X:来るは女神か悪魔か
「今日は楽しい一日だった〜」
自室のベッドの上で、私は両手両足を伸ばしに伸ばしてくつろぐ。
あの後、温泉から上がってすぐにモーモーコーヒー牛乳を腰に手を当てて一気飲みするという秘儀を教わった。
そしてマッサージのコースをポケモン達皆と受けて、私は今帰ってきた。
バトルして、温泉に行って、マッサージを受けて、ちょっとだけウィンドウショッピングをした。こんな贅沢、贅沢過ぎるよ。
私のお腹の上で頭をのっけて寝ているのはラルトス。さらさらの髪の感触を左手に感じながら、私の足元ではガーディとシャワーズが横たわっている。
ふかふかなベッドの上で私は天井を仰ぐ。
ライトの点いていない部屋の天井。光の灯っていないシャンデリアの装飾が暗闇の中ででも鈍く煌めいている。大きな窓から見える外の景色も、月に照らされている海の水面がゆらゆらと輝いているのがわかる。
今窓を開ければ、優しく凪ぐような潮風が入ってくるんだろうな。
サント・アンヌ号に乗ってまだ数日。ホウエンに到着するのは後、あれ後どれくらいだっけ? えっと、あ、そか……後二日だ。
カントーからホウエンまで、かかる日数は五日。さすがは豪華客船だけあって、いろいろと航路が練られている。
「後少しで、手に入るんだ……チイラの実」
決意のこもった目で私はまっすぐに天井を見据える。まだ手に入ることが確定したわけじゃないけど、絶対に手に入れてみせる。
そうだ、スミレちゃんに聞いてみようかな。チイラの実のこと。
でも今日は疲れちゃったから、明日にでも……。
そう私が瞼をゆっくりと閉ざそうとした時、異変は起きた。
ゴォン!!
激しく重厚そうな音が船全体を揺らし、振動が続く。耳をつんざく摩擦音が、私の心臓を飛びあがらせる。
な、なに?!
そう思った矢先に、突然コクドウさんが部屋に入ってくる。
「コ、コクドウさん!」
「ハヤミ様、ただちに脱出する用意をお願いいたします」
唐突に言われた指令に私はきょとんとしてしまう。
「え?」
「間もなく、船が沈みます。先ほどの衝撃で船底に穴が開き、後数時間で当船は海底の藻屑となるでしょう」
え? え? だ、だってこの船は世界でも有数の豪華客船で、すごく安全だってきいてたのに。
「お急ぎ願います。私は脱出用のボートの準備をしてまいりますので。十分後にまた参ります」
あせっているんだろうか? でも、そういった素振りを一切見せないコクドウさんは本当に執事とかサーバントの鑑なんだとその時私は感じた。
十分という時間制限。そして少しずつではあるけど傾いていく船の感触が私にいやな汗をかかせる。
「ガーディ、シャワーズ、ラルトス、戻って!」
「がう!」
「ふぃ」
「ら〜ぅ?」
私は三匹をボールへと戻す。やっぱりガーディやシャワーズにはこの異変が察知できたんだろう、あたりをキョロキョロと見回していた。天然っぽいラルトスは呆けた声上げてたけど。
ボールをウエストポーチの中でホールドして、部屋の辺りを見渡す。
本当に身一つで来た感じだから、私の荷物はさほど多くはない。ここ数日の衣服を鞄に詰めて、パラセクトの胞子を衣服の一つにくるんで大切にしまう。そして昨日ハルちゃんとウィンドウショッピングした際にいろいろと集めた新しい小道具と木の実、漢方とダウンロードした医療関連の書物のデータがケースに入っているかどうかを確認する。
クローゼットを再度眺めて、そこで私は初めて着た高級ドレスをみつめる。
ううん、だめだよ。でも、これ、これだけ……。
自身の欲を制御できなかった。私はそのドレスをも鞄に詰め込んでしまっていた。
私は鞄を閉じて、徐々に傾いていく船体の中を窓付近まで歩いていく。
その窓の向こうに見た光景は、現実が現実して突きつけられる。喧騒を飛ばす人達、我先へと脱出用ボートへと乗り込もうとする人達、自分のことしか見えていない人達。
