第95話 約束
薄れゆく意識の中、最後に俺が見たものは涙をこぼしながら俺の名を叫ぶ、大切なポケモンだった。どうか、生きて…君には君だけのー
僕が最上階に足を運ぶ頃には、遥か上空にある隕石がその姿を消してしまっていた。
「あ…ああ…っ!間に合わなかった………!」
甲賀は酷くうろたえ、そして後悔した。何一つ、その全てが間に合わなかった。自責の念が、甲賀の心を支配する。
あの時、僕がグラードンを倒せていれば。
あの時、僕が一番に天空の塔にむかえば。
あの時、ティーエさんにあんなことを言わなければ。
あの時、あの時、あの時…。
自分の足元から、何かが落ちた音がした。力が抜けた身体が膝をついたのだと、気づくのに時間はかからなかった。
「僕は…取り返しのつかないことを………!」
しかし、甲賀は気付かない。
今、たった一人で天空の塔の最上階にいる意味を。甲賀にしか出来ないことが、まだあるのだということを。
*
上も下もない、不思議な世界。これは、夢を見ている時に似ている。
ただ、似ても似つかないのは、ここが真っ白な世界ではなく、暗い灰色が支配した淀んだ空間だということ。
もう一つは、俺は誰かに引きずられているということだ。
抵抗しようとしたが、体が動かない。どうやら俺は、なす術なくこいつに引っ張られるしかないようだ。
「…なあ、あんたは誰だ。俺はなんでこんなところにいて、あんたに引きずられている?」
声は出るようだった。俺がそいつに話しかけると、そいつは足を止めてこっちを向いた。
「ケケケッ。のんきなもんだな。これからオレ様に地獄に放り込まれるってのによ!」
不快な笑い声に、小悪党全開の発言。海斗はそれが誰なのかわかった瞬間、あきらかな脱力感が全身を襲った。
「なんだ…お前か」
かつて、自分たちの救助隊に突っかかってきては無残にも返り討ちにされ続けた(自称)救助隊、イジワルズのゲンガーだった。
「フンッ、自分の置かれた状況がわかってないようだな!お前は動けない。俺はここで自由に動けるしお前に恨みを持ってる。ケケッ!なんならここに置き去りにしてずっとどこにも行けないようにしてもいいんだぜぇ〜」
完全に勝利を確信して笑ってやがる。ムカつくけど、俺はこいつに手を出すことはできない。こいつにどれだけ腹が立ち、手を伸ばそうとしても俺の体は少しも動かないからだ。
「チッ、俺の最後の立会人がこんなやつとか、ほんっとついてねえなあ」
「ウゲッ、オレもお前の最後に見るなんて嫌だぜ、キモチワリィ。どうせここにいる時点でお前は死ぬんだ、ここで一人でくたばりやがれ!ケケケケケケケケケッ!!」
「あっ、テメェ!待てコノヤロー!」
そういうが早いか、ゲンガーはさっさと何処かに行ってしまった。移動するための足を失った海斗は失敗したと思いつつ天を仰いだ。灰色で全くスッキリしない。
あのヤロウを瞬滅することは思い付くのにここから脱出する手段が思いつけない。そんな思想の中に仲間たちの笑顔が混ざっていくうち、海斗は自然と、考えることがこの場所から抜け出すことから、短い期間の中で過ごした仲間たちの記憶へと変わって行った。
「楽しかったなー…。ハチャメチャな世界だったけどなんだかんだ面白かったし。…出来るなら、また来てえな」
その時、海斗の頬に何かが伝った。理由はわからない。やはりこの世界を離れるのが、どこか寂しく思っているのだろうか。海斗は細々と涙を流した。
「ティーエ。あいつ、最後泣いてたな。情けねえ男だぜ、小鳥遊海斗。惚れた女の笑顔も守ることができないなんて、笑っちまうなあ。ハハッ」
自虐気味に軽く笑っても、人間の時の記憶より、ポケモンだった時の記憶の方が色濃く思い出す。戻らなくちゃいけないから、考えないようにしていた。でも、今くらいなら。そう思ったって、いいじゃないか。
「この世界に居たいなあ」
ポツリと、海斗は願いを口にした。
「フフ、そんなに気に入ってしまったのですね、この世界が」
「だぁ!?………サーナイト!?」
誰も居ないと思って居たので完全に気を抜いていた。もし体が動かせたなら、俺は飛び起きてサーナイトの方に向き直っていたことだろう。
「おま、どうしてここに…」
「ここはカイトさんの精神世界のようなものです。なので私なら自由に出入りできるんですよ」
「さいですか…ちなみにいつからいたので?」
「『楽しかったなー』のあたりからすでにいました」
「ほぼ最初の方じゃねえかよ………」
聞かれた。自分一人の時でしか言わないようなクサすぎるセリフを聞かれた。
海斗は自分の耳の先まで真っ赤になってしまったように感じた。
「さて、カイトさん。この世界でのあなたの役目は終わりました、お疲れ様でした。元の世界に戻る準備をしますので、その少しの時間の間に、皆様方にお礼を言ってきてはいかがでしょうか?」
「おいおい、俺はもう死んでるんだ。お礼も何も、言えないだろ」
「そのことなんですが、あの時吹っ飛んだカイトさんの体は、実は無傷の状態で天空の塔にあります。言うなれば、あなたは気絶した状態にあるわけです」
「……!…そうか、なら何も心配する必要はないな。サーナイト、悪いが元に戻してくれないか。お前なら簡単だろ?」
俺は動けない体のままサーナイトにそう頼む。寝ているときの目覚め方なら知ってるけど、気絶からの目覚め方なんて知らないからな。
「ええ、少し待っててくださいね」
