8月の老歌手―1
シャッター街に出てから、丁度一区画過ぎかけたところで、私はふっと足を止めた。懐かしい音楽が聞こえる。聞き慣れた、落ち着き払った甘い声だ。
"コクーンについた傷なんてさ 誰も見やしないだろ、コクーンに付いた傷なんて――"
あれは、確かにビードルズの曲だった。微かな雑音は混じっていたが、曲の魅力を大きく損なうものではないと思えた。
少し引き返していって、狭い路地に入る。スパイクタウンでは、哀愁のネズ以外のナンバーを聞いたことがなかった。ネズには、才能も、人気もある。確かに彼はいい歌手だった。それこそ、今の私では到底太刀打ちできないほどに。
老いたりとはいえ、若いころに培った聴覚は健在なようだった。微かなフレーズを手繰るように進む方法は全身に染みついている。とはいえ、少し酔っていて、足元が覚束ないのは仕方のないことだ。ちょっと落ち着こうと体を左右に揺らし、結局ごみ箱にもたれて狭い屋根の隙間から空を仰ぐのが一番良いと分かった。空はどっぷりと暗く、星が瞬いていて、その数はタチワキで見るよりも多い。薄暗い街全体を包む、ワッとした熱気が心地よかった。しばらくしてから、腰を上げて、ゆっくりとバランスを取り戻すと、私は再び歩き出した。
ビードルズの存在感はどんどん大きくなっていく。声の発生源をちょっと見て、私は一目で気に入った。小さく目立たない看板ではあるが、気の利いた電飾の店だ。イッシュ風の書体で、パープルのネオン管がくるんと回り〈Four Obstructer〉という文字を作る。そういえば、ガラルの外でも聞いたことがある名前だ。随分と、いい雰囲気のバーだった。
あのネズが時々来る、という話を聞いたことがある。通から称賛を浴びる手練れのバーテンダーとのツーショットは、なるほどよく似合いそうだ。しかし私はカクテルに格別興味がない。注目するのはビードルズとそれを頼む客、準備していた店主の人柄だ。
二度目になるが、哀愁のネズ以外のナンバーをここで聞くのは、砂漠のダイヤモンドを発見するようなものだ。スパイクタウンは、天から、ダイマックスを禁じられている。派手なリーグ戦への適応に躓き、かといって突然別の妙味を出せるわけもない。かくしてこの街は沈黙した。皮肉なことに、歌を聴くには最高の環境だったらしく、唯一のスターは街の顔としてさらに輝く。だが、本体であるはずの街は――余所者の私には――顔以外の魅力を、すっかり忘れているように見えた。
曲が終わりかけて、私はバーに入ることにした。ドアをくぐると小さくベルが鳴り、ひんやりした空気が私のスーツを取り囲む。店内の雰囲気は、バー、というよりも、酒場といった雰囲気の方が相応しく感じた。一枚板の黒いテーブルの上に、リネンの布と、カクテルがぽつりと置かれている。視線を滑らせて、店の奥に目を向けると、ぐうぜん、ネズがいた。彼は少しだけこちらに目線をやると、飲みかけらしいカクテルに手を伸ばした。私とは違い、彼は特に何も思わなかったかのように振舞っていた。丁度、また別の曲がかかったところだ。
私はミュージシャンを実際に見るのが好きだ。そうすれば存在のすべてから声の手触りが得られる。得たければだが――例えば、この白黒のスターがどのように歌っているのか知りたい場合などだ。それにまた、私の過去に重なる物を見出せるのもよかった。だから、ネズを見た時のあの興奮といったらない。ぜひ何か話しかけねばと思った。
バーテンダーは、見たところ五十に近いだろうか。おそらく染めずしてそうなったのだろう、オールバックで半分ほどは白髪。精悍な顔つきだが、その表情は穏やかだった。
「いらっしゃいませ。何になさいますか?」
低いが、よく通る声だ。バーテンダーは席を指して、座るようにやさしく促した。カウンター席が四つだけ、それも不規則に波打つような並び方だった。四人の邪魔者という店名に合点がいく。私は席についてダイキリを一杯頼み、相棒を出してやれるかを尋ねた。
「かしこまりました。ポケモンの方は、高さ実質1.7m、重さ実質80kgまで、ジムバッジ4個制限となっておりますが」とバーテンダーが答えた。
「ああ、では、条件に抵触する。やめておこう……あの、そのダイキリ、シュガーシロップは多めでお願いできるかな」
