「裏」:シンオウを目指す者
「そんな馬鹿な……」
少女は愕然としていた。
小さな携帯端末から流れるニュースのヘッドライン。そこにはホウエンにて起こっている超常現象の模様が映されている。しかし、彼女が驚きを隠せていないのはそのことについてではなかった。
「なんで、なんでよ!?」
ベレー帽を深くかぶり、メガネをつけた少女が右手に握っているポケッチは小刻みに震えている。彼女の手の甲にはうっすらと汗の膜が滲み始め、動悸も早まったのか息遣いも荒い。
何回も何回も連続してポケッチの通話ボタンを押すも、返ってくる音声は機械によってパターン化された決まり文句。
「ハル……」
ハル、と呼ばれた少女は声のする方へと振り向いてその人物にすがる。
「シイカ、どうしよう!? お父様ともお母様とも連絡が取れない上に……本部とも!!」
「落ち着いてください、ハル」
「でもっ!」
アルセウス教の代表者、スグラノ ハル。シンオウ地方を中心とし、各地方にわたるまで数多くの信者を有する一大宗教団体の幼きリーダーは、今完全に取り乱していた。
サカキの圧力によってシンオウを追い出されたスグラノ一家ではあったが、それでも代表の地位を剥奪されることはなかった。それ以上に、彼女達はロケット団の束縛からアルセウス教を逸せようともしていた。しかしながら、それはハルの指針とは違ったものであったのだ。
ハルは耐え凌ぐことこそがロケット団の魔の手からアルセウス教を解放する一番の近道だと思っていた。それは、なんの動きも見せない態度を示せば、相手が油断し、そこから活路を見いだせるのではないかと睨んでいたからだ。だが、ロケット団を牛耳るサカキという男はそれほどまでに甘い男ではなかった。
ダイゴの企みによって復活を成し得た二体の古代ポケモン、グラードンとカイオーガ。その二体の暴走を食い止めるべく、サカキはホウエンにいるアルセウス教支部に戦力の要請を申し込んできた。内部でも推進派と保守派によって意見は分かれ、論議を醸した。そこでハルが下した決断はロケット団との決別。待っても事態が好転しないのなら、窮地こそが転機であると彼女は踏んだのだ。
そう決断した彼女は、その足がかりとしてシイカとたった二人でシンオウへと戻ることにしたのである。
だが……。
「私にも何が起こっているのかはわかりません。でも、これはきっと……」
ホウエン地方、ムロタウン。独自にチャーターした小型機がそこに待機してあり、ハルとシイカは民家の一つで出る準備をしていた。
快晴すぎる青空と照りつける陽光は、外に出るのもためらわせるような熱射を放っている。
最初は気象による影響のせいかと思ったハルであったが、原因はそれでないようだ。両親との連絡もつかず、ホウエン支部、あまつさえシンオウの本部とも連絡が取れない。今までになかったことに、ハルは動揺を隠せないでいた。
本部から離れた後であっても、定時連絡を義務付けられているハルであるが、それに応答する返信も無し。アルセウス教の代表者、後継者となってから、彼女へ連絡が途絶える時などなかった。
「嫌な予感がする」
ハルはシイカの胸元で冷静を取り戻しつつ、そう口にした。
「ええ、ですが、今は」
「うん、わかってる。でもこのままじゃいけない」
「なら、どうなさるつもりですか?」
「わからない……わからないよ………」
十五という年齢でアルセウス教という団体の後継者になったハル。それは普通の少女になら荷が重すぎるタイトルである。そしてハルは普通の少女であった。いや、彼女自身はそう思っていた。
だが、彼女も立派な八柱力であることには変わりない。
八柱力。
その存在が明るみに出たことは歴史上でただ一度しかない。そう、イニシャルインシデントの門を開いた八人の英雄と讃えられた者たち、それが八柱力であるとされている。
しかしながらそのような昔の出来事など、記されている文献は限られており、一般人が知る領域のものではない。それに加えて、イニシャルインシデント以前の事例について記されているものは存在すらしないのだ。
イニシャルインシデントによって開かれた異世界への扉。その日から自然界におけるバランスは一転し、人間とポケモンという二種類の生命体に別れた。
双方共に、進化という過程を踏んだと今の科学者は睨んではいるが、明確な証拠など存在しようがない。あるいはアララギの唱えた、この世界にはもともとポケモンの先祖しかいなかったという説が有力といえようか。
しかしながら八柱力にはどういった意味があるのか? もし彼らがポケモンの技を使役できる能力を秘めていたとして、初代の八柱力も同様の力を持っていたのだろうか? しかしながら、そう考えるとある矛盾点が垣間見えてくる。
そう、なぜならイニシャルインシデント前まではポケモンという存在は確認されてはいない。それなのに八柱力がポケモンの能力を秘めているのはなぜなのか?
