VI:王、ギラティナ
「Oh. please don't move」
アユミがストライクのボールへと手を回そうとすると、メリッサはそう告げた。無音なこの状況下で、メリッサの声はしっかりと周りに伝わる。静謐をつくりだしている張本人が発する圧倒的支配力のこもった言葉は、アユミを恐怖の手中に収めるには十分すぎた。
上品な彼女の言い回しは、英語であるからこそ、異国の言葉であるからこそ、圧倒されてしまうのか。この状況を打破しようとするにも、動けない。
「おい、アユミ。あいつなんだって?」
「動くなって言ったんだよ」
通訳は動くうちに入るのか、それを考えるよりも先にさっさと行動に移し、アユミはメリッサの様子を窺う。しかし別段メリッサは意に介することはなく、むしろそれを好意的に受け取っていた。
「So. you can understand me」
「君の方こそ、しっかりとわかってるみたいじゃないか」
睨みあう両者。しかしながら余裕を持ち余してなお、メリッサの優位性は覆されはしない。
「Well then. would you give me that ball?」
「嫌だと言ったら?」
「Ah-hah. you're quite a bullhead or just mad」
「なんとでも言うがいいさ。でもね、ギラティナは渡せないよ」
アユミはしっかりと時間をつくっていた。なぜならばその隙にギラティナとの交信をはかりたかったからだ。
『アユミよ、さあ出せ! 我を解き放て!!』
一向に平穏さを取り戻しそうにないギラティナに、アユミは切歯扼腕(せっしやくわん)していた。ここでギラティナを使えるというカードを見せることにまだ抵抗があったのだ。だがしかしそれが時間の問題であることも重々承知していた。
彼女に迫りし脅威は二つあった。第一にメリッサの正体である。彼女がギラティナを欲しているのはわかる。だが、彼女が個人として動いているのか、はたまたロケット団の手の者なのか情報がないのだ。それゆえにギラティナを出すということとなれば犠牲を厭わないわけにはいかなくなる。確実にギラティナを見た者すべてを根絶やす必要があるからだ。そして一般人を巻き込むことになるのは避けられない。
そしてもう一つの脅威はギラティナにあった。ギラティナが興奮に身を任せてなにをしでかすかわからないのだ。ボールになんとか入ることでアユミ自身に許可を請うあたりまでの理性は残っているようだが、それでもなんの解決策にはつながらない。なぜならギラティナがアユミ達に危害を加えないという保証すらどこにもないからだ。
「なんでですか、メリッサさん! なんで、こんなことを!?」
そして痺れを切らしたのか、スズナが大声を上げてメリッサへと叫んだ。
「Hi Suzuna. Well. to me. I'm wondering why you're here」
にこやかなスマイルでスズナに手を振るメリッサ。だがしかし、その表情は決してにこやかで片づけることができないほどに冷淡なものであった。
「そ、それは……!」
そしてスズナもメリッサの言っていることが理解できるのであろう。そう、メリッサからしてみれば、スズナがこの街にいることのほうが疑問視せざるを得なかった。
「悪いがスズナには協力してもらっている最中でね、君がなにかを別段知る必要はないのだよ」
挑発的なアユミのその態度に、メリッサはため息をついて首と腕を横に振る。
「You guys really think. can find a way out?」
「なかったら、切り開けばいいだけの話だよ……活路というものはね!」
アユミの決断が宣言されたと同時に、メリッサは腕を突き出して号令をかけた。すると周りで静止したままだった市民がアユミ達に襲い掛かってきた。むろん、その場にいたポケモン達もである。そしてアユミはメリッサの周りを浮遊する二体のゴーストタイプの姿を捉える。恐らく、彼らがここの人々を操っている張本人なのであろう。
キリンとスズナが苦渋な表情で顔をしかめる中、アユミは両手で覆っていたボールを上空へと投擲した。
そう、彼女が下した決断。それはギラティナの解放であった。
震動を続けるボールは破片へと砕け散りながら閃光を四方八方へと拡散させる。そして、中より登場したのは首を傾けなければ全貌を見ることかなわない大きさのポケモンであった。
『ハッハッハ! なるほど、なんと秩序と規律に縛られた世界なのだこれは!!』
メリッサも初めてお目にかかるギラティナの容貌に、呆然と立ち尽くすことしかできないであろう。その好機を逃さんと、アユミは新たなボールを取り出して床へと転がす。それが向かった先はメリッサではなく、駆け寄ってくる人の荒波の中であった。モンスターボールは人に踏まれた程度では壊れないという強度を確信しての作戦なのだろうか。
「So this is Giratina! The only ghost type pokemon with dragon type!!」
ヨスガのジムリーダーの高揚した雄叫びに、アユミはやっとのこと合点がいった。いや、そもそも早くに気が付くべきだったのかもしれないが、こうも単純な目的からであるとは思いもよらなかったのである。メリッサの興奮を抑えられない言葉の裏に、ギラティナを求めている衝動はなんだったのかが容易に予測できた。そう、ギラティナがゴーストタイプを持っているからだ。
メリッサはゴーストタイプ使いのジムリーダーとして知られている。そしてそれ以上に確かな腕を持ったコーディネーターでもある。そんな彼女がわざわざこのシンオウ地方にやってきた最たる目的がこのギラティナにあったとしたら? そして彼女が普段よりジムリーダー達の会議に来ないことがこれに関連しているのだとしたら? 悟られないように、極力この街から出ることを拒んでいたとしたら? そしてなにより、メリッサが使役するポケモンがこの人たちを操っているのなら、ヨスガシティ全体が敵の巣中ということになる。
