第86話 世界と言う名の
記憶にない過去の映像を見せられるカエン。それは確かに自分の記憶であり、それでいてまたどこか別の誰かの記憶のようにも感じる。全てが明かされる今、なにを思うのかー
私は今、どうしている?この声は誰のもの?なんで視界が歪んでいるの?
わからない。ああ、わからない。
どうして私の友達は目を閉じているの?どうして呼びかけても答えてくれないの?
___どうしてこんなに冷たいの?
「あああぁぁぁぁ……あぁぐっ、うぅ、ぁぁぁぁああああああ………」
ぐちゃぐちゃだ。頭の中ぐちゃぐちゃだ。信じられない。信じたくない。どうしてヒトカゲが死ななきゃいけないんだ。
「うぅ…ひぐっ、うぐぅぅぅ………あああああああぁぁ……!」
私はどうなってもいいと思ってた。この場所に来た時から、希望や夢なんてものは捨てた。考えるだけ、虚しかったから。
でも、ヒトカゲは違った。
ボロボロになりながらも、笑った。辛くて痛い時も、虚しくて悲しい時も、彼は夢を語ることをやめなかった。私は、夢のある彼を羨ましく思った。彼の夢のためなら、私は自分を捨てる覚悟さえあった。……夢も何も無い自分なんかより、彼に生きていて欲しいと思ったから。
「ふぅぅ…ぐっ、くっ………うっ………………」
それなのに、生きていて欲しい彼は死んでしまった。何もない、空っぽの私だけが生き残ってしまった。
残された私はどうすればいい?あなたのように希望を持っているわけでもない。夢があるわけでもない。やりたいことも、なりたいものもない。ただここで朽ち果てていくだけだと思っていたから。
「うっ………うぅ……くっ…………」
こんな世界に、あなたは何を望んでいたの?何が見えていたの?
私は光なんて見えない。あなたがかわいいと言った花も、美しいと言った鳥ポケモンたちも、私は何も感じることができない。
この醜くて最悪で反吐が出るほど穢れた世界なんかに、私は魅力を感じない。
「…………………………………………………………」
突っ伏したまま動けない。顔をあげようとも思わないし、何も考えようとも思えない。もういっそ、私という存在が朽ちて尽きるまでこの場所にいたいとも思った。
だけど、そんなこと下衆が許すはずも無かった。
「いつまで寝てるんだ!早く起きてこい!」
突然怒声が響いたかと思うと、ボロ小屋の扉が勢いよく開かれた。そいつは部屋の中を見渡して、動かないヒトカゲとそれに突っ伏したまま動かないカエンを見て、不愉快に笑った。
「チッ、死んでんのかよ。あーめんどくせえな…。死体どうすっか」
そいつは無造作にヒトカゲの屍を掴んだ。それをさせまいとカエンがヒトカゲを掴む。
「いったい何を…するつもりなのですよ」
「決まってんだろ。処分するんだよ、処分。ほっときゃ腐っちまうし、邪魔だからな」
無造作に払われたカエンは、今までにないほど黒い感情を抱いた。夢を捨てなかった彼を。自分に笑顔を教えてくれた彼を。
___生きれ、と言ってくれ彼を。
ソンナ無礼二扱ウナ
カエンは驚くほど大量の"つるのむち"を出し、それぞれを螺旋を描くように丸め、勢いよく撃ち出した。
背後からありとあらゆる場所に衝撃を受け、前のめりに倒れこんだ。
「ぐっ!?…なにしやがんだ!こ…の…」
振り返れば、ゆうに五十を超える鋭利な刃の数。"はっぱカッター"は容赦なく切り刻んだ。
「あ…………が………」
「死ネ」
「は………?」
「死ネ」
「ヒィッ………!!」
「死ネ」
「い、嫌だ!」
「死ネ」
「だっ、誰か!助けてくれ!」
「死ネ」
「やめろ、やめろぉ!」
「死ネ」
「くっ、来るなぁ!」
「死ネ」
「死ネ」
「死ネ」
死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ。
