第85話 喪失
酸欠状態に陥り、生死の境をさまようカエン。彼らの必死の呼びかけは通じるのかー
気付けば、どこかふわふわとした世界にいた。地に足が付いているような、付いていないような、曖昧な感覚。何かを見下ろしているようだし、見上げてるようにも感じる。
「(ここは…どこなのですよ?私はいったい何をやっていたのですよ。………何も思い出せない)」
目の前の景色は目まぐるしく変わり、自分の記憶が追いつかない。
そんな景色はふと、ある一定のものに留まり、変わるのをやめた。
カエンも形が安定したのを見ると、感覚的に体を操って、浮いた状態から足がつける場所まで降りた。
そこは、カエンにとって忌まわしき場所。
「(ここは………!)」
そこにはカエンが逃げ出す前の屋敷があった。毎日ボロ雑巾のように扱われ、生きるのも死ぬのも辛かった日々がカエンの頭に蘇る。
その時、屋敷の扉が開き、一匹のポケモンが飛び出した。それはまぎれもない、過去の自分。
「この役立たず!こんなこともまともにできないのか!住まわせてもらっている恩をなんだと思ってる!」
次々に出てくる罵倒の言葉と自らに振るわれる暴力。自分は、弱々しく「ごめんなさい」を繰り返している。
「フン、今日はもういいよ!早く消えな!」
扉が乱暴に閉められると、静寂が辺りを包む。惨めな自分はボロボロの体を引きずり、少し古い小屋に姿を消した。
カエンはその小屋の壁をすり抜けて、過去の自分を見た。
「…うっ……くっ、ふぅっ…ぐうぅ………!」
押し殺した鳴き声で唇を噛み締めて、泣いている。悔しさ、痛み、悲しみ。そして、孤独。周りには敵しかいなくて、心の休まる時はない。
「…私は…無力ですよ…。なにも、なにもできない…私は…私はぁっ…!」
嗚咽の絡んだ声で、涙を流す。柔らかいとは程遠い藁の寝床を握りしめ、惨めで無力な自分を憎んだ。
カエンは、その昔の自分に近付いて手を伸ばすが、触ることはできない。気持ち悪くすり抜けてしまうだけだった。
*
何度同じ幻想を見ただろう。虐げられては小屋に戻り、無力な自分を憎むことの繰り返しが何度も続く。数えるのも忘れた頃、その繰り返しに変化が現れた。
自分の隣に、ヒトカゲが現れた。確かに記憶にある、名前は知らないけど、苦楽を共にしたポケモンがいたことをカエンは思い出した。
カエンはその時から、自分が泣くことが少なくなったことを知った。
嫌なことがあれば慰めてくれて、嬉しいことがあれば一緒に喜んでくれた。
時々ボロ小屋で家人の悪口も言ったりした。そのことで笑いあったことも思い出した。今まで忘れていたのが信じられないほど鮮やかに。
「(私は…何故このことを、このポケモンのことを忘れていたのですよ?わからない、思い出せない…」
カエンが必死に考えていても、カエンが見ている映像たちは待ってはくれない。場面はまた変わり、カエンの運命を変えるその時の映像になった。
いつまでもボロ小屋から出てこない二人が気になり、小屋の中を覗いてみた。以前より傷んだように見える小屋の中では、横たわったヒトカゲの顔を過去のカエンが覗き込んでいた。以前見た姿より、二人は変わり果てており、カエンは右目が失われていた。
ヒトカゲもカエンほどではないが、いくらか怪我を負っている。
いくら考えてもこのあたりの記憶が浮かんでこない。何故右目を失ったのか、何故こうも傷だらけなのか、そういったものの答えは一つも出ない。
「(どうして…私はこんな重要なことが曖昧なのですよ?今まで考えたことなかった…。自分の過去は…あまり思い出したくないもの。だけど、覚えていなくちゃいけないこと。あのことは、絶対に忘れちゃダメなのに、どうして…)」
続く自問自答の嵐に答えは出ない。
そうだ、よく考えればおかしいこと。こんなにも自分を助けてくれた存在を忘れ、過去のこの家人共の蛮行を忘れ、今日という日まで曖昧な記憶のまま覚え続けていたなんて、普通じゃない。
「…カエン、ゴメンね。ボクはもう、ダメみたい………」
カエンの耳に届いた謎の声。
