本物の、怪物が、あらわれた!
そのツキノワグマは間髪入れずに、リーフィアに突進してきた。
突然のバトルの開始、みたいなものだった。
ここで焦らないのは闘いの鉄則。相手をギリギリまで引き付けて、跳ねている間に鼻先が付くか付かないかの予測を建て、計算通り綺麗にかわし、ついでで近くの木に貼り付いた。
速度はそこまで速くなく、思ったよりか簡単にかわせたが、重量級なだけあって、ぶつかったツキノワグマが幹を大きく揺らした。だが、こんな木一本も折れないのなら、思ったほど攻撃力はないと見えた。
上から反撃を食らわせようと上から黒く太い首を見据えていたが、恵にはすぐに読まれていて、
「変に攻撃するな!」
滅多に聞かない威勢がその流れを食い止める。
「何で?」
「詳しいことは長くて説明は無理。とにかく面倒になる」
いまいち納得出来なかったが、今のところ、一番詳しい恵に従うのが得策。
となれば、脅かすのみ。手短に近くの小さな木の実を手に取り、中の小さな種を爆弾として使い、ほんの小さな爆発を起こせば、良い脅しになるだろう。
リーフィアはそう思い付くと、これ以上みんなを巻き込まないように、ツキノワグマを遠ざけるような位置の枝に飛ぶように移動し、折った枝をぶつけたりして挑発する感じで、安全な方に誘導していった。
それにしても、動きがのろかったりしたので、こんなものか、とリーフィアはかなり油断をしていた。エーフィがその気のゆるみに念を飛ばして注意を促すも、余裕、と考えに停めないでそのまま遠くに行ってしまった。
心配になり、戦線にいたエーフィ一行はなんとなく恵も連れて、距離を置きながら後を追った。
そして、手頃な木の実があったと思う頃には、すっかりみんなとも離れていて、リーフィアの思う通りにツキノワグマと一対一になっていた。
取っ捕まえようとしているのか、登ろうと真っ直ぐな幹を必死に引っ掻いている。そう登りかけたら、また別の木に飛び付けばいい。そのすばしっこい動きに散々背後を取られては走らされている為に、低い鳴きのように声鼻息が荒かった。でも、まだ余力はあるようだ。
「意外と簡単にはまってる」
ふと言葉が出てしまった。それだけ相手を見下していたのは言うまでもない。ただ、ゆっくりとついてきている仲間に危害がないかと、心配するだけだった。
「んじゃ」
リーフィアにとってはその程度だったらかもしれない。でも、今から起きることは、そんな軽々しい掛け声と釣り合うのか、普通の人間はそう思うだろう。
そのあとにその木の実に向け掛けた言葉は誰にも分からない。リーフィア自身も分からない。ただ、木の実に対する感謝の礼。しないと、気が済まない、といったところだろう。
そして、恵は何を仕掛けていくのかも分からなかった。そんな時、あのエビが呼んだ感覚がした。
『なんだ?』
『耳を塞ぐように。離れて』
ん?と疑問符を浮かべながら、恵はエーフィに視線を変えた。一体、幻聴のようで幻聴ではないような変な感覚はなんなのか、どこに置いても引っ掛かる疑問を無視するのは一苦労だったが、とりあえず両耳に手を当てて、より切り込む。
『音で脅かすのは分かっている、だからなんだ?』
『多分、あの木の実を爆発させるの。正確には種を爆発させているのよ』
は?
