ヒウン
海風に吹かれ、水平線を望みながら日々の業務に勤しむことができる大都市圏は、世界広しと言えどもヒウンシティくらいなものだろう。臨海部にいきなりひしめき合ってそびえ立つ高層ビル群には、ほかの地方から来た者は誰しもが圧倒されるというのは単なる噂話ではない。町は中心から海に向かった四つの放射状に広がった大通りと、四番道路に続く一本の通りから構築されていて、真上から見るとイチョウのような形になっている。そのイチョウの先には海に向かってにょっきりと五つ船着き場が伸びており、船の発着だけでなくヒウンの人々の癒しの場としても機能していた。
その一つであり五つのうちの真ん中にあたるプライムピアは、石油化学コンビナートやポケウッドなどで有名なタチワキシティと繋がる定期便が運航しており、毎日多くの人間が行き来する。ちょうど今も、タチワキからヒウンへやってきた人々がぞろぞろと船から降りていく最中だった。先頭では紺色のスーツに身を包んだ人物が大声で何かを叫んでいる。
「なあ、エンジュ。なんか船きたっぽいけど何の騒ぎだ?」
がやがやと賑わうプライムピアの端の海に面したベンチに、二匹のポケモンが座っている。片方は真っ黒な体の所々に黄色いわっかが目立つブラッキーと呼ばれるポケモンで、もう片方は黄色い毛並みがすべて逆立ち、首周りの白い毛もとげとげしているサンダースと呼ばれるポケモンだった。サンダースは遠目に船の方を眺めつつ、隣のブラッキーに聞いていた。
「あー、たぶんツアーかなんかじゃないのか?添乗員っぽい人がいるし」
エンジュと呼ばれたブラッキーが、そっけなく答える。
「添乗員、って何?」サンダースが聞いた。
「んー......僕も詳しくは知らないけど、旅行がうまくいくように管理する人、だったっけな。ガイドの代わりを務めたりするらしいよ」
「ふーん」
聞いておきながらサンダースはさほど興味も無さそうな調子だった。エンジュもそれ以上会話を続けるつもりは無いらしく、再び海を眺めていた。
海はどこまでも穏やかで空気は澄み渡り、プライムピアからは湾になっているイッシュを一望できた。青い世界に浮かんでいるユナイテッドピア。その向こうには何百階ともわからぬ巨大なタワーが空に伸びている島と、小さな建物らしきものがぽつんと建っている島が並んで浮かんでいる。さらにその先には、イッシュ地方の南西側の山々が青くかすんでいた。春になったというのに、山頂にはまだ雪が残っていた。
バシャッと水音がして、二匹の目の前に何かが飛び出した。それは空中で水色の体をひねり、そのまま落下して派手に水しぶきを上げた。細かい水滴が二匹に降りかかり、うっすらと虹が現れる。
「飽きないな、キキョウ」
サンダースがベンチの背もたれに寄りかかり、空を仰いだ。雲一つない快晴だ。
「久しぶりの海ではしゃいでるんだろ。しばらく好きにさせよう」
心地よく吹く海風に毛並みをなびかせながら、エンジュは目を細めていた。
またしぶきが上がり、海から水色の体が飛び出す。顔には頭頂部と両耳にあたる部分にそれぞれ大きなひれがついていて、首周りを白いえらが放射状に囲っている。水を連想させる青い体色に、尻尾は魚の尾ひれのように分かれている。シャワーズのキキョウが、青空をバックに楽しそうに体を回転させた。そしてそのまま落ちていき、どぼんと海中に飛び込んだ。のんびりと手すりにつかまっていたキャモメが、その音に驚いたように飛び上がった。
「ごめーん、驚かすつもりはなかったんだけど......」
海面から首だけを覗かせて、キキョウが申し訳なさそうに謝っていたが、すでにキャモメは遥か彼方へ飛び去って行った後だった。「ああ......キャモメさん」