ふと、下を見ると、ヒトカゲの口が動いているのが見えた。声が聞こえたのは最初の時だけで、他は話している様子が見えても声が聞こえてくることはなかった。しかし、今回は違う。ちゃんと声が聞こえてきている。
「何を言うのですよ!諦めてはダメなのですよ!まだ、まだ助かるのですよ!だから………!」
弱々しい声でそう言い、ヒトカゲが過去のカエンの手を握った。過去のカエンはその手を強く握り返した。
「私を…置いて行かないでほしいのですよ…!」
ヒトカゲの呼吸は浅く、早い。青ざめた顔は生気を失いつつある。尻尾の炎は近づいただけでも消えそうだ。
今のカエンにも、過去のカエンにも、なす術はない。過去の自分に医療の心得は無く、今の自分は触ることすらできない。吹けば消えてしまうような命の灯火。
「ありがとう、カエン。ボク、キミと会えて本当に良かった。ただ使われて傷付けられて…何も残せず消えていくだけかと思ってた。でも、キミと会えた。キミと、友達になれた。ボクはそれだけで充分だよ。キミが生きててくれれば………」
「そんなことぉっ!私も、私もなのですよ!たった一人で、この世界を憎んでた時にあなたが私の隣に現れて、どんなに救われたと思ってるのですよ!私は…あなたのおかげで、どんなに苦しみや悲しみから救われたと思ってるのですよ!なのに…それなのに…っ!」
どんなに強く手を握ったとしても、傷は一向に治らない。カエンの願いはどんなに強く思っても届くことはない。
「ああ…考えてもみなかった。ボクはボクの最期が、こんなに幸せだったなんて。どこか知らない土地で空腹で倒れても、事故に巻き込まれて死んだことにさえ気づかなくても…誰かに見向きもされずに消えていくのかと思っていた。でも、ボクには今、ボクの死を悼む人がいる。近くで手を握ってくれている。たったそれだけ…たったそれだけだけど、ボクはとっても幸せだよ…」
そう言うと、ヒトカゲは何もない空間に手を伸ばした。その間にも、命を表す尻尾の炎をはチリチリと消えかかっている。
「カエン…お願いだよ。最後に顔をよく見せて。たとえボクがボクじゃなくなってしまったとしても、キミをまた思い出せるように…」
ヒトカゲは伸ばした手をカエンの顔にかけると、微笑んだ。カエンはそれに応えるように涙でぐしゃぐしゃになった顔を必死に笑みで歪ませた。
「どう…ですよ…これが、今の私の精一杯の笑顔…!」
目尻を下げ、口角を上げてひたすらヒトカゲに笑顔を見せる。それでも、涙と嗚咽に歪む顔を抑えられない。
「………ありがとう。キミの笑顔は…どんな時でもボクに勇気をくれる。大丈夫、心配しないで。ボクはきっとここで終わってしまうけど、キミはまだまだ生きていける。ボクが消えてしまっても、キミがボクを覚えていてくれる限りボクはずっと生きていられる。………最後のお願いだ。何もかもを押し付けて本当にゴメンね。キミは…この残酷な世界を生きてくれ。そして…ボクが見れなかったこの世界の…美しさをボクに教えて…。これがボクの…最後のお願い…」
必死に震える手を命尽きかける彼の手を握ることで必死に抑えようとする。だけど、その彼の手は握り返してくれることはもうない。
ヒトカゲの最後の光、眼の輝きが失われて濁っていく。カエンの顔に合わせていた焦点はズレて、ボロボロの小屋の屋根を凝視した。途端、ヒトカゲの体は震えだした。
「カエン…もうキミの顔も見えないよ。目の前が真っ暗だ。ボクもとうとう死んでしまうのかな…」
「………!いやだ…いやなのですよ…!行かないでほしいのですよ!私を置いて…いかないで…!」
彼の焦点の合わない目は必死にカエンの顔を捉えようとしている。カエンもまた、彼に覆いかぶさるように泣いている。
「………………そばにいてあげたかった…ボクの…ボクの最後まで……君の隣に………」
ヒトカゲが伸ばしていた手は、力無く落ちた。それはもう自ら動く術を忘れ、ただ物言わぬ屍となった。
「あぁ…ああぁぁぁぁ!!!うわぁぁぁぁぁああああっ!あぁあ、ああああああぁぁぁぁああぁぁぁ!!!」
喪失感。心を埋めていた欠片が、外れてこぼれ落ちた音がした。それはもう、拾い直すことはできない唯一無二の欠片。
今は亡き友の名を呼び、悲哀に叫ぶカエンの声は、まるで獣のようだった。