I:脱出
キッサキ神殿に現れたロケット団幹部の一人、バラッド。
サトシによって計画の一端に必要なレジギガスを奪われ、はたまた邪魔者を取り逃がすという失態を踏んだシュラカは、もうこの世にはいない。
バラッドが崩れはじめようとしているキッサキ神殿の中、逃げて行った者たちが向かった方角を眺めたままボールを取り出した。
「バラッド様?」
数人残った部下たちが不安そうに声を上げる中、バラッドが読んだのは一匹のユンゲラーであった。
「団員の人数を増やすというのは、やはり不便なものですね。しかもそれが烏合の衆の集まりなら、たちがわるい」
「な、なにを仰っておられるのですか?」
一人の団員がバラッドへと近づき、いや、すがるようにして指示を求める。
「レジ系を回収したボールはありますか?」
「は、はい、こちらに!」
三つのボールを部下から受け取ったバラッドは、それを自身のホルスターへと収めて満足げに微笑む。
「「!?」」
そしてバラッドは含み笑いを浮かべたまま、瞬時に消えてしまったのだ。取り残される団員は、唖然とした表情だけをお互いに向け、上から瓦解してくる神殿の一部の下敷きとなる運命をたどるのであった。
そんなことが起こっているとはつゆ知らず、崩壊が始まっている神殿内部に未だ残っている連中がいる。深部までしか倒壊が進んでいないのか、アユミ達がいるところの震動はまだ微弱な方であった。
ゲンのガブリアスにおぶられたままのアユミは、モモによって連れ去られそうになったが、モモが突然ぴたりと動かなくなったため難を逃れた。静止したまま、さきほどまでアユミへと向けられていた関心が今は違うところへと向けられていたの
だ。
「キリン?」
モモはただ一直線にキリンの姿を見つめていた。さきほどカメールの技で吹き飛ばしてしまったキリンの姿を。
「アユミに手、だしてみろ。そしたらぜってーに、お前を殺す」
全身が水浸しになりながらも、キリンは立ち上がってはモモのことを睨み返していた。さきほどカメールで吹き飛ばされた時、キリンは即座にスズナを地面へと下していたために受け身の取れない体勢で攻撃を受けた。その分ためか、かなりの血
がキリンの頭にのぼっているのだ。
しかしそんな形相でもモモは動じることなく自分の脳裏によぎる、幼き日々の弟の面影とキリンを重ね合わせていた。すると、どうにもこうにも、合致するのであった。年齢も、容姿も、そしてなにより、モモの体が本能的に知らせていた。例え
キリンがその時赤ん坊だったとしても、モモにとってはかけがえのない唯一の身内にして弟なのだ。
その場にいる全員が、モモのことを怪訝な視線で追っていた。アユミをさらいに来たかと思ったなら、じっとキリンを見つめたままなのだから。そしてモモはキリンの方へと歩み寄っていく。それを機にガブリアスはカメールから一定の距離を取
るも、当のカメール自身、トレーナーからの指示がないために困惑していた。
「あなた、名前はなんていうの?」
「あ?」
突如として投げかけられる質問に、キリンは面喰らう。
「どうしてお前なんかに名乗らなきゃいけないんだよ」
「答えて!」
「っ!?」
敵対心をあらわにするキリンに対して、モモの奇声がそれを遮る。神殿の洞窟内でその声は反響しては残滓が耳の中で繰り返し拾われる。その声はどこか、切羽詰っているようにも聞こえる。
キリンはたじろぐも、アユミへとアイコンタクトを取ると、彼女は黙ってキリンへと頷いた。
「キリン。ミサカ キリンだ」
「ミサカ? それ、本名なの……?」
キリンの回答に、モモは一瞬ではあるがある種の安堵感を抱き始めていた。それは、本当にキリンが自分の弟だとしたらどうすればいいのかわからなくなってきていたからだ。さきほどまで弟に出会えたかもしれないという希望は、今では恐怖へ
とすり替わろうとしていたのだ。
「いや、ミサカは俺が孤児院でもらった名前だ。でも、どうしてそれを……」
「孤児院?」
「そうだよ、俺は両親に捨てられた孤児だ」
先刻抱いていた安堵感はどこへやら、まるで胸を打たれたかのように、モモは硬直してしまった。普段の彼女からは想像できないほどに隙のできたモモに、ゲンは警戒心をどの程度下げていいのかわからなくなる。
「キリンという名前は……?」
「なんでそんなことを聞くんだよ」
いくら脳が筋肉でできていると言われるキリンでも、さすがにモモの言動がおかしいことを悟ったのだろう。しかしアユミに促された以上、答えるしかなかった。
「キリンは俺の本当の名前らしい。まあ、どうでもいいけどな」
そう、キリンにとって名前などどうでもいいものだった。例え与えられたものであっても、仮初のものであっても、キリンはキリンなのである。自己で認識できるのであれば、そこまで名前にこだわる必要はなかった。それは彼が孤児として育ち
、自覚した現実でもあったからである。
「そういうお前は、誰なんだよ」
「私は……」
モモはしかし躊躇してしまった。
ここで自分がキリンの姉だということを言って、どうなるというのか? 信じてもらえないかもしれないし、そもそもキリンと離れ離れになったのは幼い頃の話であり、覚えていないのかもしれない。そう考えると、ここで姉であると宣言するこ
とが結果的にお互いを悩ませるだけなのではないか?