サーナイトはそういうと、俺の横に立って手を合わせ、何かつぶやき始めた。すると、俺の瞼が少しずつ重くなっていき、眠気とよく似たまどろみが押し寄せてきた。俺は、抵抗せずにその流れに身を任せた
時は、少し前に遡る、甲賀が悲しみで膝を落とした時に。
*
「…………………!…………、………………………!」
「え…?」
甲賀の耳に届いた微かな声。それは確かに聞いたことがあるもので、少しずつだが大きく、聞き取れるようになっていく。
「………トっ、…イトぉ!」
はるか遠くに、わずかだが動く何かが見える。それは緑色で細長くて、くねらせるようにこちらに近づいてきていた。そして、なぜか声もその何かから聞こえてくる。
「なぜ目を覚まさんのだ…小さき者!」
「カイト!起きてよ!起きてってば!どうして目を開けてくれないの…!」
それは凄まじい速さでこちらに近づいており、見ているうちにその形はハッキリしていき、それは甲賀が本の中でしか見たことのない存在だった。
「あれは…レックウザ!?」
甲賀が驚きのあまり口から言葉をこぼすと、それとほぼ同時にレックウザが自分の前に降り立った。
「む…?そこのワニノコ!貴様は救助隊レオパルドの者か!」
こちらに気づいたのか、背面を向くように振り向いていた顔はすぐさま向き直り、甲賀を視界に捉えた。
その迫力のあまり、甲賀は数歩後ずさりしてしまう。
「は…はい!僕は救助隊レオパルド所属、影虎甲賀です!」
妙に形式張った挨拶になってしまった。
*
場所は救助隊基地。天空の塔最上階で一向に目を覚まさない海斗を案じ、レックウザがわざわざ運んで来てくれたのだ。レックウザの大きな体が目立ち、あたりには野次馬が集まっている。
「起きて、起きてよカイト!私を一人にしないでよ!私の、名前を…呼んでよお…っ!」
「海斗さん!起きてください!あなたは世界を救ったんですよ!?こんなところで…眠っていてはダメじゃないですか!海斗さんっ!」
「………小さき者よ。貴様は…運命に逆らったのではなかったのか…?」
甲賀は今、信じられないものを見ている。自分の前に横たわっているポケモンは、すでに死んでしまっていたと思っていた存在だった。
しかし、彼は確かに息をしていて、自分の前で生きている。
ただ一つ心配なことは、どれだけ呼びかけても目を覚まさないことだ。
「おい…コラ…カイトォ………!」
突然、ロイが怒りの形相で眠るカイトの胸ぐらを掴み上げた。
「テメエ、うちのティーエを泣かすとはいい度胸してるじゃねえか…!さっさと起きろよこの野郎!ティーエが泣いてんだぞ!…クソッ、起きろ!起きろよちくしょう!」
海斗の体をガタガタと揺さぶるが、それでも海斗は起きない。そしてティーエも、それを止めようとはしなかった。ロイの瞳の端に、涙が見えたから。
「兄さん、少し乱暴すぎるよ。やめるんだ」
レイトが制止するように言っても、ロイはやめなかった。
「うるせえ!許さねえ、俺は許さねえぞ!散々人に心配させまくった挙句、何にも言わねえまま逝っちまったかと思えばノコノコ帰ってきやがって、そして今度は目を覚ましませんだぁ!?そんな馬鹿な話があるか?こんな馬鹿な話があってたまるかよ!この馬鹿野郎には言いたいことが山ほどあったんだ!それなのに……、それなのによ………!礼のひとつも言わせやがれ!こんなになっちまったんじゃ、意味が無いだろうがぁ!」
ロイの眼には、涙が浮かんでいる。ティーエの時も、海斗の時も、ただその場で待っていることしかできなかった自分が、ヘドが出るほどに殺したくなってしまうからだ。くそッ、と、吐き捨てるようにロイが海斗を離すと、力なくその体は倒れた。その寝顔はとても穏やかで、死んでしまっているようにも見える。
「……ねえ、リン。カイトさ、治せないの?」
少し離れた場所にいるルーは、うつむいているリンに聞いてみた。
帰ってきた言葉は、非情だった。
「私が治せるのは傷だけです。精神的な問題…なのかは知りませんが、ただ目を覚まさないと言うだけなら、私にはどうにも…」
「…ごめんなさいね、知ってたわ。わたしも少し、動転してるみたい」
リンの力はあくまで傷を治すこと。しかし、それは再生とはまた違い、ちぎれた腕を繋げることはできるが、また新しく生やすことはできない。そして、心に影響を与えることもできない。海斗に怪我がない以上、リンは心の問題であると判断している。
ルーもそのことは知っていた。それでも、心にある淡い期待に嘘をつくことはできなかった。
「カイト…せっかくまた会えたのに…バカ、バカぁ…」
ティーエは涙の溜まった目を海斗に向けて、力なくその手を振り下ろした、そのときだった。
「え………?」
閉じられたままだったカイトの目が見開かれ、誰も反応できないうちに飛び起きた。
何か信じられないものでも見るように、周囲のポケモン達は海斗を凝視していた。そのことを知ってか知らずか、海斗はゆっくりと手のひらをティーエの頭に下ろした。
「悪ぃ、待たせた。…ほら、もう泣くなよ」
目を覚ました海斗は、ゆっくりとその手を左右に動かした。放心状態のティーエの頭が、クシャクシャと音を立てる。その音はやがて顔にも移り、悲しみ表情から喜びの笑みへと変わる。
そっぽを向いた海斗の顔を覗いてみよう。どんな顔をしてるかな?
「………遅いよ……!おかえり、カイト!」
ああ、赤い赤い。真っ赤だ。