少し休もう
大きな一枚岩の脇を通り抜けると、それほど遠くはない距離にエーフィは座っていた。
まるで、シャワーズがここに来るのを予期していたように、もう目を向けていた。そもそも、エーフィはその能力を持っているので、来ることが分かっていた、と断定した方が正しいだろう。
そして、エーフィはまだ遠くにいるシャワーズを当然のように、警戒の対象として強くにらみ付けていた。
厳しい視線の槍が向けられて、足がすくみそうだったが、強い使命感を盾に奮い立たせて、負けじとエーフィに歩みよった。
しかし、意外にも先に口が動いたのはエーフィの方だった。
「あら、やっぱり来たのね、シャワーズ。しつこいにもほどがあるわよ」
憤りを極力抑えて、感情とは場違いなぐらいの穏やかな声を出した。わざとだと分かっているシャワーズは、
「そんなの分かっている。声が優しい感じになっていても、もううっとおしくて、ぶっ飛ばしたいなんて顔に書いてある。それでも、その危険を冒してまで私がここに来た理由、分かっている?」
エーフィの態度をそのまま流すように見て、自分が背中に負っているものを見せつける為に疑問を強く投げ掛けた。この場として、当然のような問いかけにエーフィは、当然な答えで返した。
「私との仲のよりを戻したい、それだけの理由でしょうね」
「違う。そんなもんじゃない」
即答だった。高い知能をもってしても、その時は否定された理由が分からなかった。心を読んでみても、さっき答えた意味を含むことをシャワーズは用意していたはず。負け惜しみ?だとしたらなんの為?恵と初めて対面した時のような動揺が、エーフィを霧のように包み込んでいた。その後もシャワーズの心境を観察しながらも、とりあえず他に思い当たる節を並べていった。
「え?じゃあ・・・、私がいなくなると、人間の心を読めなくなって・・・」
「そんな風に私はエーフィを見ていない」
「それでもない?もしかしたら・・・、この私を惑わせて手の平の上で弄ぶだけ・・・」
「それだけをしに来てたら、私がまともに会話なんてする気はないよ」
今度は言葉を切ることもしてきた。言葉にやや厳しさがあるが、それは表面上だけで、心の状態はずっと温もりを湛えて心配に、どこかに悲しみが細い糸のように交じった感情を持っていた。しかし、そこから垣間見えるものを答えても、シャワーズが納得することがなかった。自身で思っていること、考えていること以外を求めている?本当に意味が分からない。訳の分からなさから困惑して、思考外にも存在する何かに混乱して、早くこの禅問答を終わらせようと焦って、理解出来ない事実にイラつき始めて、
「じゃあ何よ!さっきから私の意見を全否定して!シャワーズの目的は何よ!」
手を出さざるを得ない気持ちになった。どこかで抵抗を感じないのも、力を使ってでも問題の処理を押し進める判断が出たからだろう。
その一声を皮切りに、エーフィは体を弾けるような動きでシャワーズに頭突きをかまして、横倒しにするとすぐに相手の腹を踏み台にして、青い体の上に馬乗りになった。
しかし、意外なことに、怒ってムキになっているその顔に、恐怖を一切感じなかった。
その光景を、岩陰からこっそりと目の当たりにしたサンダース達は助けに行こうと思っていた。しかし、シャワーズのあの言葉を聞いてしまったことを後悔するだけだけで、ひそひそ声でサンダースは愚痴っていた。
「ここで俺達がひっそりとするハメになったのは、何があっても、って言うからだぜ。こんなことになってでも取り戻す覚悟があるなんて、やっぱりどうかしている」
とても密度が高い緊張感と、不安と悔しさが交じった思いが、この場を占めていた。この場からさっさと離れてシャワーズの援護に向かいたい。だが、シャワーズが見積もっている計画が自分達の行動のせいで台無しにでもなったら、何をすればいいのか。それが思い付かない時点で、この場にいる全員には助けに行く権利はない。サンダースはやるせない気持ちから、自然と手に力を入れていた。そのすぐ右から、
「でも、シャワーズを相手にすると、エーフィの反応が少し違う。あそこまで感情が出てくる、っていうよりは表側に引き出せるのはどうしてだと思う?」
グレイシアがひそひそ話に乗って、サンダースに聞いてきた。二匹のやり取りを、自身もその場に立ったような思いで見ていた。その切迫した中で頭を回転させたが、
「分からねえな。エーフィの弱いところを突っついていると思うけど、何に対して苦手とか無かった感じだし、そもそも知らねえ。多分、シャワーズだけが無意識の内に分かっていて、みんながまだ分かっていないのを知っていてこうさせたんだろうな。俺にあんな芸当は無理だ」
