに皆が一度は目にしたことのあるようなポケモンだ。だけど不思議なことに彼らの生態には不思議なことが多い。
最近の発見で有名なのが、僕が幼い頃に見た二体の交尾が論文として発表されたこと、そしてとある育て屋の夫婦が発見したイルミーゼのタマゴについてだ。イルミーゼのタマゴからはイルミーゼとバルビートのどちらかが生まれてくるけど、必ずしも親がバルビートである必要がない。その発見に虫ポケモン学会は大いなる衝撃を受け、その真相解明はまだ明らかではない。
この研究室でも観察対象としてバルビートとイルミーゼを飼育しているけど、カメラで撮ったとしていても彼らの交尾シーンなどが記録されることはなくいつの間にかタマゴができていることがしばしばあった。
そんな二体の研究を僕は率先してやっている。それは彼らの生態について解明できれば、この世界を構成する幾何学的真理に近づけるからじゃないかと思ったからだ。難しい話になるかもしれないけど、それが解明できれば僕たちの暮らしはより豊かなものになる。なぜなら自然の摂理、その根本的な構造を幾何学としてとらえることが可能になるのだから。
昔からかっちりとしたことが大好きな僕は、幼少の頃に見たあの幾何学的法則にのっとった彼らのパフォーマンスに惹かれたんだ。ミツハニーたちの巣が六面体による強固なブロック体によって構成されるように、イトマルのつくりだす巣の構造から追及された芸術までもある。虫ポケモンの社会には未だ多くの、人を魅了してやまない世界が広がっているのだ。
夏も近く、そろそろ長期休暇に入ろうかという時期に僕は先輩の実験に付き合ってなかなか本来の仕事に取り掛かることができなかった。それは僕がとある壁にぶつかり、論文をまとめあげることができなかったからだ。
そんなある日、僕は隣の芸大で開催された学園祭へと息抜きで訪れることがあった。といっても先輩の気まぐれにつき合わされただけなんだけれども。
数学の幾何学的要素満載のバルビートとイルミーゼの一夜限りの交尾は、その寸分の狂いもない統率感が魅力だ。そこに魅了されたからこそ僕は理系的な思考を持っているのだと自負してるし、だからこそ感性のみで描かれた絵図にはピンとこなかった。
それでも最近、幾何学の基礎や応用のめり込まれた美術品などが研究されはじめたりしてきて、どういう風に捉えていいのかわからなくなってきたっていうのも事実なんだけど。
つまり何が言いたいかって、僕はそんなに芸術品と呼ばれているものに関心がないってことだ。
「なあヒビヤ」
「なんですか先輩」
「これは上手いのか?」
「僕に聞かないでくださいよ……」
そして僕を連れてきた張本人の先輩もこんな調子である。お祭りごとは大好きな癖になんでも飛びついてしまうのがこの人の悪い癖だと思う。
小一時間ほど、キャンパス内を歩いていると写真展と書かれた看板に目が留まった。研究資料として数多くの虫ポケモンを見てきた僕にとっては自然の中での撮影には少しだけ興味が湧いた。
「僕ちょっとあれ見てくるんで、先輩はここで休憩しててください」
「いってら〜」
だるそうに片手を振りながら、先輩は近くのベンチに腰かけて購入したばかりのジュースで喉を潤している。さっきまでは僕が一緒だったからなかったけど、先輩はおとなしければ本当に美人で過ぎ行く人々の視線をかっさらっていく。
まあ彼女は放っておいても大丈夫だから、と心に言い聞かせて僕は展覧会へと足を踏み入れた。
全三階建てのこの建物は芸大の名に恥じない先鋭的なデザインをしていて、まるで望遠レンズを巨大化したような外見をしている。
「こんにちはー」
「あ、どうも」
入口で学生からパンフレットを受け取り、僕はそれと作品を並行させながら鑑賞する。
等間隔で並べられている写真の数々を拝見しながら、ついついバルビートやイルミーゼが映っているのはないかなと探してしまう。自分の悪い癖だ。
そして中三階を上がったところでとあるアトリエのパンフレットが壁に貼られていることに気が付いた。サイトウ カホという僕と同じ学年の女子が開いているものらしく、そのパンフレットに使われていた絵に心当たりがあったのだ。そう、それは紛れもなく僕が十数年前に見た夜空に煌めくあのポケモン達の輝きを映したものであった。しかもサイトウという苗字はあの教授と一緒なものだった。
