VI:知らされる事実
3日。
事件が起きてから3日目なのかな。
誰も、家に帰ってこなかった……。
あの後、夜になってもお兄ちゃんもお母さんも帰ってこなかった。家にも連絡がなくて、夜が明けた。
あの時の着物のまま、2日が過ぎた。何も口にせず、何も飲まず、片手にはポケギアが握られたまま。見ればポケギアの充電は残り5%もない。
ガーディとシャワーズもずっと私の傍についてくれていた。ガーディが小さく鳴いて私の頬を舐め上げてくれる……でも、3日も水も何も食していないガーディの舌は乾燥していた。
シャワーズの肌も潤いを無くしてきているのがわかった。
わかっている。
起き上がらなきゃいけないことを。自分のしないといけないことを。わかってる。わかってる、でも、どうしようもない……。どうしようもないんだよ……。
まるで奈落に突き落とされたかのように、私は憔悴しきった体で横たわったまま。
外の様子もわからない。ただポケギアの電池が生き続ける限り、私はずっと待ち続ける。
もう誰からも連絡が入ってこないということを知りながら。
霞んでいく視界。遠のく意識。自分の呼吸の一つ一つが少しずつ衰弱していくのが聞き取れる。
手からこぼれおちるポケギア。密着していても感じることのないガーディとシャワーズの心拍。力の糸が切れたように崩壊していく体。
『…………お、にい、ちゃ、ん』
なんで最後にお兄ちゃんの顔が浮かんだのかはわからない。でも、それでいいんだって思った。
静かに、穏やかな時間が私を優しく包み込む。
これで私も皆のところへいけるかな……? ごめんね、カナ……。
「ルカっ!」
バンっ! という勢い良く玄関の扉を開け放つ音が弱っていく聴覚に激しく訴えかける。
バタバタと階段を駆け上がる音、開いていた自室の扉を抜けて良く知っている人物が入ってくる。
「ルカっ! っつ、くそっ! おい、大丈夫か?!」
お兄ちゃんの懐かしい声が私の意識を引き留める。私は、乾ききった瞳を潤して必死に舌と口を動かす。
「お兄、ちゃ、ん?」
がばっと私を強く抱きしめるお兄ちゃん。ガーディとシャワーズも弱弱しくお兄ちゃんを見上げる。
「悪かった……。今すぐこの家を出るぞ。準備、できるか?」
「え?」
ぎゅっと体にくいこんでいくお兄ちゃんの指がとっても暖かくて力強かった。
ただ私の体には力が入らない。
「俺は、あいつらに狙われてる……。リョウに、会っただろ? 悪い、今は説明している時間がない。これ、飲めるか?」
お兄ちゃんが学校に行く時に使っている大きめのボストンバッグからストロー付きのボトルを出してくれる。
私は小さな赤ちゃんみたいにストローの端を唇ではさんで前歯で固定する。頬に力を入れて、徐々にあがってくる液体を喉へと滴らせる。
不思議と、それを呑んだだけで枯れていた喉に潤いが、脱力した体に活気が、霞んだ視界に鮮やかさが、遠くなった聴覚に鋭さが舞い戻ってくるような気がした。
「これって……?」
「栄養ドリンクだ。チイラの実っていう珍しい木の実が少量使われてるって話だ。効くだろ?」
「チイラの、実?!」
「あ、ああ」
私はお兄ちゃんにしがみ付くように聞き返す。
これが、チイラの実の効果……。今、自分の体をもってしてその凄さが、伝説といわれている由縁がわかった。
「お兄ちゃん、これっ……」
私はもっと問い詰めようとした。でもお兄ちゃんは急いでいるようで、私の両肩を握って強い眼差しを向けてくる。
「いいかルカ、時間がない。今はガーディとシャワーズにそのドリンクを飲ませて必要なものを鞄に詰めろ。いいな?」
「え、でもお兄ちゃん……」
「頼む。言うとおりにしてくれ」
「……うん、わかった」
「悪いな」
お兄ちゃんはそう言って、私の部屋を出ていく。きっと自分の部屋に行ったんだろう、向こうの方で誰かと通話している声が聞こえてくる。
「間に合いそうですか? …………。わかってます、こっちも10分で準備できるんで。…………。はい、お願いします」
私はベッドから立ち上がってすぐさまガーディとシャワーズに同じドリンクを飲ませる。
人間用って言っていたのに、このドリンクは生き物であれば誰にでも効果があるみたい。掌に薄い水色の液体を出して、それを二匹の口元へと運んで舐めさせる。でもそれでそのドリンクは全て無くなってしまった。
「ガウっ!」
「フィ〜!」
二匹ともすぐに元気になって、私は二匹をぎゅっと抱きしめてからボールに戻した。謝罪と感謝の意を目一杯つぎ込んで。シャワーズもきっと悟ってたんだろう、それともカナから聞かされていたのかわからないけど抗う素振りは見せなかった。
私は急いで煤だらけの着物を脱ぎ払って、普段から身につけているラフな私服へと着替える。体は汚れていたし、三日間もお風呂に入っていないからすごく気色が悪かった。でも今はお兄ちゃんの言うとおりに行動しなくてはならない。
「あっ……」
着物を脱ぐ時には気がつかなかった。でもシャツを着ようとしてぐちゃぐちゃになっちゃった髪の上にはお母さんがくれた髪飾りに気が付く。
「お母さんっ」
私は全身鏡の前で奥歯を噛みしめて、もう泣かないように髪飾りを丁寧に下す。
