IX:アユミの能力
『のお、アユミよ』
その声はギラティナから来るものであった。
ボールはその間も、ゆっくりゆっくりとギラティナへと近づきつつあった。そしてギラティナ自身は、自分に迫る脅威に勘付いていたのだろう、なにもかも悟ったような声色をしていた。
『お主の持つ力、非常に役に立った』
「……え?」
『ふふふ、はーっはっはっは!』
高笑い。それにどんな意図をギラティナが込めているのかはわからない。だが、ギラティナはアユミにとって気になる言葉を残していった。その真意はどういうものなのかを、アユミは当然知る由もない。
マスターボールがギラティナの頭頂部に触れて、開く。もちろん、ギラティナはダークライの助力もあってか自由に身動きが取れる状態にはない。だが、そうでなくともギラティナはすでに諦めているようにも思えた。いや、諦めるなどという殊勝な考えをギラティナが抱くはずもない。
そう、ギラティナはここでの役目を果たしたのだ。
「ま、待て! 今なんて!?」
アユミの追及に答えるはずもなく、ギラティナはそのまま静かにボールへと収容されてしまう。
そうしてすべては静寂へと戻った。
「おいアユミ、やったのか!?」
遅れて到着するキリンに、アユミはピジョットを地上へと下しながら何も答えなかった。
「おい、アユミ……?」
モモも合流し、三人は転がったマスターボールを見下ろす。
この中に収められたギラティナは出てくることがない。しかしアユミはそのボールを拾い上げながら、ある異変に気が付いた。
「いない……?」
普段モンスターボールというのは、ポケモンの捕獲を一番に考えられている為にある機能が備わっている。それは、ポケモンの能力をデータ化し、携帯端末に登録するというものだ。だが、いくらアユミがポケギアとボールを近づけさせても一向にデータを受信しない。
アユミはボールの半透明な上半部分から中を覗き込むも、なにも見えない。
「マスターボールは、基礎構造は一緒なのだろう?」
「そうだよ。たしか、そのはずだったけど」
「ギラティナは一体、どこ……に?」
アユミが考えられるギラティナの行先は一つしかない。やぶれた世界だ。
だがこの世界に来られて一番に喜びを示していたギラティナが、こうもあっさり裏の世界へと帰るとはアユミには考えられなかった。
「目的を達成したから、とか?」
首を傾げてみせるモモの言葉に、アユミは欠けていたピースを探し当てたような表情を浮かばせた。
「もく、てき……」
ギラティナが今までの間過ごしてきた世界、やぶれた世界。そこに存在していたのはギラティナ、ただ一匹。はるか昔の文献と共に忘れ去られていたギラティナが、この世界に来て興奮していたものとはなんだったのか、アユミは考えた。
そして考えれば考えるほどに、嫌な予感しか湧き上がってこなかった。そう、たどりつく唯一の答えは人間だ。
そしてアユミは、ギラティナが仕掛けていた黒い球体の正体が見えてきた。もしあれがやぶれた世界へのゲートだとしたら? 時空を捻じ曲げる為の処理時間がギラティナを鈍らせていたのだとしたら? もしそうであるならば、ギラティナは後はやぶれた世界へと戻るだけ……。
「あ、ああ、あぁ……」
そこでアユミは気が付いてしまう。自分が何をしてしまったのかを。そしてギラティナがなぜ今までやぶれた世界から、この表の世界へと行き来できなかったのかを。それは、アユミ達がこの世界からやぶれた世界へとやってきてしまったからである。
神の分身であるギラティナであるならば、自分の世界で生じた時空の歪みを逃すはずがない。そしてその構造もだ。つまりアユミ達が立ち入られることのないやぶれた世界に行ってしまったことによって、ギラティナにとんでもないアドバンテージを与えてしまったのだ。
「おい、アユミ? お、おい、大丈夫か?!」
「キリン、アユミちゃんを担いでここから離れるよ」
「あ? ちっ、今はあんたに従ってやるよ。ほら、アユミ」
「んもう、素直じゃないんだから」
キリンはヒステリック気味になっているアユミを背負い、ボールからサイドンを取り出す。
「サイドン、頼むぞ。ここから離れる」
彼のパートナーは周囲の情景に目を奪われながらも、しっかりと頷いて地面に穴を掘り始める。人三人分は優に入れる大きさの穴に、モモはキリン達の後を追って飛び込んでいく。
キリンはアユミが目を見開いたまま、ぶつぶつと何かつぶやいている姿に心が痛んだ。アユミはかしこすぎる。それがゆえに、いろいろなことが見えてしまう。だからこそ、いろいろと悩みこんでしまい、自分を責めてしまう。
そんな彼女を守りたいと思うキリンは、自分がふがいなくてしょうがなかった。もし自分の方が頭のまわる人間であったならば、アユミをこんな苦悩から救い出せるのにと悔やんでも悔やみきれないのである。
そして当のアユミは、まだ終わらないであろう災厄に身を震わせていた。
「またやってくる……」
「アユミ?」
「また、あいつがやってくる」
「あいつって、おいまさかギラティナが?」
サイドンの背に掴まりながら、キリンはアユミのつぶやいた言葉に反応する。ギラティナが帰ってくる? それがどういう意味を持つのかをキリンにはじゅうぶんにわからなかったが、その様子を見ていたモモはある程度察しがついた。
