ポケモン3。
「酒臭いですよ」
「じゃあもっと俺の体臭を嗅がせてやろう。酒臭いのなんかどうでもよくなるぞ。うへへはははは」
「いや意味が分からないんで。あと、ほんと、僕酒の匂いダメなんで。酒自体の匂いはいいんですけど、酒臭いってのは別なんですよね。タバコの煙はダメだけど、衣類に染み付いたタバコの匂いは大丈夫っていうかむしろ好きだし……うわぁやめてぇ」
「おら、もっと嗅げ。お前も酔え。な? せっかくのパーティだろ?」
「パーティは終わりました」
「ああん? じゃあ後夜祭だ」
「学生かよ! しかも少佐日本のトレーナーズスクール通ってねえだろ! なのになんで知ってんですかそんな言葉」
「お前、年上にその口の利き方はねぇんじゃねへぇのかはぁん?」
「喋れよちゃんと!」
 へべれけの少佐だった。
 パーティの巻、完。
 ……いやいやそうじゃないな。
「ほんと、しっかりしましょうよ、大人なんですから。それに少佐、このあと仕事あるとか言ってませんでしたっけ? こんなへべれけでいいんですか?」
「ああ……? 仕事……仕事、なぁ。確かに何かあったような気がするぞ? でもまだ時間あるからな。最後に嬢ちゃんの私服を見てから行こうと思っとるわけなんだこれが。だからこうしてな、廊下のベンチで、お前と隣同士に座っているわけなんだよ。はっ、俺だって男の隣になんか座りたくねぇよ気持ち悪い。どっか行け! しっしっ! ゲラゥトヒァ!」
「お前がどっか行け! 酔いすぎだ!」
「酔ってねーよ全然酔ってねーよ……つーかマジな話、ちょっとだけふざけてな? それで真面目分を補給してるだけなんだよ。お前な、俺も大人だから仕事中はふざけらんないんだよ。分かるか? そしたらお前、今のうちにふざけとくしかないだろ? それに、ここにはお前という好都合なおもちゃがいるんだから、ふざけない手はねーだろ」
「ふざけんな! 二重の意味でふざけんな!」
「大声出すなよ……うー……頭いてぇ」
「結果的に酔ってんじゃねえか!」
 まあ、何故少佐がこんなところにいるかと言えば、口ではこんなことを言っているけれど、真実は、単純に、枝梨花さんを待っているということのようだった。枝梨花さん情報によると、少佐が枝梨花さんを護衛する――というか、一緒にポケモン屋敷から出てくれることで、声をかけてくる一般人を少佐が蹴散らしてくれて助かるらしい。枝梨花さん、人目引くし、ただ歩くだけでも大変なんだろう。少佐のように人混みを散らしていくのは、イメージにも反するだろうし。
 まあでも、ジムリーダーが二人以上で歩いていたら、普通は声をかけるというよりはおののくものだから、少佐もたまには役に立つんだろう。
 しかし、この酔っぱらいで役に立つんだろうかという疑問もないでもないけど……。
「それにしても、こんな夜中に仕事って、やっぱ屋敷の護衛なんですか? まあ、出来たてだし、それも必要なんですかねぇ? 紅蓮島は火事場泥棒発祥の地だとか何とか言いますし」
「んー、や、ちげぇちげぇ。まあ別に隠すことじゃねーけど、ひらたく言えば紅蓮島全体の護衛か? まあお前はあんま気にすんな。言っちゃいけないわけじゃないんだが、変な心配かけると困るからな。護衛って、何かしらの被害から護るって意味だからな。全然良い意味じゃないだろ?」
「まあ、そうですね。特に、マダムと呼ばれるような人種には禁句か……彼女たちは、無駄に騒ぎを大きくしますしね」
「まあ、そういうのもあるな。一応、桂も出るし、柳さんも加わる予定だ。ジムリーダーはこういう仕事もしなきゃいけねーんだ。面倒だろ? だから俺と代わってくれよぉ」
 そんな口調で、少佐は僕に抱きついてくる。
「……そのネタ、まだ続いてたんですか?」
「だから本気だっつってるだろ?」
「嫌だつってるじゃないですか」
「はぁ……なんだかなぁ。最近ハクロがつめてぇんだぁ……」
「誰に言ってんですか誰に」
 そんな寸劇のような会話を続けながら――誰も見てないのに――待つこと数十分。少佐に絡まれながら、ドアの開く音を聞いて視線を向けると、そこには着物を着たままの枝梨花さんと、『これでもがんばって抵抗したんだよ? 本当に。でも、枝梨花さんに敵うはずもなくてさぁ……仕方ないので諦めることにしました……』という心境がありありと分かる服装の緑葉が現れた。派手というほどじゃないけれど、地味でもないし、なんというか女の子らしい服装だ。趣味なのかどうなのか、緑葉の基本スタイルはどういうわけかスカートなんだけど、心なしか、その丈も短い気がする……。
 いやいや、別にどこを見ているってわけでもないですけども?
「お待たせしましたハクロ様。あの、緑葉様……どうでしょうか? お気に召しました?」
「え? ああ」お、お気に召すってどういうことだ? 何かあんのか? いやでも、まあ、えっと。「か、可愛いですよね?」
 何故か疑問系。
 隣で少佐は、満足そうに、笑顔で頷いていたけど。
「良かったですわね緑葉様」
「え、あ、あはは……あ、ありがとうございます……うぅ」
 一体僕らをどうしたいのか、枝梨花さんはそんなことを言って、ほほほと笑っていた。笑ってる場合じゃないよ、ホント。くっつけたいのか、自重させたいのか、はっきりしてくれという感じで。
 それとも、枝梨花さんも多少酔いが回っているのだろうか。
 そうだとしたら、明らかに悪酔いだけど。
「さってと。んじゃ、可愛い嬢ちゃんも見たし、俺は行くとすっか」
「復活早いなー少佐」
 心から驚くほどに。
「酔いを気合いでコントロール出来ないようじゃまだまだだからな。お前らも、酒は飲んでも飲まれるなよ?」
「未成年です」
 二人揃って答えておいた。
「よし枝梨花、そんじゃそろそろ行くとするか」
「そうですわね。船の時間もありますし……名残惜しいですけれど、それではハクロ様、緑葉様、またいずれ、お会いしましょう。緑葉様とは特に、玉虫ジムでお会い出来る日を心待ちにしておりますわ」
「あ、はい! そのときはよろしくお願いします」
 深々と頭を下げる緑葉。
 なんとも初々しい反応だ。
「ええ、こちらこそ。出来ればそのお洋服を着てきていただけると、嬉しいですわ」
 なんて呪いの言葉を吐きつつ、枝梨花さんと少佐は、ポケモン屋敷の出口の方へと、向かっていった。見送るつもりで僕は左足を一歩前に出したが、少佐からの目配せで、すぐにその足を止めた。まあ、見送る必要もないか。ジムトレーナーと一緒に行動しすぎるのは、目立つ要因になるし、移動の邪魔になるかもしれない。
 本来、こんなに親しくしていていい存在ではないのだ、ジムリーダーは。
「はー……お疲れ様ぁ」
 くたくたに疲れたらしい緑葉は、ドアに寄りかかりながらそう漏らした。
「お疲れ」
 枝梨花さん。
 今度会うのは……着物の借り賃を払うときかな?
