8月の老歌手―4
格好をつけたところまでは良いが、肝心のバトルはひどい有様だった。あっちへふらふら、こっちへふらふらと、まるでヒウンの人波に揉まれる若者のような動き。しかしドゴームが悪いわけではない。私の腕が衰えたのだ。昔を意識し老いを吹き飛ばそうとしたが、無駄だった。歳月を経て失ったものは栄光だけではない。クラウトはやはり強いと思う。二度目の『ハイパーボイス』がコートに虚しく反射した。マッスグマが懐に飛び込んでくる――もちろん一撃で倒されるとは考えていなかったが、肝を冷やした。『でんこうせっか』を鼻の辺りに受けたドゴームを見て胸を痛めた。『かみつく』ように命じたが、ドゴームの方はまだしも、その時の私は半ば諦めていたように思う。歯がかみ合う音が聞こえた時には、そこにマッスグマはいなかった。実際そんな技を喰らうはずもない。「もうやめにしよう」と半ば諦めるように言った。
双方が殆ど傷つかないままにバトルは終わった。クラウトは私の方に近寄って慰めるような視線を送ってくる。「ひどいものではなかったと思います、コーソンさん。バトルから長い間離れていれば、昔のようにいく方が稀ですから。指示は的確とは言い難いですが、最初に技を繰り出すときの息の合い方。あれには驚かされました。気になった点は他にもありますが、どれも改善できるものばかりです。今日のところはもう終わりにしましょう。あなたと、ドゴームのためにも」
「せっかく越してきたのだから、できれば直したいものだな。親切にどうもありがとう」と私は言った。
「まあ、ネズさんに言われてますから。コーソンさんが大丈夫そうなら、練習は明日からでもいいですよ。それに、あれだけ強いドゴームに信頼されてる人ですし」
「それはいい考えだ。ま、確かにあれは強いな。ドゴームはもう大丈夫らしい。あのステージに上がりたくてたまらんと言ってる」
ドゴームは土煙を上げてコートを駆け抜けると、ステージの前に立って、私の方をじっと見つめた。普段は落ち着いていて、頼れる相棒なのだが、歌となるとすぐこうなる。信じられない程純真なところがあるのだ。私は肩をすくめてみせた。彼は納得したような素振りを見せて、クラウトと私の話し合いが終わるのを待っていた。
クラウトは安心したような表情になった。私が思ったより落ち込んでいないように見えたからだろうか。「上がるのは構わないと思いますよ」彼はマッスグマを労い、ボールの中へ戻した。「すみません、腹ごなしとしては失敗でしたね」と彼は言った。
「いや」と私は答えた。「老人の身には、これでも十分だ。うん……そうだな。若いころの記憶は美化されると言うが、バトルもそうだったのかもしれん。もしかすると、あの頃はそれ程荒れた時代ではなかった。もしかすると、私はそれ程のスターではなかった」
「大丈夫ですよ。いつか元通りになります」
昔を懐かしんでいると、ドゴームの囁くような歌声が聞こえてきた。珍しい。大声で歌い上げるのが好きだったはずだ、そう思いステージの方を見れば、マリィが座り込んでいる。隣には小さな影があった。「モルペコか」と私は呟いた。すやすやと寝息を立てている。きっと疲れて寝てしまったのだろう。マリィはうっすらと微笑んで、パートナーの小さな黄色い腹を撫でていた。
「繊細な声ですね」クラウトが声を潜めて言った。「流石はあなたのパートナーだ」彼もステージの方を向き、マリィとモルペコを見て、笑みをこぼした。マッスグマのボールを左手で撫でながら、暫く時間をつぶしていた。昔と比べてもドゴームの技量には磨きがかかっている。聞き惚れるということはないにせよ、もう少し自由に歌わせてもいいと感じた。スローテンポにアレンジしたポルカと繋げて、『我が心のブルー』をしっとりと歌い上げる。肩の力を抜いて、少しずつ心の内をさらけ出すように。郷愁と、希望と、少しの諦念。そう、その調子だ――しばらく耳を澄ましていると、マリィが小さく欠伸を漏らすのが聞こえた。