「ぐっ!?」
「くそっ、はなせ!」
「きゃあ!」
術者であるメリッサはともかくとして、ギラティナの出現に怯みもせずに襲い掛かってきた人々にアユミ達は拘束されてしまう。彼らの表情から感情というものは一切抜け落ちており、目も虚ろになってしまっている。典型的なゴーストタイプによる洗脳を受けた兆候が見られる。
『久々に感じるこの、感触。そうだ、これが重力というやつなのだ!』
新しい世界。それはまさしくギラティナにとっては懐古するべき状況なのだろう。かつてこの世界から追放された存在である彼が、やぶれた世界から出たがっていたのかは、ほんの数分その場にいたアユミ達にも理解できた。あんなところで閉じ込められていたら頭も気も狂ってしまうと直感的に思ったのだ。
『さあ、アユミよ。命令するがよい!』
そしてギラティナから見てみれば、今のアユミ達の状況は気にも留めることもないのだろう。つまりギラティナに危機、という概念はおろか、生き物であるならば備わっている防衛本能というものが全くもって皆無なのだ。それはますますアユミを戦慄させた。
「Go Genger!」
メリッサのゲンガーが一気にギラティナとの距離を詰め、人々の影の中から突如として現れる。その飛び上がった勢いに任せて放たれる『シャドーパンチ』がギラティナの腹部に命中するも、ギラティナはなにも意に介すことはなかった。
『む? 邪魔だ小童』
癪に触ったのだろう、ギラティナがゆっくりと尾を振り上げるのを見てアユミは咄嗟に叫んだ。
「伏せろー!!」
そしてその直後、アユミ達が見たのは、はるか遠方のビルへと吹き飛ばされるゲンガーと、それの巻き添えをくらって散乱する人々の姿であった。あれほどの衝撃をまともにくらっては、助かった者のほうが圧倒的に少ないであろう。
その夥(おびただ)しい光景にアユミは絶句し、スズナは乾いた悲鳴をあげる。キリンに至ってはギラティナを睨み付けるが、なんの意味もなかった。なぜならば、ゲンガーが戦闘不能となったことで、ゲンガーに操られていた人間の洗脳が解けたからである。まさしくその場は阿鼻叫喚へと変貌しはじめた。
錯乱する人々の絶叫、嗚咽、悲鳴、そして叫び声。同じくして、アユミ達を拘束する力も弱まるが、今はそれにありがたく思っている場合ではなかった。もうすでにアユミが想定していた最悪な事態が起こってしまったのだ。
「Well then. I think I need to use this ball」
そしてそこでアユミは見たことのないボールを目にした。紫色に光るそれは、しかしドリームボールのように桃色が混じっているわけでもなく、赤紫色の出っ張り部分が見て取れた。その正体がわからないアユミにとって、メリッサがそれを取り出したことには十分な意味があるということだ。
「させないよ……っ!」
逃げまどい、狂乱する人々がメリッサに縋り寄ろうとするも、ムウマージが悉(ことごと)く彼らを蹴散らしている。つまりアユミの作戦はまだ気づかれてはいないのだ。それを機に、アユミの叫び声に呼応して地面に転がっていたモンスターボールからユンゲラーが飛び出した。
そのまま【テレポート】を使ったユンゲラーは、握っているスプーンでメリッサの手から見たことのないボールを弾き飛ばす。
「Shit! Mismagius!」
メリッサがムウマージに指示を出して、ボールの回収をさせようとするが、先手と意表をついたユンゲラーの方に分はあった。構築された【シャドーボール】が容赦なくムウマージの横っ腹へと衝突したのだ。それによりこの場にいる人間全員の意識が取り戻され、彼らの当惑はやがて混乱へと転換されていく。
『小うるさい人間共だ』
しかし一難去ってまた一難というのはこれのことを言うのだろうか。ギラティナがその両翼を広げ始め、眼下にて騒いでいる人々を見下ろしてはそうつぶやいた。
「やめるんだ、ギラティナ!」
『アユミよ、この統制された世界において混乱というものは不必要だと思わぬか?』
「むちゃくちゃだ!」
だが、アユミの訴えはギラティナに届くことはなかった。突如として地面を覆い尽くしたのは深淵なる闇だった。それはアユミ達がやぶれた世界へと行った時に現れたのと同じもの。同じものなのだが、アユミはそれに底知れぬ恐怖を抱いた。
もちろんアユミたちが立っている場にまで闇は広がり、到底そこから離脱するのが間に合わない。ギラティナはアユミたち諸共、葬ろうと言うのか。
「くっ! ユキノオー!!」
人々の拘束から解かれたスズナがそう叫んだのと同時に、アユミとキリンは宙に浮いていた。そう、なにかによって宙へと放り投げられたのだ。
「スズナ!」
アユミは放られながらも、地面にて動じないスズナの名を叫ぶ。ユキノオーと並び立ち、彼女はアユミとキリンに向けて微笑んでいた。なにもかもを諦めた色を瞳へと浮かべながらも、アユミ達を救ったことに対する満足感で満たされたその笑みを、決してアユミは許さないだろう。
なぜならば、またもや彼女は仲間を失うこととなるのだから。
「スズナーーー!!」
アユミの咆哮は、しかしながら全て聞き届けられることはなかった。広がっていた深淵の闇は、その上に立つ人々と共に、瞬時として消滅したのだ。なにも、残さずに……。
「Driftblim!」
そしてメリッサも同じく危険を察知して、フワライドによって空へと逃げていた。彼女自身もまた、眼下に広がる光景を目の当たりにして絶句していた。絶句せざるを得なかっただろう。
『どうだ、静かになったであろう?』
そう言葉を念で飛ばすギラティナの声は、否が応でもアユミ達の頭の中で一言一句響くのであった。