 とにもかくにも、別れの挨拶が簡素なのは、また会えることを確信しているからかもしれない。なんてことを思いながら、僕と緑葉は、部屋に戻った。
 ようやく、一つ二つと、段落が終わっていく。
 これで眠れば、今回の出来事は全て終わるのだろうか。
 緑葉が出入り口に近い方のベッドに座ったので、僕は反対側のベッドに腰を降ろした。疲弊こそしていないけれど、流石に少し、休みたい気分だった。原因は恐らく、気を使いすぎたせいだろう。マジックポイントが異常なまでに足りない。いや、ゲームじゃないんだし、そこまで人間、数値化されていないとは思うけど、精神的にね。
「濃い一日でした」
 誰にでもなく緑葉は言う。
 緑葉の現在の服装は、枝梨花さんの着せ替えの趣味なのか、和服ではなく洋服。ベッドに座って、両足を直線に伸ばし、膝の上に両手をそれぞれ置いていると、まるで人形のようだった。脱いだあとの着物は見つからないので、きっと枝梨花さんが回収してくださったんだろう。何から何まで、お世話になりっぱなしだと痛感する。
「濃かったねぇ。ジムリーダーと一緒にいるだけで、平民は気を遣うというのに……向こうはお構いなしだからなぁ」
「うぅ……ていうか今更ながら、ハクロの精神力っていうか図太さがどれほどのものか、よく分かったよ……」失礼なことを、緑葉は言う。「いつもマチスさんと一緒なのに、よく物怖じしないね、ハクロ」
「いやぁ、本音を言うと、実際は内心ガッチガチなんだけどね」
「だろうねー」
「少佐は僕が失敬しても気を害さないから、許されてるだけだよ」
「ああ……いい人だねえ、マチスさん」
「本当にね」
 しかしこれだけポケモントレーナーが密集しても、特別事件が起きたりはしていないというところは、結構なことであるように思う。その辺が、桂さんという人物の大物っぷりなんだろうか? まあ、最近ちょっとずつ異常に慣れていた僕にとってみれば、それは正直、少し物足りないような気もしたけれど、これが普通なんだ。いや、むしろ、ジムリーダーと個人的に親しくなってしまったということが、そもそもは事件として取り上げるレベルのことなんだろう。爆発だとか、超常現象だとか……僕は近頃、ちょっとおかしなものに、遭遇しすぎたのだ。
「ハクロはこのまま寝るー?」ベッドに横倒れになりながら、緑葉がけだるげに言ってくる。
「ん? もう緑葉は寝たい感じ?」
「うーん……結構限界まで起きてる感じするかも」
「今は……ああ、もう十一時か。そりゃ眠いよね」旅のトレーナーは、寝ている時間だ。「まあ、時間が時間だから、もう寝てもいいよ。船の中で少し寝たせいか、僕はあまり眠くはないのが本音だけど。いつもだったら、まだ寝る時間じゃないし」
「不良だなぁハクロは」
「緑葉が健康的すぎるだけじゃない?」
 まあ暗くなったら野宿の準備というのが旅のポケモントレーナーの基本だろうから、十一時なんて、余裕で寝てる時間なんだろう。一方僕は科学の力に守られた健康的な生活を送っているから、十一時なんて、まだまだ夜は始まったばかりって感じだ……。
「まあ僕は緑葉に合わせるよ。別にしたいこともないし、見たいテレビもないし」
「うん……そうしてくれると助かるな。結構疲れちゃってるんだ」
「だろうね」心の底からそう思う。
「枝梨花さんの手前、この服着させてもらったけど、本当はお風呂に入って着替えてすぐに眠りにつきたい感じです。慣れないこともしたし、初対面の人も多かったし、もうくたくたー」
 確かに、見ただけで分かるほど、今の緑葉は疲弊しきっていた。さっき部屋の前で少佐と枝梨花さんに別れを告げた笑顔が嘘のよう……とまでは流石にいかないけれど、でも、今の緑葉は顔が笑っていない。よく言う、顔が笑っていて目だけ笑っていないの逆バージョンだ。目は輝いているのに、顔が追いついていない。完全に疲れ切っている。笑顔を構成する筋肉が死んでいるんだろう。
「じゃあ、もうお風呂入って、寝た方がいいね。夜更かしして得られるものなんて特にないしさ。えっと、部屋着は浴衣……かな? まあ、何かしら備え付けてあるだろうから、それに着替えて、寝ようか。緑葉が入ったら、僕も入るから。お先どうぞ」
「うん……じゃあ、お先様にいただきますー……」
「……いや、本当に大丈夫か? 日本語おかしいぞ?」
 ゆらりゆらりと揺れながら、「だーいじょーうぶーい」と漏らしつつ、緑葉はバスルームの戸を開けて中に入っていった。会話が成り立っているうちは、まあ大丈夫なんだろうけど……緑葉も結構キてるなぁ、と僕は思った。
 さてさて。
 待ってる間、僕は寝る準備だけでもしておくか。
 健康的な男子なら、ここで緑葉の入浴の一つも覗きたくなるものなんだろうけど、あいにく小さい頃に一緒にお風呂に入った経験がもしかしたらあるかもしれない僕の中には、そんな下劣な思考は生まれないのである。嘘か真かは推して知るべしだが――
 幼馴染みって、いいよね。
 ……とか何とか。
 ひとまず僕は荷物だなんだというものを一応にして整理しておく。緑葉の私物は、まとめてベッドの上に。せっかくだし整理だけでもしておこうかとも思ったけれど、僕は女の子の私物に手を出すほどおちぶれてはいないつもりだった。別に強がってなんかいない。
 部屋のクロゼットを開けると、浴衣とバスローブが入っていた。おお、これが噂に聞く、ワインによく似合うアレか! では是非に……と一瞬だけ思ったけれど、当然のように浴衣を選択した。バスローブの正しい着方なんて知らないし、僕も緑葉も、浴衣の方が、着慣れている。小さい頃は、よく着たもんだ。
「……ふむ」
 自分用の浴衣を膝の上に置いて、ベッドに座る。
 これであとは風呂に入って、寝るだけだ。
 だけど、なんとなく、物足りない感じだ。
 何が足りないのかは、分からない。
 でも、何かと、つまらない感じがしているような、そんな気がする。発散出来てないというか、そんな具合。高揚してしまったせいなのか。何を発散出来てないのかは分からない。いっそこんな思考が散ってしまえばいいんだろうけど、どうにもこうにも、そうも行かないわけで。
 テレビも付けずに、ベッドに仰向けになる。
 ぼんやりと思考のスイッチが付く。
 ジムリーダー。
 先生に、少佐に、桂さんに、枝梨花さん。
 筑紫に、蜜柑さん。
 そして――グリーン。
 ここ最近、ジムリーダーに会う回数が多い。
 緑葉とよく会うからかな?
 それとも、木賊と会うからだろうか……。
 そして結果的に僕は、順調に、ポケモントレーナーになってしまっているからなのだろうか。
 成り下がっているのか。
 成り上がっているのか。
 成りたがっているのか。
 その真意は――?
 分からない。けど――――
 意味も途方もない思考を巡らせていると、ふと、控えめなノックの音が聞こえてきた。現在緑葉はバスルームである。それに応じられるのは、僕しかいない。
「はい?」
「俺だー」
 青藍兄さんだった。
「てっきりもう寝てると思ったけど」言いながら僕は鍵を開けて、ドアを押し開ける。「珍しいね、兄さんはもうとっくに爆睡してるかと思ったよ。まあ寝てなくても仕事で忙しいと思ってた」
「俺はそんなキャラか?」
「パーティ会場でも見かけなかったし」
 僕がドアを押しとどめている間に、青藍兄さんは部屋に入ってくる。青藍兄さんは遠慮などしない性格だ。
「いやー、それについては悪かった。結構、色んな人に捕まってな。お前らに会ってる暇なかったんだ。いやー、それにしても…………疲れたー!」
 青藍兄さんは部屋に入るとそのまま駆けだして僕のベッドにダイビングした。訂正。ダイブした。本能的に僕のベッドがどちらか分かっているのか? と思ったけど、荷物がない方を選択したに過ぎないようだ。青藍兄さんのことだから、本能的に分かるようなら、緑葉のベッドにダイブするはずだ。
「んで……緑葉ちゃんは?」
 顔だけ横に向けて青藍兄さんは尋ねる。僕は居場所を求めて、放置されていた椅子に腰掛けた。
「今、シャワー浴びてるところだよ。疲れ切ってるみたいだね。おもちゃにされて大変だったらしいよ? まあ、見た目と性格が相まって、お姉さん方のおもちゃに成り得る天性でも持ってるんだろうね、緑葉って」
「なるほど、お疲れなのか。んじゃ、もう寝ちまうんだろうなぁ……もしかしてハクロも寝るのか?」
「まあ、そのつもり。緑葉が寝てる間、することもないし、電気つけてるのも悪い気がするし。船で寝たからそこまでじゃないけど、眠れなくはないよ」
「なんだ、てっきりお前らはどっかに遊びに行くと思ってたのに」
 青藍兄さんはベッドの上にあぐらをかいた。今は上着を着ていないので、黒いワイシャツに赤いネクタイなだけである。それだけでも十分に奇抜だが、見ようによっては寝間着にも見えた。シャツの裾がだらしなく出ているからだろうか。
「遊びにって……紅蓮島に遊びに行くようなとこあるの?」
「場所がどこであれ、パーティの夜はポケモンバトルだろ?」
 さも当然のように言って、青藍兄さんは首を傾げる。何? お前知らないの? とでも言うように。
「っていや知らないけど」
「あー、まあお前って、全然ポケモントレーナーとしての常識ねーもんな。そして緑葉ちゃんは、こういう場に馴染みがないから、知らないわけか……」一人で納得しながら、青藍兄さんは頷いた。「あのな、普通、こういう集まりのあとってのは、大っぴらにポケモンバトルをするもんなんだぞ? それが紳士の嗜みだ。今の世の中、人が集まるイコール、ポケモントレーナーだらけってことだからな。メインイベントの前とあとは、ところかまわずポケモンバトル。イベントごとって大体そうだぞ?」
「へぇ、そういうものなんだ。それは、何? さっきのホールかどこかでやるものなの?」
「んー、今の時間帯ならまだやってるかもしんないけど、夜も遅くなったら、流石に建物の中でやるのは御法度ってもんだな。寝てる人には迷惑をかけない、それが紳士。つーかまぁ、そこら辺は紳士云々関係なく常識だけどな」
 青藍兄さんの言葉に、それもそうか、と僕は納得する。もし一階のホールでポケモンバトルが行われていたら、うるさくて眠れないことだろう。
「じゃあ、ジムとか? あ、そっか、もう紅蓮ジムは出来てるんだっけ?」
「いんや、まだ調整中らしい。双子島からは撤収したみたいだけど、まだジムとしては使えないんじゃねーかな……あぁ、でも、今夜お披露目って可能性もあるか。まあ、興味あったら外に行ってみな? 多分どっかで人が集まってるからさ、良い機会だろ。せっかくトレーナーカード作ってやったんだから、小遣いでも稼いで来いよ」
 何のことだろう、と思ったが、二秒後に合点が行く。
 そういえば、トレーナーカードにいくらか所持金をつぎ込めるんだったか。
 ん、ということは、路上でのバトルって、戦いが終わったあと、トレーナーカードで金銭のやりとりをしていたのか……?
