8月の老歌手―3
全盛期の夢を見ることは幾度となくあった。とはいえ、酔いを残したまま見るのは今回が初めてだ。寝返りを打つと、絨毯のような何かにぶつかった。優しい感触に警戒心を感じた。絨毯に対して?いや、本当に混乱していたのだ。恐る恐る目を開ける。最初の二回は目の前が真っ暗で、もう一度目を開けると白い毛が見えた。だからといって、何かが分かったわけではないのだが。
しばらく経ち、ようやく首をひねる元気が出てきた。目線を少し上げて瞬きをした。アイボリーの天井を見ると、少なくとも我が家ではないことが分かる。ぼんやりした意識の中で、私は自分が知らない場所にいることを悟った。
目を覚ますと、ひどく頭が痛んでいた。かすんだ視界にはよく鍛えられたタチフサグマの姿が浮かんでいた。腕を目の前に交差させてメトロノームのように揺れていた。ここがどこなのか、ますます分からなくなってきた。
まずは現状を把握せねばならないと私は考えた。昨日は何をしたのだったか?もっともらしく脳裏に光るコンサートの幻覚を振り払って、懸命に思い出した。そう、確かバーに居たのだ。曲のフレーズを頼りに、頭をはっきりさせようとした。二人で逃げてしまおう、陽炎と、あのバッフロンの群れと一緒に。何か歌った覚えがあった。カクテルも三杯ほど飲んで。
遠くから、「おじいさん起きたと?」という声がした。知らない少女の声だった。
「そうみたいですね」こちらは知っている男の声。「しかしマリィ、あの人に近づきすぎてはダメですよ。酒臭いですから」
「そげなこと言うちゃ……」声はだんだん近づいてくる。「言ったらダメ」もう私にも声が聞こえていることに気付いたのか、幼い声が急いでスパイク訛りを直した。
ちょっと間をおいてから、二人が視界に現れた。一人はネズ。もう一人は黒髪碧眼で、片側に剃り込みが入り、ツインテール、根元には小さく角が生えているような髪型で、隣のアーティスト同様ほっそりして、知らない人を目の前にした時特有のぎこちない表情を浮かべていた。
なにか言わねばと思ったがうまくいかない。咳以外に喉を抜けたものはなかった。タチフサグマはすかさず水の入ったコップを手渡してきた。流石によく躾けられているらしい。
「脱水寸前だそうですよ。少しずつ飲んでください」とネズが言った。私は言われた通りにした。吐き気のせいかひどい味だったが、なんとか飲み下した。気持ちが静まり、注意深く辺りを見回しても、結局のところ、既視感のあるものはない。
「君たちが酔いつぶれた私の世話を?」私はたずねた。
ネズは私が寝ているソファーの方に近づいた。シャワーを浴びた後らしく、彼は水玉模様の黒い部屋着に長い髪を真っすぐ下ろしていた。ファンが知ったら喜びそうな服装だ。ほかの人間が着ていたら時代遅れに見える服装でも、ネズが着ているとなんでも洗練されているように見える。職業的にはいい資質だと、私は思った。趣味こそ異なるが、その部分は変わらないだろう。フォーマックが被っていた折れ帽と同じように。
私は棚の上に置いてあった写真をじっと見つめた。若い頃のネズ、もっと若い頃の黒髪の少女が写っていた。「この子が、その妹さんか」と私は言った。「いい写真じゃないか」
すぐに視線を外そうと思っていたが、実のところ、首を動かすのがひどく億劫だった。
少女は照れたような様子だった。「そんなに長いこと人ん家の写真を見やがるんですか」ネズは顔をしかめる。「流石はレジェンドですね」
「アニキ」と少女が言った。ネズは諭すように少女の肩に手を置いて何かを告げると、私の方を一瞥した。きっと事情を説明していたのだろうと思う。次に彼は私の目の前にちょっと屈み、目線を合わせて言った。「コーソンともあろう歌手が、なぜあんな真似を?」
「あんな真似か。落ちぶれた歌手がバーで酔いつぶれることに、何か問題があるのかね」と、私は答えた。「どうやら、君の家まで運んでくれたようだ。もちろん昨夜のことには感謝はしているが。それは、いくら感謝しても足りないぐらいだが」
ネズは早々と立ち上がり、少し険しい口調で言った。「アンタ、まだ自分の声の価値を分かっていやがらないんですか?アンタは単なる歌手じゃないんですよ。まして、落ちぶれた歌手?もっとありえません」
私は抗議しようと何かを言いかけた。ところがネズの方を見ると、彼はもう出かける準備を終えるところだった。多忙なアーティストの動き方だ、と私は思った。
