III:私の知らないこと
全木の実大百科より:
【この世に存在する伝説の木の実は五つ。
大海の力を秘めしチイラの実。
大陸の力を秘めしリュガの実。
大空の力を秘めしカムラの実。
全生命の力を秘めしヤタピの実。
世界のあらゆる謎を秘めしズアの実。
すべての実を食し、受け入れられしポケモンこそ真の王者とならん―――】
全木の実大百科より抜粋
天井が崩れ落ちてその下敷きになるカナの姿が脳裏に過(よぎ)ってくる。
カナの顔が徐々に恐怖一色へと変わっていくのが鮮明に確認できる。
一瞬の出来事が、なぜか長く感じる。
いやだ、イヤだ、嫌だ……!!
「ウィンディ、【神速】!」
え……?
突如として私の後ろで声が聞こえてきた。それは凛とした透き通るような声で、同時に私の横をなにかが疾走していった。
瓦礫がカナの上に降り注がれる直前、大きな影がカナへと覆いかぶさる。そして暗い視界の中、カナの姿は完全に立ち上る土埃に隠れてしまう。
「カ、ナ……?」
瞼が大きく見開き、瞳孔は開いて焦点がぶれて揃わない。
ひしひしと絶望という名の二文字が心で膨れ上がって理性が失われかけようとしたとき、頭の上に温かな感触が伝わってくる。
「大丈夫よ。ありがとう、ウィンディ」
隣で指示を出していた大人の女の人。
私より若干背が高くて、長いコートを着ている。髪は被った帽子のせいと、コートの中にも隠れている為にどれほど長いかはわからない。
顔はやっぱり見えなくて、影を落としている。
その人のウィンディが忽然と姿を現して、口にカナの服を咥(くわ)えて戻ってくる。
「カナ!」
「ル、ルカちゃんっ……!」
私はウィンディからカナをあずかって、カナを強く抱きしめる。
「あ、ありがとうございますっ!」
私は女の人に振り返ってお礼を言う。
「いいのいいの、私も助けることができたから」
私にはその人が言っている意味はわからなかった。でもカナは一人その人に顔を上げて「え?」と、ちょっと驚いた風な声を出す。
「どうしたのカナ?」
私はカナがどこか怪我をしたのか心配して声をかける。せっかくの着物は埃だらけで台無しにはなっていたけど、その厚い生地のおかげで表立ったけがはしてなかった。
「う、ううん」
そうは言ってくるカナは、でも、ウィンディの顔を撫でて癒している女の人から視線を外さない。
ドオン!
そして、もう何発目になるかはわからない衝撃。それによってデパートの床がまた揺れる。
「きゃあっ!」
「ルカちゃんっ!」
「嘘っ……ここで、終わりじゃないの?」
女の人が状況を冷静に判断して、少し戸惑いながらウィンディへと目配りする。なにか指示を出しているみたいだけど、上手く聞き取れなかった。
そして突然、足場が失われる。
ビル全体が崩れたのだ。
床の崩壊。壁の倒壊。人の落墜。
声も出ない程のいきなりの浮遊感。私が唯一認知できる感触はカナに触れる手と手のつながり。
「二人共、ウィンディに掴まって!」
「「えっ?」」
戸惑い、何もしない私達の腕と手を引っ張ってウィンディの背中の毛にしがみつかせられる。
「離さないでね!」
「「っ、は、はい!」」
見えるのはコンクリートの瓦礫が崩れていく様。でも女の人は冷静にウィンディに掴まって、ウィンディは崩壊するビルの瓦礫に飛び移っていく。
カナのベリブの実が入った紙袋が奈落へと落ちていくけど、今はそんなことを気にしている場合ではなかった。
「サーナイト、【サイコキネシス】!」
物凄い早業でボールからサーナイトを出して、サーナイトの【サイコキネシス】が落ちていく瓦礫全てを念で凝固させる。つまり、吹き飛ばされたコンクリートの破片が集まり巨大な足場を作ったのだ。
私達以外の人たちもサーナイトによって形成された平たいコンクリートの足場に念によって回収されていく。
足場はどんどん上昇していき、十数秒もしない内に最上階の方へと押し上げられていった。まるでエレベーターのように。
「シャワーズ、【冷凍ビーム】」
そしてウィンディをボールに戻し、シャワーズを取りだした女の人はサーナイトが念で固めていた足場を下から氷漬けにしてしまう。
崩壊していったビルの残骸が氷によって凍結され、巨大な足場として精製されていく。そのできあがった姿はまるで天に向かって咲く一輪の花のようだ。
「す、すごい……」
私から漏れるのはそんな言葉だけ。
一匹のポケモンがこれほどまでの力を持つことなんてありえるの? ううん、こんなのバカげてる。そう呆れてしまうほどに、この人のポケモンは並みではなかったんだ。
「うそっ……そんな―――」
でも一人、カナだけは余計に混乱したように助けてくれた女の人を見上げる。そしてその人のシャワーズへと視線を移す。
私とカナはウィンディから降りたけど、腰が抜けて足場でぺたりと座りこんでしまう。
「戻ってシャワーズ、サーナイト」
サーナイトは黙礼を、シャワーズは甲高く1回鳴いてボールへと戻る。
あれ?
