第十六話
フィールド全体を包み込む激しい衝撃波によって激突地点を中心に激しい砂塵が巻き上げられ、吹き荒れる突風がアスカとエリサを包み、砂塵が観客席を覆い尽くす。
衝撃波と同時に二匹のポケモンがそれぞれ対局の方向に吹き飛ばされ、地面を何度も転がりながらようやく速度が遅くなり、両者ともにピクリとも動かない。
しかし先ほどのカズハとシグレのバトルのようなダブルノックアウトの制度は決勝戦には適応されず、あくまでもどちらか一方が動くまで待ち、先に立ち上がった方が勝ちとなる。
審判が両者のテンカウントを終えると会場全域にブザーが鳴り響き、先に立ち上がった方が勝ちになるシステムが適応。
ブザーの音に意識をしっかりと取り戻した二匹は震える体に鞭を打つと両足に力を入れて踏ん張り、揺れる体を何とか保ちながら体を起こしていく。
どちらが先に立ち上がるか……先ほどまで歓声と応援で五月蠅かった会場が今は小鳥の鳴き声が透き通って聞こえるほど静寂し、目の前の結果をただ見つめていた。
それぞれの手持ちを固唾を呑んで見守るトレーナーの前で二匹のポケモンほぼ同時に立ち上がり、しかしその瞬間、一匹のポケモンが崩れ落ちる。
「ルー……シー……?」
ゆっくりと崩れて行くバクフーンが完全に地面に倒れた瞬間、静寂の壁を打ち破り大きな歓声が会場内に湧き上がった。
『バクフーン惜しくも崩れる! 立っているのはエリサ選手のガブリアス、今大会最大の激闘を制したのはホウエン代表のエリサ選手です!』
爆発的な歓声の中でエリサは溜まっていた不安と恐怖を安堵の息と共に出し、今にも倒れそうなガブリアスの元へ歩み寄り、頭を撫でてボールに戻す。
バクフーンが倒れたと同時に走り出したアスカは体の様子を一通り確かめるが特に問題は無く、安堵の溜息と同時に震える両腕でバクフーンを強く抱きしめてからボールの中へ。
負けた……今まで幾度と無く負けは経験して来た。しかしそれら全てを超越して、今回の負けは……辛い。
しゃがみ込み俯いたままのアスカへ歩み寄るエリサは同声を賭けたらいいのか分からず少し戸惑うが、突然立ち上がったアスカに驚き肩を震わせる。
笑顔で差し出される右手、小刻みに震えるその手をエリサも右手でしっかりと握り締め、フィールドの中央で互いが互いを讃え合って握手。
力強く握られる手をエリサも力強く握り返し、好戦的な瞳で見つめて来るアスカに対し、エリサは穏やかな表情を返す。
「良い試合だった。こう言っては気を悪くするかもしれないけど、もっと簡単に勝てると思ってたの。だから途中、凄く怖かった。追いつかれる……追い抜かれる……ってね」
「慰めなんていらないわ。負けは負け、勝ち負けに途中の過程何て関係無い……いつもそう言われてる。だから、勝つことが全て」
「そうね、慰めなんて逆に失礼だったわ。戦ってくれてありがとう、次にどこかで会うようなら、もう一度戦いましょう。今みたいに、互いの全力を出し切って」
「望むところよ。今回は勝ちを譲ってあげるわ。あともう一度言うけど勘違いしないでよね、私は負けて悔しいなんて思ってない。むしろこれから絶対に勝ってやろうって、意気込んで来たわ!」
「怖いわね。勝利に貪欲なトレーナーほど怖いって師匠には言われてたけど、貴方からは強くそれを感じる。次、楽しみにしてるわ」
微笑みながら踵を返したエリサはフィールドを去って行き、大歓声に送られながらアスカも日照りと放水装置が止まって乾いたフィールドの上を歩いて去って行く。
観客の健闘を讃える声援も司会者が熱気を込めて話す言葉もアスカの耳には入らず、出入り口からフィールドの外へ帰って来ると同時にコンクリートの壁を右手で思い切り殴り、ずるずると膝を着くと大粒の涙が溢れ出した。
