三匹と一匹
月夜
 イッシュ地方、七番道路外れ。
 ポケモンですら寝静まる深夜、ネジ山とフキヨセシティの間に通る本道からそれた森林の、その中を走る川。聞こえるのは激しい川の流れから発する水音と、ヨルノズクの悲しげな声のみだった。
 バシャリ、と水面が跳ねて真っ黒な川面が白く光を発した。激しい流れが分かれて白い菱形が現れる。バシャバシャと水の跳ねる音は増し、それは川辺に向かって歩いていく。何かを背負っているようで、半ば引きずりながらそれは四本の足で流れから這い出した。暗闇の中でそれは、淡い月明かりのわずかな光を青白く反射していた。
 青い髪から下がったおさげ。ひし形の耳が小刻みに震え、月光に照らされた真っ白な体は動くたびにわずかながら明暗が生まれる。深海のような瞳は暗がりの世界に溶け込み、雪の結晶を連想させる尻尾は、音もなくゆらゆらと揺れている。漆黒の水面から現れたのは、グレイシアと呼ばれるポケモンだった。
 グレイシアは轟々と流れる水に逆らい、一歩一歩ゆっくりと岸に向かって歩いていた。
 やがて水の跳ねる音は止み、小石を踏みしめる音に変わった。完全に川面から脱出したことを確認すると、グレイシアは背負っているものを慎重に小石の上に横たえた。背負っていたものはずるりと崩れ落ちて、茶色い髪が水を飛ばした。白い肌がうっすらと月明かりに照らされ全貌が露わになる。
 人間の少女だ。気を失っているらしく、びしょびしょに濡れたままぐったりとしていて 動く様子がない。幼さが残る顔に、長い髪が数本張り付いていた。
 水色のおさげが揺れる。青い眼を瞬かせて、グレイシアはおもむろに少女の胸のあたりにその細い前足を当て、ぐいぐいと押した。川の中で飲んでしまった水を吐かせているのだった。グレイシアは数回これを繰り返し、少女が水を吐かなくなったのを見届けると、少し距離を置いてそっと前足を夜空へとかざした。赤い筋が青い前足の周りを走るように回り始めて、みるみるうちに火球へと変わっていった。真っ黒な世界に輝く紅色が浸食していく。火球はサッカーボール程度の大きさにまで成長すると、一気に崩れて蛇のように空を滑り、横たわった少女の手前に落下し、激しく燃えた。
 辺り一帯は熱と光に包まれ、深い闇夜の中にぽつりとそこだけが明色で満たされていた。
 花火を飛ばす炎と、眠っているように横たわる少女。それを見つめるグレイシア。炎はパチパチと音を立てて揺らめき、映るグレイシアの横顔は悲しげだった。ただ一言も発さず、目の前の光景を眺めるだけだった。
 苦痛と、辛み。心の中にあるものはそれだけだった。後には戻れない。しかし、グレイシアはしなければならなかった。やらなければいけなかった。目の前にいる少女へできることは、これしかない。大切なものを守るためには、やるしかない。
 グレイシアは追わなければならない。
 逃れなければならない。
 いのちよりも大切なものを、守るときが来たのだ。
 ずっと待っていた、ずっと望んでいた、この機会を。
 だから、辛くても苦しくてもいかなければならない。

 グレイシアは何かを決断したように顔を上げると、おもむろに立ち上がり少女に近寄った。いまだに少女は目を覚ます気配はなかった。グレイシアは少女の頬に顔を近づけて、うっすらとついていた水滴を舐めた。彼女への挨拶だった。
「ごめんね。そして......」
 悲しげに見下ろす眼に、きらりと何かが光った。
「さよなら......」
 それはぽつりと音をたてて、少女の頬に落ちた。
 刹那、炎が激しく揺れて、無数の小石が飛び散った。炎の揺らぎが収まったころには、すでにグレイシアの姿はなかった。
 か弱い月光が降り注ぐ、静かな、静かな夜だった。

いぶ しゃわわ ( 2016/03/01(火) 18:05 )