『リフレイン』 - 『リフレイン』
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『リフレイン』
『リフレイン』

 1

 紫苑市の一画に、彼女の家はある。
 この物語の主人公である彼女の名は、雪。彼女は今日も、誰かがやってくるのを待つ。職業柄、どこかに出かけるという必要がない。在宅仕事である。業務内容は、ネーミング。つまり、姓名判断。
 彼女の職業は、姓名判断士だった。
 元は学生であったのだが、今は卒業し、家業に専念している。もっとも、家業と言ってももともとは祖父がしていた仕事であり、彼女は趣味の範囲で、学校が終わってからの短時間、姓名判断の仕事をしていたのだが、今現在は、専業である。姓名判断という仕事にそれほど需要があるとは思えないのだが、彼女の容姿、言動、雰囲気が人気を博して、少ない稼ぎではあるが、暮らしていくには十分な報酬を受け取っている。
 雪は椅子に座って、客を待つ。
 どこを見るでもなく、ぼーっとした様子で、雪は虚空を観察する。部屋の隅には、一匹のシャワーズがいた。彼女の名前はサイレン。雪同様に、今は何をするでもなく、ぼんやりとしている。お互いに、眠っているのか、ともすれば死んでいるのかという雰囲気であったが、しかし、どちらでもなく、ただ最低限の呼吸をしていた。
 仕事が始まってから、一時間ほどが経過した。客足はない。家には彼女の母親がいるはずだが、きっとテレビでも見ているのだろう。父親は仕事に出ている。とても退屈な時間だ。けれど、雪は自分から刺激を求めに行こうとは思わない。つまらない自分が求めた刺激など、所詮その程度。じっと待っていて、向こう側から、本当の刺激はやってくるのだと、彼女は思っていた。
 雪のいる部屋には、外に繋がるドアと、自宅に通じるドアとがある。そのうちの一方がノックされた。これは、外からの来客を意味した。雪は一言、
「どうぞ」
 とつぶやく。すると、すぐにドアが開いて、一人の青年が顔を出した。
 雪はハッとする。
 きっとほとんどの人間が察知出来ないであろう、微細な変化。しかし雪の瞳はいつもより少し大きく開き、口元にも、驚きの色が浮かぶ。
「えっと……お店、こっちでいいんですよね。ああ、お店っていうか、職場っていうか……」
 青年はどこか、周りをうかがうように、落ち着きがなかった。雪が、
「座って」
 と言うと、何度も小刻みに頭を下げながら、青年は椅子に腰かけた。落ち着きがないというよりは、常にどこかを観察していて、常に何かを考えているという印象だった。きっと、彼の頭の中では、全ての情景を自分なりに解釈して、展開しているのだろう。
 雪は決して、初対面の人間に対して、敬語を失念するタイプの人間ではない。だから、雪の言葉づかいは、相手が知り合いであることを示していた。客の方も、雪のことをよく知っているようだった。
「あー……お久しぶりです」
 青年は雪の顔を一瞬だけ見て、すぐに目を逸らす。女性に免疫がない――というよりは、雪自身に、何らかの苦手意識を持っているようだった。雪は少しだけ、目を細める。
 やっぱり、待っていれば楽しい刺激が訪れるじゃないか、と。
「久しぶり」
「いや、まあ……なんていうか、そうですね、久しぶりというのもあるし、なんていうか、タイミングもなく……かといって用もないのに会いに来るのもあれかなあ、なんていう気もあって、ご無沙汰していたんですけれど、色々と思うところもあって、流石にお世話になった方には挨拶しようかなあ、みたいな」
「何も言ってないけど」
 雪はくすりと笑った。目の前の青年は、変わらない。昔から、変わらない。自分が知らないところで、大変な不幸があったと聞いたが、それを感じさせない不変性を、彼は持っている。あるいは、雪はもともと、彼をこういう人間だと、見抜いていたのかもしれない。
「そうですね……ええ、はい。何を言い訳してるんですかね、僕は」
「さあ」
 楽しそうに、雪は言う。
「こっち、見て」
 雪の言葉に導かれるように、青年は視線を合わせる。
 居心地の悪そうな青年。
 それを見て、雪は今度こそ、しっかりと、誰にでもわかるように、微笑んだ。
「久しぶり、白黒」
「……お久しぶりです」

 2

 それは実に、六年ぶりの再会となった。
 当時彼は十二歳。そして、雪は十六歳だった。
 それからずっと会わずにいたが、しかし、共通の知り合いから、彼の動向は知っていた。だから雪にとっては久しぶりという気持ちは少なかったが、それでも、やはり、しっかりと顔を合わせると、懐かしい気がした。
 当時の白黒は、山吹格闘道場と呼ばれる空手道場で、帯を締めて稽古に励む少年だった。その後、両親が不幸に遭い、天涯孤独の身になった。しかしそれでも、彼は当時住んでいた部屋から離れることはなく、朽葉の港町で暮らし続けている。
「お願いがあるんだけど」
 と、雪はそっと囁く。白黒は心なしか背筋を伸ばしたようだった。
