「裏」:天才科学者の臨むもの
「ここじゃ」
オーキドがガイとカナを引き連れて到着したのは暗闇に包まれた場所であった。
研究所を感じさせる無機質な臭いに電子機器の静かな駆動音が辺りに満ちている。オーキドの着用している白衣が歩くたびに擦れる静けさがガイとカナにとっての道しるべとなる。
先導者が立ち止まり、従者もそれに倣う。頭上から淡い光が灯り始め、次第に空間は白光によって照らされる。そしてそこで彼らが見た光景は想像を絶するものであった。
「おいおい、なんだよこりゃ」
「うっ……!」
少女は口元を両手で覆い、瞳孔が開き涙が溢れ出る。あまりにも悲惨で残虐な光景に、カナは吐き気と恐怖に襲われたのだ。
オーキドが見上げる視線の先には巨大な筒状になった硬化グラスによる容器が存在していた。その中には赤い鱗に覆われたギャラドスの姿と一人の人間が収まっていた。
「大丈夫か、カナ」
カナの両肩に手を回し、しゃがみこんだ少女を介抱するガイ。彼の声にカナは首を横に振り、嗚咽を漏らす。そう、彼女はマサラタウンでもこのような状態に陥っていた。
「その反応からすると、見てきたようじゃな、地下研究所を」
「ああ、あんな糞みたいなものをまた見せられることになるとはな」
「科学というものは人間に恩恵を与える。しかしの、その恩恵というものは数多もの犠牲と禁忌から生まれているのだという認識が人にはない」
禁忌と口にしたオーキドに、やはり罪の意識はあったのだろうか。それとも彼は科学者としての一般論を語っているだけなのか。その真意はわからない。
「最初は単純な好奇心だ。しかしな、探求すればするほどに謎は解明され、頭の中には数式が生み出されていった」
「それが、これだっていうのかよ」
「そういうことになるの、まだ完成には程遠いが」
オーキドが科学者となる前、彼もまた他の青年同様に旅に出た。そこで様々な人間に出会い、ポケモンに出会い、知見を広めてきた。彼の知的好奇心はそういった経験をもとに、科学という分野にて発揮されたのだ。天才的と言えるほどまでに。
後に引き起こされるマサラの悲劇、そしてミュウツーの完成。それは未だ彼の到達点とは程遠い。オーキドが目指す桃源郷はまだまだ先にあるのだ。
「赤いギャラドスを生み出す技術を当時のロケット団はうまく使いこなせなかった。まあそれもそうじゃろうな、なにせギャラドス使いの若き天才の妨害にあったのじゃから」
ジョウト地方で起きた小さな電波塔ジャック事件。表沙汰にはならなかったが、これにはジョウトリーグ協会による多大な情報操作が行われていた。噂ではサカキに反対するロケット団幹部による単独行動であるともされており、サカキ当人による関与は無しとされていた。
しかしながらそれの真意は定かではなく、なによりジョウトチャンピオンであったワタルの介入がこの事件の拡散を未然に防いでくれたのだ。
「まあそれが功を奏しているのは明らかじゃがの」
そしてオーキドのこの言葉の意味をガイとカナは現実として直視させられていた。
明らかに尋常ではない程の大きさを有しているギャラドス。そしてその胸中には下半身が同化してしまった一人の女性らしき人物の姿があった。
「ポケモンによる生命エネルギーは無限の可能性を秘めておる。ならば我々人間はどうなのか? はたして、ポケモンと人間による同化は可能なのか? 日々研究者が考える夢想は奇怪だが、悲喜に富んでいる」
下半身は完全にギャラドスの体内へと組み込んでおり、両腕は鱗部分と連結している。美しかったであろう長髪も、培養液の中で晒された結果なのか、完全に色が落ちてしまいユラユラと漂っている。
「こいつは胸糞悪いってレベルじゃねーぞ」
ガイは憤りと恐怖に苛まれていた。奥歯が軋み音を上げ、指先の感覚がなくなっていく。視点は一点のみを見つめ、目をそらしたいのにそらせない。それほどまでに現実離れした現実があるのだ。
「ショックを受けておるのか? 無理もないじゃろうな、わしも自身が狂っていると感じておる。じゃがそうしなければわしは救えなかったのじゃよ、このナナミをの」
オーキドから告げられた一人の人物名、それは彼の孫娘であるナナミの名前であった。
「マサラの悲劇におけるサカキの策略ミスによってナナミは命を落とした。わしは彼女を救わなければならなかった、当たり前じゃろう、自分の孫なのじゃから」
語っている内容に嘘偽りはないのだろう、だが明らかに狂気を孕んでいた。それは彼女を救いたい一心からなのか、彼女を自身の研究に使えることによる悦びからなのかはわからない。だが一つ言えるのは、彼は彼自身のためにナナミを救ったのだということ。それだけはカナにもわかった。
「絶対にあなたは、ここで倒します!」