あまり芸術に詳しくはないけど、この年でアトリエということは実力を買われているのだろう。もしかしたら僕が論文を出して学会で取り上げられるようなものと同じ感覚なのかもしれない。そんな興味も湧き、いてもたってもいられずにその会場へと向かった。
小さな個室の壁一面には数々の写真が並べられていて、そのすべてがバルビートとイルミーゼを題材にしたものであった。
まるで小さな宝箱の中へと紛れ込んだかのようだった。
視界を埋めるのは僕が溺愛するポケモンの記録なのだ。願わくば研究資料として持ち帰りたいくらいに、その一枚一枚のすべてには希少価値があった。その中に交尾をしている時の彼らの煌めきを捉えたものが見たかったが、それらしきショットを写したものを見ることは叶わなかった。
とある写真にはイルミーゼを追いかけるバルビートの姿が映されていて、二体の距離感にもなにか法則性はないのかとかいろいろな思考が巡る。中には夜に撮られたものもあり、特殊なカメラなのだろう……輪郭のみを捉えたバルビートたちのシルエットが数匹夜空を飛翔している。その隊列は見事な三角形の陣を彷彿とさせ、それだけで僕の体から湧き上がる衝動が抑えられなくなる。
そこにどれくらいいたのか、集中して観覧していたせいで時間のことなど忘れていた頃に突然呼びかけられてびっくりしたのは覚えている。
「あの、お好きなんですか?」
「ひぇ? あ、えっと」
僕の右隣りから現れたのはショートヘアの女子だった。身動きの取れやすそうな服装を纏い、ロードワーキングするにはもってこいといった装いだ。
「これ私の写真なんです。こんなに真剣に見てくれてる人はあなたが初めてで、つい」
自身の並べられた写真を眺めながら、彼女は小さく首を傾げてみせる。
「あ、そうなんですか。ということは、あなたがサイトウ カホさん?」
「はいっ」
名前を呼ばれたことに嬉しさを感じたのか、彼女はとてもかわいらしい笑顔でうなずいてくれた。
「僕は隣の大学で研究員をやってるヒビヤって言います。サイトウ教授の下でバルビートとイルミーゼの生態研究をやっていて、それで……」
そう説明するや否や、彼女は思い当たる節があるのか頷く首の角度を往々に大きくして目を輝かせた。
まじまじと僕の顔を凝視した後、彼女は確信を得たかのように語勢が強まる
「父からうかがってます! とっても熱心な学生さんがいて、自分の研究テーマを引き継いでくれているって」
「あ、はい。そうです、きっと僕がそれです。え、ってことは本当にサイトウ教授の?」
「はい、娘です。わあ、見に来てくれてありがとうございます!」
咄嗟に手を取られて僕は彼女と握手を交わす。その行動に最初はびっくりしたけれど、それで緊張は解かれ僕は笑みを浮かべた。
あどけない彼女の表情はどこか幼さを垣間見せ、その背丈からは想像もできないほどの活発的なエネルギーを内に秘めているんだろう。そう思えた。
「こちらこそ、素敵な写真を見せてもらってありがとう」
それは本心から出た言葉だった。
サイトウさんを直視しながらも視界に見えてくる彼女の写真はいつまで見ていても飽きることはないだろう。それほどの魅力があったのだ。
それは素晴らしい写真だけではなく、人を魅了するなにかがあった。だからこそ僕みたいなバルビート・イルミーゼフリークな人種でなくとも彼女のアトリエには人が絶えない。
「あの、サイトウさんはどうしてこういった写真を?」
素朴な疑問だった。
「私も、えっと……」
言葉を濁しながら、僕の方を見上げてくる彼女のしぐさに慌てて自分の名前を口に出す。
「ヒビヤ、ヒビヤ カイです。どうぞカイって呼んでください」
「じゃあ私もカホでいいですよ、カイくん。父からの話だと同い年みたいだし」
彼女との距離がぐっと縮まった気がした。
「私もカイくんと一緒だと思うんだ」
「え」
「あの写真を見て、こんなにもきれいな光景を写真家として残せたらなって」
カホさんの言葉に僕は共鳴していた。彼女もまた同志だったのだ、僕の人生で初めて出会った。
彼女は握っていたパンフレットに載っているその写真から視線を上げて遠くを望んで、幻想しているのだろう。まだ見たことのない景色を。
「カホさんは、あの夜を見たことは?」
僕の問いに彼女は残念そうに眉をひそめて首をゆっくりと横に振る。それは予想できていた答えだけど、聞かずにはいられなかった。