「なんですか」
「鍵、閉めて」
 雪は美しい。美人とか、可愛いとか、スタイルが良いとか、そういうのとは違う美しさ。名前の通り、雪のような儚さと、薄さを兼ね揃えている。だから本来、このような女性に「鍵を閉めて」などと言われれば、勘違いをしてしまったり、緊張してしまったりするものだろうが、白黒はそのような感情は一切抱かず、ただただ、恐怖心のようなものを感じた。
「閉めます」
 言葉に出しながら、白黒は内鍵を閉めた。何を恐ろしがっているのか、謎だった。
「お客さんが来ると、困るから」
「ああ……そうですよね。えっと、閉店っていうか、クローズ、みたいな掛札ありましたよね。あれ、回してきましょうか?」
「じゃあ、それで」
 白黒は再び鍵を開け、ドアの表にかかっているプレートをひっくり返し、また鍵を閉めた。彼をよく知る人間が見れば、その彼の従順さは異様に思えるかもしれない。けれどこの空間では、それが普通のことだった。
「ありがとう」
「いやそんな、礼には及びません。僕が突然やってきたわけですからこのくらいは」
「素直に」
「……どういたしまして」
 彼の表情から、やりにくさがにじみ出ている。もちろん、雪はそれを楽しんでいた。昔から、この純朴そうで、どこか陰のある少年をいじめるのが好きだった。もっとも、雪にいじめているという自覚はない。悪意ともっとも縁遠いところから、彼をいじめていた。
「それで?」
 雪は問う。言葉を足すなら、「それで、今日はどういう要件でやってきたの? まさか顔を見せに来ただけじゃないよね?」という風になる。白黒はもちろんそれを弁えている。
「……まあ一応、ちょっと諸事情あって、あー……どこから話せば良いですかね。そもそも雪さんに僕がどれだけ知られているのかというか……」
「十五個目、おめでとう」
 と、雪は言った。
 白黒は気まずそうに顔を伏せる。全部筒抜けであるようだ。十五個目というのは、関東地方と上都地方ののバッジ、十五個目のことを意味するのだろう。
「ご存じでしたか……ああ、ていうことは、あれですよね、木蘭さん経由ですよね……」
 木蘭、というのは、白黒と雪の共通の知人であった。雪の学生時代の親友であり、山吹格闘道場の師範の娘である。現在は郵便局に勤めていて、手紙の配達のために、山吹、朽葉、現在は紫苑まで幅広く飛び回っている。
「うん」
 雪の首肯に、白黒は項垂れた。しかし、嫌だとか、困ったとか、恨めしいとかいう意味ではなく、恥ずかしいとか、そういうような意味合いだった。
「……いやまあ、そうですね、ありがとうございます。十五個目でした。関東地方と、上都地方でバッジを集めて、十五個取って……一段落、ですね」
「そう。良かった」
 雪は多くを語らない。
 けれど、本当に、良かったね、というように、微笑みかける。白黒が小さい頃から、このお姉さんは、こうだった。もう、二十二歳。彼女は立派な大人だ。けれど、姿は十六歳の頃からほとんど変わらない。ただそこにあって、普遍的に、不変的に、存在し続ける。
 興味がない――ようにも見えないし。
 聞いてない――というわけでもなく。
 ただ、じっと、聞き続ける。その姿勢は、一見すれば、興味がなさそうで、聞いていないように、やはり見えてしまうのかもしれない。けれどその実、雪はしっかりと言葉を聞いていて、ちゃんと答えを返す。頷いて、褒めて、祝ってくれる。だから白黒は話したくなってしまう。
「……って、別にまあ、どうでも良いことですよね。僕がどうこうっていう、バッジをどうしたとか、あれ? ポケモンやってんじゃん? みたいなことは、僕がここに来た理由とか、これから何をしようとかっていうことには、直接関係がないことだし……」
「そうかな?」
 本当にそう思ってるの? とでも尋ねるような口調。だから白黒は、二の句が継げない。このお姉さんには、自分は何も出来ないということを、よく知っている。
 例えば、白黒にとっての人間関係というものは、ポケモン社会や、ポケモントレーナーの繋がりや、そういうものでしかない。親戚らしい親戚は、祖母が一人いるだけ。友達らしい友達は、一人もいない。甘えられる相手というか、無関係に弱みを見せられる相手は二人いて、それは幼い頃、よく遊んでもらった、近所のお兄さんである人物と、この、思春期に様々なことを教えてもらった――あるいは聞いてもらった――雪だけである。
 勝負と関係なく。
 才能と関係なく。
 ただそこに、人間同士だけで、ただそれだけの関係として、白黒が一生背負い続ける、ポケモンの業や、苦悩と無縁の位置で、ただ在るだけの存在。
 その一人。
 それが雪。
 だから白黒は――誤魔化せない。
 自分の話を、偽れない。
「……すげえ、長くなるんですけど」
「いいよ」
 雪は表情を変えない。淡々とした、いっそ喜怒哀楽、どれでもあるようで、どれにも属さないような、淡々とした表情。だから白黒は躊躇する。けれど、彼女がそういう人物であることを、よく知っている。