「あぁっがぁ!ぐぁっ!ぎゅっ!?ぐぎぃ、があああああああああ!!!」
何度も、何度も殴りつけた。自分に拳と言えるものはないから、"つるのむち"で持ち上げた石を叩きつけた。"はっぱカッター"で斬り付けて、斬り刻んだ。
今まで体に刻まれてきた全ての傷と痛みの分だけ、そいつに教えてやった。
歯を折り、目を潰し、鼻を砕き、鼓膜を破り、耳を千切り、指を捻じ曲げ、少しずつ確実に痛めつけ、自分の気が済むまで私刑(リンチ)を続けた。
そいつが生きてるかどうかなんてもう関係ない。ただただそいつを捻り潰してやりたかった。
私刑の(リンチ)が終わる頃には、そいつは見るも無残なポケモンではない別の何かになっていた。
それでもまだ足りない。完全ではない。
次にカエンは、油を家人の家に撒いた。そこらじゅうに振りまき、入り口は特に重点的に振りまいた。そして火を放ち、家人の家は勢い良く燃え上がった。中からは「熱い」とか「何これ」とか混乱の声が聞こえてくる。逃げる者が誰もいないように巡回して、窓から逃げようとする者は"つるのむち"で掴んで叩き落とし、まだ轟々と燃え盛る炎の中に突っ込んでやった。
「アハ…アハハ………アハハハハハハハハハハハハ、ハハハハハハハハハハ!!」
ふと、カエンの中に声が響いた。
『だからなんだって言うんだ』
その言葉を聞いた瞬間、カエンはその場に脱力した。目の前に燃える炎は、自分の罪だと気付いた。
「あ………あ………わ、私は…何を……?」
その場所に響き渡る悲痛な悲鳴。覚えてる形とは全く違う形になっている家人の家。夕日よりも赤く紅いその光景はカエンの心を奪った。
黒い感情に呑まれ、自分がわからなくなっていく。足の感覚が消える。手の感覚が消える。体に感じる熱さが消える。視界に映る世界が消える。全てが黒に染まる。
納得いかなくて破壊して、残ったものは何?私が欲しかったものなんて一つも残ってないじゃないか。
………それでも、破壊するしかなかった。破壊したかった。私から何もかもを奪ったこんな場所を。得るものも失うものもない。欲しかったものも、とうにない。
こんな空っぽで破壊しかできない私なんていなくていい。夢も希望も、未来さえも諦めた私なんていらない。
「…………………終わらせるには、いい具合なのですよ」
ふと、私の体が動き始めた。目の前の灼熱の炎に向けて。
ああ、私のココロの答えとカラダの答えが一致したみたい。ヒトカゲ、待っててほしい。私もすぐ、そっちに行くから。
一歩、また一歩と熱が増す。しかし、それすらももう感じない。あと一歩踏み出せば、盛る炎熱の中。さようなら、私。さようなら、世界。今会いに行くよ、ヒトカゲ。
無機質に足を踏み出すと、突如としてそれを遮る者が現れた。
「待って!」
私は驚いてその身を硬直させた。他の誰でもない、間違えるはずのない声。その声をたどって振り返ると、そこには半透明になったヒトカゲが浮いていた。
「ダメだよ、そんなことしちゃダメだ、カエン。キミはまだ生きてるんだから」
そこにいるヒトカゲは、生前の彼のように流暢に話す。声も同じ。違うのは、すでにこの世にいないこと。
「な…なぜ…?ヒトカゲ、なのですよ?どうして、ここに?」
「さあ、なんでだろう?でも、ボクはキミとまた会えたことが嬉しいよ。それがどんな理由であれ、ね」
ああ、元気だった時の彼と同じ。夢ではない。
「ヒトカゲ……私を、私を見ないでください。私はもう、あなたの知ってる私ではないのですよ。私は…変わってしまったのですよ。何もなかった無色から、闇より暗い黒色に。あなたはもう私と話しては、いけないのですよ…!」