だが答えは簡単である。
イニシャルインシデントを開いた八柱力はそもそもこの世界の人間ではない。向こうの世界からやってきた者たち。異次元人……。あるいは未来人とでも言ってしまってもいいのかもしれない。この世界は、彼らの干渉を得て今の世界となっているのだ。つまりポケモンも人間も異世界の八柱力により進化を遂げるに至ったのだ。
そしてその八柱力の一人であるハル。彼女の秘めている能力とはなんなのか。それが明かされる日もそんなに遠くはないであろう。
「とりあえずホウエン支部に……それからなら」
顎に指を当てながらハルはそう提言すると、二人が借りている民家のドアを叩く音が聞こえてくる。その叩き方からは、急ぎと焦りが感じられる。
「どうかしましたか?」
シイカが柔らかい物腰で来訪者を出迎えると、息を切らしながらやってきたであろう男性は、ハルの為に小型機を用意してくれたムロに住んでいる老パイロットであった。
「嬢ちゃんたち! 悪いことは言わないが、飛ぶならもう今しかないぞ!」
「それは、どうしてですか?」
「東側の嵐がどんどんこっちに向かってきちょる。このままだとムロから出ることも叶わなくなるぞ」
窓の外を急いで確認するハル。地面へと突き刺さっていた太陽の光も、いくらか和らいでおり、遠くに広がる曇天が目視できる。
「そんなっ!」
カーテンを握る拳がわなわなと震え出しながら、ハルはどうすべきか更に頭を回転させる。連絡がつかない状況のままホウエンを離れるのは危険である。危険であるが、このままではムロに閉じ込められてしまう。それならば、老人の言うとおりにムロを飛び立たなければならない。
しかし、どこへ?
そう、当初の目的としてはシンオウを目指そうとしていた。だが、シンオウの本部と連絡が取れない。その確認をするためにシンオウへと飛ぶのが妥当なのかどうか、ハルは決めかねていた。そもそもロケット団の裏をかこうと企てたハルの作戦なのであるが、味方の状況が途端とわからなくなってしまったのだ。そんな彼女が頼れるのは頼りない自分自身しかない。
「なら今すぐシンオウへと飛びます」
「シイカ?!」
自問を続けるハルをよそ目に、シイカは老人にそう断言する。彼女の発言にハルは目を丸くするが、シイカは小型機のキーを受け取りながら身支度を始める。
「いそいでくださいハル、いきますよ!」
「ちょ、ちょっと待ってよシイカ!」
「待ちません!」
「っ!!」
背中を向けられながらも、シイカの怒号に黙らざるを得なかった。
「いいですか、ハル。あなたはアルセウス教の代表です! 代表なら代表らしく、腰を据えるべき時と場所に腰を据えてください!」
ハルとシイカは幼少のころからの仲である。代々スグラノ家がアルセウス教を守ってきたように、シイカの一族はスグラノ家に代々仕えてきた。主従関係にありながらも、大の親友同士である二人。
しかしながら年を取るごとに、二人は定められている己の立ち位置を強要されることとなっていく。これまでにもお互いに幾多もの摩擦や軋轢を繰り返しては乗り越えてきた。それゆえに今つながっている絆がある。
「私の役目はハルを守ることです。そしてここに留まることはハルにとって安全ではない」
「……うん、わかった」
「ありがとうございます」
「なら、行こう。シンオウへ!」
「はい!」
シイカは薄々感じ取っていたのかもしれない。
これが全て罠であるということに。
突如として途絶えた本部との通信。それはシイカが一番恐れ、危惧していたことであった。あの日の会合で物議を醸したホウエンでの事変への対応。ハルはわかれていた方針の収拾をつけることには成功したが、了解を得たことにはならなかった。それに加え、推進派のトップはハルの両親に長年仕え、ホウエン支部に自ら志願した者である。
そしてシイカはハルにもまだ話していない重大なことを一つ知っている。いや、話せないことである。この要素があることによって、ハルの両親はその推進派の主張をないがしろにすることができないでもいた。
シイカはアルセウス教がハルを切り捨てたという結論に至ったのだ。一番考えたくもなかった事態に陥ってしまったのである。そこには彼女の両親も深く関わっているのだろう。そして彼らが残してくれた命綱が、この小型機である。だからこそ、すぐさまここから離れなければならない。ハルの身の安全の為にも。
「嬢ちゃん、操縦の仕方はわかるかの?」
「はい、問題ありません」
「シンオウについたら、よろしく言っといてくれ」
「はい、必ず」
操縦桿を握り、計器類を確認するシイカ。その横でハルは荷物を詰め込んで、老人へと会釈する。
小型機が飛び立てる程に長い滑走路などムロには存在しない。その為に、ハル達が乗っているものは海上にある。老人が乗り込むためのはしごを収納しながら、腕を振って合図を送ってきている。
シイカは親指を立てて合図を返し、ゆっくりと小型機は前進していく。プロペラが勢い良く回転し、次第に騒音がヘルメット越しでもうるさく感じられるようになってくる。
海面は眩しく、下も上も眺めることのできないほどに視界は狭まってはいるが、乗れなくなる状況になるよりはまだマシであろう。
「行きますよ、ハル」
「うん」
勢いに乗って、一つのチャーター機は大空へと舞うのであった。
目指すはシンオウ。そこになにが待ち構えているのか。そしてシイカの悪い予感はあたってしまっているのか。
その答えの全てはシンオウにある。
第二十一章:完