 雪は催促しない。話して、とも言わなければ、言いたくなければいいよ、とも言わない。ただ、したいようにさせる。相手の言葉を待つ。その待つという態度こそが、雪の神髄であり、象徴であった。
「……仕事にならなくなりますけど」
「うん」
 うん。
 ただそれだけ。
 ただそれだけの首肯は、仕事にならないからやめて、とか、なら早めに済ませてね、とか、そういう意味を一切含まない。
 だから居心地が良い。
 だから――ここに来てしまった。
 別に、今生の別れになるわけではないのに。
 今まで、六年間、一度も会っていなかったのに。
 白黒は会いに来てしまった。
「……どこから話してもいいですか?」
「生まれたところ、から?」
「それはちょっと、難易度が高くないですか」白黒は笑った。ちゃんと見せる、初めての笑顔だ。「じゃあ、多分、雪さんは知ってると思いますけど……両親が亡くなったあたりから」
「うん」
 そしてまた、うん、と、雪は頷く。
 たったそれだけのこと。
 たったそれだけのことが、白黒の心を、浄化してくれる。
 雪は白い。
 白は浄化の色だ。
 白黒、という名前には、半分、その色がある。
 けれど彼の心の闇は、日を追うごとに、日を重ねるごとに、染まってしまって、半分という割合を、もう随分と前に、瓦解させてしまった。だから、そのバランスを取り戻そうとしたのだろうか。あるいは、これからの生活のために、少し多めに、白さを蓄えようとしたのだろうか。
 幼い頃に、雪からもらった白さは、もう使い果たしてしまったから。
「……えっと、十二歳の頃なんですけどね」

 3

「僕が十歳の頃ですかね……多分、そのくらいに、山吹の格闘道場に通い始めて……木蘭のことを知って、同時に、雪さんのことも知ったわけなんですけど」
 白黒は淡々と語り出す。雪は白黒の言葉が途切れると、促すように、小さく頷く。そのリズムはとても心地良いものだ。
「それから二年くらいは、真面目に通っていて……まあ他にやることもなかったし、僕は学校にも行っていなかったので、そこが学校みたいなもので、そういう生活が、割と楽しかったんですよね。疲れるし、痛いこともあったけど、当時は僕はポケモンのことがあまり好きじゃないっていうか、ちょっとしたトラウマとかもあって、だから割と、空手に熱が入ってたっていうか、うん。まあそれでも、孤独っちゃあ孤独だったんですけど。道場に友達らしい友達っていなかったし。でも、それでも楽しくて、毎日通うことが義務になっていて……まあなんていうか、ちょっと、思うところあったんですよね。木蘭さんは知らないことだから、雪さんも知らないと思うんですけど……僕は、ポケモンバトルが強くて。その、雪さんが思っている、何倍も、何十倍も強くて。それを最初はすごいことだと思ってたんですけど、実はそれはポケモンが強いだけなんじゃないかと思って。だからポケモンから離れて、自分を鍛えようとか、思ってたんですよね。人間的というか、肉体的に」
「そうだったんだ」
 雪は少し驚いたように、しかし突き放すほどの反応も見せずに、言った。納得したような口調だ。白黒は決して、それを不快に思わない。むしろ、自分が背負った業のようなものが、溶かされたようだった。
「だから……ああ、うちの両親、なんか結構良いとこに勤めてたらしくて、結構、地位も高かったらしいんですね。だから結構、僕は遅くに生まれた子らしくて、僕が十二歳の頃、既に父は四十歳の半ばとかいってたと思うんですけど……僕が生まれる前から色々と、社会貢献っていうか、寄付とかそういうの、好きだったみたいなんですね。どうしてそんなことに熱心だったのかとか、そういうことは結局分からず終いなんですけど、ともあれ両親は割と頻繁にそういう社交界に顔を出していて、パーティだったり、イベントだったりに行ってたんですよ」
 そこで白黒は言葉を止める。
 何かを思い出しているような。
 言葉を整理しているような。
 ゆっくりと、息を整える。
「だからそれで……まあ、その頃は僕は、さっきも言いましたけど、空手に結構熱を入れてたせいで、両親に連れられてそういうところに行くのが嫌になってきていて……深奥地方に住んでた頃は一緒に行ってたんですけど、関東に来てからだんだん、そういうのが面倒になってきて、出来れば行きたくないなって。次第に一緒に行くことが少なくなったんですね。それで、二週間くらい続くっていう、豪華客船での船上パーティに行くって言われた時、二週間も道場から離れるのも嫌だなあと思って、断ったんですよね。それまでも何度か、二、三日両親が家を空けることもあったし、なんとか食事したり、家事したりも出来て……そういう、お世話をしてくれる、ベビーシッターじゃないですけど、お手伝いさんみたいなのも、日数契約で雇ったりもしてたみたいなので、二週間っていうのは初めての経験だけど、一人で残して行こうか、って」
 白黒はそこで、言葉を区切る。
 そして、息を吐いた。