 思い返してみると、僕って戦いが終わったらすぐに観戦するのやめてたし、緑葉について路上バトルを二回だけ見たことあるけど――一回目はバトル後に木賊が倒れて金銭のやりとりはうやむやになったし、二回目はダブルバトルを緑葉に任せて、戦闘中に寝ちゃったし。
 今まで、あまり意識したことがなかったけど。
 嫌な言い方だけど、僕はあんまり、お金に困ってないし。
 となるとまあ、確かに、青藍兄さんの言う通り――いや、それは青藍兄さんも同様にだけど――ポケモンバトルで稼ぐお金は、僕らにしてみれば、生活費ではなく、小遣いという表現が正しいわけか。
「お前なら負けなしだろ?」
 青藍兄さんは言う。
 それは、多分、そうだと思うけど。
「お前に勝てるやつなんてそうはいないから、大人から小遣い巻き上げればいいんじゃねーの? まあ、お前に勝てるやつなんて、いても俺くらいだろうし」
「青藍兄さんが? 僕に?」
「ああ。そうか、お前、俺のバトルも見たことねーのか。俺はつえーぞ?」
「はっ、言ってろ言っててててて!」青藍兄さんのはさむ攻げ「ごめんなひぃ言い過ぎまひた!」
 僕の頬が青藍兄さんの右手から解放された。
 一瞬で体伸びすぎだろ……もうベッドの上に戻ってるし。どんな体してんだ青藍兄さん。
「とにかくだ、こんなお祭りにはジムリーダーは当然ながら参加しねーし、参加してんのはカモばっかだ。俺でも勝てるような連中ばっかだからな」数分前の発言をもう矛盾させている。「興味があるならいかねーか? って誘いに来たんだよ。俺は元々行くつもりだったしな。目的は当然、小遣い稼ぎ」
「兄さん、小遣い稼ぐ必要ないじゃん」
「俺は生活費と遊びは分けてんだ。際限なくなるまで遊んだら、意味ねーだろ? 意味ねーし面白くない。そんなわけだから、お前ら二人とも連れてくつもりだったんだが……緑葉ちゃんに無理させるのは気が引けるし、まあハクロだけでいいや」
「お兄さん、扱いがぞんざいすぎやしませんか? ……まあ、青藍兄さんが戦ってるとこって見てみたかったし、行くのは別にいいけどさ。正直、物足りないとは思ってたんだよね、このまま寝るの」
「おお、そうか。んじゃ行こうぜ。一人じゃ勝てねーかもしんねーし」
 ははは、と青藍兄さんはさらに発言を矛盾させてから、笑って立ち上がった。ん? おかしいな……俺でも勝てる連中と豪語していた気がするが、一人じゃ勝てないかもしんないって……あれか? 僕とダブルバトルして稼ごうって気じゃ……。
「じゃあちょっと部屋で着替えとか準備してくるけど、ハクロはどうする? お前も着替えるか?」
「あー……いや、僕はこれしか服持ってきてないんだよね」ワイシャツを摘みながら言う。「でもシャワー浴びたいし、ちょっと時間貰えると助かります」
「あ? なんだ、そうだったんか。じゃあ俺の服貸してやるよ」
「いやいいって。手足の長さ的な意味で惨めになるだけだから……つーか兄さんだって荷物持ってなくなかった? 服、それだけなんじゃないの?」
「遠慮してねーで、すぐ持ってくるから待ってろ。はーまったく、パソコン通信って便利だよなー」
 青藍兄さんはそう言いながら部屋を出て行く。ああ、そうか、青藍兄さんはほとんどの荷物をパソコン通信で預けていたんだっけか……。
 扉が大人しく閉まる。
 僕はまたもや、一人部屋に取り残される。
 緑葉は……そのまま眠ってたりはしないだろうな、と心配になるほどバスルームから出てこない。まあでも、十数分しか経っていないし、僕の家でも比較的長い時間入っているし、心配はないか。
 あー……。
 やべえ。
 なんとなく、気分が高揚してきた。
 ポケモンバトル。
 パーティのあとの常識、か……。
 でも、なんだかぼんやりと、そんな光景も思い出せる。
 父さん母さんに連れられて行ったパーティ。
 パーティが終わり、家路につく頃には僕はもう疲れ切っていて、いつも父さんの背中におぶられていたような気がする。だけど遠くで、ポケモンの綺麗な体毛が踊っていたような、そんな光景……夜なのに、そこだけ妙に鮮やかに見えていたような、そんな気がする。
 あれが、パーティ後のポケモンバトルだったんだろうか。
 そうだとしたら、僕はあの煌めきに、多少なり憧れを抱いていた時期もあったような気もする。
 昔も今も、変わらないものがあるのだろうか。
 ……なんてな。
「お待たせーい」
 ハイテンションで青藍兄さんが部屋に戻ってくる。服を取りに行っただけだからか、随分と早かった。
 手には私服。
 本当に持ってきやがった。
「ありがとう……」受け取りながら、サイズが合いそうにないなと落胆する。「裾とか折るけど、いいよね?」
「ああ、適当に着てくれ。何なら切ってくれても構わん」
「いやそれは流石にもったいないんで……」
 受け取った私服一式を広げてみる。黒い無地のTシャツに、同じく少し色褪せた黒いジーンズと、白いパーカーだった。ついでにベルトまでついている。準備時間は短かったけど、色彩に乏しいようだ。
 ていうか、狙って揃えてんだろ。
 ……いやまあ、僕っぽいけどね?
「じゃあ、俺も一旦風呂入ってから来るかな……いいか、寝るんじゃねーぞ。一人で行くのは寂しい」
「分かってるって」
 青藍兄さんが僕の頭を無意味に一発軽く叩いてから、部屋を出ようとドアノブを握る。と同じようなタイミングで、バスルームのドアが開く。バスルームのドアは出入り口付近にあるので、当然ながら僕と青藍兄さんは身動きを封じられた。
「お待たせハクロー長くてごめんねー…………え、あ! 青藍さんがいる! あ、なんで? え? えーっと……!」
 バタン――と。
 再びバスルームの戸が閉じられた。
 硬直する僕と青藍兄さん。
 ……。
 ……。
 てん、てん、てん、と。
「あー……」
「……うん?」
「ハクロはちょっと、お兄さんとお話しようか?」
 青藍兄さんの腕が僕の肩に回される。非常に怖い。今すぐに逃げ出したい。逃げる逃げる! ……しかし逃げられない!
「今のは、どういう」
「いや違うって、別に何も企んでないから。あれじゃね? 緑葉のおっちょこちょい的な感じ? 疲れてて意識朦朧的な感じだと思う、うん。つーか別に僕何もしてなくない?」
「いや百歩譲ってお前らが幼馴染みだとしても、バスタオル一枚だけ巻いて外に出てはこなくねぇ?」
「いやぁ……僕もすげーそう思うんだけどね? そればっかりは僕の管轄じゃねえっつーか?」
 しかし、よく考えればそれも当然なわけで、緑葉は着替えを持たずにバスルームに入ってしまったわけだから、バスタオルを巻いて上がってくるしかないわけだ。まあ、流石に下着は身につけていたと信じたい僕だけど…………!
 僕なら別にいいや、とでも思ったんだろうか?
 それとも……いや。
 考えるのはよそう!
「とりあえず、二人とも出てた方がいいと思うけど」
「……だな、出とくか」
 僕はドア越しに緑葉に声をかけて、青藍兄さんとともに部屋から出た。緑葉から返事はなかったが、きっと聞こえていたことだろう。今頃羞恥にやられて、丸まっているのかもしれない。
 ……ふう。
 まあ、なんつーか。
 廊下に出た僕は、夜のポケモンバトルで、何かイベントでも起こるんだろうか、と、そんなことを思いながら、さっきまで少佐と座っていたベンチに腰を降ろして、部屋に戻っていく青藍兄さんを見送った。
「じゃあ、とにかく、またあとでな」
「緑葉にはちゃんと言っておくよ……」
 ……はぁ。
 しかし、色々と、前途多難だ。
 僕は今夜はちゃんと、眠れるのだろうか?
