夜討ちのブラッキー
驚くほどの低周波の声だったので、ちゃんと聞けているのか不安になった。
頭の奥に突っ込んできた声とはまるっきり違う。もう少し高めで聞きやすい声だったはず。
「ああ、それはセッティングで変えられるんだぜ。このままだと聞き取りにくいだろ?」
何にも言っていないのに、こいつは勝手に言ってきた。多分、エビと同じく他人が考えていることを覗き見出来る能力があるのだろう。
「そうなのか、ってそんな機械的な話なのか?」
まあ、そんなものさ、と何の抵抗も持たずにその黒い奴は返事をした。
「と、とにかく、ブラッキーは何を企んでいるのよ?」
今の状況を把握しきれず、霧に飲まれて詮索している状態でありながらも、エーフィは強気な態度を見せる。
「それを言ったら面白くないだろ?」
ブラッキーの視点から見れば、もはや弄ぶ対象にしかなっていなかった。ブラッキーは『あくタイプ』である故に『エスパータイプ』の能力を使った一切の干渉が効かない。もちろん、読心術もまともに通らない。しかし、ブラッキーもエーフィほどは使ってこないものの、読心術の能力自体は使える。タイプの相性もそうだが、一方的に不利な状況が精神に追い打ちをかけている。
赤い目を笑わせて、ブラッキーはまた喋った。
「そういや、お腹がペコペコじゃない?」
「え?」
「そうだな。夕飯でも作るか?」
「いや君には聞いてなくて・・・、別にいいんだけどさ・・・」
エーフィが一瞬反応したものの、恵が何も思わず横からとった。突然の邪魔に今の調子がずれて、ブラッキーは内心こけそうになった。
「じゃあ飯でも・・・」
『でね、一言だけ言っておくと、このエビとまともに会話するのは久しぶりなんだよな。もうちょっと一緒にいてくれるかな?』
多少の狂いは対策済み。予想外の展開になっても相手とペースを合わせれば問題は起きにくい。涼しげな態度でエーフィに気付かれないように恵の心の奥に直接話した。
「なんでだ?」
『エビとは好ましくない関係で・・・』
「夫婦ゲンカでもおっぱじめたのか」
『そうですね、エーフィが強くて、じゃなくて、何で夫婦ゲンカのせいなんだ?ってそもそも・・・』
「
嬶天下で逃れて来た、とか」
『だ、か、ら、僕はこのエビとはそもそも夫婦じゃあない!ボケは良い加減にしろだし、話も最後まで聞いて』
「で、あんた達は何をしているのかしら?」
しまった!いつもの癖が出て、この人が普通に喋っていることを忘れていた!
エーフィは怪訝そうに恵の顔を覗き込んだ、と思うと、今度はブラッキーの顔にも妙に優しげな視線を送った。その顔を見れば、何を思っているのか心を覗かなくても分かる。それは激しく燃えていた。
「こいつと話をしていた」
そして、エーフィの怒りを逆なでするように恵は淡々と言う。
「じゃあ、何について、話していたのかしら?」
このままでは核心に迫られてしまう。恵を肉の盾として使う作戦がばれてしまう。恵ぐらいの洞察力があれば察しがつくだろう。今すぐエーフィを張り倒す?それとも恵の意識を吹っ飛ばすいいして口封じ?どっちみちエーフィだろうが人間だろうが、三割ぐらいしか力を出せない自分なら片方でも充分に返り討ちに出来る。どうする?