「それで、両親は死にました」
「辛かったね」
 雪のその自発的な発言は、珍しいものだった。実際、白黒自身、雪がそうした感傷的な発言をすることを、意外に思った。ただ黙って聞き流されるかと思っていたし、そうなるという確信があった。それだけに、意外だった。
「あ……でも、もう立ち直ったというか、吹っ切れたというかなんで、大丈夫なんですけどね。涙も枯れた……とか言うと、無理してるみたいですけど」
「そうだね」
 雪は淡々と囁く。そうだね。ただそれだけ。無理しているんじゃない、とか、無理しないでいいよ、とか、そういう意味じゃなくて。ただ、そうなんだろうね、という、受け入れるだけの発言。
「まあ、それで……それからですよね。僕は両親が死んだことを知って、色んな親戚の存在を知って……しばらく、祖母の家で腐っていて。でも、そのまま腐っていたら、親戚中に、両親の残した財産が奪われるような気がして、息を吹き返したんです。でも、ずっと腐っていたから、道場に顔を出す気にはなれなくて、木蘭さんや、雪さんにも合わせる顔がなくなって、師範にも、会えなくて……だから、一人で生きて行こうと思って。親戚の力なんて借りずに、誰の助けも借りずに、両親の残してくれた財産とか、そういうものを使って、生きて行こうって」
「うん」
 認めてくれるような、相槌。
 それは、白黒の心に、深く、浸透する。
「もちろん、僕はガキで――今もまだ、全然ガキなんですけど、その当時は今よりもっとガキで。だから当然一人でなんて生きていけなかったんですけど、同じように両親を失ってしまった、青藍っていうお兄さんが気遣ってくれたり、朽葉ジムリーダーのマチスさんが、色々、気にかけてくれたり……その、船が沈没したのって、テロ行為だったみたいなんですよね。当時の僕は、よく分かってなかったんですけど、どうやらそういうテロ行為の一つだったらしくて。だから多分、本来なら朽葉で起きた事件じゃないから、全然関係なんてないのに、朽葉から出向したっていう理由だけで、マチスさんはそれに負い目を感じていたみたいで――僕に色々、気を使ってくれて。でも、それを感じさせないくらい、親身になってくれて。それで僕は、なんとか、生きて行こうと思い直したんです」
「頑張ったね」
 雪は言った。
 いつもの白黒なら、別に頑張っていませんよ、とか、そんなにまともな神経じゃないですよ、とでも言う場面だったけれど、しかし白黒は、ただ、「ありがとうございます」と、頭を下げた。素直でいることが、雪の前では、気持ちが良い。どれだけひねくれていても、どれだけ拗ねていても、ただありのままにいた方が、彼女の前では、気持ちが良い。
「それからしばらくして、木蘭さんが郵便屋さんになって、割と僕のことを気にかけてくださるようになって……って、雪さんの前では、こんな言い方する必要ないですね。まあ、色々、ありましたよね。木蘭さんが、僕に好意を持ってくださって。でも雪さんは、木蘭さんが大切で――だから僕はなんとなく、それを壊したくもなかったし、心に決めた人も、いたりして」
「私?」
 少し笑いながら、雪は言った。本気の発言ではない。もちろん、それは白黒にも分かっている。彼女なりの冗談。彼女なりの、軽口。だから白黒は、「どんな泥沼ですか」と、冗談を返す。
「幼馴染の子で……物心付く頃に、同じ村に住んでて、一緒に遊んでたんです。七歳になる頃には引っ越して疎遠になるんだなと思ったけど、その子はポケモントレーナーになったから、全国飛び回るようになって。そうなると、家が近所だとか、引っ越しだとかっていう概念って結構どうでもよくなって、それで僕はずっとその子が好きで……あれ? なんで僕の恋愛事情とか語っちゃってるんですか?」
「続けて」
 雪は微笑みながら言う。
 楽しんでいるとか。
 目論んでいるとか。
 そういう笑いではなくて、単純に、自分の知っている男の子が、自分の知らない世界にいることが、楽しかった。
「いやまあじゃあ、簡潔に話しちゃいますけど……まあその子が好きで、今は僕は、その子となんていうか、正式に、なんて言うんですか? つ、つつ……付き合って、っていうか、交際? いやなんで僕はこんなに狼狽えてるんですかね?」
「彼女」
「………………ええ、まあ、そういう関係にね、なっているわけです。お互い旅人の身なので、あんまり、関係ないんですけどね。でも気持ちの上で、覚悟が決まったというか、僕が負い目を感じなくなったというか……そういうのもあって、付き合うことになったっていう。ああ、話しておいた方が良かったですね。これを話さないと、ほかの話が分かりにくいし」
「おめでとう」
 決して茶化したり、馬鹿にしたりという要素はない。ただ純粋に、それを祝福した。過去においては、ある意味では恋敵となり得た二人だっただけに、その純粋な祝福の気持ちは、雪にとっても、意外なものだった。