 気分が高揚して、それどころじゃなくなってきていた。

 ◇

「で?」
「あ?」
「これは、何?」
 僕は目の前の景色を指差しながら、呟いた。
「さあ……俺にも何がなんだか。お前、分かる?」
「兄さんに分からないことが、僕に分かるはずもなく……」
「まあそういうことだろうなぁ」
「……」
「……」
「とりあえず、どうしましょうか?」
「傍観するしかねーだろうなぁ」
 僕と青藍兄さんの、視線の先。
 そこには夥しい量のポケモンが、紅蓮島に打ち上げられてた。
 うすらぼんやりとした眼で、僕と青藍兄さんは、その光景を眺める。鳥獣戯画の宴のよう、とでも表現すべきだろうか? とにかく滅多にお目にかかれるものではない景色。是が非でも緑葉を連れてくるべきだったな、なんていうことを、思ってしまうほどに、狂った情景。
「とりあえず座るか……」
 青藍兄さんは海水の付着した眼鏡を拭きながら、ポケモン屋敷のすぐそばにあったベンチに腰を降ろした。何のためにあるんだろう、と思ったが、すぐそばのガラス張りの窓の向こうに、つい数時間前までパーティをしていたホールが見えた。まだ片付けがなされている。ここはきっと、ホールのベランダ部分なのだろう。いや、一階でもベランダと呼ぶのだろうか? よく分からないけど。
「しかし、なぁ」頬杖をつきながら、青藍兄さんは呟く。「ポケモンバトルしてる場合じゃねーぞこりゃあ」
「そうだねぇ」
 ていうか僕らも避難するべきなんだろうけど。
 何故か、その光景に見入ってしまっていた。
 青藍兄さんは、好奇心からだろうか?
 それともいざというとき人助けをするためだろうか?
 ポケモン屋敷の従業員らしき人や、町人らしき人、さらにはポケモンたち(ガーディやホーホーが一般的だ)も混乱を静めるために頑張っていた。
 海は荒れている。
 海自体が荒れているのではなく、ポケモンたちの移動によって、荒らされているのだ。
 そのおかげで、海水が少量ずつだが、紅蓮島に及んでいた。
 僕らも少しだけ、打ち上がった海水に濡らされていた。
「珍しいこともあるもんだなぁ」
「珍しいっていうか、そもそも過去にこんなことが起きた記録ってないんじゃない?」目の前で、パウワウが横転している。「聞いたこともない」
「かもなぁ。普通、野生のポケモンは人が多く集まっている場所には寄ってこないもんだと思うが……」青藍兄さんはポケギアを取り出して、何やら打ち込んでいた。「ゲットされたくて海底からあがってきたか? いやいや、それはないよな流石に……逆に、大量発生にしては、種類が多すぎるし」
 青藍兄さんはポケギアをポケットにしまうと、入れ替わりに小型のカメラを取り出して(通称ポケットカメラ)、その光景を撮影していた。野次馬根性旺盛だなぁ……と思うことは思ったけど、止めたりはしない。案外、こういう記録がのちのち役に立ったりするものだ。ていうか、よくあんな古いもん使ってるな、青藍兄さん……まあ持ち運びには便利だけど。ポケギアとも連動出来るし。
 僕の視線の先で、紅蓮島に避難してきたらしいポケモンたちは、人の手によって海に帰されていく。そしてまた飛び上がってきて、の繰り返し。中には戦闘に及んでいるポケモンもいる始末だった。これはこれで、結構な地獄絵図。数時間前紅蓮島に降り立ったときとは、まるで違う世界。本当に、何かのイベントのようだった。
「何か出来るかと思ったけど、あんまり役に立ちそうにねぇな」
 青藍兄さんがカメラをしまいながら溢す。
「まあね、僕ら民間人だし。それに客だし」
「屋敷の中にいたら、普通気づかないだろうしなぁ……」呑気に寝息を立てているであろう客たちを屋敷越しに眺めて、青藍兄さんは舌を出した。「こんな夜中じゃ窓も開けないし。いやー、外に出て来て良かった良かった。眼福眼福」
「良かった、のか? 本当に……?」
「まあ、ひどい光景だとは言っても、避難警報が出てるわけでもねーし、立ち入りが禁止されてるわけでもねーし、いいんじゃねーの? 邪魔にならない程度なら、観光してもいいんだろ? そこいらの草むらの方が、よっぽど危険だ」
「まあ確かにそうだけど」制服に身を包んだ人たちを見ながら、それもどうかな、と僕は思う。「観光する行為そのものが邪魔に直結すると思うけど?」
「怒られたら、パーティのイベントかと思いましたーって言えばいいよ」
 適当な青藍兄さんであった。
 別にいいけど。
 僕は困らないし。
「さて、んじゃちょっくら観光して、珍しいのがいたら捕まえて帰ろうぜー」
 青藍兄さんは気楽に言いながら立ち上がった。僕もなんとなく、続いて立ち上がる。
「まずはモンスターボールを手に入れてだな」
「いやいいよ捕まえないし」
「せっかくトレーナーになったんだから、ポケモンくらい肥やしといたらどうだ? いくら捕まえても、保管に金はかからねーんだぜ?」
「僕はパソコン通信使わない派なの」断固とした口調で宣言する。
「まあ否定はしないけどなぁ。常に同じポケモンと一緒にいたいって気持ちも分かるし、パソコン通信に預けておくと、なんか冷酷って気もするもんな」
 青藍兄さんが歩き出したので、僕もそれに続く。
 青藍兄さんは、まるでそれが仕事の一環であると言わんばかりに、パソコン通信を利用している。僕の人間関係の中では、もっとも精通していることだろう。道具から始まり、ポケモン、金銭、洋服やデータまでも、全て個人のパソコンに保管している。一応利用者毎に容量制限はあったはずだけど、最近はお金の力で容量も増やせる時代になったらしいから、青藍兄さんはそれを利用しているのだろう。科学の力って本当にすごいと感嘆せざるを得ない。
 まあ、一説にはパソコン通信を利用しすぎることで環境破壊に繋がるなんていう馬鹿げた思想を掲げる集団もいるらしいので、その利便性は一言で片付けることが出来るようなものではなくなってきているようだけど……それに、今はどこも、パソコン通信はあまり活発ではなくなっているとか、いないとか。僕は深奥にいた頃からあまりパソコン通信に馴染みがなかったので知らないけれど、持ち物くらいは自分で持ってろ、って風潮が、今は全国的にあるらしい。
 でも、ポケモンの預かりシステムは健在。
 ま、そりゃそうだよなぁ。
 今やトレーナー一人に対して、五十匹程度のポケモンが預けられているとしてもおかしくない時代だ。ポケモン預かりシステムを廃止したら、ポケモンの置き場に困るってもんだろう。
 ……ポケモンの置き場に困る、か。
 もしかして、今紅蓮島がポケモンで溢れてるのは、案外そういう理由だったり――
「いや流石にそれはないか」
「何がだよ」
「なんでもないです」
 地獄絵図も、歩いてみると案外普通に通れるものだった。道のあちこちでポケモンが捕獲されては(ボールではなく、素手や網で)海へ投げ帰されている。なんだか面白い光景だった。豊縁地方とかだと、こういう光景も、日常茶飯事なのだろうか? 海の近くに住んでいた経験が少ないので、よく分からない。
 ……いや、朽葉は港町だけど。
 自然がたくさんの海の町、って感じじゃないよなぁ。
「あ、ハクロ、そういえば金入れてきたか?」
 思い出したように、青藍兄さんは立ち止まる。
「え? 何処に?」
「トレーナーカードだよ」
 青藍兄さんがポケットから自分のトレーナーカードを取り出しながら言う。
「あー……いや、やってないや。何? なんか必要だった?」