「そろそろ、時間か……。気をつけてね、二人共」
深く被らされた帽子からは口より上が見えない。でも、その女の人の体からは光の粒子がぽわーと浮かんで透けていく。
「あ、待って、名前をっ!」
私が咄嗟に腕を伸ばして女の人にしがみつこうとしても、女の人は微動だにせず口を微笑ませて動かした。
それが私に向けられたものではなく、カナに向けられたものであったことはすぐにわかった。
なぜなら、カナはその唇の動きを見ただけで涙を流したのだから。
そして女の人はウィンディと共に消えてしまった。彼女の痕跡など一つとして残すことなく。伸ばした手はただ空を切る。
消えた……? そんな、でも、どうして?
さまざまな疑問が頭を逡巡する。でも、それよりもカナがなんで泣いているのか、その原因を確認しなきゃ。
「カナ、どうしたの? 大丈夫?」
カナは「うっ、ひっく」と涙を喉の奥で殺して、私を見上げる。
私へと伸びるカナの手は、震えていた。
「カナ?」
私はカナの顔へと覗き込む。
親友の顔はなんでか安らかで、なにかを悟っているみたいで、そんな彼女の表情を初めて見た私は何もわからずに硬直してしまう。
「ルカちゃん……私に、何かあったらシャワーズをお願い」
そう言いながらカナは私の袖の中に自分の巾着を押し込んで、まるで懇願するように訴えてきた。
「え? カナ、何言って―――」
「ごめんね、ルカちゃん……。私は、私はルカちゃんのことが大す―――っ!!」
カナが何かを抑えるように口から必死に絞り出す声を私は聞き届けることができなかった。カナの目が大きく見開き、終えることのない言葉は押し殺された空気となって漏れる。
親友はゆっくりと私の胸の中へと倒れこんでくる。
彼女の涙が宙に滴(しずく)となって残されて、零れていく。
「カナっ?!」
カナの倒れこんできた上半身を受け止めながら、私はカナの肩を持ちあげて顔を覗き込む。目尻に涙を溜めて、閉じてしまった彼女の瞼は開かない。
「カナっ……?」
私は恐る恐る彼女の背後へと目を向ける。
するとそこには太い針のようなものが二つ、カナの背中に突き刺さっていた。
「なにーや、仕留め損ねたんか……」
そして冬空の寒い外風と共に私の耳に流れ込んできたのは、とても馴染みのある声だった。
私は声のする方角を、信じたくない予感と共に見つめる。
すると、そこには一人の黒尽くめの青年が立っていた。彼の足元には一匹のサンドパンがこちらを睨んでいる。
私とカナ以外の生存者の方へと振り向くと、彼ら全員も倒れ伏していた。
視線をすぐさま黒尽くめの青年へと戻して、震える唇が勝手に動き出す。
「リョウ、さん……?」
私の声が聞こえたのか、いつもの無垢な笑みで私へと向くリョウさん。
「ああ、そげそげ。久しぶりだの、ケンケンの妹。さすがって言うべきかいな?」
普段とは違う口調。黒い何かに満ちた、深い声……。それは私の心に重くのしかかる。
「なんで、まさか、リョウさんが……?」
リョウさんの着るブーツ、ズボン、コート、帽子、すべてが黒い。そして、上半身に着ているシャツには大きなRの赤文字。
見たことのない井出達(いでたち)と風貌に、私には更なる混乱と困惑しかおそってこない。
「ああ、こーも任務なんだがん。悪うおもーなよ。大丈夫、死にはせんけん……ただ、一生をベッドで過ごすだけだけん」
見開かれていないリョウさんが私の方へと腕を伸ばす。