「ううん、だから見てみたいんだ。父が見たのと同じものを」
「そう、なんだ」
「カイくんは見たんだよね、父と同じものを」
「うん、ただそんなに覚えてはないんだ。だから僕ももう一度見たい」
あの夜のことを思い出しながら、ぐっと拳を握る。
星霜の中を駆け巡る流星群かのように見間違えた彼らの神秘を、もう一度。
「そのために研究を?」
「うん」
「私たち似たもの同士だね」
その言葉がどれほど嬉しいものだろうか。他の友人にはただ単に気味悪がられていた僕の研究分野が、教授の娘さんとはいえ理解されたことが本当にうれしかった。
「あの……」
ここで出会ったのもイルミーゼの輝きによる導きなのかもしれない。そう思った僕は彼女と再び違う場所で会いたい約束を交わすために懐へと手を潜らせて、名刺ケースへと触れる。
だけど……。
「おい、ヒビヤぁ」
そのえらく怨嗟のこもったトーンに、寒気が脊髄を一気に駆け抜けていくおぞましい感覚を僕は知っている。
「出てこないと思ったらこんなとこにいたんだなぁ」
「ひっ!」
襟を掴まれ、女性とは思えない腕力による拘束で身動きが取れなくなる。
突然のできごとにカホさんは目を丸くして交互に先輩と僕の顔を右往左往している。そりゃそうだよね、そうなるよね。
「カホさん、これ!」
すかさず僕は自分の名刺を取りだして彼女へと差し出した。
「また、んぐぅ!?」
カホさんの指が名刺を受け取ったことを確認したのを最後に、僕の視界は大きく変動する。後ろ向きに引っ張られていきながら、あっという間に僕は先輩によって拉致られたのだ。
それから数週間、カホさんからの連絡もないままに時間は過ぎ去って行った。そんなに期待していたわけでもないし、僕も論文を書くのに必死だったから忘れかけていたのかもしれない。大学の研究員として給料まで出してもらっているのだから、やることはやらないといけなかったのだからしょうがない。行き詰っていた閉塞感もカホさんの写真を見ることで進むことができたし、落ち着いたらお礼をしたかった。
それでも僕は機会があったらカホさんの写真を探すようになっていた。小さな記事ではあったけどカホさんの写真を新聞で見かけることもあった。
カホさんの写真展、アトリエの内容はバルビートとイルミーゼが自然の中で戯れている様子が展示されたものだった。その写真はどれも活き活きとしていて、実験室にこもったり、飼育しているポケモンたちからは決して見ることのできないありのままの彼らの姿が抜き取られていた。
そして僕は彼女の写真を眺めることである共通点に気が付いた。そしてそれが、僕のぶちあたっていた壁を取り壊してくれたのだ。
【ご無沙汰してます、カイくん。サイトウ カホです。
なんだか久しぶりな感じだね、元気でしたか? 今日メールしたのは是非カイくんに見てもらいたいものがあったから。来週の土曜日、十時に父の研究所で待ってます】
それはごくごく短文なメールだった。
あまりメールをチェックしない僕は、それが五日も前に送られたものだと知ると同時に約束の日が明日だということに慌てふためいた。サイトウ教授もなにも言ってなかったから、きっと知らされてはいないのか秘密にしたままなのか。いずれにせよ明日答えは出るんだろう。
ここ数日、カホさんの写真からヒントを得てとある論述を証明するために資料を集めてまとめていたためにある意味人間的な生活を忘れていたからかもしれない。そう思うと先輩のあのスタイルが理解できてしまう自分がそろそろ恐ろしくなった。
でもこの時、僕の中に生まれた胸の高まりはどう形容していいものなのかわからなかった。いやわかってはいたし、自覚はあった。でもそれはカホさんに対して抱いたのか、それとも彼女の作品に対してのものなのか判別ができなかったんだ。
「久しぶり」
そう声をかけられて、僕は平常通りに返事をかえすことができた。むしろ久々に会う緊張感と嬉しさから声が上擦るんじゃないかと心配していたんだけど、それほどまでに彼女とは波長があうのかもしれない。
首から一眼レフのカメラを提げたカホさんに、萎れた白衣を着こんだ僕。どうやってこの二人に接点を見いだせることができるだろうかというくらいに住む世界が違う者同士と思っていたのだけれど、見つめていた世界は同一だった。
「久しぶり」
「今日呼び出したのは他でもないの、もしかしたら見れるかもしれない」
