V:手にした希望と絶望
「送ろうか?」
「いえ、結構です。ありがとうございました……」
「そうか、いいのか?」
「はい……」
無気力にそう返す。
私はシラヌイさんの好意を断って、歩き出す。ハナダ病院を背にして、重い足取りで一歩一歩進んでいく。
右手にかろうじて持ち運べるボロボロの紙袋にカナのベリブの実を入れて、左手には私とカナの巾着が揺れる。
草履がアスファルトの道路を擦る。歩くたびに削られていく草履裏の木屑みたいに、私の心がどこかへと擦り減って置いてかれる。
喧騒と鳴らされるパトカーのサイレン音やネオンをよそに、行き交う人々の波にも呑まれずに私はとぼとぼとその重く遅い歩行を続けて、ふと顔を右方へと向ける。
見えるはハナダジム、そしてカナの家。
「カスミさん……」
そう呟きながら私の足は不意にカナの家の方へと進んでいく。
道中の記憶などなかった……。ただ機械的に家のベルを鳴らして、誰かが現れるのを待つ。
「ルカちゃんっ?! ルカちゃん、無事だったのね! 良かった、良かったっ!!」
サクラさんが扉を開けて私の姿を見るなり、涙を両目に浮かべて抱きついてくる。
「サ、クラさ、ん……。う、うあぁ、ぁっ」
私は泣いた。
わからない、でも両頬が熱くて、目を開けてられなくて、胸の奥から湧きあがってくる熱が溢れるように顔から放出される。
「カナは? カナは大丈夫だった?」
サクラさんから優しく問われた質問に、私は答えを躊躇ってしまう。
「手術が終わったって。でも、会わせてもらえなかった……」
「……そう。ありがとう。上がっていく?」
「で、でも……」
「少しだけ、カナの話も聴きたいし。カスミはジムリーダー達の招集とかで街を出てったままだし……」
言いにくそうにサクラさんが口を紡ぐ。
「……はい」
断るわけにはいかなかった。だって、サクラさんはカナのお姉さんなんだもん。家族、なんだから。
普段ならカナの家に上がっての第一声は「すっご〜い」の連発だったのに、そんな気持ちは微塵も浮かび上がってはこない。
居間の方へと通されて、ボタンさんが電話越しに「はい、はい、わかりました……」とか細い声で話している声とソファに座り込んで頭を抱えるアヤメさんが視界に入る。
「ルカ、ちゃん……?」
アヤメさんが私に腫れあがった瞼越しに見上げてくる。私は、直視できずにわずかに目をそらしてしまう。
カナの親友ということで私はハナダジムのテンドウ四姉妹とは仲良くしてもらってる……。でも、今は逆にそれが辛い。むしろ他人であって、見ず知らずの関係だったらと考えたくもない方向へと思考が移っていく。
私はソファに座らされて、温かいココアを出される。
ゆっくりと掠れる声で私は話しだす。カナとお参りしたこと、デパートで買い物をしたこと、そしてその時起こったことも……。
話をじっと聞いてくれた三人はそれでも、泣かずに私を見守ってくれた。
「そう……。ありがとうルカちゃん、話してくれて」
「……ううん」
もう誰とも視線を交わすことなどできなかった。俯いて、着物の裾をぎゅっと握る。爪が着物の生地に食い込んでいく。流したい涙も枯れて目頭がただただ熱気を帯びていく。
「カナの、カナの部屋に行って、いいですか?」
絞り出す声に、誰も最初は反応してくれなかった。でもボタンさんが「うん、いいよ」と声をかけてくれた。
私はこの場から逃げ出したい気持ちに駆られながら、よたよたと居間を抜けてカナの部屋の前へと歩いていく。
ドアノブを回して、カチャという音が静寂を支配する。
カナの部屋にはいつも通り、今までに集められた木の実の標本がケースに保存されたのが並べられている。まるで可愛げのない部屋だけど、それがテンドウ カナミという人間の性格であることも理解していた。
小さいものから中くらいのものまで、きちんと整理されて部屋中に置かれている。
私は一歩一歩、部屋の中心へと歩み寄る。
そして私は前方に倒れる。体の前面が跳ね上がり、バネの軋む音を反動に私は冬布団の厚い毛布に受け止められる。そして彼女の匂いが鼻腔へと侵入し、生身の彼女が傍にいるんではないかと錯覚する。
横目を開いて見るカナの部屋は、本当に綺麗だった。でも触れてしまえばもう壊れて粉々になりそうなほどに繊細だった。この場所を残しておかなければならない……。カナの居場所なんだから。
勉強机へと目が移り、ふと視界に一つの大学ノートが目に留まる。
カナの机の上に並べられる教科書やノートの中に、背表紙に夢日記と書かれたものがあった。
『あ、そういえばカナは初夢どうだった?』
『え、私……?』
ハナダ神社で会話した内容が頭の中で蘇る。
『私は……夢見なかったよ』
『そうなの? 私はねー、ピジョット二匹に―――』
カナは言った……夢を見なかったって。でも、あの時見せた表情が引っかかっていた。
起き上がり、恐る恐る私は机へと近づいて震える指先がカナのノートに触れる。
引き出すように、私は夢日記と油性ペンで題されたノートを手に取りゆっくりと表紙を捲る。
『12月12日 モモンの実
ケンさんと一緒に公園で腕相撲をする夢。なんでか知らないけど私が勝っちゃった。えへへ。』
『12月13日 白ぼんぐり
今日は夢、見なかったな。疲れてたのかな? あ、もしかしたら昨日カスミお姉ちゃんと一緒にジムのプール掃除手伝ったせいかも。』
『12月14日 マトマの実
なんだか今日は良い日になりそう。ルカちゃんがカードを取り換えてくれて、組み合わせでケンさんと一緒になっちゃうんだ。きっとあの授業でなるのかな。』
短い行に書きこまれたカナの文字。
私は一つ一つを目で追いながら、今日の日にちが書きこまれたところを見つける。
『1月1日 チイラの実
怖い夢を見た。ルカちゃんと一緒にお買いものしてたら、目の前が真っ暗になっちゃう。自分の視点のはずなのに、私はベッドの上にいていくら待っても何も喋ってくれない。今日はお正月なのに、嫌な初夢。正夢にならないといいな。だって今日はルカちゃんと一緒に初詣にいくんだから。』
最後の丸の上に、私の涙が落ちる。
なんで……なん、で………?