リョウさんと私の距離は約20メートル。でも伸びている腕は私に向けてではなくサンドパンへの指示の為に突き出されたものだった。
「やれ、サンドパン。【毒針】だ」
「サン」
サンドパンが攻撃態勢に入る。それを私は自慢の視力で見極めてしまう。
私はカナの背中に気を使いながら、サンドパンから射出される【毒針】を横に転がって避ける。
「ひゅー。なにぃや、瞬間診察はそういう使い方もできーだな。やっぱりわが倒さんといけん奴け」
恐らくリョウさんは私の瞬間診察を考慮して離れているのかもしれない。
「でも、なんでリョウさんがっ!!」
リョウさんはその微笑みを崩さずに、サンドパンを後退させる。
「ケンケンには借りがあーけーな、教えたーわ。わらはロケット団。この世界の支配者だ」
リョウさんがきっぱりと言い切る。
普段なら、普段のリョウさんからの言葉がそれだったら皆が皆冗談だと思って笑い飛ばすだけなのに……今の言葉は私の胸にぐさりと突き刺さる。
「ま、もしケンケンに会えたらよろしく言っといてーな」
何か意味深に私に告げるリョウさん。
「どういうことですか……?」
「いんや、別にどーもせんけん。それに聞いてーやろ? 最近各地で起こってる不可解な事件……そげは全部わらの仕業だけん」
カナの言葉が脳裏をよぎる。
最近起こっている集団犯行。それが全部全部リョウさんの言うとおりだとしたら、犯人はロケット団……リョウさん達。
「何が目的なんですか」
「聞いてなかったんか? わらはこの世界を支配する」
本気だった。
リョウさんの声は本気だった。
私の額を一縷(いちる)の汗が伝う。
全身からは嫌な汗が湧き出て、着物がぴっちりと肌にくっついて重い。
「わの任務は邪魔者の排除。だけん、ここに来た」
リョウさんがサンドパンをボールに戻して、入れ替えるようにサイホーンを出す。
私の実力だと、リョウさんには敵わない。そして戦いたくもない。
「しかしこないなことになっとったとはのー、びっくりしたが」
わからないよ、わからないっ!
なんで、なんでこんなことになってるの?!
「サイホーン、【火炎―――ん?」
サイホーンの口中で火花が上がり、それが空気と交わり一気に炎となって燃え上がる様を見届けながらそれは避けれないと察する。
でもリョウさんが途中で言葉を切る。耳にイヤホンがついていたのか、それに指をあてて眉を若干しかめる。
「ちっ。わーたわーた、もどりゃーいいんだが? どーすっだ、ほっとけ? ちっ、わーたわーた」
悪態をつくリョウさんを私は初めて見るかもしれない。
「じゃーな、ケンケンの妹。運が良いってのはこういうことだが……。サイホーン戻れ、プテラっ!」
リョウさんはプテラを出して、そのまま肩を掴まれて飛び去ってしまう。その時に彼が見開いた細い眼は、私のことを恨めし気に睨んでいた。
そうして私は取り残された。単なる偶然なのかどうなのか、私はただ一人【毒針】を免れた。
灰色の雲から降る雪が、今はとても切なく……冷たかった。
私はその場にへたり込み、冬の寒さと恐怖に震えながらどんどんと冷たくなっていくカナの手を握っていた。
わずかに伝わるカナの鼓動は、私を硬直させた。
「カナっ……」
私はカナを護れなかった、の?
一粒の涙がぽろっと目から落ちて、雪の結晶と混じりながら氷で覆われたコンクリートに溶け込んでいく。
耳に届けられるのは、ヘリの旋回音。それとやかましいサイレン音が冬の大空に掻き消されていく不可解な雑音だった。