人が叫び、人が走り、人が倒れ、人が泣き、人が暴れ、人が嘆き、人が落ち、人が……、人が……。
私は一歩、また一歩とそのおぞましい光景から後ずさっていた。
本当に? 本当に沈むんだ、この船。
数時間前まではとても煌びやかで、華やかで、明るかった船のイメージが今の一瞬で全て吹き飛び、そして変貌する。
こんこん、というノックの音と共に扉が開いてコクドウさんがやってくる。
「準備はできましたか?」
「……はい」
私は振り向きつつも、コクドウさんの顔を見ることなくそう呟く。
「それでは参りましょう、こちらです」
私の荷物を担いだコクドウさんは先に部屋を出て、先導してくれる。
私はウエストポーチをしっかりと固定させて、もう一度窓の方へとふりかえって駆けだす。
廊下を照らすライトが点滅し、ギシ、ギィという嫌な重い音が振動として足裏から伝わってくる。船底からはどんどんと海水が入ってきているんだろう、徐々に涼んでいきながら傾いていくのが五感を通して脳に伝わってくる。
S区はこういった非常事態の為にもちゃんとしたルートが確保されているみたいで、私はコクドウさんがまだ私が入って行ったことのない道を進んでいって必死に追いかける。
ガコン!
車が車道の段差で跳びはねたかのような小さな衝撃が私達を襲う。
「ハヤミ様!」
「っ! ……ありがとうございますっ」
バランスを崩した私をコクドウさんが腕一本で支えてくれた。
「急ぎましょう」
「はい」
エレベーターは勿論使えない。だから私達は非常用階段を使って脱出用のボートがある船底の方まで進んでいく。たくさんの配管が奇妙に重なり、交差している空間は私にどこか密閉された感覚で包んでいく。
その間、私は他の乗船客と出会うことはなかった。こんなパニック状態なのに、なんでだろう?
「こちらです」
螺旋式の簡易階段を下った私達の目の前には赤い扉。それをコクドウさんが開けて、私がその先へと行くと、そこには大きなボートが一隻存在していた。しっかりと固定されたボートは陸上競技の百メートル走を思わせるレーンの上にあって、その先には巨大なシャッターみたいなものがある。
サント・アンヌ号が遙かに巨大なホエルオーだとしたら、このボートはそのホエルオーの眼球ぐらいだという感じかもしれない。それでも、私から見てみたらセレブ御用達の特別ボートみたいな感じに見える。
そして案の定、私の読みはあたったのかもしれない。ボートの甲板から私の方に声をかけてきたのはハルちゃんだった。ハルちゃんのご両親もいたし、それにスミちゃんの姿も見えた。
「ハルちゃんっ! スミちゃんっ!」
私はコクドウさんの先導でボートに乗り込みながら二人の安否と再会に心躍らせる。
「ルカちゃん、良かった。早いところここから脱出しないと!」
ハルちゃんが私の両手を握って上下に振って、私と同じ感情をあらわにしてくれる。
「これで全員ですね。出発お願いします」
コクドウさんがボートへとつながっていたキャットウォークを機器操作で離して、船長さんに合図を送る。
ゴウゥゥン、という稼働音と共にボートの船底に海水が溜まって行って前方のシャッターが開かれる。沈んでいるということだけあって、シャッターが斜めに傾いていても出られないこともなさそう。
船の上には船長さん、ハルちゃん一家にシイカさん、スミレちゃんと男の執事さん、そして私とコクドウさん。あれ、これだけ?
「あ、あのコクドウさん」
「はい」
ボートの中は荷物が結構積まれていて、でもその荷物がなければ後十数人は乗れるスペースが存在する。
「他のお客さんは……?」
「他のお客様は別途用意されておりますボートにて脱出なさっておりますので、御心配ありません」
コクドウさんがそうは言うものの、私は前進していくボートの甲板から身を乗り出す。
「ルカちゃん、危ないよ!」
「ル、ルカっ!?」
ハルちゃんとスミちゃんが私の奇行に声を上げる。でも、こんなのダメだよ、おかしいよ!