「カエンはカエンだよ。例え何があっても、ボクはキミを信じる。絶対に見捨てたりなんかしないよ。ほら、キミのどこが黒いの?キミの体はボクが知ってる時から何一つ変わってない。キミの身体は見るだけで力強さが伝わってくる緑と、全てを見抜いてしまえそうな赤い瞳。黒なんてどこにもないじゃないか」
「…………………………………………」
なぜこんなことをヒトカゲに話しているのだろう。こんな私を見ないでほしい。みっともなくて、卑怯で、逃げ出そうとした自分なんか、信じられていいものじゃない。
「私を…見ないでほしいのですよ」
「ねえ、カエ___
「うるさあああぁぁぁぁああいい!見るな!私に話しかけるな!私を見るなぁ!消えろ!消えろ、消えろ!消えろ消えろ消えろ!ヒトカゲは、死んだのですよ!私に笑いかけて!最後はとても悔しそうに!死んだのですよ!ヒトカゲは私に世界を見てほしいと言った!でも!私はそれを捨てて命を断とうとした!そんな…私なんか!約束一つ守れない私なんか…あなたに見られる…価値も…ない……!」
狂ったように叫んだ後は、後悔と自責の念が降り注いだ。
最低だ。私、最低だ。ヒトカゲの願いさえ聞かずに、挙句あんなに助けてくれたヒトカゲに最低な言葉をぶつけた。
「ごめんね、ボクが隣にいたせいで、今キミをこんなにも悩ませてしまっている。最初からボクさえいなければ、キミはこんな風にならなかったのかもしれない」
「え………?」
涙さえ出ない薄情な顔を上げると、ヒトカゲはカエンの額に手を当てた。
「待って、それは全然違うのですよ。あなたがいたから、私は………」
「キミはボクからいろいろなものを貰った、って言ってたけど、ボクはそんなもの渡してないよ。それは最初からキミが持っていたものさ。ボクはそれを引き出すために、ほんのちょっとだけ手を貸しただけ。だから、その感情は正真正銘キミのものだ」
「私の…もの………?私が、持っていた…?」
「そうだよ。ボクはキミの感情を引き出す手伝いをしただけ。後は全部、キミ自身の力、キミ自身の意思で培ったもの。それをボクの手柄にする必要はない。全部、キミが手に入れただけ」
「そんなことは………」
返す言葉が見つからない。私のもの?いつから?どの時から?結局のところ、ヒトカゲがいなければ私の感情は無いままだった。それなのに、それなのに。
「もうすぐでキミはボクのことを全部忘れる。この忌まわしい記憶は、ボクがボクと共に別の場所に連れて行こう。もうキミが思い出さないように、悲しい過去を思い出して立ち止まらないように、キミが前だけを見て生きていられるように」
「なにを…するのですよ!?そんなことをしたら、私はあなたのことを忘れてしまうのですよ!」
カエンはその手を振り払おうとするが、虚しく空を切るだけだった。
「もう、忘れていいんだ。ボクがキミを縛る枷になってしまうのは、キミがボクを忘れてしまうより悲しいことだから。さあ、これでキミは自由だ。いろんなところに行って、いろんなものを見てほしい。その失った右目を、また見えるようにしてあげる。それが今のボクにできるキミへの最後の贈り物だよ。そしてこれが、ボクの、キミに対する最後のお願いだ。どうか、生きて。キミが終わってしまうキミの最後まで、『幸せだった!』って、叫べるくらいに幸せになって。いい?約束だよ」
ヒトカゲが最後に見せた笑顔は、悲しくて、儚くて、遠かった。
ヒトカゲの体は白い光に包まれて、どんどん形を変えていく。それは、琥珀色の球体になって、カエンの前に浮いている。カエンはおもむろにその琥珀を手に取ると、自分のからっぽの右目にはめ込んだ。
「………とても、あったかい…。あなたが作った…この片目は、とても良く……見えるの…ですよ………」
日が落ちる前に、カエンはその目と体を使って、簡素な墓を作った。ただ土を盛って、その下にヒトカゲを埋めただけの簡単な墓。そこに一輪の白い花を植えて、カエンはその隣で眠った。