「心配すんなよ、そのうち帰ってくるさ」
いつの間にかサンダースが手すりにのり出して、漂うキキョウを見下ろしていた。
「あ、トキワ! 気持ちいーよ! 一緒に入る?」
「アホか。んなことしたら溺れるわ」
トキワと呼ばれたサンダースが、海面に向かってツッコんだ。
「えー?」あからさまなキキョウの不満そうな顔。「一人じゃつまんない」
「文句言うな。俺は泳ぐのには向いてない体だし」
「じゃあ水鉄砲で遊ぼうよ」そういうなりキキョウは尻尾で海水を飛ばし、不意を突かれたトキワの顔面に水のかたまりが直撃した。「うわっ!?」
顎から水を滴らせるトキワを見ながら、キキョウが無邪気に笑っていた。「あははっ! トキワの負けだよー!」
「あー......」
海から聞こえてくるキキョウのはしゃぎ声と、手すりにのり出したまま固まっているトキワの様子から、エンジュは次に起こるであろうことを予測していた。
トキワが言った。
「キキョウ......」
「ほえ?」
キキョウの顔は、まだ笑顔で止まっていた。
「貴様には電撃鉄砲を食らわしてやるわーっ!!」
「しゃわぁぁぁぁぁぁぁ!?」
エンジュの前には、青菜に塩をかけたようにうなだれているキキョウと、さっきから目を合わせないトキワの姿があった。
「はしゃいでたとはいえいきなり顔面に水ぶっかけるな」
「ごめんなさい......」
キキョウがさらに萎れていく。尻尾には焼け焦げたような跡が一か所見受けられた。トキワの『でんきショック』が直撃したのだ。
「お前も、妹相手に頭に血を上らすなよ」
トキワは何も言わず、目線は地面をさまよっていた。
「やれやれ......」
エンジュはため息をついた。「二人とももうちょっとしっかりしてくれよ。イーブイの頃じゃないんだから」
二匹はばつが悪そうに目線を落としていた。
まったく、見た目は立派でも中身はまだまだ子供か。エンジュは尻尾を荒く振っておもむろに立ち上がり、プライムピアから陸のほうへと歩き出した。気まずい雰囲気の中でキキョウがもう一度水浴びを申し出ることもないだろう。もはやここに用はない。
すたすたと無言で歩いていき、ヒウン内部へ続く通りに出たところでエンジュはちらりと後ろを振り返った。のろのろと歩調は遅いが、ちゃんと二匹はついてきている。
エンジュはやはり何も言わずに、いつもより早足でヒウンの四つの大通りの一つ、モードストリートへと進んでいった。
* * *
モードストリートはいつもと同じく、たくさんのサラリーマンやOLで埋め尽くされていた。
三匹はその中を器用にすり抜け、エンジュを先頭に通りにそれたビルとビルの間の通路へと入っていった。表とは違い人の姿はなく、換気扇やパイプが壁に伝っている。薄暗い中をしばらく歩き、やがて三匹は開けた場所に出た。四方が囲まれた空き地だった。
「さてと」
各々が定位置に座り込んだところでエンジュが言った。
「明日、ヒウンから出るぞ」
二匹は相変わらず無言だったが、ここに来るまで始終下げていた頭が同時に上がったのをみると驚いたのだろう。ヒウンにはまだ二日しか留まっていない。
「息苦しいし、木の実も自生してないしな。残飯をあさるのはしたくないし」
淡々と喋るエンジュに、キキョウがおずおずと口を開いた。
「あの......一昨日ここに来たばっかりだよ?もう少しのんびりしてもいいんじゃないかな......」
「無理だな」エンジュはきっぱりと言い放った。
「ここには人間の食べ物しかない。僕たちの食べられるものがあるとしたら、ショップとかで売られてるポケモンの食糧くらいだな。それをパクるわけにもいかないだろ?」
「でも、町から出れば木の実も生えてるだろうし......」