「私はトウリョウ モモ。八柱力の人間を集めにきた人間……だけど、今はあなたたちに協力するわ」
そしてそれが彼女にできる唯一の言い訳でもあった。
「信用できねーな」
キリンはしかし、まるで忌み嫌うようにしてモモを睨んでいた。それはけして身内へと向けられるべきものではない。しかしモモは酌まなければならなかった。
「それでいいわ。あなたたちも、それでいいでしょ?」
どっちみち現状は変わらない。
なぜなら、アユミ達には動かせる戦力がほとんど残っていない。ましてや負傷者と共に行動している。さきほどのモモの牽制から察するに、とてもではないが勝てる状況にはないのだ。
「仕方がないね。とっととここから出よう、話はそこからだ」
認めたくはないも、ふてくされたようにアユミがぶっきらぼうにそう告げる。
「ありがとね、お嬢ちゃん」
と、モモはウィンクをアユミへと向けるが、当の彼女はぷいっとそっぽを向いてしまう。その間に、キリンはスズナを再度背負う。
「それでは行くぞ」
ゲンがその場を仕切るように、走り出す。それを追って彼のガブリアスが続き、キリンと彼らのポケモンも続く。モモはしんがりを務めるべく、若干の距離をアユミ達とは保ちながら後に続いた。
それは彼らを逃がさないぞという意思表示でもあると同時に、しっかりと後方から追ってくる者を排除するに今一番適任しているのが身軽であるモモであるからだ。
しかしゲンが足止めの為に繰り出した【流星群】の効果はてき面だったらしく、それほどまでに追ってくるロケット団員は多くはなかった。しかしそれが指示していたのは、神殿内部での崩壊が過激化しているということであった。
「急げ急げ!」
「だー、死ぬのだけはごめんだぞ!」
「い、い、急ぐのだよガブリアス!」
前を走る三人を後ろから追うモモは、ただ一人キリンの後ろ姿を見守っていた。あそこまで成長していたキリンに、はっきり言ってある種の感動を覚えていたのだった。しかしそんな風に、感傷に浸っている場合ではない。
アユミ達が慌てているように、実際にすぐ後ろでは岩石が大きな音をたてて崩れ落ちてきているのだ。
「ちょっと、やばいかな」
もしキリン達が手負いのジムリーダーやそのポケモン達を担いでいなかったら、少しは余裕をもってこの洞窟からは抜け出せていただろう。
モモは多少の焦りを感じながら、カメールに指示を促しながらもう一つのボールを右手に握る。
甲羅の上で器用に滑走していたカメールは、モモが指示した通りに【冷凍ビーム】を放つ。大量に放出された放射物は洞窟の天井へと直撃し、少しでも瓦解してくる時間を引き延ばしていた。だがそれだけでは火力不足なのは一目瞭然であった。
「行ってきて、ダークライ」
そこで彼女が口に出したポケモンの名前。だがボールからそのポケモンが直接出てくる姿は確認できない。
神殿からの脱出が間に合わず、アユミ達の頭上から岩石が落下する。立ち止まり、上をただ眺めることしかできなかった彼らは、しかし次の瞬間に黒い渦のようなものを目撃する。それは岩石を飲み込んで、そのまま空中で霧散するのであった。
一瞬死を覚悟した彼らは、その光景に魅入られ、ほんの数秒間立ち止まってしまう。
「急いで!」
モモの怒号が飛び、それを合図に他の面々も足を動かした。今は何が起きたかよりも、ここから逃げ出すことが大切なのであった。
それから難なくして、彼らはキッサキ神殿の外へと出た。
立ち退きを命じられて避難していた民間人が彼らを遠目に捉えては歓声を上げ始めた。
「はあ、はあ、はあ……」
スズナを一旦地面へと座らせながら、キリンは盛大に肩で息をする。ゲンもかなり全速力だったのか、額に汗を浮かべていた。
「いいからここから離れるよ。悪目立ちするのはダメだしね」
モモの言うとおり、神殿の外で警備を行っていたロケット団員の数人がこちらへと近づいてきていた。このままでは捕まってしまう。
「しかしここから街に出るにも行先はあっちしかないぞ」
そしてゲンの指摘通り、野次が集っているところの向こう側がキッサキシティであり、背後にはキッサキ神殿が作られた岩盤が広がっている。
「キリン、大丈夫かい?」
「あ、ああ、なんとかな」
ガブリアスから降りたアユミがキリンの傍に寄り添い、気に掛ける。それをモモは傍目に確認しながらも、「任せて」と言うと向かってくるロケット団員へと歩いていく。
「お、おい!」
ゲンはモモの考えていることがわからない。そして、もし彼女がロケット団員と共にアユミ達を捕える可能性も否定できないのだ。
しかし目を疑うようなことが起きる。
突如としてモモの正面にいたロケット団員も、そして群がっていた民間人の野次馬までもがその場に倒れたのだ。一瞬にして起きた出来事にアユミ達は愕然としてしまった。
「なにをしたんだい、君は……?」
ゆっくりと振り返るモモの無邪気な笑顔に、彼らは新たなる戦慄を覚えるのであった。