何一つとしっくりくるものは無いことに変わりはなかった。少し左上の方で見ているニンフィアやブースターも、似たり寄ったりの反応だった。
仲間に危機があるというのに、ただ見ているだけに好ましく思わないイーブイは、
「危険な状況なのに、みんな支援をしない方がいいなんて・・・」
そんなこと、みんな思っている、とイーブイが声を出しているのを、リーフィアはそんな思いを乗せて静かに首を横に振り、優しく視線を送った。イーブイは自分を見ている瞳からそのことを察すると、静かになって二匹の方を見た。
これで、会話は途絶えて、みんなは二匹に見守ることを再開し、聞こえる声の数は二つだけになった。
ただ、今の自分達に出来ること、それは、無事を祈るのみであった。
疎ましい。
相手の思うつぼだと分かっていても、フツフツと沸き上がる怒りの感情に委ねがちになってしまった。こんな無様な自分を見たくない。けれども、今では、
十八番である冷静な体裁を取り続けることをシャワーズに奪われ、完全に立場が逆転してしまっている事実を変えられることは、どう足掻いても実力だけでは無理だった。その差を更に煽るように、シャワーズは痛みに顔を歪めながらも、エーフィの怒った様子を悲しそうに見つめて、対照的に優しく声を返した。
「もしかして、心を読んで探っていた?」
「そうよ。それ以外に何があるっていうのよ。いい加減答えなさい!」
自分が目の前で聞いたら、驚くことは避けられないほどの声に、エーフィ自身が驚いていた。それだけ、様々な規制のひもが怒りによって解かれていたのだと、再び気付かされた。しかし、シャワーズは怖がる様子を一向に見せない。それどころか、
「この答えなんて、そう簡単に言葉に出来るものじゃないし、言葉に出来る方がおかしい」
更にイライラさせる、ややこしいことを言い切ったのだ。いくら考えを起こしても出口が見えない上に、その一言一言が余計にその出口を遠ざける。考えをどう推し進めても矛盾して逆流が起きる。答えが出ない事がとても怖かった、悔しかった。はけ口が無くなって、物理的に攻撃するはずじゃなかったのに、こんなに心を乱されるなんてありえないのに、そう分かったつもりでも、
「じゃあ、答えって言葉に出来ないのなら、どうすればいいのよ!」
無意識の内に前両足に入れる力を強くしていた。自分以外に答えを求めることは、弱音を吐くのと同然だった。声の勢いをより落としてはいるが、こんな乱暴なものなのに相変わらずシャワーズは、
「何かの為とか、それだけでここに来たんじゃない。色々あり過ぎて、ぴったり当てはまる答えなんて私でも見付かんなかった。・・・焦っていて急に、変なクイズとか出して困らせたのなら、ごめん」
この柔らかい毛布で包み込むことは健全だった。徐々に足の力が抜けていった。
エーフィがどんなに怖い脅しをしても、恐ろしい形相で怒鳴り声をぶつけられても、その様子を見ていると、ただの偽りの姿を見せ付けるしか出来なくなったかわいそうな、相手を思いやる慈悲の心しかなかった。一見、エーフィの方が威勢が良くても、シャワーズには弱点を握られてしまい、何かに怯えて苦しんでいるように見えて、外側を凄みで固めても、内側にある弱くて、泣いているような部分も少しだけ見えた感じがした。それが今、一番知りたいことでもあった。
シャワーズの哀れに自分を見つめる視線に、逆に慈しまれているこの訳の分からなさ、更に自分でも出元が分からない恐怖心に自分を狂わされ、気が付くと、体力自体までもが
蝕まれていたのだ。本来なら、ここまで来ると意気消沈して、よほどの事態が起きない限り、行動に意欲が湧かないのだ。もうとっくに精神力の限界が来ていい所なのに、こうまともに相手に出来ている方が不思議なぐらいなのだ。
そうだ。
エーフィは、シャワーズの上からどいた。解放された方は予想外の展開になって、きょとんとして寝たままでいた。
「もう、放っておいて。・・・疲れたのよ、あんた達に」
もういっそのこと、恵のようにしてしまおう。シャワーズが出したあんな変な問いの答えなんかどうでもいい。こうしてシャワーズの方も変な感じに取り込ませれば、自然とイライラを起こして離れていくだろう。エーフィは数歩歩くとそこで力無く座り込んだ。何故こんな簡単な方法を思いつかなかったのだろうと、少し呆れていた。でも、こうしていれば、シャワーズもしつこくはしないだろう。無気力な顔で水の流れを見ていても、心ではちょっとした勝利宣言をしていた。
しかし、それは違った。
「そうだったんだ・・・、ごめんね、なんか振り回され過ぎているのに気付けなかったなんて」