信じられるはずが無い。人間が簡単な解釈をすれば、転がっている木の実が破裂すれば、それだけで立派な地雷になるし、木を揺すって木の実を落とせば、それだけで空襲が始まると言うようなものだ。仮に爆発させると言って爆竹の塩梅で音で脅かすだけだとしても、自然のものがいきなり爆発するなんて、普通にひとたまりもない。
『でもさ、いくらなんでも・・・』
『気持ちは分かるわ。だってあんたは私達が知っているような人間じゃないもの。でも、少しは現実を受け入れなさい。あまりにも酷すぎて心配を掛けた人間なんてあんたぐらいよ』
厳しいお言葉ありがとうございます。
『どうも』
別に伝える意図もないような思ったことにも言葉を返してきた。そうだ、こいつは思っていること筒抜けなんだよな。恵がそう思ったことには返事せず、リーフィアに意識を移していた。
口に
蔕ごと木の実全体を含み、静かに歯で枝と離すと、自然の木々にありふれているエネルギーを少し無理するくらい注ぐ。普段ならもっと溜めるのだが、驚かすだけなので威力はこれぐらいと自分なりに抑える。ある程度溜まったら、わずかに温かくなって大きくなった感じを舌先で転がして、ちょっとだけ噛んで確認すると、
「・・・っ」
わずかに音を残して、口から放たれた“タネばくだん”はツキノワグマに向けて落ちていった。
額にぶつかり、次に鼻先に当たって、肩を転げ落ちた四秒後、それは強烈な音を周囲に浴びせて弾けた。あまりの音量の大きさに驚くあまり、恵まで転びそうになった。爆竹とかのレベルじゃない、本物の爆弾と変わらねえじゃねえか。はっきりと恵の心の心が聞こえた。
「あっ」
当の本人も、少し力の分量を間違えたようだ。長年能力を発揮していなっかたからか、裁量が随分腐っていたようで、普通に爆弾と同じぐらいの威力が出てしまった。
まあ、このまま逃げてくれれば良い。そんな軽い気持ちに、ツキノワグマは応えるはずもなかった。
大きな音で混乱したツキノワグマは、勢い余ってリーフィアがいる木に頭をぶつけた。ただ、さっきの力は冗談だったかのように、あと少しで幹が真っ二つになるかのパワーだった。しかし、まだリーフィアは慌てない。もう一つ茶色い木の実で迎え撃とうと手を伸ばした時、
不運が起きた。
ツキノワグマの二度目の頭突きと重なって、今移動したリーフィアの足元の枝が不吉な音がしたと思うと、予想通り、そのまま折れた。注意を払っていたら、前もって避けられただろう。今、真下にツキノワグマがいる。こうなればどうなるかなんて、もう誰でも分かった。
「リーフィア!」
叫んだのは誰だろう。多分エーフィだと思う。少し確証がなかったぐらい、その声は曇ったように聞こえていた。突然、鮮やかな紫色の空を見せられて、落下している時のリーフィアにそんな余裕もなかった。
訳が分からなかった。ただ、ゆっくりと落ちて行く感覚の中で、目の前に見える牙を見ながら、軽んじていた自分を呪った。
痛みを感じていなくなっているのは、もう痛すぎて逆に麻痺しているのだろうと思っていた。息は出来ないんじゃない、したくない。力も入れもたくない。もう分かっていた。もう少しで自分の命が終わる。
あれだけ怖がっていた死も、身近になるとここまで安心感が湧くなんて、不思議な感じ。もがく気力もなかった。死んだ瞳が生々しくみんなの目に映るだろう。ごめん、エーフィの言うことをもう少し頭に入れておけば、こうならなかったのに。
ごめんなさい。
謝ることしか出来なかった。やっぱり、自分はここまでも無力だったと、今更になって思い知らされた。
最後に、恵の声がうっすらと聞こえた。多分、呼び覚まそうとしているんだろう。何を言ったのかは、分からなかった。
ツキノワグマの強靭な大顎は、リーフィアの首を捉えていた。体と脚は糸が切れた操り人形のように重力に引っ張られ、息をしている気配は殆どせず、開ききった幹の色の瞳に光はなかった。
まさか、即死?