「……ちなみに、雪さん、気になってると思うので言っておきますけど、木蘭さんは、もう、知ってます。知った上で僕のこと気にかけているので、なんていうか、やっぱり弟的な気のかけ方だったんじゃないかなあ、なんていう気もしますけどね、今になって思うと。木蘭さん、優しい人ですから。出会った当初から、友達がいないとか、寡黙だとか、その上両親が亡くなったり……まあ、気に掛ける要素は、ありましたからね」
「うん」
 随分と、気持ちのこもった首肯だった。
 本当は、雪も、白黒も、木蘭が好きだ。
 あんなに優しくて、真面目で、頑張っていて、人のために生きている人間を、二人は知らない。
 だからこそ、尊い。
 だからこそ、白黒は辛い。
 そんな女性に好意を寄せられて。
 それに応えられなくて。
「かわいそう」
「え? 誰がですか? 木蘭さんがですか?」
「うん。あなたがこんなにかっこよくなって」
 と、珍しく、雪はそんな自発的な発言をした。雪に対して、愛情とか、恋情とか、そうした類のものを持ち合わせていない白黒ですら、ぞわっとした。こんなに、人間として、あるいは物体として完成した容姿を持った人間に言われると、それがお世辞でも――否、雪の場合はお世辞である可能性は万に一つもないが――どきっとしてしまう。
「……ちょっと、のどが渇きましたね。僕、何か飲み物買ってきます。ああそれに、お母様にもご挨拶……いらっしゃいますよね」
「うん」
「じゃあ、僕ちょっと、外出てきます。いや、本当は、二、三話して、速攻で帰るつもりだったんですけど――って! え? なんで一時間経ってるんだ? いや……いやいや。意味が分からない」
「白黒」
 狼狽える白黒を呼ぶ雪。白黒はすぐに背筋を伸ばして、「はい」と、返事をする。
「私、サイダー」
 そんな風にして、過去にも使いっぱしりにされたな、なんてことを思い出して、白黒は思わず、笑ってしまう。そんな風な、妙な魅力を、雪は持っていた。

 4

 しばらく雪は一人でいた。
 けれど内心、とても嬉しい気持ちで満たされていた。
 そうか、少年は、幸せになったんだ。
 そんなことが、ただ、うれしかった。
 彼女にとって、白黒は、ちょっと変わった男の子だった。それ以上でも、以下でもない。自分にとっては、ただそれだけの、男の子。名前が、白と黒で、気持ちが良い。たったそれだけの、知り合い。だったのだけれど――雪は今、何故だか、それ以上の喜びを感じていた。自分にとっての、とても古い知り合い。性格がこんな風だから、仕事がこんな風だから、あまり仲の良い知り合いもいなくて、友達もいなくて、けれどそれは別に、寂しいことでもなくて。ただ、なんだか、少しだけ、物足りないのかもしれないと思っていた。
 けれど、本当はそうではなくて。
 こういう知り合いが、自分にはいて。
 その知り合いは、自分の知らないところで、ちゃんと成長して、ちゃんと生きていて。
 その報告を聞けることが、どうしてだか、こんなにも嬉しいのだということを、雪は、認めなければならなかった。
「すみません、こちら側から」
 白黒は、自宅と繋がるドアから、戻ってきた。手に袋を持っている。そこからペットボトルのサイダーを取り出すと、雪に手渡した。白黒本人は、飲み物を二本買っていた。もう少し話すことがあるようだ。
 二人で炭酸を開けて、雪は少し、白黒は半分ほど飲んで、向き合った。
 遠い過去――というほど昔ではないけれど、雪がまだ空手を習っていて、白黒が習い始めて、なんとなく、お互い、道場の輪の中で生きられないことを見抜いて、それでなんとなく、お互いがお互いを、寂しい者同士、あるいは孤独同士として見抜いていた頃。
 こんな風に、一緒に何かを飲んだことがあった。
 どうして覚えているのだろう。
 雪も白黒も、思い出せない。
 この景色は、覚えているのに。
「いやあ……なんだか懐かしい感じですね」白黒が言った。「覚えてますか? こんな風にして、なんか、練習のあとに、自販機で飲み物買ったりしましたね。今の今まで、全く思い出さなかったんですけど」
「うん」
 明確な、覚えているよ、という意味の首肯。
 ペットボトルの蓋を閉めて、白黒は息を吐く。
「……どこまで話しましたっけ」
「彼女」
「ああ……それ、なんか楽しんで言ってません? 気のせいですか? いや……まあやめておこう。どうせ墓穴を掘るだけだ。とにかくえっと……僕はそれで、道場を辞めて、引きこもりになったんですよね。雪さんがちゃんと専業になったのって、二十歳くらいでしたっけ?」
「十九」
「ああ……じゃあ、丁度その頃ですね。さっき話した、彼女さんが偶然関東に遊びに来て……まあ、本当に偶然かは分からないですけど。当時、僕が腐ってた頃に比べると、頻繁に手紙のやりとりをするようになって、向こうも、そろそろ僕に直接会っても大丈夫そうかなっていうような距離を、感じたのかもしれませんけど……それで、僕が十五歳の時の、春先……かな。その子が来て、ちょっとした事件があって。ディグダの穴で起きた爆発事件なんですけど」
「聞いた」