若干焦りを見せる早口調のカホさんの態度から、それがなにを意図して言われているのかを瞬時に察した。そしてそれは僕が彼女にも伝えたいことでもあった。
「さすがカホさん。僕もたどり着いたんだ、今夜見られるかもしれないポイントを」
「本当に!?」
「うん、そのために今まで連絡を取れなくて申し訳ないと思ってて」
「ううん、それは私の方。カイくんの出した論文を父から読ませてもらって、頑張ろうって。カイくんの手助けになることを見つけようと躍起になってたら、せっかくアドレスをもらったのに」
そう言い訳しあいながら、なぜだか僕たちはお互いに笑みを浮かべていた。同じ考えだったのだ、なにかをしてあげたい……その一心で今日この日を迎えたんだ。
「キンセツ湖で良いんだよね?」
「そう、キンセツ湖だと私も思う。カイくんの書いていた、彼らが大量発生するポイントに必ずといっていいほどに存在するのが湖規模の水源があるところっていうのをヒントにしたの」
カホさんが本当に僕の論文を読んでいてくれたことに、僕の心は自然と高揚していた。僕の作品が誰かの手助けとなった、そう実感できることの喜びは味わった者でしかわからないのかもしれない。
「そして僕はカホさんの写真から、彼らがもっとも活発化するのが新月の日だということに気がついた。日付を調べたら高確率でそうだったから」
「すごい、すごいよカイくん!」
「ううん、すごいのはカホさんの方だよ」
謙遜しあいながら、それはとても満ち足りた瞬間でもあった。二人で見つけて、探り当てた答えだ。
「あとはバルビートとイルミーゼの分布データと季節の変わり目によって移動する大体のルートを割り出して、高確率で今日交尾が見られるのはキンセツ湖……」
「うん。一緒に行こう、カイくん」
「もちろん」
さし延ばされた手を、僕はしっかりと握り返す。力強くもやわらかい彼女の手の感触に、心の奥底でドギマギしながらも、今日やっと念願のものが見られることに興奮していた。僕は先輩のもとで機材を借りに行き、事情を説明すると彼女はボールペンを片手で回転させながらこう言った。
「イルミーゼの光に吸い寄せられすぎるんじゃないぞ、バルビートくん」
「なに言ってるんですか?」
「いや、頑張ってこい」
「はい」
なぜあんなことを先輩が言ったのかは定かではない。もしかしたらオスはメスの尻にひかれるとでも言いたかったのだろうか。
その夜、僕たちはキンセツシティ郊外のとある山岳へとやってきていた。深い林に覆われたこの場所はあまり地元の人でも寄り付かない。それはここの野生ポケモンが狂暴であると同時に、昔のニューキンセツ建設の時に起きた薬品による事故が原因となっている。
「カホさんは、ポケモンは?」
「持ってるよ。カイくんはいないの?」
「どうも研究職だとね、構ってあげられる時間がないから……研究室が飼っているのくらいしかね」
「そっか。なら私の相棒を紹介するね、出てきてメガニウム」
彼女から出てきたのはジョウト地方での御三家と呼ばれているポケモンの一匹、チコリータの最終進化系のメガニウムと称されるポケモンだった。首元で咲く立派な一輪花からは絶妙な香りが漂ってきている。
「おお、珍しいね」
「大事な私のパートナーだよ」
仕切りのない迷宮とでも言ったらいいのか、なんとかGPSを頼りに僕たちは目的の湖畔へとたどり着くものの体力は根こそぎ持って行かれた気がした。恐らくほぼ引きこもり状態の僕だからこういった事態に陥っているのだろう、一方のカホさんは適度な運動程度で済んだのか額に汗を浮かばせてはいない。
「やっぱりカメラマンは違うね」
「基礎体力が命だからね。カイくんが良かったらいろいろと一緒に出掛けようよ」
「お願いするよ」
それがどういう意図をもっていられたのかを汲むことなく、僕はその申し入れを了承した。その受け答えに彼女も爽やかな笑顔でうなずいたので、それはそれで良しとした。
適当なスポットを見つけ、カホさんの設営を手伝っていると辺りは段々と闇に包まれていった。彼女の場合はバルブ撮影が主になるんだろうけど、僕が求める資料は彼らの行動基準の本質だ。ビデオカメラを三脚で固定して、じっとパフォーマンスが始まるのを待っていた。