そうおどおどしている間に恵は口を開いていた。
「夫婦ゲンカの話」
「え?・・・本当に?」
「ボケが酷くなったとか」
「・・・フェ?」
ブラッキーのことだから何か壮大な計画の相談でもしていたと思っていた。
恵のことだからもう答えが割れてしまうと思っていた。
こいつらの反応はまた下らないことだと喚き散らすと思っていた。
グルだと思って再度心をスキャンしても、恵はエーフィとブラッキーがそうなのだと思っていて、また驚いた。
エーフィは聞くことも初めて音を口からだし、ブラッキーは喜ぶべきかずっこけるべきか突っ込むべきか迷い、恵は案外静かな反応で済んだと少し安心していた。
また斜め上よりも予想外な答えが飛んできて動揺していたが、エーフィは態度を崩さないように努めて追及を続ける。結局何の為に恵と徒党を組もうとしたのか。そしてその先の目標があまりにも低い。ブラッキーにも、怪しむより期待外れな方向に転がったせいで、むしろ哀れに見えた。
「な、何よ、そんなことでわざわざテレパシーを使ってたの?」
「う、ああ、うん、そうだな」
「な、ほんと下らないわね」
ブラッキーも今度こそばれたのかと言葉に詰まりかけたが、感じ取られて深く疑われている部分はなかったので、影で大きな息を吐いた。
その横で、恵は緊張感がないアピールという名の背伸びをしてから言った。
「結局、飯食うのか暇潰すのかどっちなんだ?」
結局詳しい事情も知らないまま、恵は呑気に構えている。何事も起きなかったとはいえ、その間抜けた態度は少し憎たらしくも、二匹には見えた。エーフィは性格そのものに嫌気が差し、ブラッキーもこれ以上肝を冷やすことはしたくないと、それぞれの意味で深く関わりたくなかった。
でもブラッキーは同時に気になっていた。こんな無防備そうなのに、音も呼気も殺して近づこうとなれば、元から知っていたかのように存在感を感じとっていた。普通の人間どころか、そんじょそこらのポケモンにもまず出来ない芸当だ。
「私は寝るわ。勝手に料理でも何でも作ってきなさい」
エーフィはとっとと離れたい一心で手早く答えていた。
「あいよ」
なんともふ抜けたような返事だった。この人間も少し眠気が入っているようだ。
もし、と思案していると、
「お前はどうする?」
「ここにいる」
ブラッキーにも順番が回ってきた。エーフィと同じ早さで答えて、また少し考えた。
そして、ちょっと実験してみることにした。突然の一瞬の狙撃を受けてどんな反応になるのか。そして、人間離れの身体能力はどこまであるのか。心の奥底から根付いた黒い気持ちで、恵への見方も残酷な目線になっていた。
恵は無言で立ち上がり、手に付いた土をはたき落として歩き出した。当然、家の明かりがある、向こう側に目を向ける。
もう自分の存在に注目されていないはず。エーフィもまた違うところに目を向けている。細心の注意を払い、ブラッキーは行動を始めた。
まず足場決め。この距離なら三歩で仕留めたい。先ほどは気配で感付かれた、より物音が耳に届いて反応した感じだった。つまり、音をより無に近くすれば今度は気付かれない。
一歩目は音を吸収してくれる柔らかい土の範囲ギリギリのところ。この一歩目までは人間の反応速度でも避けられる可能性がある。目標をブレさせることなくただ音を殺すことに専念して、まずは距離を縮める。
二歩目、三歩目は剥き出しの岩の上。これからの足踏みは速攻をとにかく優先する。相手の時間が動く前に止めろ、その意気込みでただ足を動かす。
狙うは首筋ただ一つ。寸止めにするにしても、リトライ無しの本気の覚悟で臨む。
恵は今も靴を脱いでいる。ここまで時間がかかるのなら、縛るものが多い頑丈な靴を履いていたのだろう。そんな時でも、自分への意識はまだないとブラッキーは再度確認した。
一年はなくとも、何ヶ月ぶりだろうか。ターゲットロックオン、と心で唱えるのは。懐かしくも、憎くも感じる。
そして、恵の死角に入ったところで、ブラッキーはその闇の中で静かに地面を蹴った。
土を踏んだ柔らかい反発が、硬い石に爪を立てた感覚が、その流れの中で足に痺れを残していく。そして、背中を上から見据えるのはすぐだった。