震えていた膝を奮い立たせ、カナは立ち上がる。その眼光はただオーキドを睨みつけたまま。彼女のこれほどまでに怒りに満ちた表情を見たことがあるだろうか。
カナ本人にあった正義心もさることながら、ルカの故郷であるマサラで起きていたことの全ての元凶が眼前の男にあるのだ。
「ふっ、俺もしっかりしなきゃーな」
頬を汗が通り抜ける。カナ以上に今のガイは怯えているのかもしれない。いままでどんな屈強な男にも腰が引けなかったガイ。だが人として認識しても良いのかわからない科学者の前に、ガイは畏怖していた。
だがこんないたいけな少女が威勢を張っているのだ、俺も張れなくてどうするといった感情が彼を突き動かしていた。
「第二ラウンドと行くのかの? ならばわしも本気を出すとするか」
今度はどういった研究成果で行くのかと探るガイとカナであったが、驚くことにオーキドが握っていたのは金と銀の色彩が施されたボールであった。
「久々の戦闘じゃ、胸が躍るのうセレビィ」
眩い光と共に登場してきたのは、ときわたりポケモンとして知られているセレビィの姿であった。
「おいおい、なんだよあのポケモン」
ガイは現れたポケモンの姿を初めて見るが、とある既視感を覚えた。そう、ミュウと初めて対峙した時の不思議な感覚に陥ったのだ。それは幻と呼ばれるポケモンたちが放つ特殊なオーラを感じ取っているのだろうか。
「な、なんで」
そしてカナもまた違った既視感に覚えがあった。そう、彼女は以前このポケモンとであっているのだ。それがどこであったのかは思い出せないし、彼女の夢の中での出来事であったかは定かではない。ただ、彼女もまたセレビィの登場に懐かしさを覚えていた。
「ふむ、君らのような反応をした人間は初めてじゃの。さすがここまでたどり着いただけのことはあるのう」
実験動物を好奇の眼差しで眺めるようにしてオーキドは彼らのことを観察する。
「ガイさん、不思議です。私はあのポケモンを初めて見た気がしません」
「ああ、俺もだよ」
互いにそう共有するも、だからといって対処法があるわけではない。ただ懐かしさを感じた。それがどこから来るものなのかは見当もつかない。
「試してみるかの、時のいたずらというものにお前たちが抗えるのかを」
「来るぞ!」
「はい!」
オーキドの発言と共にガイとカナはお互いに距離を取る。なにが来るかわからない以上、二人共同時にやられることだけは避けなければならない。
「セレビィ、時渡り」
「なっ!?」
「え―――」
その指示に、一瞬にして時空が歪んだ感覚がガイとカナを襲った。何がどう歪んだと表現して良いかわからない。ただ五感がそう悟ったのだ。視覚、聴覚、味覚、嗅覚、そして触覚……それら全てが感じたことのない異常を訴えた。
ガイとカナはセレビィの時渡りにより、とある光景を目の当たりにしていた。それは記憶。一体誰の記憶なのかは定かではない。それでも夢を見ているというわけではなかった。五感全てがはっきりとしている。実感がある。
「おいおい、なんだってんだよ」
「これは夢? ううん、違う。ここは一体……」
周りには砂埃が舞い、遠くには巨大な塔のような建造物の影が見える。顔を腕で覆うようにして砂塵を防ぎながら、なんとか捉えた視界の中で二人の歩は自然とそちらへと向いていた。
「時渡りということは、私たちは過去か未来かのどちらかに飛ばされたことになります」
「へっ、まさかの未来という可能性もあんのかよ」
ガイは不敵な笑みを浮かべてみせるが、この状況が幻想の類いではないことをミュウという存在と出くわしているがためにわかっていた。
「オーキドは言っていました。時のいたずらに抗えるのかと……それはつまり、彼は私たちに賭けているということかもしれません」
「どういうことだ?」
「【未来予知】で見た夢の中で、オーキド……オーキド博士は私たちを試すかのような事をしかけてきました」
思い当たる節がガイにもあった。あの圧倒的戦力差において、ガイたちはかろうじて切り抜けた。しかし普通に考えれば、いともたやすく倒されていてもおかしくはなかった。そしてオーキドは隠しておくべきであろう情報を自ら開示していたことも、今となってはひっかかる」
「じゃあこの場所に、オーキドが俺たちに変えて欲しい過去があるってことかよ」
「その可能性は高いです。ルカちゃんのことも気になりますが、ここで私たちが未来を変えることで全てが変わるかもしれない」
「へっ、責任重大だな。俺の後ろを歩きな」
「助かります」
先陣を切るように、ガイがカナの盾になりながら二人は進行を続ける。
徐々に全貌の見えてくる建物。一体ここは何年前になるのか、そしてどこなのか。さらには彼らを待ち受ける運命の分岐点とは。オーキドの臨む未来の鍵を彼らがつかめるのか。果たして……。