あれだけ忠告したのに、こんなのは無いよ。見たくない。エーフィの素直な心境は、本来の力がもしあったなら、一秒でも早くぶちのめしたい。そればっかりであった。恵が言った言葉はその気分をわかってただ介抱したに過ぎないと、始め思っていた。
しかし、まだ恵は未だに何かブツブツ独り言をつぶやきながら考えていた。その呑気さにエーフィは怒りを覚え、怒鳴り付けようとした。
が、恵の思考回路に、気になることが映り込んで、エーフィを呼び止める。そして、感情の囚われから目を覚ましたように、慌てて恵に聞いた。
『それって本当なの?』
『いきなりなんだ?』
自問自答している間に勝手に入ってくると本当にビビる。心臓に悪い。
『答えになってないわよ』
頭の中で直接響くのは体に悪いような気がしてたまらない。なんて文句を言っても今は堂々巡りなので、ちゃんと答えることにした。
『じゃ、それって?』
『無視したのか?とかって悩んでいたじゃないの』
『ああ、それか。ちょうどお前ら頼もうとして、リーフィア起こしてくれないか・・・』
『ちょっと待って。やっぱり、リーフィアはまだ生きているってこと?』
『分からないのか?』
今のはかなりイラっと来た。
『どう見ても分からないからこう聞いているんじゃない!本当に生きているの?』
『ああ。まあな』
本当だと決まってもいないのに、安心から足から力がなくなりそうになった。自分が分かっているのなら後は何も心配する気持ちを持たない?やっぱり最低だ。
『ああまあな、じゃないわよ!まったく・・・。でも、どうして?』
本当に信じられない。
力が入っても無ければ、息をしている気配もない。こんな状態なのに生きていると言われても、そう願っている身でさえ、少し疑いを持つだろう。
その疑いを拭う為の、長いちまちまとした説明が始まった。
普通、即死するような死に方をしても、例えば首を落とされても、ある程度(普通じゃない目を持っていないと分からないぐらい)体に軽い
痙攣が起きる、そうだ。一番分かりやすいのがトカゲの尻尾だ、と言われてイメージした生き物もまた知らないものだったが、その瞬間はグロテスクだと言うことだけで、思い出すのは二度と無理。気持ち悪いの一言。
とにかく、脳という主を失った筋肉は、制御が利いていないと一緒と言うのは少し違うが、簡単に言うと暴走する感じで少しだけ勝手に動く。それに、生命の危機があれば、意識に関わらず本能的に全力でもがいたりもする。つまり、本当に死ぬのなら、なんらかの動きを示すので、あまりにも無反応だったのは怪しかったのだ、と見ていたらしい。
ただ、生きていると確定したのは、声を掛けた時だった。その時以降、ずっと耳を立てっぱなししているのは、死んでいる身として明らかに不自然だったのだと言う。
トドのつまり、自身が知らないうちにリーフィアは死んだフリをしているということになるのだ。ただ、さっきの通り、起きる気配がないので、心での会話をして呼び起こして欲しいと頼もうとした時に、エビが首を突っ込んできた、と恵は普通に言ってきた。ここまでが常識感覚で覚えているのは甚だエーフィには信じられない。
そこそこ長い説明だったらしく、ツキノワグマとリーフィアはもうそこにはいなかった。
全く足音が聞こえていなかった。ツキノワグマも冷静さを取り戻せば、静かに忍んでいるのだろう。
「逃げたっぽいな・・・」
「逃げたな、って言っている暇あるの?」
「だったらお前らも勝手に足跡追って行けばいいだろ」
この場に及んでも、考えることを先回りして、と言いたかったが、
「そうしているわ」
それだけ言って、恵に言われたツキノワグマを追いかける方法を教えてくれたことに、心の奥で感謝していた。
入れ替わったように、帰って来なかったのを心配した残りの健全な戦線メンバーが集まってきた。来たら来たで、リーフィアがいなくなっていることをすぐに問い詰めて来た。
恵が言おうとしたが、エーフィに速攻で止められた。
『あんたが説明したら余計なことを言って、変に気をおかしくするから』
とのことで、“リーフィア死亡説”があったことを省いてエーフィが説明して、単純に連れ去られたことだけを話した。話し方が違うのか、恵が言う時よりも冷静にしていた。
そして、あっという間に移動を開始していた。まるで突っ立ったまま動かず考えごとをしている恵を置いて行くかのように。親切にシャワーズに声を掛けられて、初めて置いてかれたことに気付いた。