ここまで来ても、気付かれてない。もちろん、振り向かれもしない。細心の注意を払ったおかげで、今いる場所も鏡の死角。あとは肩を鷲掴みにして、首に通る血管の上に牙を立てるだけ。右肩を捉えたブラッキーは、もう王手だった。
なのに、恵と目が合った。気付かれた。でも、振り向かれてはない。
少しだけある食器棚の窓ガラス越しの姿は、思ったより澄ました形相だった。不思議と、恵は何一つ違和感も覚えてもいなかった。
肩に掛ける予定だった両前脚を、まさに常識の横紙破りの強引な速さの手の平一つで縛られ、それでもなお小手に噛み付こうならば、まだ残っている勢いの向きを曲げるように、体は空中に投げ出された。空中で姿勢を立て直そうにも、一度ねじれた体の軸はそうそうは戻らない。
こんな短い時間では、なす術はなかった。ただその時にブラッキーに出来たのは、逆さまの視界の中で恵と視線を合わせることぐらいだった。
その後だらしなく広がっている後脚を両手で捕まれ、下に向いた頭は勢いのまま床に打ち付けられた。鈍い音が頭に響く。
「やっぱりすげえな、人間モドキさんよお」
打ち付けた頭の痛みは毛が生えたぐらいのもののようで、先に口を開いたのはブラッキーだった。囚われの身のくせに妙に楽しげな感じに、
「さっきから何なんだ。お前こそ殺す気でかかってきて、何がしたい?」
見下したまま、困った感じの面倒そうな面持ちをしている。まだいっぱい言いたいことがあるようだが、ブラッキーの答えが出るまで口を閉じていた。
「やっぱりじゃねえかなあと思ってみたら、案の定で・・・、おっと、こっから先は言えないね」
初めてまとも明るみに出たブラッキーの顔は、余裕の一文字だった。エーフィから見たら、今の状況を楽しんでいるだけに見えていたが、恵はまた違うことを感じ取っていた。
「お前・・・、直接には言いにくいんだけどさ」
『なんだよ、心で言ってみな』
ブラッキーはにやりと笑っていた。
そして、答えを聞いたのか、その軽い笑みは更に深くなった。
「やっぱり面白えな」
とてもゆっくりにして優しく降ろしくれるのはありがたいんだけど、やっぱりフミちゃん無理してるよね。手は震えているし、足のももの筋肉とか凄い盛り上がりで、そして何より顔が怖い。白く清潔感がある風呂場の前の部屋のライトでもまだ薄暗いこの環境のせいもあるけど。
それでも、三十秒もかける必要は無いんじゃない?と、その顔をシャワーズは伺っていた。
「良いんだよ別に。で、何度も似たようなこと聞いて悪いけど、怪我とかしてない?」
そのシャワーズを降ろしてカフミも、疲れを隠すように首を回して、なんでもないという感じで聞いてきた。
「大丈夫。で、なんかレバーが二つあるけど、どっちなんだろう?」
ふと、隣にあるシャワーズの背丈ぐらいに積まれたバスタオルの山を見たとき、偶然目の中に入ったのは自身の目の高さより低く、ちょうど前脚でも届くぐらいのところにある風呂のドアノブだった。何となく、上にあるものより安っぽくて取って付けた感じが否めない。
「どれどれ・・・、なんだこれ?」
カフミも初めて見たようだった。何度か風呂場を恵に案内されたことはあったが、こんなことは聞いていない。でも、
「これの意味は分かんないけど、上の取っ手で大丈夫だったはず」
上のドアノブを使ってきたので、そのまま平気だとカフミは考えた。そう、と返事をするも、シャワーズはまだ納得がいかないようで、
「でも、こっちを押したら何が起こるのかな・・・、あ、時間ももったいないし、止めとく?」
とっても押したげな落ち着きのなさだった。意外とまだ好奇心旺盛な幼さがあるみたい。
もし作動させたとして、恵にしか対応出来ない事態が起こったらと考えると、
「なんか大変なことが起きたら面倒だから、一旦風呂上がってからにする?」
「そうだもんね。そうしよっか」
無難な選択に限る、そのつもりだったが、シャワーズも同じように考えていたようで、今のところはスルーでも良い、となった。
結局、何事もなかったようにカフミは取っ手に手を掛けて、年季が入った証の擦れる音を立てながら扉を開けた。すると、
「あれ?動いたよ」
シャワーズは何かに反応した。さっきのドアノブの方をじっと見つめている。