「シャワーを貸しますから、酔いが落ち着いたら入ってください。しばらくしたらジムトレーナーが来る予定です。いいですか。それまでの間、妹に何かしないこと。自分の立場を考えること。これを守ってくださいよ」とネズが言った。私が声の聞こえた方へ首を回し終えた時には、ネズは家から出て行こうとしていた。
玄関ドアが閉まる音がし、それから私はネズの妹さんに何かを言おうとして、目線をそちらへ向けた。確か、マリィという名前をしていたはずだ。「情けない大人で申し訳ない。本当に、私は落ちぶれた歌手なんだが」と私は言った。
すると、玄関ドアの開く音がした。もう一度険しい声が入ってくる。
「いいですか、マリィに、何も、しないこと、です」
彼はすぐに出て行った。今度は鍵のかかる音がした。
正直、私はこの状況に覚えがある。熱狂的なファンだった妻との出会いに似ていたのだ。だが、私のことを知らないはずのネズがこのような行動に出るなど、いったいどういうことなのだろう。ガラルのことはよく分からない。色々考えたのち、私は何もかも億劫になって、気付けば再びソファーに横たわっていた。酔いは収まってきたものの、今度は起こっている事態の何もかもが霞んでいた。タチフサグマは少女を庇うように立ち、相変わらずユラユラと揺れていた。
ようやく決心がついて、「失礼した。さて、私はシャワーに入ることにしよう」と私は言った。歩き出してすぐにタチフサグマの鳴き声と少女の声が聞こえてきた。私は立ち止まって、何の用かと振り向いた。
「あの、そっちは洗面所じゃなくてアニキん……アニキの部屋、です」
私は苦笑いで誤魔化すことにした。まだ、酔いは完全には醒めていなかった。
シャワーを浴びるのは嫌いではない。少し面倒で、常に好ましく思っているという訳ではないが、単独コンサートを終えた後のあの心地よさはそれを補って余りある。二日酔いの朝に浴びるシャワーも同じだ。酔いさえひどくなければ。そして実際、酔いはおさまりつつある。私は古い歌を口ずさみながらボディソープを掌で受けた。私が古い歌と言うのは、廃れかけている歌のことだ――あるいは消耗したレコード、その時代を知る者の一人はいみじくもそう呼んだ。私が話しているのは、それこそ『オーガスト・フォー・バッフロン』といった種類の歌い継がれることのない歌のことだ。刻まれた溝に埃が溜まり、針が空滑りし、これ以上増えることのないレコードのことだ。経年変化を経て忘れ去られた曲のことを言っているのだ。肌を滑らせるように手を動かすと、つま先から首までが泡に包まれた。ゴールドディスクを獲り、そこでフラッシュを浴びながらの授賞式が行われる。それから何度か波があるが、さらに五年かそれ以上経つと、気付けばひびが入っている。
体を流しながらぼんやりと思った。これらすべて、かつては偉大だった。そして現在は悲劇であり、つまるところ、常に当然なのだろう。
ドライヤーで髪を乾かしていると、玄関扉が開く音がした。おそらくはジムトレーナーだ。今の格好で出ていこうか?それは魅力的なアイデアのように思えた。私はもはやスターではないということを、これ以上ないくらい端的に示すことができる。ただ、ネズやその妹さんのことを考えるとそういう訳にもいかなかった。パンツとシャツのみ、首にはタオルを掛けている。そんな人間がネズの家から出てきたら大問題だ。結局私は髪を乾かし続けた。ドライヤーの風量は思いのほか弱い。この後の面倒ごとを忘れて白髪に櫛を通す。髪はよく乾いた。髪は実に、よく乾いた。
ジムトレーナーが私の顔を見る頃には、私は既にそれなりの服装に着替えていた。と言っても、ネズの私服を借りただけなのだが。二度目のリビングは待合室のような仕上げになっていた。柔らかい寝心地のいいソファが置いてあり、硝子のテーブルには、ネズが表紙を飾る見栄えのする雑誌が置かれていた。私は少し表紙を眺めてから、忘れていた、という風にジムトレーナーの方を見た。小太りでも、清潔感はある。髪は全体的に短く刈り込んでいるが、真ん中がトサカのように伸びていた。そう……例えばイッシュのバッドボーイを横に引き伸ばしたら、こんな見た目になるだろうか。
「おはようございます」と男は言った。眠たげな眉の下で目が困惑気味に動いている。「クラウトといいます」
「おはようございます」と私も言った。「コーソンです」
私は手を差し出して、握手した。癖になっているのだ。もう握手して喜ばれるような歳ではないのに。
「ネズさんから街の案内をするように頼まれたんで、お互いのことを知っておきたいと思いまして。朝食はもうお済みですか?」彼は時計を見ながら尋ねた。「どちらかといえば、もうお昼ですかね」