その間、僕たちはいろいろな話をした。夢のこと、子供の頃の話、サイトウ教授について等、様々な共通項から話題を引っ張り出してはお互いの認識を高め合う。カホさんのメガニウムはじっと湖の方を見つめ、時折吹いてくる風に乗せてイルミーゼの好みそうな匂いを発している。
そう、なにより重要なのはイルミーゼが来ることにある。二体の交尾はイルミーゼ一体と数十、時には百以上ものバルビートたちによって行われ、イルミーゼが司令塔として指示を出して気に入った一匹をその中から選んで伴侶とするのだ。でもその検証は十年前のサイトウ教授の論文の中でのみ提唱されたものであった。大発見ではあったものの、後にそれを目撃したという情報は無く、サイトウ教授も深くは語ることがなかった。
つまり、なにかがある。
それのキーとなるのが彼らの幾何学的法則にのっとった交尾飛翔なのではないかと踏んでいるのだ。それが今日、ここ数年に及ぶ生態研究によって導き出された推測によって証明されるのかもしれない。そう考えるだけで胸の高鳴りは加速度を増していく。
「あ、見てカイくん!」
そう第一声を放ったのはカホさんだった。固定されたカメラを覗き込み、手招きをしながら僕の注意を促す。そして僕も同じものをこの目で確認した。明滅を繰り返す一つの光がゆっくりと湖畔の中央へと向かっている。
その光が停止し、なにかの合図を送るかのように素早く点滅した後、すべてが始まった。どこに隠れていたのか、突如として円陣が生まれて数十の光が中心点を囲むようにして現れた。縮小や拡大を繰り返しながらバルビートたちの輪は変形していき、だんだんと動きが活発化していく。回転をし始める四角形から六角形への変動、そして六芒星への軌道変更は円滑過ぎてなにが起きているのかわからないほどのなめらかさだった。
「すごい……すごいっ!」
夏も終わろうかという季節に、彼らは次の世代へと託すために子孫を残す。その為に行われる彼らの一夜限りのショーは、闇夜のキャンパスに描かれる光の芸術だった。
二次元的表現法から三次元的世界への移行。まるで化学の時に習った電子雲を見ているかのように、不規則に見えてその裏に精密な軌道計算されたルートを飛び交うバルビートたちの飛行精度に圧倒される。そしてもちろん、それをたった一匹で指示をし中心点にいつづけるイルミーゼの正確さは圧巻の一言だ。
まわり続けるカメラを手に添えつつ、僕は昔の記憶がよみがえり、口を半開きにした状態で見入っていた。彼らの動きを解読することで単純から複雑へ、複雑から単純へと切り替える仕組みが確立できるのではないかと学者脳の僕の頭の中で期待が膨らんでいった。
そしてとうとうフィナーレなのか、一度派手に散開したバルビートたちがゆっくりと降下していく中、光点が全員一旦停止して一気に空高く上がっていく。それはまるで打ち上げ花火が逆流するナイアガラのように。そして一筋の光が滝の中を割って入るように横に移動して、最終的にすべてが闇に戻り見えるのは二つの発光体のみであった。
そう、彼らは結ばれたのだ。そして今日中に子孫を残すのだろう。
「終わったんだ……」
「終わった」
一体どれくらいの時間が経ったのだろうか。体感時間で言えば一時間程ばかり魅了されっぱなしだと思っていたけど、カメラの録画時間を見てみるとわずか五分。それほどのものであれば幼い頃の記憶に印象的であっても細やかなことまでは覚えてはいられないだろう。
それに今回の交尾でなぜ湖畔がキーワードになるのかがわかった。イルミーゼは恐らく自分の座標を確かめるために水面の反射を利用して指揮系統を維持しているのだろう。そうすれば納得がいくし、それゆえに新月の日なのだ。
「すごかったね、カイくん。もう少しで私、写真撮ることも忘れて見入ってたかもしれない。きっと父もこんな気持ちだったんだ、だから一枚しか撮れなかったかもしれない」
僕はカホさんに相槌を打とうと思って口を開こうとした。でもその瞬間、なにかが聞こえてきたんだ。それは耳を澄まさなくても聞こえてきて、まるで大量の砂利が水に落ちていくような音に僕はとてつもない悪寒を覚えた。
「今のって……」
カホさんにも聞こえたのだろう。僕は彼女の懸念に答えることなく、懐中電灯を片手に急いで湖の方へと駆けた。僕たちがいたところは若干キンセツ湖を見下ろせる高台だったので、急な勾配があり足元をすくわれそうにはなったけど、こういう時の集中力は意外とバカにできないものだった。