視界が涙で滲み全てがぼやけ、目頭どころか顔全体が熱くなり、上手く呼吸ができず苦しくなって何度も嗚咽と咳が漏れるが、涙は一向に止まらない。
「ちくしょう! ちくしょーちくしょーこんちくしょー! 何で、どうして!? 私は……っぐ、わだじは! なんで!?」
負けられない戦いで負けてしまった……恥ずかしさと己の未熟さに今すぐでも頭を叩きつけて死んでしまいたいほどの苦しみが、絶え間なくアスカに襲い掛かっていた。
何度も何度も右手で壁を叩いて行くうちにその力は弱くなっていき、虚しさと悔しさだけがただひたすらその場を包み込む。
廊下の奥から近づいて来る足音、もはや涙と鼻水で言葉すら出ないアスカは揺らぐ視界の端に入ったその姿を見ると、顔を歪ませその人物を見上げた。
彼女を見下げるその姿は決して彼女の健闘を褒め称えているものではなく、むしろアスカに追い打ちをかますには十分なほどの威圧感。
「じしょう……」
「負けて悔しがるだけの元気はある様だな。ならばこんなところで泣いて無いで負けた原因や要素、次勝つためのプランを組み立てろ!」
「わだじ、ぜっだい勝つっていっだのに……師匠のま、前で……なのに……わだじばっ!?」
アスカが顔を上げた瞬間にシリュウの張り手が彼女の左の頬を叩き、突然の出来事にアスカは言葉を失い、黙って目の前のシリュウを見上げる。
「まずは泣き止め。やるべきことが出来るのに何もしない……俺はそう言う輩が大嫌いだ」
「……すみ……ません……師匠」
「お前は大切な戦いで負けるといつもいつも俺の前では強気を見せていたが、部屋に戻ると何十分も泣いていたな」
「な、何でそれを知ってっつ!?」
アスカが問い掛けるよりも早くシリュウの左手が彼女の右頬を軽く叩き、再び彼女を黙らせる。
叩かれた右の頬を抑えながら俯くアスカは再び目から一筋の涙が流れ、それと同時に彼女の頭に、シリュウの手が軽く置かれた。
「泣くほど悔しい……人は己の無力さを知り、悔しい想いを糧に強くなる。やるべきことは確かにある、だが……こう言う時ぐらいは、泣いたって良いぞ」
「でも、さっきは」
「アレは師匠としての言葉であり、今のは俺個人言葉だと思え。よくやった」
「じ、じじょおおおお!」
再び号泣したアスカがシリュウに抱きつこうとした瞬間、その抱擁は見事に回避されると同時に、彼女の頭にゲンコツが落ちる。
「ただし甘えてばかりでいいと言う訳ではない」
「はれぇ?」
「闇雲に立ち向かう者に未来は無い。己を律し、先を見据える者だけに未来はやって来る。いいか! 先を見据えろ、そして自分を律しろ。学んだこと全てを活かせ!」
「は、はい!」
「この先辛いことはいくらでもある。お前に、それらを乗り越える覚悟があるか!?」
「あります……どんなに辛いことがあっても、私はそれを乗り越えて見せます! なぜなら私は、世界で一番素晴らしい師匠の弟子だから!」
アスカは立ち上がると同時に勢いよく答えると、再び頭に手を置いたシリュウが僅かに微笑みを見せた。
だが何故かアスカにはその微笑みがむしろ何故か悲しんでいるように見え、彼女が言葉を駆けるより早く、シリュウがその手を退ける。
「それで良い。次の対戦者が来る時の邪魔になる、さっさとここを離れるぞ」
「あれ? 決勝は今終わったはずじゃ――」
「トーナメントの勝者はチャンピオンのワタルと戦う権利が与えられるわけだが……おっと、噂をすれば……だな」
外で司会者が再び熱気に満ちた声で何かを叫ぶ声より、廊下の奥から聞こえて来る一歩一歩の力強い足音が、アスカの意識を奪い取る。