ジムバッジ四個は、中々信頼できるラインだった。ドゴームとオンバットはもう暫くポケットの中だろう。ダイキリを待ちながら、私はレコードプレーヤを探した。
"ダダリンを出せ、ダダリンを戻せ ホエルオーの腹の中から――"またビードルズの曲だ。カウンターの奥で、ひっそりと回っている。
「お待たせしました、ダイキリです。ご要望通り砂糖は多めに。無用な気遣いかもしれませんが、外はお暑かったでしょうから氷と、それに合わせてラムの割合を増やしております」
やはり良い店だ、と感じられた。私はゆっくりとグラスに口をつけ、最初の一口を堪能して、ほっと息をついた。頭を冷やすにはちょうどよいカクテルだった。今の私は、彼にすぐさま話しかけられるような人間ではない。ただの、落ちぶれた歌手だ。相応のものを作らねばならない。とてもいい、と呟くと、バーテンダーはそっと微笑んだ。
「これ、選曲は誰が?」と私は尋ねた。まだ、甘い嗄れ声、と言っても差し支えはなさそうだ。「よいレコードプレーヤだ。久々に見たが、針にリングマの爪を使っている。ベアリングも非常に良い状態で、盤も美しい」
「あちらのお客様たっての希望で」彼の気心は知れている、という風の言い方だった。
私は哀愁のネズの方をちらと見た。またカクテルをちびちびやっていたと思う。彼は、彼以外の曲の中から何を聞くかと問われた時、ビードルズを選ぶのか。面白かった。演奏に耳を傾けているという風ではなく、その点は少しがっかりしたが。
バーテンダーはちょっと話をしようという素振りを見せた。
「お客様は音楽には中々お詳しいとお見受けいたしましたが」
「ずいぶん昔、イッシュで歌手をやっていた。それだけだ」と私は言った。「あちらの方には及ばない。あの人、ネズさんだろう」と小声で付け加えた。
バーテンダーは静かにうなずいた後、「ですが、聞き心地のいいお声です。さぞやよい曲を歌われていたのでしょうね」と言った。
「よい曲、というのがどんなものかは難しいが」と私は答えた。「まあたぶん、ゴールドディスクが何枚かのところじゃないか」
私がこう言うと――別に信じてほしいわけではないが――冗談と受け取られることが多い。焼きが回ったのだと思うことにしている。それか、ゴールドディスクの価値が、私が思っている以上に上がったかだろう。ネズは少しだけ目線をこちらに向けた。バーテンダーの反応は絶妙だった。信じられない、と大仰に驚いては、かえって発言者を不機嫌にさせてしまうことがある。とはいえ、あまり反応を示さないのもよくない。騒ぎ立てはせず、軽く驚きの声を発した。
「おやまあ、それは素晴らしいですね……とすれば、お客様の曲も当店にあるかもしれません。よろしければ、探しておかけしましょうか」
丁度二曲目も終わるが、私は手を振って断った。
「せっかくだが、いらないかな。リクエストもない」ダイキリをまた一口飲んで、グラスを覗き込んだ。
「そうでしたか。それは、少々残念ですが、仕方ありませんね」またいつか機会があれば、と言って、バーテンダーはネズの方へリクエストを聞きに行った。私は何が流れてくるのか気になっていた。二人で何か話しているが、聞こえなかった。
すると、何があったのか、バーテンダーが戻ってきた。「お客様、せめて曲名だけでもお聞かせ願えませんか」
「私のかね」少し驚いて言った。「何だったかな……あれがある。8月の……『オーガスト・フォー・バッフロン』とか」覚えていたのはマイナーな曲だったが、答えないよりはマシだと思った。彼はご協力ありがとうございます、と言って、再び戻っていく。
私はダイキリを飲み干して、ほかの曲名を思い出そうとした。駆け出し時代、黄金期、ビードルズが出てきた頃のこと。私はもう酔いが回っていて、だから出来事を思い出すままに追った。ネズとバーテンダーは、また、二人で何か話し込んでいる。私は次は何を飲もうかと考え、溶け出した氷をまた飲み、レコードプレーヤに目をやった。
少しして、「コーソンの、『オーガスト・フォー・バッフロン』はありやがりますか」という声が聞こえてきた。歌手とは思えないほど気の抜けたネズの声。白い顔だが、あれでもベロベロに酔っていたようで驚く。だが、それ以上に私は、私の名がネズの口から出たことに驚いていた。出た理由は推測がついたが、それでも酔いが醒めそうだった。