そしていそいそと旅行用鞄(ボストンバッグみたいな、キャスター無しの)に着替えを詰め込んでいく。
ガーディ用のブラシやトリートメント。私もあんまり使わないけど買い溜めちゃった化粧用ポーチにポケギアの充電器、お気に入りのメディターブックレット(電子ブック)、お母さんの髪飾り、アクセサリー(髪留め、ゴム、ネックレス、ブレスレット、etc)、ガーディ用の薄いブランケットにその他諸々を収納する。
そしてアウトワーク用にスクールで準備するようにいわれたウエストポーチを腰辺りに装着する。
中には予備である空のモンスターボール5個、スーパーボール2個、ハイパーボール1個が入っている。そして記念のプレミアボールとお兄ちゃんが誕生日にくれたスピードボールが1個ずつ。傷薬が5個。なんでも治し(一番の出費……)が5個。カナがくれた木の実がざっと6種類各3個ずつ(持ち運び用に最大限に効果が得られていて尚且(なおか)つ持ち運びに便利なやつ)。トレーナーズカード(スクールの生徒全員に配布されるカード、いわゆるIDあるいは身分証明書)と簡単な治療用に使われるセットポーチが1つ。
ガーディとシャワーズのボールをウエストポーチの横についているホルダーへと装着する。
今ならシャワーを浴びたいって思うんだけど、無理だよね。
少しだけ自分の怠惰を反省しつつも、お兄ちゃんが帰ってきてくれたからこそ今自分がこういう風に自分を馬鹿にできるんだと改めて思う。
あれ、おかしいな……今になってほっとして涙が出ちゃいそう。
「準備、できたか?」
「うん」
お兄ちゃんも着替えたのか、普段休みの日に来ているトレーナー用の服に身を包んでいた。
そういえば、さっきは気付かなかったけどお兄ちゃんは制服姿の時、腕にけがを―――。
「腕の怪我は……?」
「あ、ああ、包帯で処置はしたから大丈夫だ。それより、もうすぐ迎えが来るぞ」
「え?」
私は荷物を全部持ってお兄ちゃんの部屋へと入る。
「ラルトス」
「らるぅー」
あれ? お兄ちゃんってラルトス持ってなかったのに。
というかホウエンのポケモンだよね? なんでこんなところに……。
「借りてるのさ。目印だ」
「め、じるし……?」
「ああ。そろそろだ」
ひゅんっ―――。
突如、ラルトスのすぐ隣にエルレイドとほかにそれと同じ翡翠色の髪をした女の人が現れた。
滅多にお目にかかれないポケモン達が一同に家の中にいることがすごい不思議だった。
「世話になります、ミツルさん」
「ううん。それよりも間に合ってよかったよ、行こうか」
あれ……?
「男の人?」
腰まで長く伸びた綺麗な翡翠の髪の毛に、つぶらな瞳とすっきりとした顔立ち。少し幼さが残るも決して童顔でもなく、中立的でいて透き通るような白い肌……。
「あ、うん。君がケンくんの妹さんだね? 僕はミツル。よろしくね」
「……は、はい」
「ラルトス、戻って」
「らる〜」
差し延ばされた手を握り返して、私はミツルさんの笑みに吸い込まれそうになる。
うわー綺麗な人……。でも、なんでこんなに髪伸ばしてるんだろう?
「ルカ、そのままミツルさんに掴まっておけよ」
「え?」
「捕まっといてくださいね、ルカさん。それじゃ、エルレイド頼むね」
「(こくり)」
ミツルさんの腕に手を回して、私は小さく頷く。
視界が一気に切り替わる。
これが【テレポート】?
私達が現れた場所、それは広大な研究室のような部屋。
たくさんの機械がせめぎ合っているのに誰一人他に見当たらない。ううん、ポケモンが一匹いた。お兄ちゃんが連れていたのとはまた違うラルトスが。
「ここは……?」
「ここはマサラタウンのオーキド研究所だよ」
「大丈夫か、ルカ?」
オーキド研究所。誰一人としてこの場所を知らない人間はいないだろう。なぜならここは歴史上において一番最悪で悲惨な事件が起きた場所なのだから。
「でも、なんで……?」
そう、私にはわからなかった。なんでここなのか。そしてなんで【テレポート】をしなければいけなかったのか。
お兄ちゃんは肩にかけた荷物をおろして、深々と腰をコンピューターモニター用の椅子へと下す。錆びついているためか、耳障りな音が鼓膜を刺激する。
「ルカ、お前はいつロケット団に襲われた?」
質問したいのはこっちなのに、なぜかお兄ちゃんから尋問される。
なんなのよもう、いろいろ聞きたいのはこっちなのに。でも答えないわけにはいかないから、私は口を開く。
「お正月だよ」
「っ……。やっぱり、そうか」
「なんなの? ねぇ、お兄ちゃんっ!」
お兄ちゃんは黙って立ちあがって、深呼吸をして私を向く。
「ロケット団が世界を掌握した」
「え……?」
ロケット団が世界を掌握した……? それってつまり―――
「ああ。この国は、ロケット団に乗っ取られた。たったの3日で、世界は変革した」
お兄ちゃんの言葉が私に覆いかぶさってくる。
ミツルさんの方を向けば、彼も沈痛な表情で床を見つめる。拳をぎゅっと握っているのがわかった……。
私がベッドに横たわって衰弱していた3日間の内に、世界はロケット団に乗っ取られていたのだ。
第一章:完