 知ってる、とか、新聞で見た、とかではなく、聞いた、と雪は言う。その情報源が木蘭なのかどうかは白黒には判断がつかなかったが、少なくとも、自分が関与したことも知っているのだろう、と、理解した。
「そういうのがあって、少し、なんていうか……僕の中に活力が戻ったっていうか。うん、その子に会うこと自体、本当に久しぶりで。多分その時で二年ぶりっていうか、そんなでした。会ってみれば――雪さんには、言わずもがなって感じでしょうけど、僕は他人や、自分を、ついつい偽ってしまうというか……感じないように――嬉しさとか、楽しさとか、喜びとか、そういうのを出来るだけ意識しないようにと思っていて……どこか嘘っぽかったり、どこか軽薄だったりっていう人間なんですけど、両親が死んでからは、それがさらに顕著になった感じで……だからまあ、二年ぶりに彼女に会ったんですけど、めっちゃ普通っていうか、全然、両親の死とかは忘れて、なんでもないこととしてどこかに置いて、接することが出来たんです。その時に、今まで以上に強く、彼女の存在が大きくなったって言うか…………………………あれ? ちょっと待ってください。僕は何の話をしに来たんですか」
「のろけ?」
「いや違います! 違うんですよ! おかしいな……僕はこんな話をしに来たはずでは……どっからおかしくなったんだ……? まあ、とにかくその時の事件を皮切りに、僕はなんというか、行動的というか、活動的というか、少しだけ生きる希望っていうか、漠然とした、今やるべきことみたいなのを思い始めて……それがまあ、ポケモンだったんですね。ポケモントレーナーの人と出会う機会が増えたし、やっぱり僕は、ポケモンバトルが強くて、それで、あんまり認めたくはないんですけど、どうやら勝つってことが、好きみたいで」
「うん」
「それから少しずつ、戦うことや、勝つことについて考えるようになったんですけど……彼女はポケモントレーナーで、将来はそういう仕事に就きたいと思ってる。あわよくば、ポケモンマスターとかを目指しているわけで。だから、僕がその、どういうわけか手に入れちゃった才能とか、センスとか、能力とか、そういうもので彼女の努力を踏みにじっちゃうのが、嫌だったんですね。単純に、すごく、それが嫌で」
 雪は頷かない。
 首肯もしない。
 ただ、語らせるべきだと思った。
 ただ今、この瞬間は、この話は、ずっと語らせるべきだと。彼が落ち着くまで、語らせてしまった方が良いと、雪は考えた。
「だけど……その事件があった、二ヶ月……三ヶ月後くらいかな? 実家に墓参りに行って……深奥に住んでたけど、僕、実家は上都で、そこで若い、僕より若い天才に会って、ちょっとだけ、考え方が変わったんですね。ああ、僕だけじゃなくて、他にももっと、強い人とか、すごい人がいるのかもって。もちろん、僕はその若き天才にも、勝ってしまうんですけれど……でもどこか、それは受け入れやすい勝利だったんです。弱い者いじめじゃない、単純な戦いで。僕が年上だから、勝った。相手は天才でも、僕も天才で、僕が年上だから、勝った。そういう、納得の出来る戦いで……少しだけ、興味が湧いたっていうか、自分の居場所が、少しだけ、見つかったっていうか、そんな気がしたんです」
 白黒は炭酸をさらに半分、飲み込んだ。
 そして、少し、息を整える。
 雪も同じように、飲料に口をつける。
 そのゆったりとした空気が、白黒を落ち着かせる。
「さらにその一ヶ月後くらいに、エリートトレーナーって呼ばれる人たちと出会う機会があって……今まで、ジムリーダーにしか感じなかった、トレーナーとしての素質とか、才能とか、技術とかを見て……少し、自分はまだまだ、全然出来上がってなんかいないとか、改良の余地だらけだとか、思う機会があって……その時にようやく僕は、自分がやりたいこととか、自分がいてもいい場所みたいなのが見えた気がして、こんな風に毎日、だらだら生きているくらいなら、彼女や、出会ったトレーナーや、僕を目にかけてくれる人たちが、もったいない、なんて思わないように、ちゃんと、才能を活かして、そうやって生きて行こうっていう風に決めたんです」
「十六歳になってから?」
「はい。奇しくも、僕の誕生日だったのかな……丁度十六歳になる日で、その時、義理の兄みたいな人に、トレーナーズカードをもらったりして。少しずつだったけど、彼女と二年ぶりに会った時から、本当に少しずつですけど、僕は変化していって、その日を境に、真面目にやってやろうっていう風に思ったんです。だから、その日から、僕はちょっとずつ移動距離を伸ばして、関東と、上都を、制覇したんですね。諸事情あって、常葉ジムだけは手を出していないんですけど――とにかく僕は、自分の中での、関東と上都を、制覇しました。まあ、決意新たにとは言っても、そう毎日熱意が続くわけでもなかったので、結構まったり……一年に、一地方ってペースで、二年かかっちゃいましたけど」
「頑張ったね」
 雪はどうしてそういう評価をしたのだろう。