「いずれにせよ、まだでね。なにかいいところがあれば、そこで食べようと思う」と私は答えた。
「ああ、それならいい食堂がありますよ。どうです?そこで軽くランチでも」
彼がそう言うと、マリィが後ろからひょっこり顔を出した。「おじいさんの分の朝ごはんも用意してあるから、食べていって欲しいばい」
クラウトは少し驚いたような顔で言った。「そうだったのか。ではコーソンさん、朝はこちらで」
彼は洒落たダイニングテーブルの方に手のひらを向けた。「じゃあ、お言葉に甘えるとしよう」と私は言った。待っているとサンドイッチが出てきた。
私は朝食を食べた。トーストの焼き加減は素晴らしいが、卵は少し茹で過ぎだと感じた。これは単なる好みだから、私も構わない。ネズの妹さんは料理上手な方だろうと思う。ただ、ドレッシング。これは金属の味がした。ガラルの味付けは慣れない。多分、いつまでも。
クラウトが言った。「僕の大好物なんですよ。この子が小さい頃は、差し入れでよく持ってきてくれたもので」マリィはどことなく緊張した面持ちで見ていた。
「どう?」と妹さんが言った。
「ああ……」眉の筋肉が動くのを抑える。「本当に美味しいサンドイッチだ。お礼を言わせてほしい。現役時代でもここまでいいのは食べたことがないからな」
私は笑顔で嘘をついた。お礼を言いたいのは本当だったが。
一時間後、私たちはスパイクジムの、暗いフィールドの脇にあるベンチに座っていた。小さな客席を保護するこぢんまりとした装置、スポットライトが六つほど。一段高くなったステージの片方には、スタンドマイクが一本置いてある。意外と悪くない、と思った。他のスタジアムは人が居ないと空白を持て余すような雰囲気があるが、ここはそうではない。夜のレストランと大きなコンサート・ホールにそれぞれの良さがあるのと同じことだ。コンサート・ホールが空いていれば大惨事だが、レストランが空いていてもさして違和感はない。むしろ風情がある。このフィールドは後者だ。私はしばらく天井にあるスポットライトを見つめて、あそこから降り注ぐ光はどんなものだろう、と想像した。
クラウトは、フィールドを転げ回るモルペコを見て口を開いた。「マリィちゃん、喜んでいましたよ」コートにはマリィの姿もあった。
「それならいいんだが」
「あの子、表情があんまり変わらないんです。僕たちはすぐに分かるんですけど」クラウトはベンチから腰を上げて、少し申し訳なさそうに笑った。「すごくご機嫌で。嬉しかったんでしょうね、褒めてもらえて。そのおかげで僕たちは腹ごなしにここまで来ることになった訳ですが……コーソンさん、お疲れでは?」
「普通だよ。ちょっと食べすぎた気もするが、あまり変わるところはない。ただ、バトルができるかは怪しいだろうな。何十年もやっていなかったものだから」
「僕の経験上、腹ごなしにはこれが一番なんですよ」彼は胸を張って言った。「まずは実力を見せていただこうと思います。その後は、お互い楽しみましょう」
「まあ、そうしてくれるならありがたいよ。さて、ドゴーム」私は呼びかけた。「出てきなさい、食後の運動にちょうどいい場所だ。ヨプのみが腹に溜まってきた頃じゃないか?」
彼はしばらくの間コートを見回すと、ステージとスタンドマイクに目をつけ、確認をとるように私の方を向いた。「残念だが、そっちじゃない。久々のバトルだ」
クラウトは私のドゴームを見て意外そうな顔をした。思ったよりも練度が高かったらしい。
「随分と鍛えられてますね」
「場数だけはそれなりに踏んだからな」と私は言った。「なんと言おうか。安っぽいバーで頼れる用心棒に恵まれることは稀でね」
しばらくの間クラウトは私の相棒を見つめていたが、やがて自分を納得させたような素振りを見せ、マッスグマを繰り出した。白黒のストライプ。珍しいガラルの姿だが、ドゴームは相変わらずステージの様子をチラチラと伺っていた。
「歌がお好きなようで」
「これでもマシになったんだよ、私が落ちぶれてから随分と経つからね。昔はああいった設備を見るたび飛びついて歌いだしたものだが、私がこの体たらくでは、な……」私が言うと、クラウトは神妙な顔をした。笑ってもらうつもりだったのだが。空気を変えるため、手を叩いて周囲の注目を集めると、言った。
「さあ、始めようじゃないか、クラウト君。マリィちゃんもよければ見ておくといい。まずは歌い出し。『ハイパーボイス』からだ」