自分って思ったほどより生命力が強い。でも、生きている実感は全くない。
いずれ息絶えると思っている。だけど、首を噛みちぎられてしばらく経っているのに、意外と意識がまだ残っている。ツキノワグマにどこかへと運ばれている。そのうち餌にでもなるだろう。
そう思った矢先、すぐに固い岩の上に落とされた。
今度こそ終わりか。深い森の奥で生きてきたリーフィアは良く知っていることだった。
これから自身の解体が始まる。直感でも分かった。
横倒しの体にツキノワグマの体重が乗せられた前脚二本がのしかかる。想像以上に重い。かなりの吐き気がする。呼吸なんか出来っこない。おまけに太く黒い爪が目の先の肩に食い込んでいる。でも、痛みなんてとっくに限界を超えているから何も感じなかった。
ついにもう一度、首が咥えられた。ふと、ツキノワグマの黒く深い目とあった。完全に捕食者の目だった。
食われる。
あとは引っ張られるのみ。ツキノワグマは、リーフィアの首を思いっきり引きちぎる。
・・・はずだった。何故かツキノワグマは途中で力を緩め、リーフィアの頭が岩盤に打ち付けられた。まだ目が見えているので、別の何かが来たのかと思ったが、また、リーフィアの頭と胴体を引きちぎることを始めた。
が、じらすように、また力が抜けた。やっぱり餌を食べる時は警戒しているのか、まだ食いちぎりろうとしない。慎重なのだろう。
そしてもう一度、リーフィアの首を食いちぎろうと、ツキノワグマの牙は思いっきりかぶりついた。
しかし、そこまで力が入っていないうちに、また離したのだ。いくら警戒しているといえ、さすがに少し慎重になり過ぎている。そもそも自分が不味いのか?
気になってもう一度顔を見てみると、何故か異常に息が荒かった。違う、そこまで気を擦り減らしているんだ、とリーフィアはその意味で納得していた。
が、今度は何を思ったか、いきなり横腹の体重が無くなったかと思うと、首根っこを口で思いっきり持ち上げ、自慢の力で岩の上に叩きつけることを始めた。
痛みはないので、ただ頭の中がかき回されるような感覚と、目の前の風景ががめまぐるしく入れ替わる感じだけがあった。
そして、しばらくして、また止んだ。視界をごちゃまぜにされて何を見ているのか分からないリーフィアの瞳を、ツキノワグマはじっと見すえている。
そのツキノワグマの目には、既にあるはずのものがなく、半分諦めが見えた。
何故だろう。疑問が浮かぶも、考えが進まなかった。進むはずもなかった。
その直後、天変地異と変わらない大事件が起こった。
ツキノワグマが水しぶきを上げて横なぶりに吹き飛んだ。意識が半分戻っていないリーフィアにとっては、何の前触れもなく、一瞬でその場から消えたように見ていた。
そのあと、気合いが入ったシャワーズの声が、はっきりと聞こえた。
でも、正確に何を言ったのかは、分からなかった。
リーフィアの反応は?
辺りが一変して大洪水になっていることは二の次。エーフィとブースターが競うようにリーフィアの元に駆け寄った。
「大丈夫?」
「多分、今リーフィアに声を掛けても無駄よ」
エーフィの返しに少し困っていた。
「え?じゃあどうすれば・・・」
「私に任せて」
その言葉を聞き、なんだよ、とサンダースと同じ気持ちになった。
今のところ、まともに能力を使って戦闘をすることが出来るのはリーフィアとシャワーズのみ。ブースターも出来なくはないが、まだエンジンが掛かっていない不安定な感じなので、パワフルな肉弾戦で強引に突っ込むことはまだ出来ても、傷は付けず追い払うだけの神経質な闘いとなると、これまた少し都合が変わってくる。その場合は、その時ブースターが思い付いたのが、炎を撒き散らして脅し続けているのみ、などと炎をフルに発揮しなければならないものばかりで、今の状態で相手にすることは難しい。
仕方がない。背中をシャワーズに預け、言われた通りエーフィと一緒に手を握り、リーフィアの意識を取り戻す作業を始めた。
『リーフィア』
心に直接語り掛ける。あまり反応がない。それでも、もう一度、優しく心の奥に響かせるように、念を送った。
『・・・、エーフィ?』
敏感なエーフィも聞き逃しそうな、あったのかなかったのか分からないぐらいの小さな信号だった。その返事を手繰り寄せて、更に広げていくように、続けて心の深いまどろみに、今度はブースターが声を掛ける。
『大丈夫?』
『もう、さよならみたい・・・』
冗談だろ?