「んー、いや、これからフレンドリィショップ寄るつもりだったからさ。お前が買い物するつもりないならいいんだけど」
「いや、別に財布あるしいいよ。それに、トレーナーカードはまだ慣れてないし」ポケットに手を触れて、財布を確かめる。
「慣れてないから練習させるつもりだったんだけどな……まあそれは、豊縁に行ってからでいいか」
 青藍兄さんはトレーナーカードをしまって、再び歩き出す。
 ああ、そういえば、関東に戻ったらすぐ、豊縁地方に行くんだったっけ。
 すっかり忘れてた……あれ、本気なのかなぁ。
「で、何買うつもりなの?」
「んー、モンスターボールか、あるようならネットボールだな。ハイパーボールでもいいけどちょっとたけーし」
「へー、マジで捕まえる気なんだ」
 青藍兄さんがポケモンを捕まえるというのも、なんだか不思議な感じだった。
「こんだけ大量発生してりゃ、ただ投げるだけでも二、三匹は捕まえられる気しねぇ?」
「まあ気持ちは分かるけど……そう上手く行くもんだろうか」
 まあでも、青藍兄さんの場合、ポケモントレーナーとしての資質がないわけではないし、かといって相当に高いってわけでもないから、こういう事態に乗じてしまうのが、一番手っ取り早い捕獲方法なのかもしれない。
 暴れるでもなく何をするでもなく横たわっているジュゴンの横を通り過ぎて、僕と青藍兄さんはフレンドリィショップに入店する。
 二十四時間営業のポケモンセンターとフレンドリィショップは、ポケモントレーナーのオアシスだ。
「いらっしゃいませ!」
 ものすごくハイテンションな挨拶。紅蓮島は熱いなぁ、なんてどうでもいいことを思う。
「夜なのに結構人がいるんだなぁ」
「兄さんはあんまり夜のフレンドリィショップに馴染みがないんだね」と、深夜に唐突にフレンドリィショップに向かう不良が言ってみる。
「まあな。欲しいもんはほとんどネットで注文するし。さて、モンスターボール、モンスターボール……と」
 何か必要なものはあっただろうか、と、僕も棚を眺めてみる。身近にあったのは便箋だった。久しぶりにお婆ちゃんに手紙でも出そうかと思ったけど、ハイテクお婆ちゃんには電話の方が楽だろう。戦う予定もないから傷薬関連のものもいらないし、モンスターボールも不要。ふむ……改めて思うけど、僕は本当に、心からポケモングッズとは縁遠い生活を送っているようだ。
「さて、十個もあれば一匹くらい捕まるかな」
「一発必中くらいの心構えで行きなよ」棚を眺めながら、おざなりに突っ込む。
「俺の実力を舐めるな。コイキングを取り逃すレベルだぞ」
「いや……それはただの運じゃない?」
 言ったあとで、それも才能の一つだと思い出す。
 僕自体が、運の塊みたいな人間だしな。
 青藍兄さんは『入荷しました!』と書かれたポップが立っている棚からネットボールを十個取ってカゴに放り込んだ。水辺のポケモンと虫ポケモンが捕まえやすい……んだったかな。少しは道具に関して勉強したつもりだったけれど、あまりよく思い出せない。
「ジュゴンっていいよなぁ。メス捕まえておけばさ、朝起きたら人魚になってたりしねーかなぁ」
「しねーよ」
 限りなくしねーよ。
「夢のねぇクソガキだな……」
 悪態をつきながら、青藍兄さんはレジに並んだので、僕もなんとなく兄さんの横に並んだ。買うものと言っても飲み物くらいしか思い当たらないけど、生憎喉は渇いていないし、今日の僕は飲み食いし過ぎたので、セーブしておくことにした。
「あ、そういやお前、柳さんにはちゃんと会えたのか?」と、唐突に青藍兄さんが言う。
「ああ、会えた会えた。ついでに桂さんとも会えたから、色々お礼させてもらった。流石にジムリーダー三人に囲まれると、精神摩耗するね」
「そりゃな。あんなの俺だってごめんだ」
 まあ、青藍兄さんならなんとか対処出来るんだろうけど。場数を踏んでいる分、対応にも慣れているはずだし。
「それで、色々と話聞いたけど、ジムリーダーも大変そうだなって思ったよ。仕事内容とかね…………あ、そういや少佐が何か、夜にパトロールするとか言ってたけど。もしかしてこれのことだったのかな」
「パトロール? ジムリーダーがか?」
 興味を持ったらしく、青藍兄さんは顔ごと僕に向けてくる。
「うーん、正確なニュアンスは覚えてないけど、警戒? だったかな。ほら、少佐ってそういうのに特化したような人間じゃん? ジムトレーナーの皆さんも、屈強な人ばっかりだし、港町だから海の男が多いしね」
「んー、まあそうだろうけどな。でも、パーティ開く前から予測出来るようなことか? この事態って」
 青藍兄さんが僕の目を見て、怪訝そうに言う。
 そう言われてみると――おかしな気もする。
「無理……かな? そもそも原因分からないし。じゃあ、一体少佐は何の警戒に当たってるんだろう……」
「お次のお客様どうぞー」
 元気の良い店員の声に促され、青藍兄さんがカゴをレジの上に乗せる。
 と、ほぼ同時に。
 フレンドリィショップの扉が開き、一人の客が素早く押し掛け、て――――
「緊急事態が発生しました! 速やかに、ポケモン屋敷への避難をお願いします!」
 よく通る声で、警備員の人がフレンドリィショップ内に叫んだ。何が起きたかは不明瞭なまでも、さっきまで外で起きていた騒ぎがようやく『事件』に昇格したのかな、という認識が、僕の中に芽生えた。
「買い物途中の皆さんも、すぐに避難をお願いします! ご自宅が紅蓮島内にある方も、一度ポケモン屋敷に避難してください! 緊急事態です!」
 一瞬の静寂。
「おーおー……」
 そして、警備員の登場によって凍り付いたフレンドリィショップの時間が、青藍兄さんの感心したような声で溶け出した。
 警備員の言葉で危機を感知したらしい客たちは、手にしていた商品を置いて、一斉に店を飛び出していく。身動き一つせずに、この騒ぎに乗じれば品物の一つや二つくすねられるのかな……なんて思っている僕は、不謹慎の塊である。
「なんか……本格的だなぁ」
 青藍兄さんがその騒ぎを見ながら呑気に言う。不謹慎の塊二号。いや、こっちが元祖か。
「言ってる場合じゃないでしょ。早いとこ僕らも帰ろうよ、こんな事態になったんだし、ポケモンゲットもしてられないって」
「こんな事態も何も、何が起こったのか説明されねーと分からなくね?」青藍兄さんはあくまで冷静に、動こうとしない。「緊急事態ってことは分かるけどさ、納得行かんよ俺は」
 青藍兄さんはなおも呑気に笑っていた。かく言う僕も、結構呑気だ。二人揃ってポケットに手を突っ込んで、レジの前に突っ立っている。
 嫌な男どもだ……。
「そちらの方も、すぐにポケモン屋敷に避難をお願いします!」少し苛立ったような口調で、警備員は僕たちを見ながら告げる。「必要なものならお会計だけでも済ませてもらって構いませんけど」
「ほら、呼ばれてるよ。行こうよ兄さん、危険なことに巻き込まれるのは、僕の本意じゃないし」
「んー、まあお前の本意はどうでもいいんだが、この人の顔もあるだろうし……とりあえずここは出とくか?」
 ここは、という言い方が非常に嫌らしかったが、青藍兄さんが素直に折れてくれて僕としては助かった。カゴに入ったままのネットボールを放置して、僕と青藍兄さんは、店員と警備員の人だけが存在しているフレンドリィショップを出よ――
「朽葉ジムのマチスだ! この店で緊急時の対応を理解している人間を出してくれ! 緊急事態だ! 道具を借りに来た!」
 野生の少佐が現れた!