漆黒のマントに身を包む男……カントー地方ポケモンリーグ現チャンピオンのドラゴン使いワタルが姿を現すと、彼はアスカの前まで来ると足を止めた。
「放送室から見ていたよ。己の全力を尽くし、多くの物を駆使する力……良い勝負だった」
「あ、ありがとうございます!」
「これからリーグ優勝者と戦おうと言うのに他人の戦いの賛美とはな、カントーリーグチャンピオンはお人好しなのか愚かなのか」
「し、師匠!? チャンピオンに対して何と言うか凄い無礼だと思うんですけど、その――」
「はは、そう言う考え方もありか。どうやら君は、良い師匠に巡り合ったようだね。いずれ君とも戦うような予感がするが、根拠が無いことは言わないでおこう」
「いいえ、きっと貴方と戦って見せます。根拠だってあります」
「へぇ、それは?」
「私は、この素晴らしき師匠の弟子です! 絶対に強くなって、貴方とも戦って見せます!」
きょとんとした表情を浮かべるワタルはしばらくするとクスクス笑い出し、頬を膨らませたアスカの横で、シリュウまでもが溜息をつく。
「な、何でそんなにがっかりするんですか師匠!」
「はははは、いやいや素晴らしい根拠だ。楽しみにしているよ」
マントを靡かせたワタルは大歓声が溢れるフィールドへ向かって再び歩き出し、反対方向に踵を返したシリュウの後に続き、アスカも慌てて歩き出す。
医務室の一角、デスクに向かって書類を処理している女性はポケギアを取り出すと、番号を打ち込み電話を開ける。
二三回のコールの後に相手は電話に出ると、多少のノイズが入ってからようやく第一声が送られて来た。
『もしもし』
「あら、他人行儀ね。何かノイズが聞こえたけど、電波が悪い所にいたのかしら?」
『イヤホンを付けただけだ。それより、何の用だ?』
「放送室に忍び込んだA1とA2が例のシステムを発見したので、念の為報告したわ。貴方の言ってた通り、放送室がコロシアムの制御塔みたいね」
『分かった。その件については後日、詳しく調べてお知らせしよう』
「面倒な時にかけちゃったみたいね、ごめんなさい。カモフラージュ、頑張って下さいね』
女性看護師がポケギアの電話を切り、マリンの寝ているベッドを一瞥し、再び書類に目を通す偽りの作業に戻る。
ポケギアの電源を切ったシリュウはそれをポケットに戻し、横を並ぶアスカがちょっと興味ありそうに尋ねる。
「イヤホンして電話なんて珍しいですね。何かこう、重要な電話だったんですか?」
「特殊な信号を使う会話方針だからな、イヤホンじゃないとよく聞こえないだけだ。それよりアスカ、早くポケモンを医務室に連れて行ってやれ。俺は先に選手控室に行く」
「わかりました。今夜は奮発してすき焼きなんてありませんかねー師匠」
「そうだな、ソーセージぐらいなら買ってやろう」
「……私、父親の買い物に付き合う小学生じゃありませんよ」
「そんなくだらないことを言ってないでさっさとポケモンたちを連れて行ってやれ、一刻一秒を争うかもしれないぞ」
「くだらなくなんてないですよ! うぅ〜、兎に角何か豪華な晩御飯にしましょうね! 約束ですよ!?」
頬を膨らませてから舌を出すアスカは早歩きでシリュウの前から姿を消し、医務室にポケモンを預けに行く。
「約束……か……」
残されたシリュウは小さく息をつき薄らと笑うと、持っていたポケギアの電源を入れ、再び先ほど掛かってきた電話の相手に通信を飛ばす。
胸にあるロケットを握り締る。ディスプレイに映る放送室、カントーポケモン協会会長の姿を睨みながら。
「待っていろ……」