そんなエーフィの予測を覆すように、なんの異常もないようにシャワーズは答えた。
「そりゃ、離れたくなるよね、疲れて投げやりになって・・・。いくら真面目に必死にみんなをまとめようとしても、変な方向に向いちゃったり、逆に反発されたら・・・一緒にいたくないって思っちゃうもんね。嫌なことばっかりで・・・ね」
一言でも本音が聞けて、少し嬉しかった。気持ちが明るくなって、寝ていた体を跳ねるように起こした。誰にも言えない弱い所がある。けど、エーフィはみんなのことをまとめる為に、絶対に弱い所は見せなかった。それがエーフィ自身に追い込んで強く縛り付ける鎖となっているのなら、絶対に断ち切ってあげたい。無理してまで見栄張っても、苦しいだけなら、もうそうさせたくない。その思いでシャワーズは必死に思考を巡らせた。
なぜ同情出来るの?もう同情もしないで。そう頭の中にまた意味不明さが渦巻き始めたけど、まだ続ければ変わる展開があるかもしれない。エーフィは運に身を任せるのは好きじゃないと思いつつも“多分”の心持ちで続けた。
「そう、勝手に喋っていればいいわ。私は動かない」
「うん・・・、」
言葉に詰まった。今度こそが、と思ったのも束の間、
「やっぱり一匹でいるのがいいんだね。私も少し眠気があるかもしれないだけだけど、ここでのんびりと横になっている。エーフィも自分なりに休んでていいよ。私の方はもう関わらないし、ずっとここにいるから気にしないで大丈夫。・・・少しぐらい自由にさせても良かったのに、変に迷惑を掛けて本当にごめんね」
三度目の謝罪。変化した答えを何度も返されて、困惑を通り越してうんざりしていた。突き離してほしいと言ったのにそこだけは無視しているの?もう絡んでこないで。
「そ、そう?もう私はどっかにでも行くわ」
けりをつけるつもりで最後に吐き捨てて立ち上がろうとした。
「良いんだよ、別に。自由になっても良いんだよ。だけど、これだけは言わせてくれない?ちょっとぐらいは休んでも今は本当に平気なの。ちょっと伸びてみても、やせ我慢も無理な強がりも、重いものも荷物も背負っているものも全部下ろしてだらけても、文句とかムチとか暴力なんか降ってこないんだよ。今、本音をさらけ出しても、不満をそこらじゅうにぶちまけても問題は無いんだよ。今までみたいに怯えなくても、安心しても良いんだよ」
だから、ゆっくりしようよ。
そしてお願い、自分を見失わないで。
その最後の言葉を聞いた時、エーフィに変化が起きた。
ただ、最後の言葉に何か懐かしさ、安らぎ、色々な思いが再び蘇った。無理してでも毎日を生き、笑顔を振りまく姿。寒さをしのぐ為に体を寄せ合った、その時の温度。まだ進化する前の姿のイーブイを励まし続けた日々。自由を掴もうと決起したその小さな掛け声。自分の後ろ姿を見ている年下の仲間の、自信に満ちた瞳。
気がつけば、全部裏切っていたのは自分だったのかもしれない。
なんで今、涙が出たの?
答えがすぐそこにあっても自覚していなかった。すぐ後に自覚したが、認めなかった。
「なんで、こんなものに・・・違う。何か炎症が起きたのよ。きっと」
声も出にくくなっている。違う。そんなんじゃないのに。
「違くない。それは正真正銘の涙。だから、強がりしてもすぐ分かるよ」
違う、私は・・・。
もう、素直になってもいいじゃない。
「もう・・・、あんたなんか最低だ!」
思いっきりシャワーズに体当たりをかました。
こんなの、自由にして良いと言ったシャワーズの責任なんだ。不満をぶちまけろとも、守っていた何かを捨ててもいいのも、言った当の奴が悪いんだ。報いを受けることは当然だ。
ただ、自身を正当化する機能は、ボロが出てき始めていた。
もう、エーフィに感情をコントロールすることが出来なくなっていた。一度溢れ出した思いは、洪水の時の川のように止まることなくだだ漏れしていった。暴言も暴力も何もかも溜まっていたものが全て一気に解き放たれる勢いは、嵐が吹き荒れるごとく凄かった。でも、それでいいよ、というようにシャワーズ少し笑って、
「力で押し倒そうとしても無駄だよーだ」
すきを縫いつつ面白おかしく言葉で茶化す。
「どうせ、私の良く分からない所にびびっているのぐらい分かるって」
「そうよ。その、あの変な人間みたいな意味不明な所が怖かった、気持ち悪かったわよ!」
泣きじゃくった声だった。調子に乗ってヘラヘラしている間抜けなシャワーズ顔にもう一度、体当たりを決める。ためらわず、手加減無しに次々と襲っていく。
「本当なら・・・サイコキネシスで木っ端微塵にしたい気持ちよ!」
息切れと泣きながらが重なって言葉の端々が滅茶苦茶で、しっかりと聞き取れるかも怪しかった。