 散々、才能だの、天才だの、努力とは無縁の生き方についての話をしていた相手に、どうして、頑張ったね、などという、努力を認める発言をしたのだろう。
 白黒は一瞬、動揺した。
 まさかそんなことを言われるとは思っていなかったからだ。
 すごいね、とか。
 えらいね、とか。
 やったね、とか。
 そんな風に、ありのままの事実として、ただA地点からB地点に物を動かすだけのような、当たり前の結果に対して――少なくとも白黒にとって、勝利というものは、そのくらい当たり前で、勝つか負けるか、ではなく、戦うか戦わないか、という二択しかないような、当たり前のことだった。
 にも関わらず、頑張ったね、と。
 白黒は動揺する。
 そして、俯いた。
「……そうか、僕は、頑張ったんですかね。いや、気付いてなかったというか、そもそも思いもしなかった。やらなきゃいけないことだと思っていやっていたから、まさかそんな風に言われるとは……」
「私は知らないから」
 雪は、ともすれば突き放すように言う。
「何をですか?」
「戦うことを」
「ああ」
「知らないから、頑張ったんだろうな、と思うし、いくら説明されても分からないから、頑張ったんだろうな、としか思えない。だから、白黒は頑張ったね」
 雪はそう言って、微笑む。
 想像すら、予想すらしなかった。
 圧倒的で、理不尽ですらある、賞賛。
 詳しい人間が聞けば誰でも分かる。白黒がポケモンバトルで勝利するというのは、つまり、持って生まれた才能と、幼い頃の修行で得た鍛錬と、成長する過程で自ずと身についた知識とで、当たり前の行為として、みなされるべきだった。それは当たり前で、当たり前でしかなくて、だから白黒が勝ったところで、それはただの結末でしかなかった。
 けれど雪は分からないから。
 説明されても、何が当然で、どうして当たり前なのか、分からないから。
 頑張ったね、と。
 何も知らないくせに、賞賛する。
 だから白黒は、
「……いやあ、涙は枯れたとか言っておいて、なんですかね、この体たらくは。まあでも、結構、実は泣いてるんですかね。泣き虫なのかな……人前で泣くのは、二度目かもしれません。いや、どうだったかな……」
 雪は何も言わない。
 けれど、変わらぬまま、白黒を眺める。
 変わらないから、嫌われることもない。
 そんな安心感の中、白黒はしばらく、会話をやめた。

 5

「すみませんでした」
「うん」
 雪の態度は変わらない。けれど、ちゃんと相手をしてくれているということは分かる。だから白黒は安心出来るし、いつまでも自分の話を続けられる。
「そろそろ本題に移らないとなあ……」白黒は顔を拭って、頭をかいた。「それでまあ、唐突ですけど、しばらく深奥地方に行こうかなと思ってます」
「北?」
「そうです。雪の国で……四年くらい、住んでたのかな。そこを巡って、バッジ集めでもしようかなと思って。そのあとは関東に帰らずに、豊縁まで行っちゃうつもりなんで……まあ、関東上都は自宅から遠征してたから時間かかったわけなので、今回は泊まり歩きながら、ジムを制覇していこうかなと。豊縁も、深奥も、なんだかんだで知ってる人もいるので、そういう人に会いつつ。だから、しばらく、関東に戻りません」
「そう。寂しくなるね」
「雪さんがですか?」
「蘭ちゃん」
「ああ……そうですね。だから、木蘭さんには、言ってないんです。言えてない、っていうのが正確ですかね……心配されちゃいそうだし、気負わせちゃいそうだし、それになんだか、直接会って話すのが、何か怖いし。だから……すみません、もし良かったら、木蘭さんに伝えていただけませんか。それと、僕宛の手紙とか、朽葉ジムに届けてもらうようにって。本当に勝手ですみません」
「うん」
 わかった、と小さく付け足して、雪は頷いた。事情もあるのだろう。無理にでも木蘭に直接伝えて、と言えるほど、雪は人生を短いものだと思っていない。またすぐに会えるし、もしかしたら、白黒が遠くに行ってしまうことは、木蘭にとって、良いことかもしれないとも思う。
「……ありがとうございます。恩に着ます」
「うん」
「地方を回れば、見知らぬポケモンとも出会えますし、僕も真面目に、エリートトレーナーになろうと思ってるので、頑張ろうかと。まあ、実はこれはついでのお願いで……ついでって言うと木蘭さんに失礼ですけど……雪さんには、ちゃんと、お仕事の依頼に来たんです」
「ん?」
 雪はこの時、心底意外に思った。木蘭から、白黒は一匹のポケモンだけを連れ歩く、孤高の少年だという評価を聞いていた。だから、自分のような仕事には縁がないのだろうと思っていた。あるいは、そのポケモンにニックネームを付けようというのだろうか。全く仕事とはかけ離れた話をしていたので、多少面を食らった。
「力不足を感じたわけじゃないんですけど、ちょっと手持ちを増やそうかなと思って、少しずつ、増やしてるんですけど……一匹だけで戦うっていうポリシーみたいなのも、捨てて……これから旅に出ると、夜、寂しそうですしね。そんな中の一匹で……実は、木蘭さんから受け取ったんですけど」