「それもない。ヒウンの周りには海と砂漠しかない」
ぴしゃりと言われ、キキョウは絶句した。
「シッポウシティは自然に囲まれてたから長く留まることができたけど、ここは僕たちの居場所じゃないと思うんだ、トキワ」
いきなり話を振られ、そっぽを向いていたトキワがびくついたように振り向いた。
「まあ、二人がここにもう少し居たいなら留まるけど、僕は正直ここの空気に馴染めそうにない」
エンジュはトキワとキキョウを交互に眺めてから、前足を毛づくろいし始めた。二匹に意見を求めているのだった。
二匹はしばらく押し黙っていたが、やがてトキワが「俺は出てもいい」と言った。
「キキョウも......出てもいいよ」つられたようにキキョウも続く。
「そうか」エンジュは毛づくろいを止め、もう一度二匹を眺めた。「悪いな、わがまま言って」
「ううん、別にいいよ」
キキョウが控えめな調子で言った。「次はどこに行くの?」
「四番道路を抜けてライモンシティってところがあるから、そこにしようと思う。どんな街かは知らないけど、砂漠は抜けられるっぽいから食糧事情は良さそうだ」
「そっかぁ......」
地面に投げ出された青い尻尾が、ゆらりと地面を撫でる。「ごはん大事だもんねぇ」
「ああ、ごはんは大事だな」
エンジュがキキョウの頭をぽんぽんと叩いた。大きなひれが嬉しそうに震える。
「ま、そういうことだ。明日には出発するから、今のうちに準備をし始めてくれ。朝は早いぞ」
「はぁい」
「わかったよ」
キキョウの呑気な声と、トキワの気だるそうな声が重なった。
準備と言っても、体力の温存と体調管理をしっかりしておけということだ。特段何かするわけではない。
三匹は空き地の隅に集まり、それぞれ体を休め始めた。
何時間か経っただろうか、エンジュはうっすらと瞼を開けて頭を上げた。どうやら寝てしまっていたらしい。辺りは夕暮れの色彩を帯び、オフィスビルが長い影を落としている。
伸びをして周りを見回すとキキョウとトキワが体を寄せ合って眠っていた。
エンジュは破顔を浮かべ、そっと二匹を見つめた。そして、ため息をついた。おもむろにトキワの黄色い額に前足を当て、優しく撫でる。撫でられたのが無意識にうれしかったのか、それとも嫌だったのか、トキワが体を震わし小さく身じろいた。
イーブイの頃......か。
昼間、二匹に言い放った言葉が脳裏に蘇る。
二年前から続くどこかに行くあてもなく放浪する毎日。トキワ達と付き合ってきて、いつの間にか自分は二匹の親のような感情を持ち始めている。
もう少し大人になってほしいと思う反面、出で立ちが出で立ちゆえに仕方がないという気もあった。二匹は母親の顔を知らなかった。
二匹がタマゴから産まれてすぐ、エンジュの母親は病気で亡くなった。ある日突然倒れ、必死の看病の甲斐もなくあっさりとエンジュたちの前から去ってしまった。まだ歩くのがやっとな弟と妹を残されたエンジュは途方に暮れた。父親の行方は知れず、エンジュが二匹を育てるしか無かった。その時、エンジュはまだ一歳――人間でいえば十歳――にも満たない子供だった。
母親の愛情というものを知らずに育った二匹。エンジュだけでは甘え足りないのだろう。少々子供っぽいのはやむを得ないのかもしれない。
トキワから前足を離し、エンジュは暗くなり始めている空を見上げた。高層ビルの赤い航空障害灯が、ヒウンの空に星の代わりに瞬き始めていた。
子供なままの二匹。しかし、いつかは自立してもらわなければならない。一体それはいつの話になるのだろうか。そして、この羈旅はいつまで続くのだろうか。
紅い瞳で黄昏を遠く見つめながら、エンジュは尾を静かに揺らした。その尾を囲む黄色い模様が、ぼんやりと光を放ち始めていた。