「・・・流石に今のは痛いよ。でも、それが出来ないエーフィなんか・・・ウギャ!」
今度は脇腹の肋骨に直撃した。
「あんたもあの人間もサンダースもみんなも私自身も全部嫌だったのよ!突然新しい環境に放り込まれていつものように出来る訳無いじゃないの!それでも、みんなはみんななりにその人間に適応しようとして、前を見ているのに、この私のザマは何?ずっと過去の常識に捕らわれ続けて、頭の良さだけに頼りきって、それ以外になるといつも訳分からなくなるじゃない!心を抑えても余裕があるだけで、予想外だと?毎回毎回こうなる。何の茶番よ!一体何なのよ!」
そうして繰り出した一撃は今までで一番痛かった。体力はまだ余裕があるが、さすがに何度も受けていると少しきつい。進化系の中でも体力自慢のシャワーズの体も、時々よろめくようになっていた。それでもあと少し、もう少しでエーフィの全ての思いが聞ける。シャワーズはもうすぐだと、体を立て直して相手を見つめた。
「そして、私は取り残されていく。そうよ、そんなのがどんなに恐ろしいなんて当たり前じゃない。それでも、こうして怯えまくる自身を隠そうと、まあなんて愚かなこと・・・」
次々と言葉を吐いていくと、その前からの疲れもあったのか、次第に立てる力も無くなってついに、泣きながらダウンしてしまった。
いつまでも枯れない涙。止まらない本音の流出。もうどうでもいいと思う思いが、シャワーズの言葉によって出てきていた。
やがて、自分の思いを手当たり次第に吐いていった。
孤独が怖かった。独りの寂しさは味わいたくない。
だから、強引にでも仲間を引き留めようとした。
自分の存在意義がなくなるのも怖かった。自分に代われるものに、立場を排除されるのが怖かった。
だから、先導出来るような考え方の変化も気に入らなかった。
仲間が傷つくのを見るのが嫌だった。もうこりごりだった。
だったら視界に入らなければいい。だから、みんなから離れた。
もう、いくつも考えが矛盾していた。最後の砦であった頭の良さが、信頼出来るものでは無くなっていた。
プライドも力も自身を支える何もかも全てが音を立てて崩れた。
そんなちっぽけになってしまった今の思考で分かっていたのはただ一つ、もうめちゃくちゃだったことであった。
エーフィは泣いた。
久しぶりに本気で泣いた。
ただ、心から本気で泣くことはエーフィにとっては初めての経験だった。
その様子も、知っている言葉ではなんとも表せないものであった。
一番近い言語で言うのなら、暖かい、ぐらいだろう。
そのエーフィの傍らに寄り添い、母親が慰めるような暖かい視線を送っているのは、シャワーズだった。
「なんか色々凄かったけど、エーフィなりに素直になってくれればいっか」
エーフィには聞こえないぐらい小さな独り言をぽつりと言った。
今までの経緯、状態を見ると、明らかに軽い総括だった。それでも、この場では十分なものだった。
まだ全然ピンピンじゃねえか。
過去の記憶なんか、消える時は簡単に消えるとかいうけど、忘れようと思った時点で蘇っちまう。面倒なもんだ、つくづく。
あの親父がぽっくりだ。人間はどれぐらいもろいのか身を張って教えろ、とかって言ってねえし、世の中がどんだけおっかないことも、知りたくも無かったんだぜ。
なあ親父、今こいつらと対面したらどう思う?どうせ、実験だ実験だ騒ぐだろうな。
なんで自分が勝手に拾っちまったか分かるか?後先考えずに目の前の生命を助けると後でどうなるか、一番分かっているはずの自分がよ。
ほんと、生きものを飼うって嫌だ。おまけも付いて面倒ばっか。楽しさ?全然ねえよ。
最後に聞く。親父、もし世話するんだったら、親父はどうしたんだ?そして、こいつらは自分にとって一体何なんだ?
愚痴とも取れる疑問を闇の中で響かせると、何かが現れた。
いい加減自覚したらどうなんだ?
それは、封印していた、もう一つの考え方を持つものだった。別人格とは簡単に言えない、中途半端に意識を持った、記憶と同じく忘れようとした時に限って浮き上がる、わずらわしいものだ。
で、自覚してどうしろと。
あいつらの力なんて未知数とかで済むものじゃねえ。もし八つ当たりでも起こしたらどう責任を取るんだ?その頃にはもうとっくに死んでいるなんかは無しだぜ。
それ言われたら何も答えられるものが無くなっちまうじゃねえか。
まったく、どうなっても知らねえからな。
諦めだけは良いようで、すっと音もなく姿を闇の奥へと消した。
気楽でいいよな、あいつは。
そんな単純じゃねえんだぞ。
はあ、困ったもんだ。
この闇の中で出した言葉はそれで最後だった。