 白黒は立ち上がり、ポケットからボールを取り出した。「ここ、いいですよね」と言って、優しくボールを転がす。現れたのは、少し小さめの――生まれて間もないのかもしれない――アブソルだった。
「職場の旅行でアブソルを育て屋に預けて行ったとき、どうやら生まれてしまったみたいで。引き取り手を探してたみたいなので、僕が引き取ったんです。悪タイプだし、扱いには慣れてるし……それに、色々、思い出深いポケモンなので。木蘭さんと、雪さんを、思い出す」
「そうだね」
 雪は立ち上がって、アブソルに近づいた。アブソルは少しもおびえる様子もなく、雪を見上げる。
「白黒みたい」
「……言われると思いました」
「綺麗だね」雪はポケモンを見ながら、饒舌になる。「女の子」
「みたいですね。ただアブソルっていうのもなんだし、せっかく雪さんみたいな専業の方がいるんで、名付けてもらおうかなと……」
「ハクカ」
 雪は透き通るような声で、アブソルを呼ぶ。
 アブソルは首をかしげるが、すぐに雪に寄り添う。
「ハクカ、いい名前でしょ?」
 その問いかけは、アブソル自身に向けられたものだった。アブソルは嬉しそうに、雪の手に触れる。
「ハクカ……ですか。意味とか、あるんですか?」
「白い花」雪はアブソルを撫でながら言う。「それに、他のアブソルと違って、とても正義感が強そう」
「……そうなんですか?」
「うん。だから、ハクカ」雪は言う。「悪の群像から、抜け出てしまったみたいに、純粋で、正義の心を持っているから……花畑で、一輪だけ、白くなってしまったようだから、ハクカ」
 雪は屈んだまま、白黒を見上げる。
「だから、私たちが、見守ってあげるね」
 白黒は少しの間、何も言えなかった。ああ、言葉とは――名前とは、そういう願いなのだ。最初、白いから――という、単純なイメージを沸かせた。次に、自分が白黒だから、という、陳腐な関連性を見出した。しかし、白花変種に見られるような、普遍的でない印象をその名前に見て、その次に、二人の女性を思い出した。
 だから、名前とは――
 そういう、願いなのだ。
 どんなニックネームを、とか、あるいはこんなニックネームになるのではという予想すら、してきたけれど――まったく見当違いで、しかしそれ以外に当てはまらないような名前を、授かった。
「気に入った?」
「――ええ、この上なく」
 白黒はハクカを抱き上げて、頭を下げる。
「ありがとうございます。いつか、ちゃんと来ようと思ってたんですよ。仕事をしてもらおうって。ちゃんと願いがかなって良かった……ああ、お金は……」
 雪は机の上のペットボトルを開けて、中身を飲み干す。そして空になったペットボトルを振りながら、
「ごちそうさま」
 と言った。
 だから白黒は、何も言わない。
 この人に、負けておきたかった。
 そのまま、貸しておいてもらいたかった。
 いつか返したいとまた思えるように。
 縁がそこで切れてしまわないように。
「ありがとうございます」
 白黒は、ハクカをボールに戻し、二本目のペットボトルを開けた。
「……すごい、長々と話しちゃいましたね。すみません……じゃないや。ありがとうございました」
「うん」
「こうやって話してると居心地が良くて、もう、関東から離れたくなくなっちゃうそうなんで……もう、今日の夜に出るつもりなんです。だから、この辺で、失礼します。木蘭さんにも、よろしくお願いしますね」
「わかった」
 白黒はドアを開け、外に出る。もう、日が傾き始めている。きっとすぐに夕暮れが始まって、夜が来る。あらかじめ、準備はしてきたけれど、これからまた、少佐のところに行かないとな……と、白黒は思う。
「それじゃ、行ってきます」
「うん」
 遠ざかろうとする青年の背中。
 大きくなったんだな、と。
 大きくなれたんだな、と。
 しみじみと、感慨深く、雪は思う。
 そして、
 背中に手を当てるように、
 肩をつかみかけるように、
「白黒」
 と、名前を呼ぶ。
 雪はその名前が好きだった。
 好きだったから、呼んだ。
 本当に、ただそれだけの理由。
 基本的に、嫌なことなどしたくない。
 だから、したいことだから、したのだ。
 とても分かりやすくて、とても複雑で。
 そんな名前が、彼そのもののようで。
「……なんですか?」
 またね、とか。
 頑張って、とか。
 気を付けて、とか。
 応援するから、とか。
 風邪引かないで、とか。
 無理しないように、とか。
 ハクカを可愛がって、とか。
 色々と、一瞬のうちに、言いたいことは思い浮かんだけれど。
 それを全部飲み込んで、雪は言う。
「やっぱり、あなたの名前は、気持ちが良いね」
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戯村影木 ( 2013/05/03(金) 23:18 )