 ……いや、実際、大変ワイルドな口調ではあるのだけれど。
「ぅおっと! ハクロ!」あまりに場違いな場所にいた僕を見て、少佐は一瞬だけ、緊迫していた表情を崩したが、すぐに緊張感を取り戻す。「それと……ハクロの兄貴だったな。緊急事態だ、悪いが、自分の部屋に戻っててくれ」
「少佐、紅蓮島、どうかしたんですか?」
 思わずいつもの調子で僕は訊ねる。
「いやどうしたってお前……とにかく緊急事態なんだよ」困ったように言いながら、少佐は溜め息をついた。「今回はな、説明している時間がないんだよ」
「ど、どうもマチスさん、店長です」
 店の奥から眠そうな顔をした中年男性が飛び出してくる。仮眠中だったのだろう。しかしそれよりも、目の前にジムリーダーがいることに驚いているようだった。まあ、普通はジムリーダーを目の前にしたらこういう反応をするのが正しいんだろうなぁとは、なんとなく思う。
「緊急事態が発生しました」僕らに構っていられないと判断したのか、少佐は僕らを無視し、レジに向かうと手をついた。「紅蓮島のポケモンセンターだけでは、パソコン通信での道具の引き出しが間に合わないので、物資を直接お借りしたく参りました。収拾がついたら使用した物資は――」
「えっと、兄さん、あれは、何?」
 少佐と店長の会話を眺めながら、僕は青藍兄さんに問う。既に避難を促した警備員の姿はない。少佐が来たことで他に移ったのかもしれない。
「あれは災害時とかに、大量の道具が必要になって、だけどパソコン通信じゃ取り出しに埒があかないようなとき、フレンドリィショップから道具を一時的に借りられるっつールールだな。それなりの権限があるやつか、その権限を貸与されているヤツが発動出来る。これが出来るのは、ジムリーダーとか、一部のエリートトレーナーとかだ。オーライ?」
「ふーん、なんでそんなことすんの? 普通に借りれば?」僕は疑問を疑問のままに投げかけた。
「ポケモングッズは一個一個タグがついてるからな、出入り口のセンサーに引っ掛かるから、金を払わずには持ち出せないようになってんだよ。そのシステムをシャットダウンするために、一定レベルの権限が必要なわけだ。めんどくせぇだろ?」
「へぇ……って、やけに詳しいじゃん。兄さんはその権限持ってんの?」
「持ってるわけねー」
 青藍兄さんは笑いながら否定した。
「じゃあ何でそんなこと知ってんのさ」
「そりゃお前」青藍兄さんは、ここぞとばかりに、不敵に笑った。「システム制作に関与したのが、俺だからさ」
「システム停止! 裏口から回れ!」
 少佐の怒声に振り向くと、少佐がポケギアでどこかに連絡をしていた。裏口からと言っていたから、道具を箱のままで持っていくということなんだろうか。ていうか少佐の怒声の前に、青藍兄さんからなんか変な発言を聞いた気がするんだが……いいや、記憶の彼方に忘却しよう。
「ご協力ありがとうございました。では、お店の戸締まりをしたら、あなたはポケモンセンターに。店員さんはポケモン屋敷の方に避難させてください」
「わ、わかりました」
「どうもありがとうございました」少佐が丁寧に頭を下げて、僕らの方を振り向いた。「……ってお前らいつまでいるつもりだ! 危ないからさっさと屋敷に避難しろ!」
 今にも噛み付く勢いで少佐は怒鳴る。その、いつもは見せない大人の表情に、僕は少しだけ、怖いと思った。
 しかし、そうか。ぼんやりとしていたけれど、そういえば逃げなければならないのだった。が、僕はどうにも危機感を感じていなかった。それは青藍兄さんも同様である。何故かは上手く説明出来ないけれど、本能的に、だろう。
 別にここにいても危なくはない、という直感。
 というより、逃げるほどではない、というような、安心感――だろうか。
 流石に、危険区域に自ら飛び込もうとするほどではないのだけれど。
「少佐」
「お前な、俺もしまいにゃ怒るぞ?」
「あの、なんか、近くででっかいポケモンが暴れてませんか?」僕は少し、少佐を怖いと思いながらも、それよりも恐ろしい何かを感じ、言い出せずにはいられなかった。「すいません、すぐに帰りますけど、それがどうしても気になるんです。気になるっていうか、それを聞いておかないと、あとで後悔しそうな……」
 僕は言う。
 外に出て来たときからなんとなく感じていた空気。
 あるいは雰囲気を、そのまま、言葉にする。
「あ、それ、俺も思ったな。やっぱポケモンなのか」
 青藍兄さんも、ぼんやりとしながら言う。
 相変わらずポケットに手を突っ込んだまま。
「……だから、なんだ?」
 少佐は少しだけ面を喰らったような表情で、しかし怒気を孕んだまま、問い返す。
「少佐たちは、何をそんなに危惧してるんですか? いや、僕が聞きたいのはただのわがままっていうか好奇心なんですけど、もしポケモンが騒動の原因だったら、たかがポケモンに何を怯えてるんですか? という、そういう……」
「……たかが、ってなぁ」少佐は目を瞑り、頭を豪快に掻いた。「いやいい、とりあえずここは出ろ、邪魔になる」
 少佐は一人でフレンドリィショップを出て行く。僕と青藍兄さんも、大人しくそれに続いた。二人とも、呑気に構えてはいるが、いつでも抜刀出来る状態の武士さながらに、研ぎ澄まされた感覚を持ったままだったと思う。
 外に出る。
 闇夜に、海水の飛沫。
 人気はない。
 ポケモンの数は、増える一方だった。
 ヤドラン、ルージュラ、シードラ、ゴルダック――
 普通なら、海の周辺を漂っていてもお目にかからないようなポケモンが、何かに怯えたように、何かから目を背けるように、紅蓮島の地上に、佇んでいる。
 異常な光景。
 異様な情景。
 異質な風景。
「見ろ、これを」
「……」
 僕はその光景に、思わず口を閉ざした。
「へえ、珍しいですね。氷ポケモンまで干上がってる。火山でも噴火するんですかね? ははは」
 一方、青藍兄さんは笑って言う。
 しかし、顔は笑っていない。
 誰も笑っていない。
「ハクロも、その兄貴も、民話とか、噂話とか、昔話とかで聞いたことあんだろうと思うが……」
「僕は青藍です」青藍兄さんは海に視線を向けたまま言った。
「ああ、アオイ……青藍? 珍しい名前だな。とにかく、お前ら……伝説のポケモン、って、聞いたことあるだろ?」
「ありますね」
 青藍兄さんは余裕ある表情で頷く。
「関東に伝わる伝説のポケモン……ですよね」
 僕は少佐の表情を覗うようにして言った。
 伝説のポケモン。
 炎鳥。
 雷鳥。
 氷鳥。
 ファイヤー。
 サンダー。
 フリーザー。
 統制が取れているのかと言えば、そうではない。三つ巴なのかと言えば、そうでもない。何かに図られて存在しているわけではなく、何かの均衡を保つために存在しているわけでもない。
 ただ純粋に、生きている。
 伝説上に。
 想像上に。
 そんな三匹のポケモン。
 伝説上に語り継がれるだけの。
 ただそれだけの、三匹の鳥たち。
「そのうちの一匹。氷鳥であるフリーザーがな……双子島で、暴れ出したんだよ」
 苦々しげに、少佐は言う。
 紅蓮島は、既に閑散としていた。
 ポケモンセンターだけが、にわかに騒がしい。
 少佐たちの本拠地、なのだろうか? フレンドリィショップの店長も呼ばれていたようだし、それ以外は、ポケモン屋敷に、避難させられているようだった。
「それで、マチスさんが直々に、それを止めに行くんですか?」
 青藍兄さんは依然変わらぬ口調で問う。
「簡単に言えば、そういうことになる。いや、正確には、俺と桂と柳さんだがな……」少佐は双子島の方角に視線を向けながら、一度、深呼吸をする。「とは言え、双子島への道のりは、海路だけだ。この荒れた海を進むのは危険だから、俺の部下や、エリートトレーナーに協力を仰いで向かうつもりなんだが、俺たちが想像していた以上の荒れ方をしている。まさかポケモンが海から上がってくるレベルとは思わなかったもんだからな。かと言って、紅蓮島は孤島だから、今から招待客を船で帰すわけにも行かんし、空を飛ばせようにも、この光景を見たらパニックに陥るかもしれん。だから、ひとまず大元を叩きに行こうってわけだが……如何せん人手不足でな。だから、せめて道具を完備することにして、根回しをしてたってことだ。まあ、現場を指揮ってんのは桂だから、俺はサポートってことだ。つまりあいつがサインを出したら、俺らは双子島に行かなくちゃならん。で、お前らは危険だから、大人しく、屋敷に帰った方が効率が良いと、そういうわけだ。今、俺は丁寧に話してるんだが、どうだ、分かったか?」
 僕はその物言いに、少しだけ居場所を失う。
「なるほど」
 しかし青藍兄さんは大きく頷いて、ポケットから手を出した。そして、少佐に握手を求めるように、手を差し出す。
「なんだ?」
 少佐は怪訝そうな表情。
 僕もよく、意味が分からなかった。
「あの、エリートトレーナー、人手不足なんですよね? ですから、協力しようかと思いまして……」青藍兄さんの口調は、当然だろうと言わんばかりだ。「緊急事態にポケモンリーグに協力するのは、ポケモントレーナーの務め、ですもんね」
 少佐が手を差し伸べると、青藍兄さんは少佐に向けて、自分のトレーナーカードを差し出した。
「……」
 受け取りながら、少佐は口を閉ざし、青藍兄さんの顔を凝視した。
「バトルの腕は並ですけど、ポケモンに関する知識量は並じゃありません。必ずお役に立てるかと思います」
「兄……じゃなかった。青藍は、いざとなったら、自分の身は自分で守れるのか?」少佐は真剣な表情で、青藍兄さんを見定めているようだった。「どんな強さのポケモンが飛び出てくるか、予測出来ない」
「ご心配なく、こいつがいます」
「…………え、僕?」
「お前だよ。お前がいれば一番安全だろ? むしろ、お前の隣以上に安心な場所が、この紅蓮島にあんのかよ」
 さも当然のように、青藍兄さんは言う。
 何を言ってるんだろう。
 そりゃ青藍兄さんは安全かもしれないけど、じゃあ、僕の身は誰が守るって言うんだ。
「ハクロはトレーナーじゃないだろう」
「でも、ハクロの実力は、マチスさんもご存じでしょう? 伝説のポケモンが相手となれば、並のトレーナーはむしろ足手まとい。貴方たちは、本音を言えば人手より、戦力が欲しい。そしてこいつは、それを持っている」
 僕は二人の会話に、口を挟めないでいた。
 戦力には――確かに、なれるだろう。
 この上ない戦力に、なれる。
 その自信だけは、絶対だった。
「それに、今からじゃあ、空を飛んでも、海を渡っても、各地のジムリーダーは戻って来られない。特に、船で帰って行った人たちの協力は望めないでしょうね……だとしたら、こいつが適任です」
「……そりゃあ確かにそうだが」
 少佐は困ったような視線を、僕に向けた。それは、子供に協力を仰ぐことを恥じるような視線ではなかった。僕という小さい存在を、哀れむような、慈しむような――
「ハクロ、お前、危ないってのは、分かるよな」
「そりゃあ、分かってます、けど……危ないなら、尚更」
「移動は船になる。しかも、今日乗ってきたような豪華なもんじゃなくて、クルーザーみてーな、小さい船だ。ボートになるかもしれん」
 少佐は言ってから、溜め息を吐いた。少佐が何を言いたいのかは、いくら鈍感な僕でも、分かったつもりだった。
 けれど。
 強いポケモンが暴れているなら。
 それを鎮められる力があるのなら。
 行使しなければいけないんじゃないのか?