私の分のスペースでほかに助かる人がいるなら、その人に今すぐ乗ってもらいたい。でも私のそんな願いも虚しく、コクドウさんに制止させられてしまい、安全を確認した船長さんは無情にもボートを進めた。
サント・アンヌ号から離れていくボートから見た景色はおぞましいものだった。
闇夜にそびえる巨大な船体。
まるで崖を見上げるようなその存在感は、港で見上げていたものとは威圧感が違う。
鈍角に傾いていくサント・アンヌ号。そして雨のように降り注いでくる人々の喧騒。それだけで、私は言葉を失い唖然としてしてしまう。
サント・アンヌ号の甲板からは巨大アナウンスで海へと飛び込まないことを注意している。
避難用のボートは私達の乗ってるのじゃなくて簡易的なものだけど頑丈さは保証されているみたい。そしてボートの底には水ポケモンが近寄らないおよそ100ヘルツの周波数が出されていると聞いたことがある。
それは大型水ポケモンや水ポケモンの群れに襲われないようにするため、だから単独で海に出るとどうなるかは想像もしたくはない。
でもそんな注意喚起も虚しく、複数の人が脱出用ボートを待ち切れずに飛び降りる。
私達の傍で水飛沫と共に落ちてきた人達……。その中の数人は着水の衝撃が多すぎてそのまま即死、運良く海面に出てきた人が私の方に向かって助けを叫ぶ。
私はコクドウさんの方を向くけど、コクドウさんは何も言わず、何もしない。そしてそれは乗船者のみんなもそうだった。
決死になって「助けてくれ!!」と叫ぶその人の声が私へと降りかかる。でも、私もなにもできなかった。どうしたらいいのかわからなかった。
そして私は、助けを呼ぶその人が巨大な赤い化物に丸呑みにされる姿を目の前にする。
「あっ」
私は両手で口元を覆い、目を見開く。
ハルちゃんが私の肩に両手を置いて、かばうように体を密着させてくれる。私はその体に寄りかかるようにして、更に悲惨な光景を目にする。
ある人は水ポケモンを出して脱出を目論むも、大量の獰猛そうなポケモンの群れに襲われてポケモン諸共に海の中へと引きずりこまれていく。
「なんでこんなところにギャラドスが……?」
スミちゃんの声に私はさっきの赤い怪物がギャラドスだとそこで気付く。
「それに、なんでこんなにたくさんのキバニアとサメハダーが」
そしてハルちゃんの発言に、私ははじめてみるポケモンの名を確認する。鋭い牙と獰猛な性格、連携のとれた集団襲撃……これが野生ポケモンなの?
極寒の冬の夜。体感温度だけですでに人の体力は消耗されていく。
脱出用ボートにいくら水ポケモンを遠のかせる周波数が発せられていても範囲は限られる。
沈んでいく巨船から逃げ惑う人々。最大の恐怖に襲われた人々は、わが身を第一に考えて本能的に行動する。
鳥ポケモンを出して、脱出を目論む人もいるけれど海中から放たれる【破壊光線】の餌食となって空で消えていく。
「なに、なんなのこれ?!」
私は次第にパニックに陥り、訳がわからなくなってくる。
ハルちゃんが抱き締めるようにして私をなだめてくれて、スミちゃんが私の左肩に手を置き添えてくれる。
しかしまたその数秒後に、私はスミちゃんの声に新たなる衝撃を目に捉える。
「な、なんだあれはっ……!」
スミちゃんがサント・アンヌ号の向こう側に見たもの。それは、
「うそ……」
サント・アンヌ号並みの巨大船体。漆黒のボディに、赤いRの文字がでかでかとプリントされている。戦艦と言っても過言ではないほどの重装甲なそれは、この現実世界とはどこか浮世離れしているようにも見える。
そう、ロケット団のまるで海上要塞のようなその風貌は私に救いの女神ではなく滅びを呼ぶ邪神の姿そのものの到来に思えた。
「ご安心ください皆さま! 我々ロケット団が皆さまの救出に参りました!」
その船のアナウンスから聞こえてきたのは、私にはただの幻聴にしか思えなかった。