僕の後に続いてメガニウムも駆け下りてきていて、とりあえず一目散に湖のほとりへと向かった。
「そんな……嘘、だろ?」
そしてそこで僕が見たものは、想像だにしていなかった光景だった。暗闇のせいで見えないが、懐中電灯が照らす湖面に浮かんでいたのは大量の動かなくなったバルビートたちであった。ぷかぷかと湖の水面に揺らされながら、ぴくりとも動きはしない。それは、あの壮絶なパフォーマンスを見せてくれていた出演者の悲しき末路であった。
もしかするとサイトウ教授はこれを見たのかもしれない。だからあの論文は素晴らしいという反面、美化されすぎていたのだ。彼はこの事実を隠したがゆえに、バルビートとイルミーゼの生態は数多くの謎を残したまま現在まで至っているのかもしれなかった。
「こ、こんなのって」
カホさんもどうやら追いついたみたいだ。そう、あまりにもこれは常軌を逸した真実であった。これも彼らが導き出した自然の法則なのだろうか。新たなる論説へと移ろうかという時、またしても新たなる現象に僕たちは茫然とそれを見つめることしかできなかった。
すると突如としてバルビートの影が軽快な音を立てて消えた。その数はどんどん増えていき、目を凝らせば湖のポケモンたちが水面上に現れてはバルビートたちを水中へとさらっていくのである。そしてどこからともなくあらわれた飛行タイプのポケモンたちもバルビートの体を掴んでは林の中へと姿を消していく。今おこなわれているのは、そう……捕食の時間だ。
死闘を繰り広げたといっても過言ではない彼らの頑張りは今夜叶うことはなく、命果て、そして餌となり生涯を終えたのだ。こんな残虐的な末路があっていいのか?
でも、これが……真相。
「カホさんのお父さんもきっとこれを見たんだね」
絞り出した言葉に、カホさんは僕へと振り向く。
「だからサイトウ教授はあの論文を出すことでこの事実を隠ぺいしようとしたんだ……」
「でも、それって」
「うん、許されることではない。でも気持ちはわかってしまった」
「それはっ!」
カホさんが反論したがるのもわかる。ましてや写真家を目指すカホさんにとって、彼女の父親がしたことは許されることでは決してない。
きっとサイトウ教授はバルビートに感情移入をしすぎたのかもしれなかった。あのパフォーマンスへの感謝と彼らの死に対する敬意をもってして、敢えて書かなかったのかもしれない。もし発表してしまったならば、きっとバルビートを保護しようとして人間たちが騒ぎ出すからと考えたのかもしれなかったから。
「だけど僕は、公表するよ。そうしないと、そうしなければ彼らが報われない気がしてならないから」
「私も写真を公表する。一緒にやらない、カイくん?」
「カホさんさえよければ」
散々たる惨状を目の当たりにして、なぜだか僕たちの心は一つにまとまっていた。あの夜空にて繰り広げられていた演出はまさしく死闘だったのだ。自分の子孫を後世に託すための、一世一代の舞台だったのだ。
自然の摂理、それを僕たち人間は美しいものとして捉えるのかもしれない。それを芸術の分野として確立し、趣向を嗜める。でもそれは人間が自分たちの中に自然を取り入れようとしてつくりだした試みゆえに、芸術というものは人それぞれによって見方が変わる。例えそれが自然の中の一部分でしかないとしても。
その後僕とカホさんが共同で発表した論文は脚光を浴びることとなる。サイトウ教授は十年前の発表の責任を取らされ辞任してしまった。そう、あれを公表したことで僕は虫ポケモン学会から目をつけられるようになり多忙な毎日を送ることになったのだ。注目されることにより、虫ポケモンの研究は格段と進むようにもなった。
その時になって先輩も、実はその真相についてはサイトウ教授から聞いていたと告白してくれた。
僕たちがやってしまったことは、固く閉ざされた汚物を詰め込んだ箱の蓋を開け放ったことと同様なものなのかもしれない。それでもそれにより新たなる発見があったのだ。それを僕は誇りに思うし、今まで以上にバルビートとイルミーゼには興味を持っている。
いずれまた落ち着いたら、カホさんと会うこともあるのかもしれない。今は忙しくて会えなくなってしまったけど、もし彼女も真実を追い続ける人間なのだとしたら、僕らはまた出くわすのかもしれない。僕にはその時に交わす言葉は思いつかないけれど、それでもまた会う日が来ると信じて止まなかった。