*
気付いたら、眠ってしまっていた。空は明るみを知り始めた頃で、太陽はようやく顔を出したように見える。
ああ、素晴らしい、空だ。朝日は柔らかくカエンを包み込み、冷え切ったその体を温めた。空虚だった右目はない、また新しい景色を取り込み始めた。
「ありがとう。そして、さよなら。寂しくなるけど、大丈夫ですよ。あなたからもらったものを今、すべて受け継ぐのですよ」
朝日を背に、ヒトカゲの墓の前でカエンは笑った。
「ほら、見るのですよ。指で口角を上げなくても、笑顔が出来るようになったのですよ。………いつか思い出す時が来たら、墓参りにでも来るのですよ。その時まで、私の幸せを聞くのを楽しみにしててほしいのですよ」
カエンはそういうと、また別の場所に歩き出した。
*
過去の記憶は、薄れるように消えて閉じた。あとは白い空間だけがそこに残る。
隠されていた自分の過去。なぜ忘れていたのか。それはかつての友人が記憶を隠してしまっていたからだった。忘れてしまった時は思い出せないけど、少なくともあの場所から離れるまでは記憶があったと思う。
「………この片目は、ヒトカゲの結晶…。大切なものだとは思っていたけど…まだ信じられないのですよ」
一人だと思っていた自分にはかけがえのない友達がいた。嬉しく思ったと同時に、悲しくも思った。あの時の私は、上手く伝えられなくて誤解をさせたままヒトカゲは消えていってしまった。
「私はあなたがいなければこの世界で生きていこうなんて思いもしなかったと思うのですよ。あなたのおかげなのですよ、ヒトカゲ」
思い出した過去を懐かしむように見上げる。あの時の私なら、この記憶は苦しいものだったのかもしれない。でも今は違う。その記憶を正しく思い出し、今の自分の糧にできる。持て余すことなく、全て自分だと言い張れる。
「だからボクじゃないって言ってるだろ、カエン。ボクはほんのちょっと、手助けをしただけだよ」
あの記憶の中で聞いた懐かしい声。しかし、カエンは驚く素振りを一切見せずに振り返った。姿かたち、何もかもが変わらないままのヒトカゲがそこにいた。
「今の私とははじめましてなのですよ、ヒトカゲ」
「そうだね、カエン。ボクからしてみれば、久し振りなんだけどね」
他愛のない会話。そこにはお互いを信頼した、絆のようなものがある。
「あの時も言ったでしょ?キミの感情はキミのもの。ボクは特に何もしてないよ」
ヒトカゲは呆れたように首を振って手を広げた。そんな彼に、カエンは過去を知った時から思っていた自分の言葉を伝えた。
「それでも、ありがとうなのですよ。あなたはいつもそういう風に大したことない、って言うけど、これは充分に大したことあるのですよ。あなたがいなければ、今の私はない。あなたがどれだけ否定しようとも、これは紛れもない私の気持ちなのですよ。私は私の気持ちまで違うと言われたくないのですよ」
カエンが無邪気に笑いかけると、ヒトカゲも諦めたように笑った。
「ボクがキミにできることはとても少ない。ボクはその少ない中でできることをしただけだよ。それでキミが救われたって言うなら、ボクはとても嬉しく思う」
その時、白い空間にさらに光が溢れ出した。その光に照らされてヒトカゲは薄くなりはじめる。
「おっと、もう時間みたいだ。君のお仲間達が待ってるよ」
ヒトカゲが少し残念そうにはにかむと、カエンは手を振った。
「私とあなたは、いつも一緒なのですよ。もし行きたいところがあるのなら教えてほしいのですよ。あなたが見たいと言っていた世界のいろいろな景色。どんなところでも連れて行ってあげるのですよ」
ヒトカゲの最後の顔は分からない。光で薄くぼやけてしまっていて、見ることができなかったから。それでも、カエンは知っていた。その時のヒトカゲは、安心した笑顔だったことを。