「あちらのお客様が、この曲を聞きたいと」とバーテンダーが言った。鮮やかな赤文字で書かれた曲名、砂煙を上げて駆けるバッフロンと太陽のジャケット、私の名の表示が見えた。
「よろしいですか、コーソン様?」私はぽかんとした顔で頷いた。かなり慎重にレコードが取り出され、ゆっくりとプレーヤの台にセットされた。それから、そっと針を落として、懐かしい前奏に浸らせてくれる。
私は目を細めてネズを見た。もう、酒の量があまり減っていない。限界に近いのか。確かに私にも過失はあった。随分と酒が入っているなと思っていた。そうでなければ、バーに来て自分の曲を聞かされるとどのような気分になるか容易に思い出せただろう――なにせスパイクタウンでは哀愁のネズの曲ばかり流れているのだ。これで三度目になる。
別に私は自分の曲が嫌いではないが、待ち望んだネズのプレイリストを、彼の悪戯心や酩酊のような何かに乱されることは少し残念に感じた。でもそれから、私の曲を彼に聞いてもらえるというのはラッキーではないかと思い直した。なんとなれば、私も哀愁のネズの曲をリクエストし返してみればいい。バーテンダーがやってきたのて、空のグラスを下げてもらう。もっと酒を入れねば今の彼とは話せまい。
「アンタ、一体どんな歌手なんです?」
機会というのは、得てして思っているより早く来るものらしい。
「過ぎ去った時代の歌手だよ。それよりも、私はなぜ君がそんなにも酔っぱらっているのか気になるがね」私はマルガリータを頼む。若いころの丁寧な歌い出しが耳に残った。
手の込んだ髪型と服装。やつれながらも端麗な容姿。猫背と病的なスタイルさえ魅力に変えるようなカリスマは、遠くからは平然としているように見えたが、同じカウンターに座ると、流石に酔っぱらっていることが見てとれた。彼が喉を見せてカクテルをぐびりと飲んだ時、私は、少なくとも二日酔いはするだろうなと思った。ひどい頭痛に吐き気もあるかもしれない。
「オレの妹が行っちまうんですよ」とネズが言った。絞り出すような情感たっぷりの声。
先ほど頼んだマルガリータは、あと一口分しか残っていなかった。
「行ってしまうというのは、どこにだ。嫁にかね?そんなものはだね、君、閉じ込めておきなさい。分かってくれるはずだ」と言いながら、私も、自分が相当酔っているのを自覚した。
嫁……!?とネズが言い、狼狽するそぶりを見せた。
「うっ、全っ然違いますけど、アンタ、良いこと言いますね。名前は……」
「コーソン」と私は半ば反射的に答えた。「それでぇ、妹さんはどこに行くんだね」
「ジムチャレンジ、ですよ。マリィのやつ、チャンピオンになるって」とネズが言った。「推薦状もオレが書いたんです。マリィの意志は尊重しますし、責任もって応援もしますよ。ただ、チャンピオンより憧れられる背中を見せられなかったのがどうにも不甲斐ねーんです」
私はその告白を聞きながらマルガリータをゆっくりと飲み干し、リストを確認する。我々の体にはたっぷりと酒が染み込んでいる。珍しくフォーマックがあったので、それと砂糖漬けフルーツを頼んだ。『オーガスト・フォー・バッフロン』のコーラスをバックに待った。私の好敵手だった歌手の名を冠する、素晴らしいカクテルの味わいを。
「難しいな。私には誰も悪くないように見えるし、流れが悪かったんだろう」と私は答えた。
「そいつは……分かってるつもりなんですがね」とネズが言う。だが、こういうことほど折り合いをつけるのが難しいというのも、彼はよく承知していた。
「こういう問題は、他人の似たような事例を見るのが一番いい――時に君、私がどんな歌手かを聞きたがっていたね。どうだろう、つまらないだろうが、ここは少しばかり、コーソンの思い出話に付き合ってもらいたい」すこし芝居がかった口調で言うと、「それじゃあ、頼みます」という一言が帰ってきた。
ここで喋らないあたりが、このバーの人気の秘訣なのだろう。カウンターに音もなく砂糖漬けフルーツとフォーマックが置かれる。私はグラスをぐるっと回して最初の一口を含む。次第に思い出が蘇ってきた。