8月の老歌手―5
そろそろ別れましょう、と妻が言った。私は新聞から顔を上げ、黙って彼女の目許を見つめた。気が変わるのでは、と期待したわけではない。ファンデーション越しの顔は疲れ気味に見えた。離婚した後のことを考えながら、私はどう答えたものか迷った。別れを惜しむつもりはないが、気の利いた返事ぐらいはしたい。結局は普段通りの返事を心掛けて、「ああ」と短く言うことにした。それで、いつにしようか。妻はほっとしたような表情で日の差し込むガラス戸の方に顔を向けた。私も新聞紙を畳みながら、そちらを向いた。ドゴームが寝ている中庭から差し込む真っ白な光。軽く微笑みながら妻の方を見る。彼女の顔から色が抜け落ち、耳の後ろが薄く罅割れた。チラチーノの毛のように。真珠のピアスが小さく揺れるのが目に焼き付いた。離婚の話を進める妻を見ながら、彼女の化粧が変わったのはいつだったか、と思った。いつだったかな、と私が言うと、彼女は少し呆れたような、照れくさそうな素振りを見せる。もう、昔の話はやめましょう。私は微笑んだ。すまないね――と言いかけて、やめた。愛称で呼びそうになったところを名前で呼ぶ。穏やかに二人の道は分かれつつあった。彼女が化粧を変えたのはいつだったのだろう、と私は思った。自分を華々しく見せるためではなく、みすぼらしく見せないためへと変えたのは。
久々に自分の部屋で目覚めたような気がした。昨日のバトルの後クラウトに教わった店で夕食を取って、自宅に戻ってからは白ワインを飲みながらN・スグル脚本の古い映画を見た。目覚ましの音が小さく、メールを確認してからようやく目が覚めた。一通届いていた。時計が指定された時刻を指していた。
「悪いことをしたな」とつぶやいた。私は顔を洗って、乾燥したパンを口に放り込んだ。昔ならまず食べることはなかった味だ。喉の水分が殆ど奪われてしまうから。だが、そういうことを気にしなくていいのは、確かに楽なことではある……。髭を整え、ストライプ柄の薄い焦茶色のジャケットを羽織る。予定時刻から三十分が過ぎた頃、ようやくグラウンドへ向かった。アルコールに蝕まれた体が重かった。
「待ちくたびれましたよ、コーソンさん」クラウトはしばらく私に背を向けていたが、瞼を擦りながら言っているのがすぐ分かった。眠たげな声色で、怒るというよりはぼんやりとした様子だった。能天気なところがあるのだろうか、私が着くまでの間に居眠りをしていたらしい。慣れも存在するのだろう。駆け出しの指導にかけてジムトレーナーの右に出る者は居ないし、今の私はそこら中にいる駆け出しと何ら変わりない。その場で適性を見ながらで十分、ということだ。あれこれと指示を出し、私とドゴームはその通りにしようと努力した。マッスグマが協力してくれた。クラウトはグラウンドの脇に立って、私たちのことを見たり、たまにどこかへ向かったりしていた。一通り指示されたことを済ませると、やがて彼が口を開いた。
「先日申しあげたとおり、ドゴームの実力が高い。このままでは力押しになるでしょう。ですが、コーソンさんが数日間練習すれば戦えるようになると思います」
「ドゴームを褒められると悪い気はしない。しかし、私にそこまで出来るとは思えんが……」
私は意外に思って言った。クラウトはマッスグマをボールに戻すと、私の方を見て説明を始めた。
「意外に思われるかもしれませんが、コーソンさんの実力も低い訳ではないんです。ドゴームがここまで成長するにはトレーナーの実力が必要不可欠ですから」では、なぜ……私が口を開くと、多分、とクラウトが言った。
「僕は歌に詳しくはない。でも、バトルのことは分かります。ドゴームの低音は戦いの中で鍛えられたはずだ。バトルで実力を発揮できなかったのは、ドゴームが傷つくのを過剰に恐れているのが原因でしょう。もちろん無暗に傷つけるのは悪いトレーナーですが、ポケモン達は全く傷つかない状態を望んでいる訳ではありません。そうでなければバトルに出るはずがない。少なくとも、あなたとドゴームの仲ではそうだ」
そうかもしれない、と思った。いや、そうなのだろう。私はドゴームの方をちらと見た。口を噤んでクラウトの言うことにその大きな耳を傾けていた。
「そこで、なんですが」クラウトはポケットから何かを取り出した。「バトルの際にオボンのみを持たせてみませんか?傷ついた時に食べると傷を癒してくれるきのみです。持ち物を変えるのには抵抗があるかもしれませんが……」彼の手のひらには黄色いきのみがあった。
「なるほど」と私は言った。「慣らしていくのはいいアイディアかもしれん。やってみる価値はある」
私はドゴームと目線を合わせ、今持っているものを一旦渡すように言った。今の持ち物はバトルの役に立たないし、何の役にも立たなかった。くすんだ色味の小さな石で、言われなければ持たせていることさえ忘れていただろう。私はすぐにでもオボンのみを買ってみるつもりでいた、だが、私がドゴームの手を見た途端、その石にまつわる記憶が急激に蘇ってきた。
「そのかわらずのいしが何か?」とクラウトが言った。「どうしたんです」
私はドゴームの手と自分の手とで、その小さな石ころを強く包み込んだ。ドゴームの肌に触れ、握りしめながら、掌に丸い痕がつくのが分かった。グラウンドの中心で俯いて、私は微動だにせず静かに座り込んでいた。窓からは強い光が差し込んでいる。
「ハネムーンの時に」と私は言った。何か沈殿していたものを絞り出すような声で。「妻がくれたものだ。もう別れたがな」
「それは……」クラウトはそれを聞くと目を見開いた。「すみません、無神経でしたかね」
顔をあげて、いや、と私は答えた。「人が不変を願うのは、心の奥底では変わらぬものなどないと分かっているからだ」
腰を庇ってゆっくりと立ち上がりながら、私はクラウトの顔を見た。
「その内変わる日は来るだろう。だが、今日ではなかったらしい」
私は微笑んで、事態は深刻ではないと思わせようとした。クラウトはグラウンドの整備をするらしい。次のバトルの約束をして、私たちは別れた。ドゴームが強くその石を握りしめていた。