ギラティナが欲したもの、それは自分以外。自分しかいなかった世界で足りなかったものは自分以外。それはつまり、この世界でいう文化、ポケモン、そして人間である。
つまりギラティナがヨスガシティ全体を取り込むような大技をあえて、負荷を顧みずに行使したのには理由があったのだ。ヨスガシティという街そのものをやぶれた世界へと送り込む。それは、ギラティナが欲していた自分以外のものであったから。
そしてギラティナは満足して、やぶれた世界へと帰って行った。たくさんの人間とポケモンを連れ去って。
「くそっ、くそっ、くそっ!」
非力な拳がキリンの肩へと叩きつけられる。涙を浮かべ、咽ぶアユミの仕草は、キリンの心をなによりも深くえぐっていく。
ギラティナの真の目的とはなにかはわからない。だがここで退くということは、なにか目的があるということに他ならない。そしてその中にはなんの罪もない人々、そしてなによりスズナがいるのだ。
更にギラティナは、アユミの力が役に立ったといった。その意味がアユミはわからなかった。だが、今わかってしまう。八柱力としてのアユミの力、【飲み込む】。それは他の人生を【飲み込む】というものであるということを。
「くそーーーっ!!」
物理的な痛みはまったく感じない。感じないからこそ、彼女を背負うキリンへの精神的なダメージは底知れない。男として、一人の人間として失格であると感じさせられるのだ。
「私は、自分の家族も、キララも、スズナも、関係ない人たちまで……?」
他の人生を【飲み込む】。そう、それこそがアユミの八柱力としての能力であった。他の人生、それはある人間の人生のことを指す。人生というのは人の一生を表す。その人生は個人のものであるが、その人生が成り立つには他の人間との干渉が必要不可欠だ。
他によって形成される自分の人生。それに最も強く干渉してしまうのが、アユミの能力であった。他の人生を必要以上に巻き込み、自分の人生を昇華させていく。それが彼女の望もうが望まないがに限らず、だ。
そのアユミの渦中に巻き込まれてしまった人間は多い。それに早くから気が付いてしまった彼女の父親は、娘を放棄した。ハナダの孤児院にて育てられる間、彼女の能力は年を重ねるごとに開花していった。しかしここまでの規模になるまでは、誰もアユミの能力に気が付くものはいなかった。なにかが起きたとしても不慮の事故として片づけられてきたのだ。
だがハナダシティでスクールが襲撃された時、アユミは逃げおおせた。それもこれも彼女の能力によって、他の生徒がアユミの代わりに犠牲となったからである。そしてそれはアユミが今まで様々な危機から逃れてこれたことを意味する。そう、アユミはいわば災厄をもたらす台風の目のようなものなのだ。
アユミが人を巻き込めば巻き込むほどに、その規模を増大させていき、大きければ大きいほどに彼女の人生は保証されていく。つまり、スクールでの被害はアユミを助けるためにアユミ自身が能力を無意識の内に行使したことになり、ヨスガシティの住民も彼女が危機を脱するために犠牲になった。危険が訪れれば彼女は回避し、安全であっても彼女に安寧をもたらすために誰かが犠牲となる。そういった運命を彼女は背負ってしまった。
「アユミ……」
キリンはただただじっと目を瞑って、唇を噛むしかなかった。歯が肉にくいこみ、血がにじむ。だが、それでもキリンは自身の、アユミのパートナーとしてのふがいなさに、なにより苛立ちを覚えていた。
しかしながら、ある疑問が過る。なぜアユミ程の者が、自身の能力になぜ気が付けなかったのか。それはキリンに何も被害が及ばなかったからである。いや、及ばなかったように見えていただけかもしれない。いずれにせよ、キリンというアユミにとっては大切な人物を【飲み込む】ほどの危機が彼女に起きていないからであろう。それは、もしアユミがキララと会うことがなかったら、あの炭鉱で助からなかったのはキリンだったのかもしれないということになる。
小さい頃より育ってきたために、アユミの能力はすでにキリンの人生を【飲み込】み、彼を彼女の傍から離れないようにしたのだ。アユミと共にいたからこそ、キリンにとっても常識と思っていたことがとんでもないことであったのに気付けなかったのが二人の誤算であったともいえよう。キリンの頭の回転の悪さが、本人たちの知らない間で良くも悪くも作用してしまったのだ。
当然、アユミはそのことには気がつくことができなかった。そして気付いた今、このままではキリンにも被害が及ぶ。そうアユミは判断した。自分のせいで今まで多数の人を犠牲にしてきたと気が付いた彼女には、罪悪感しか残らない。
サイドンが掘り進めた穴が地上へと近づき、光が漏れてきた時に、アユミは一つのボールを握っていた。そう、ユンゲラーの入ったボールを。
「聞いてくれ、キリン」
「どうした?」
「いままで、ありがとう」
「は?」
アユミの言葉に今まで聞いたことのない優しさが込められているのに、キリンは嫌な予感がしてならなかった。いつものアユミではないことは彼女の状態を見ていればわかる。だが、それとはまた違った異常にキリンは気が付いていた。
「さようなら」
その一言を置いて、キリンの背から彼女の重みは消え去った。
耳元でささやかれたアユミの言葉はキリンの耳の中で反芻される。
サイドンが地上へと頭角を突出して登場し、次いでモモが出た時には、すでにアユミの姿はどこにも見ることができなかった。