「あの子もだいぶリラックスしてるみたいですね」とクラウトが言った。「もしよければ、話しかけてあげてください。あなたのことを知りたいでしょうから」
ドゴームも私の方に目配せしたので、私は言われるままにマリィの方へ歩み寄った。合図すると、ドゴームもその通り歌声を小さくしてウィンクを送ってくれる。私は怖がらせないよう注意してモルペコの側に座り込み、マリィの方を見た。「やあ」と私は言った。「さっきはグラウンドを借りてしまってすまない。退屈だったろう」
「おじいさん」彼女はほっとしたような表情をしていた。「そげんことなかばい」
「本当かね?」私は大袈裟に驚くようなポーズをとって、冗談めかして笑おうとした。「私はすっかり参ってしまったがなあ」
うまくいっただろうか?先程のバトルの衝撃は自分で思うよりも大きかった。私の覚えているようなバトル。あの日フォーマックと行ったような熱い戦いではなかった。正直な感想だが、少し皮肉っぽい言葉だったかもしれない。マリィは少し考えるような素振りを見せた。始めは誤解を心配した。不安そうにはしていなかった。別のことで悩んでいる気配があった。
案の定と言うべきか、マリィは困ったように眉尻を下げた。
「確かに、ドゴームが戦おうとしとーとにおじいさんが諦めとったんな、ようなかばってん」マリィは言葉を選ぶようにして話し出した。
「バトルって、べつに強さだけやなかけん。アニキはそげんこと言えんちゃろうけど、ポケモンとトレーナーがお互いば想うとー、考えと―って分かれば、あたしはよかバトルだって言うたっちゃよかて思うから」言い終えてから、またモルペコの寝顔を見つめて、控えめな笑みを浮かべた。「うん。それが全部やなかけど、よかバトルやった。おじいさんがドゴームと仲よかだけでん、羨ましか!て思うな。あたしもモルペコともっと仲良うなりたかけん」
その言葉を素直に受け入れるにも、逆上するにも、私はあまりに年を取りすぎていた。「ありがとう」と私は言った。
「すまないね、こんなことを聞いて。嬉しい言葉だった。何か私に協力できることがあれば、ぜひ言ってほしい。まだ、小さな恩返しぐらいはできるつもりだ」
私はクラウトの元へ戻った。彼は小さな円を描くようにうろうろとグラウンドの中を歩き回っていた。「ひやひやしましたよ、コーソンさん」クラウトは大げさに頭を抑えた。どうやらここのジムトレーナーは過保護なきらいがあるらしい。
「これは失敬。だが、とてもいい子だ」
「そりゃ当たり前ですよ。でもコーソンさん、あの笑い方はなんですか?」クラウトは顔を少し顰めた。
「何のことかね?」と私は言った。
「あの空笑いのことですよ。マリィちゃんが気付いてなくてよかった。コーソンさん、あなたはショックだったみたいですけど、まずはバトルの練習をしましょう。その内直りますよ。コーチは僕がやります。あなたのドゴームと、もう一匹……確かオンバットだそうですね。らしいポケモンだ」
「待ってくれ、なぜ君がそれを?」
クラウトはロトムフォンを呼び出すと、画面を私に向けた。少し古いサイトに、私とフォーマック、それと何人かの歌手の写真が載っている。「ネットに書いてありました。流石に有名人ですよ、コーソンさん。とりあえず、基礎練習からやっていきましょう。明日……は忙しいので、説明とウォーミングアップで。明後日から始めていきます。本当は同じくらいの相手が居ればいいんですが」クラウトはいつのまにか宙に浮かぶロトムフォンに目線をやって、予定を聞いている。
「そのバトルのことなんだが」と私は言った。「一度、マリィちゃんとバトルの練習がしてみたい。いいかね?」
「え?」クラウトがこちらを向いた。「……えっ?」