「僕じゃ、役に立てませんか」
「いいや、お前は必ず役に立つさ」
 青藍兄さんは、そう言って、僕の肩を抱いた。
 少佐は諦めたように、もう一度溜め息をつくと、両膝を思い切り叩いた。
「……よし、分かった! トレーナーカードを見る限り、青藍が来る分には何の不都合もない。ハクロも、その実力は俺が認めている。確かに……欲を言えば、戦力が欲しい状況だ。ポケモン屋敷と、そこにいる招待客を守るためにもな。分かった……俺か青藍がハクロを守れば、文句は出ないだろう。ついてきてくれ」
 少佐は青藍兄さんにトレーナーカードを返して、「ご協力、感謝いたします」と言い残し、ポケモンセンターに走って行った。
 地面は濡れていて、まるで雨が降り止んだあとのようだった。
「良かったな、これで真相に近づけるぞ」
「良かったなって……気にはなってたけど、本当の所、僕は役に立てるのかな」
「大丈夫だ。お前は役に立つ。必ずな」
 青藍兄さんはもう一度、高らかに笑う。
「でも、兄さん、今どんな裏技使ったわけ? あんな怒ってた少佐初めて見たけど、そんな少佐を黙らせるなんてさ……」
「裏技ー? ちげーよ、正規攻略さ。お前な、はぐれ研究員を甘く見るなよ?」
 青藍兄さんはそう言いながら、僕に先ほど取り出したトレーナーカードを渡した。
 青藍兄さんのトレーナーカード。
 僕のトレーナーカードとは、カード全体の色合いからして違う。そして、見たことのない星のマークが、二つ、輝いている。
「……何これ?」
「さあ? 研究のついでに必要になったんで、色々集めたりしてたら、気づいたらついてたんだよ。でも、この世界じゃ、ここについてる星……それがエリートトレーナーの証らしいぜ?」
 青藍兄さんは僕からトレーナーカードを取り上げてから、一人、ポケモンセンターに向かっていく。
「お前も早く来いよ。せっかく協力出来るんだ」
 何でもないように、青藍兄さんは歩いていく。
 僕はゆっくりと歩きながら、青藍兄さんのトレーナーカードと見比べるために、自分のトレーナーカードを財布から取り出して、見直してみる。
 質素な色。
 星はない。
 お金もない。
 ポケモン図鑑も持ってないから、捕獲数すら表示されていない。
 スコアゼロ。
 継続利用期間一日。
 登録日、今日。
「……」
 なんだかもの凄く、青藍兄さんのトレーナーカードが格好良く見えてしまった。
 ていうか、トレーナー的には、僕よりも青藍兄さんの方が格上なのか……?
「これが俗に言う、ないものねだり、なのか」
 それともただ羨んでいるだけなのか。
 わけの分からない絶望感に打ちひしがれながらも、とりあえず青藍兄さんのボディガード役として頑張らないとな、自虐的になりながら、僕はいつもとは様式を変えたポケモンセンターに、足を運んだ。

 ◇

 ポケモンセンターの中は、特別対策本部、という呼び名がこの上なく似合いそうな雰囲気で、少佐、桂さん、先生のジムリーダー三人を筆頭に、様々なポケモントレーナーが群がっていた。いや、よく見ると、群れてはいない感じである。一匹狼たちが便宜上協力してやっている……とでも言うような、そこはかとなくけだるい感じを、醸し出している。
 こんなんで大丈夫なのか……? と、不安に思うような、そんな雰囲気。先ほどまでの少佐の緊迫感は、エリートトレーナーたちには、備わっていないようだった。
 そして、青藍兄さんも、当然ながらその狼のうちの一人であり、やる気はない。
 同様に僕も、そのうちの一人である。やる気はあるが、緊迫感は微塵も感じられない、能面のような僕だった。
 どうやら、現時点では少佐が、この一団のリーダーを担っている様子である。まあ、実際のところ一番偉いのは桂さんで、ポケモンセンター内での指揮をする立場であるのが少佐であるというだけの話なのだろう。一方、少佐と桂さんから少し離れたところで椅子に腰掛けている先生は、関東の人間ではないからか、それとも老体だからか……ジムリーダーという理由で仕方なく参加しているだけ、という様子である。まあ、緊急事態だし、この際強いポケモントレーナーがいればそれだけで十分ってことなのだろう(だからこそ僕も呼ばれたわけだし)。それに、居合わせたのに参加しないとなると、色々保てない体裁があるのかもしれない。
 だけど実際、止めに行く相手は、どこまで行っても野生のポケモン一匹でしかないのだから、ここまでヒートアップする必要はあるのかどうか、世間知らずな僕は、ちょっとだけ気になったりもする。
 一昔前の、ミュウツー騒動じゃあるまいし。
 対策マニュアルだって、ちゃんと出来ているはずだ。
 だから、心配する必要は、何もない、はず。
 ……と、青藍兄さんが言っていたけど。
「ああ、それにしても、良い経験だなぁ」
 呑気に言いながら、青藍兄さんはソファに腰を降ろしていた。僕もその隣で、肩身を狭くしている。
 例えエリートトレーナーでも、協力する義務はあっても、服従する義務はないのだそうだ。だから、青藍兄さんの他にも、自由にくつろいでいる連中が何人もいる。一応、少佐の言葉に耳を傾けてはいるようだけど、そこに忠誠心は微塵も感じられない。
 忠誠心があるのは、少佐の周囲にいる、朽葉ジムで何度か見たことのある皆さんと、桂さんを信仰しているらしいトレーナーぐらいなものである。
「僕は一生経験しなくても良かったかな、と思ってたところだけど。いや、ポケモンは見たいけどさ」
 僕は青藍兄さんに、心情を吐露する。
 参加してから言う言葉ではないとは思うけど。
「一生経験しなくていい経験なんつーのは、人を殺すことくらいじゃないか? 軽犯罪だって、悪質じゃなきゃ経験しとくもんだぞ?」
「それは人としてどうなのよ」
「それも人としてあるために、だろ?」
 青藍兄さんは、僕に自分の安全を丸投げした――というか、戦闘の全てを僕に託した――ようだったけれど、一応にして、パソコン通信を利用して何匹かポケモンと、道具をいくつか、引き出したようだった。ボールに閉じこめられて、モンスターボールを六つまで携帯出来るベルトに連ねられているポケモンたち。それを右半身で感じ取るだけでも、十分に強いポケモンであるということは分かる。
 青藍という、ポケモントレーナー。
 自称、はぐれ研究員。
 公称、エリートトレーナー。
 デスクワークが基本の人だと思っていたけれど、それなりに、ポケモンバトルについても、上級者である、ということなのだろう。エリートトレーナーという肩書きは、いくら知識に優れていたって、取得出来るものではないはずだ。あれだけ頑張っている緑葉だって、まだまだ、通常過ぎる、ポケモントレーナーなのだから。
 ……まあ、青藍兄さんと戦ったことなんて、一度たりともないから、どの程度の腕前なのかは分からない。どころか、青藍兄さんの戦闘を見たことだって、一度もないくらいだ。
 それでも、それなりに強いんだろうな、というような気はしていたけれど。
 結局、兄ってそういうもんだ。
 知らない間に、一歩前にいる。
「それでは、桂率いるA班は紅蓮島の警備、俺のB班と、柳率いるC班は、ポケモンセンターを出て、双子島へと向かう」
 少佐の話が一段落して、すぐにそれぞれが動き出した。十数人程度のエリートトレーナーの中に、パーティで見かけたかな? と思うような人が何人かいたけれど、誰一人として正装はしていなかったので、しっかりと思い出すことは出来なかった。
 どうやらここには、グリーンもいないようだし。
 僕の興味の対象は今のところ、青藍兄さん、少佐、先生の三人だけである。