「え?これって連動する系?」
確認を取る為に、カフミは斬新なものを見た時のノリでもう一度上のドアノブを動かす。そして、
「やっぱりそうだ!凄い!」
素人が見よう見真似で作った雰囲気そのままの、上のと不釣り合いなぎこちない動きをシャワーズは近い距離で楽しげに目に移していた。
「上を動かせば下も動くってことは、下のでも動かせるのか・・・?一旦扉を閉めるから、シャワーズちゃん、試してくれる?」
「いいよ」
楽しんでいるその笑顔が眩しい。そんな顔されるとウチも楽しくなっちゃう・・・。
などの雑念を首を振って飛ばし、カフミは少し頭を働かせていた。このあからさまな手作り感がある第二の取っ手は一体何の為にあるのか。あまり無い脳で色々憶測を立てていった。
が、無念なことに、パソコン漬けの毎日を送っていたカフミは、ギャグみたいなことばかりが冴えて、何一つ閃きのカケラも出なかった。ただ、無駄に時間だけは過ぎていて、
「フミちゃん、やっぱりこっちからも開けられるよ!」
気が付いた時には、もう何度も開け閉めをして遊んでいた。
ああ、なんと無力。自分はこれほどまでに知能が足りてないのか。
「フミちゃん?どうしたの?また落ち込んでいるけど・・・」
「いやいや、ただの考え事だから、お気に召させずに」
半ば習慣のようになったこの応答。カフミはまだ遠慮が十割といったところだが、シャワーズはだいぶ軽い対処になりがちになってきている。
「じゃ、さらっと体流そっか」
そう言葉通りさらっと流したカフミの顔を見て気付き、ほんの少し罪悪感もあったが、余計に気後れするのも害になる。シャワーズは何の躊躇いもせずガラスっぽいタイルの床に飛び入った。
くもりガラスの扉を閉めて、
「準備は大丈夫?」
そう言った裸足のカフミは直ぐにシャワーを取って水を出すつまみを捻ろうとしていた。
ふと、シャワーズは恵がやったやり方とは違っていると気付いた。恵君だったら、直接シャワーを使おうとはしなかった。
「ちょっと待って」
「えっ、何?」
「恵君は確かこれを使っていたんだけど、どうなのかなって」
これこれ、とつぶやきながら手で引っ張ってきたものは、百均とか雑貨屋とかでよく売っているようなプラスチック製の桶だった。シャワーズ自身の両前脚を入れたらそれで満杯のような小型のもので、
「どゆこと?」
とカフミはまたしゃがみこんだ。もしシャワーズちゃんを入らせたのなら絶対キツい。それに自分から勧めてきたのもなんか変。不思議に思う目線をシャワーズに送っていた。
「それ言ったら私もよく分からないけど、ただとにかく水の量のことを気にしていたのは覚えているよ。水が減るのはなぜ?って感じのことも聞いてきた」
そこは私の特性の話だったんだけどね、とシャワーズは丁寧に話した。
「じゃあそれ以外で特に見当たる理由は?」
「無いと思う。人間と触れ合っていて嫌じゃないのか?ってのもあったけど、その頃にはもう片付いていたと思うし」
シャワーズはそこまで言い切ると、もう一度風呂桶に目を通した。
一通り聞いていためぐはそんな細かいことも気にする人間だったっけ?とカフミは考えていた。確か価値観とか周りがどうこうとかは相当大雑把だったはず。確かに目新しいものに目が行くのは分からなくも無いが、めぐがそこまで興味深く観察してるのはどうも不自然。そもそもめぐは真新しいものを、見て食べて聞いて感じても、合わなければうんともすんとも言わない無駄に強硬な鈍感持ちでもある。合っても、人並みには到底及ばない反応しかなかったはず。
なのに、ああなのだ。もっと考えてみても自分じゃあ批判の意見しかない。結局、
「やっぱ考えていること良く分かんないよ、めぐは」
分かんない、の一言に尽きる。自分の考える能力では勝てっこない。
「あ、とりあえず、とっとと小汚い体を洗って、綺麗な体でもお披露目しちゃおっかね」
独り言っぽいグチを交えながらカフミはまた腰を上げた。急に言葉の選び方が、幼い子供を相手にしている先生みたいになって、男気強くいかつい印象からのギャップがまた一つ増えた。
とりあえずゆっくり話そう。フミちゃんは多分悪くない人間だと思う。
シャワーズは水滴が顔に当たる感覚が来るのを待っていた。