『そんなの、簡単に言っちゃ駄目。・・・だって、ほら、まだ手のひらも温かいから』
『でも・・・、もう殆ど感覚がない。もうすぐだって、分かる。・・・ごめんね』
ブースターが激しく訴える。
『どうやったらそんな弱気になるんだよ。そんなの、今度こそ強くなるって言ってるリーフィアらしくない。やっと自由を満喫出来るのに、まだこんなところでくたばっていたら・・・、この自分が許さない、絶対・・・』
涙が、その先を遮った。多分、そうなる。でも、諦めたくない。それでも、何も手立てが出来ないもどかしさがめちゃくちゃにひしめき合って、何を言っているのか自分でも分からない言葉がこぼれた。
その反対で、エーフィは悩んでいた。恵のように、リーフィアが死んだ気になっていることを話して置けば、ブースターやシャワーズに悲しませることがなかった。もちろん、このまま、本当はちゃんと生きているのよ、などと無感動な言動をしても、この心のつづりをぶち壊すだけ。
『だって私は強くない。そうやって、自分から決めつけて、逃げることしか出来ない・・・』
その間も、ドラマは進行している。
もう思い切って行動するしかない。
『エーフィも何か、情けなくて悪いけど何かしてくれ』
ブースターとのタイミングが合って、よし来た!と本気で思ってしまった。自分で、そうじゃなくてと、気を取り直し、
『リーフィア、ちょっとは脚に力を入れたらどうなの?へこたれていて、少しももがこうともしない訳?目を覚ましなさい!』
突き放すようなきつい言い方で、寝たきりのリーフィアに迫った。
『でも・・・』
『あのな・・・』
ブースターが止めようとするも、強い態度で押しきった。
『でも、とか言い訳無用。まずは、前足を動かして』
『だから私は・・・』
『こんなザコ敵に打ちのめされて、こうなっているのが恥ずかしくないの?』
『うっ・・・』
『分かったんなら、とっとと前足をしまって』
『はい・・・』
『次は後ろ足』
『何だろう・・・これ』
『今度は前足を地面から垂直に伸ばして』
『これ、何?』
『ほら、立ったじゃない』
普通に立てていた。
心配していた隣のブースターは目を真ん丸にして、何事もなかったかのようにリーフィアが蘇った一連の様子を見て、え、としか口から出なかった。リーフィア自身もまだ死んだ身としての実感を持ったまま、辺りを不思議そうに見ていた。
『あれ?』
『あれ?じゃないわよ。なに勝手に死に際だと錯覚しているのよ。ほら』
リーフィアとブースターが同時にほぼ同じことを思った。エーフィが言ったことは、偶然にもどちらにも言えることだった。
そのことには気付かず、リーフィアにだけ向けて言い、シャワーズの様子も見に行くわよ、とだけ残して、すぐに行ってしまった。
文句を言われないかと隠しながら少し怯えていたが、気付かれずに良かったと、心も晴れやかに片付けて、いつもの少し速目で歩いて行った。
「私、生きてるんだ」
「そうだね・・・」
ブースターがふとさすった首には何一つ傷はなかった。つまり、痛みが感じられないのは、本当に痛くなかっただけだった。よくよく思ってみれば、なぜ反抗しなかったのか、じゃあ、あれだけ噛まれていたのに無傷だったのは?と考えていると、変な間が空いてしまった。感覚が遠く感じた思い込みも、本当に何だったのだろう。今は確かめようがない、重く濃い霧に隠れた謎として、でも結構早めに風化してしまう、中途半端な疑問だろう。
「私、何していたんだろう・・・」
つくづく変な体験だった。