信じられなかった。
枯れたはずの涙が、またも滴る。
自分が何を感じて、何を考えているのかもわからなかった。ぐちゃぐちゃだった。吐き気がした、目がくらんだ、頭が痛い……? 違う、もっと嫌な感触。
カナは知っていたのかな? それでも、何も言わないで……?
『ルカちゃん……私に、何かあったらシャワーズをお願い』
だからなの? だから、カナは最後にあんなことを言ったの?
カナは知っていて、でも私のわがままに付き合ってくれて、私を庇ったの?
握るノートがくしゃ、くしゃと音を立てながら変形することすら私は気付かずに胸を嫌な怖気が襲う。
『ごめんね、ルカちゃん……。私は、私はルカちゃんのことが大す―――っ!!』
カナが残した一言一句の全てが頭の中で再生される。
ごめんは私の方なのに。謝らなきゃいけなかったのは私の方だったのに。
ノートを強く胸に押し当てて、私は嗚咽をこぼしていく。
ぶら下げていた巾着からボールが一つ顔を見せる。
『シャワーズ』
そう、シャワーズの入ったボール。
カナからのお願い。それは今、形として私に託される……。
ぶれる視界、その中からまたしても目に入る背表紙の文字。
全木の実大百科。
それは私がカナに付き合って書店で買ったことのある本。
重い重いと言っていたカナのことを思い出す。でも、なんで気にかけるんだろう……気がつけばその大百科に手をかけていた。
パラパラとページをめくり、たどりつく一つの木の実。
【チイラの実】
カナの今日の日記に書かれていたチイラの実。
その説明文に目を通す。
【大海の力を秘めしチイラの実。大海の加護を受けしこの木の実は滅多に人前に姿を現さない。この実は食した人間、あるいはポケモンに癒しを与える。どんなひどい怪我も、重篤の病もこの木の実を食すことで完治すると言われている。伝説の実であり、出現場所は幻島と言われている】
一語一語を読み取る。
チイラの実。
幻島。
伝説の木の実。
夢見事だとはわかっている。でも、もし本当にそうだとしたら……。
カナが私を庇って受けた【毒針】は背中に深く刺さっていた。
あれは背中から刺さっていた。となると恐らくカナは手術が成功しても植物状態。このままだったら一生目も開けることなく、歩くこともできない。でも、この木の実さえあれば―――。復活しないと言われている神経を、取り戻させてくれるかもしれない。
私は自分の足全体に血が流れていくのがわかった。自分の意志で、今自分は立っている……。
この木の実を取りに行くために必要な足が。
待っててね、カナ。
私はカナのノートと大百科をもとの位置に戻して部屋を出る。
サクラさん達にお礼を言って、私は家を出る。ちゃんとベリブの実をカナの机の上に置いて。
自然と足が速くなっていた。自分の家へと帰る足が駆け出して行く。
時間はもう夕方へと差し掛かっていた。街中はサイレンや行き交う人々の姿でごった返していて、帰ってくるのにも一苦労だった。
あれ?
家の鍵を取り出してドアを開けようとすると、ノブを回しただけで扉は開いていく。
もう帰ってるのかな?
「ただいまっ!」
だけど何の返事も返ってこない。お母さんもお兄ちゃんも帰ってないの?
ふと、嫌な予感が自分の中で増幅する。
「お母さん?! お兄ちゃんっ?!」
大声を出してみるも、家の中は無音。
ポケギアを急いで取り出す。衝撃には強い為、あんなことがあった後でも使えるからこそ頼もしい。
お兄ちゃんにまずは電話。
でも、繋がらない……。
次はお母さんに。
コール音が耳元で繰り返されて、誰も出ない。
「なんで……?」
玄関で立ちすくむ。
もしかしたら、お兄ちゃんとお母さんも被害にあったの……?
嫌な汗が私の肌をなぞっていく。
希望の糸を手繰(たぐ)り寄せたと思っていた。でも、違う糸が途切れそうになってしまう。
あ……。
突然、体が震えだす。
私は自分の部屋に駆けこんで、ベッドの上に潜りこむ。
着物が汚いとか、そんなことはみじんも頭をよぎらない。
両腕を抱えて、体の震えを抑えようとする。でも、次から次へと悪い妄想が勝手に浮かび上がって不安に蝕まれていく。
いや、いやぁ、いやだ、いやだよ、早く、早く帰ってきて。誰か、帰ってきて。
すると勝手にガーディとシャワーズがボールから飛び出す。
「グゥゥ」
「フィー……」
ガーディとシャワーズは私に寄り添う。ガーディは私の胸あたりで。シャワーズは私の背中で首をのせて。
「う、うぅ……」
ガーディの落ち着きの温もりとシャワーズの癒しの涼しさが私の傷ついていく心を優しく抱擁してくれる。
それが嬉しくて、自分が情けなくて、今が怖くて、私はまた泣いた。そして泣き続けた。
それでも体が震えるのを止めることはなかった……。