助かった身でも、何かが空っぽになっていた。
「本当に、何だったんだろう・・・」
その、ふわふわとした軽い空気を真っ二つに切り裂いたのは、一つの悲鳴だった。
「エーフィだ!」
それを期に、曇りは晴れた。
「行こう!」
ブースターは無言でうなずく。あとは、いつものリーフィアに戻っていた。
辺り一帯が水浸しになってぬかるんだ地面に足をとられながらも、シャワーズが向かって行った方に走ってゆくと、
「シャワーズ!エーフィ!大丈夫?」
何故か、遠目に見ても分かるぐらい、三匹ともずぶ濡れになって、というより、泥水に汚れていた。
シャワーズは何となく分かるけど、何で恵に、エーフィまで?ちょっと小首をかしげて更に近づくと、
「止まって!」
いきなり動きを制する声が掛かった。聞いた二匹はとりあえず足を止めて、何だろう?と入念に辺りを見回すが、何もなかった。しかし、
「エーフィ、な・・・」
ブースターが更に聞こうと一歩だけ歩いた時、注意される前に、エーフィと恵が泥まみれになった理由が体で分かった。
一瞬、前足が滑っただけに見えた。そう思えば足全体が地面に吸い込まれ、ドボン。
あとは黒い水しぶきがほんの少しだけ上がった。空の所に意識があったリーフィアは意外な場所からの突然のことに、ただ目を丸くしていた。
「またやっちゃった・・・」
シャワーズが申し訳なく言ったのと、ブースターがむせて咳をするのと同じだった。
この穴は、ツキノワグマとの激しい争いに出来たもの(本当はシャワーズが暴れていただけ)で、暗い中で判別がつきにくい。更に数も一個や二個ではないので、注意しないと必ずはまる。もう分かるが、恵とエーフィもその被害を受けて、この泥まみれになった。
泥水の味わいは、みんな同じ、不味い、の一言だったよ、とシャワーズが明るくしようと話してくれたが、あった反応は苦笑いだけで、黒い顔に晴れた気配はなかった。
結局、シャワーズが逆に一番明るさを落としてしまった。
ただ、恵が入水した時の様子はほぼ真っ直ぐに硬直した形で、三匹の中で一番綺麗だったのが、少し笑顔になれたことだった。
二度あることは、三度ある。
みんなの頭から、その言葉が離れなかった。多少シャワーズののろけ話とかあったが、殆ど緊張そのもので、珍しく静かだった。
恵は未だにリーフィアがどうのこうので考え込んでいる。サンダースを始め、グレイシアとかの体に怪我を持っているポケモン達が、泥だらけの体にくっつきたいはずがない。イーブイはさっきの恐怖から寝付けられず、そのまま歩いてきている。
日はとっくに沈んで、わずかに残った光は闇夜に負けかけている。もう少しで懐中電灯を点けるところだった。
落ち葉が浅くなった。もう少しで森を抜ける自然の印が、少しずつ感じられた。黒くて見えにくい部分の割合も減ってきた。
やがて、あの開けっ放しのガラス貼りの引き戸が影を落としているのが見えた。
やっと着いた。そう誰もが思った。
しかし、何かの影と掛け声とともに、視界の隅っこから表れ、達成感みたいなものを
拐っていった。
そして、一瞬で先頭を歩いていた恵の首本を襲い、倒れてしまった。殆ど音を立てずに。
目で追えないのには、本当に一回のまばたき分ぐらいしか捉えられなかった。でも、動体視力が強いサンダースには、さっきのとは比べ物にならない、本物の化け物じみた人間だと分かった。
その化け物の正体を知っているのは、気を失せた恵だけだった。
門倉 富美子、彼女だろう。
二つの悲鳴が、夕闇に響いた。