 もしグリーンが紅蓮島に滞在しているなら、間違いなくこの事態に対応すべき――先生が参加している以上、グリーンが参加しない道理はない――人材だろうけれど、ここにいないということは……きっと、枝梨花さんと同様に、船か何かで本土に帰ったのだろう。ジムリーダーは、ゆっくりバカンスを楽しんでいられる職業だとも思えないし、仕事がないのなら、早々に帰ってやることがあるのだろう。
 しかし、彼の場合、飛行ポケモンで飛んで帰るという姿が、この上なく似つかわしい気がする。
 何かの雑誌で彼の写真を見たとき、彼がピジョットと一緒にいた映像が焼き付いているだけなのかもしれないけれど。
「さて弟よ、そろそろ行くとしようか」
 青藍兄さんは立ち上がって、首を回した。小気味良く、首の骨が鳴る。
「これだけ人がいるんだし、実際、兄さんだけでも何とかなるんじゃないの? 僕、いらないんじゃないかな」立ち上がりながら、僕はポケットの中のモンスターボールを確かめた。ダークライはちゃんと、ここにいるようだ。「まあ、ここまで来て帰るってことはないけどさ。台風の目の中にいた方が、安全な気もするし」
「んー、まあ本来ポケモンに関して護衛をつけるなんて話、ルール違反にも思えるかもしんねーけど……相手は野生のポケモンだからな、ルールなんて必要ねーのよ。それに、何つっても伝説上の生き物だからな。戦闘にかまけて見ない、なんて手はねぇよ。伝説だぞ? 言葉だけでもワクワクするじゃねーか。だから面倒事は誰かに押けて…………さてと、俺らはマチスさんのB班だな」
「その面倒事は、僕が担うの?」
「お前はもっと大事な大玉だよ」
 そんな寸劇を交わしている間にも、それとなく、ポケモンセンター内部で、何人ものエリートトレーナーが整列していた。僕と青藍兄さんも、何となく、その列に並んでいく。周囲に緊張感……は、あまりないようだ。少佐や桂さんこそ緊張しているようだけれど、他のトレーナーたちは、何かのイベントに出張るような気負いしか感じられない。
 かく言う僕も、そうだけど。
「さて……どうなることやら、だな」
 青藍兄さんは不敵に笑いながら、僕に顔を向けてきた。僕はそれに対して、ぎこちなく笑うだけだった。それ以上に何かを求められても困るところだし、正直なところ、僕はこれから起こることに対して、期待も、不安も、抱いていなかったわけで。

 ◇

 B班の括りとなった僕は、少佐が直々に運転する小型のボートに乗り込んで、荒れ狂う海を渡り、双子島を目指していた。僕にとって、それは非日常的な光景ではあったけれど、まあ、非日常的な人生を送ってきている僕にとっては、毎日が非日常的なのかもしれない。じゃあそれって日常なのでは? というような思考も、未だに現役で活動中。
 まあ、何だろう。
 簡単に言えば、具合が悪い。
 具合が悪いから、考え事に拍車が掛かる。
「酔った……わけではないだろうけど」
 単純な恐怖。
 すぐ隣に海があるという、この条件が悪い。
 少佐が言っていたけれど、つまりはそういうことなのだ。
 僕のトラウマスイッチが簡単にオンになってしまう程度には、恐ろしい光景である。
 それは、隣に乗っている青藍兄さんにしても似たようなものらしく、時折僕の顔を見ては、「大丈夫か? ……俺は駄目だ。もう終わりだ」と呟いていた。
 駄目ならくんなよ……。
 僕も人のこと言えた義理じゃないけどさ……。
「――ころで、お前らはどうしてなんだ?」
 と、僕たち兄弟(偽)が互いの安否を確認しあっているところに、さも会話の流れの途中であるとでも言いたげな口調で、一人のエリートトレーナーが、話しかけてきた。シルバーのアクセサリとか、黒い革が基本の服装とか、髑髏を模したアイテムとかをふんだんに身につけているものの、顔そのものの造形は美青年で、まあ青藍兄さんに比べたら平凡そのものではあるけれど(誇張有り)、不良的な装飾をしていても、その爽やかな顔と声からは、その人間が根底では良識的な人間なのだろうということが、容易に観察出来た。
 一瞬の人間観察。
 洞察力が優れているときは、大方、体の具合が悪かったりするものだ。実際、僕にも、具合が悪い自覚は大ありだ。
「何がでしょう」
 僕よりダウンしてしまっている青藍兄さんの代わりに、僕はその不良(偽)の問いかけに答えた。というより、応じた。今にも吐き出しそうな青藍兄さんよりも、僕の方が、まだ人間としての会話を全う出来るはずだと判断しての行動だ。
「いや、お前らもパーティの参加者だろ? 特にお前の方」そのトレーナーは、失礼にも僕を指差す。「会場で何度か見た顔だから覚えてたんだ。生まれつき記憶力がいいってのもあるし、眼鏡の方はお偉いさんたちとよく話してたし、お前の方は、桂さんやマチスさんと一緒にいたろ? だから目立ってたんだよ。それで覚えてた」
「ああ……目立ってたんですか、僕。まあ、だろうなぁ、とは思ってましたけど……」
 目の前のトレーナーから視線を水平にずらして見ると、ボートの屋外では、屈強そうなエリートトレーナーたちが、ボードに襲いかかろうとしているポケモンたちを素手であしらったり、ポケモンをけしかけたりしている。室内にいるのは僕と青藍兄さん、そして話しかけてきたトレーナーと、その隣に女性トレーナーが一人。さらに、少佐の付き人らしい人が一人いるけれど、空気のように普遍的に存在しているだけで、言葉は発していない。
 少佐は操縦室で、ボードの操縦に勤しんでいる。
 先生たちは、別便。
「つーか、おいおい、お前ら大丈夫かよ」僕の少ない返答が気に入らなかったのか、トレーナーは大袈裟な口調で言葉を続ける。「船酔いにでもなったのかよ」
「ああ、いや、そういうわけじゃないんですけど……ただちょっと、船が苦手なんです、僕たち。船酔いっていうか、船嫌いっていうか」
「そうか? いやちょっと、雰囲気が尋常じゃねえからさ。まあ、何だ、話でもしてりゃ良くなるだろ。で、さっきの質問だが――」
 人の気も知らないで不躾な人だな……と思いつつも、船に乗っている、という現実から目を背けられれば会話を楽しむのも悪くはないかもしれない。僕は室内に設けられた簡易ベンチに座り直して、深呼吸をする。
 ……ふう。
 悪くない。
 悪くない、はずだ。
「お前らは、どういう理由でパーティに来たんだ?」
「僕らは……まあ、招待客です」
 ありのままを告げておいた。
「だろうな。つーかほとんどそうだろ。僕らだって招待客だ」
「僕……ら?」
 その表現に、何かしらの違和感。
 何故だろう? 何が引っ掛かるのか、それは分からないのだけれど。
「お前ら他人の話に聞き耳立てたりしねーの? ああ、具合が悪かったんだっけな。ほら、こっちも、招待客だってさ」言いながら、エリートトレーナーは親指で隣の女性を示す。「まあ、基本的にはほとんど招待客だろ? 付き添いってヤツも、いるにはいるだろうけどよ」
「ああ、そういう……」
 そうか、招待されないと、普通パーティには来られないか。
 緑葉は別だけど。
 僕は視線を女性トレーナーに向ける。いかにも「エリートトレーナー」然とした風貌の、正しい――何を持って正しいとするかは人それぞれだろうけれど――ポケモントレーナーがそこにいた。艶やかな黒い長髪を一つにまとめて、僕の対面に、目を伏せて座っている。しかし僕の視線に――あるいは気配に――気づいたのか、片目だけを開いて、小さく頭を下げた。僕もそれに応じて、頭を下げる。
「……ま、言いたくねえ事情もあるか。僕だって別に、聞きたかねーし」
「いや、まあ何というか、説明しにくいってのが正確なところです。話すと長くなるというか、そんな感じで」
「いいんだいいんだ。会話なんて、最初の取っかかりが掴めればそれでな。別に、僕らが招待された理由だって、聞きたかねーだろ? お前らの本心は分からんけど、エリートトレーナーを名乗るような傲慢なヤツらは、総じて他人に興味が薄いもんだって」
 彼の発言にところどころ引っ掛かりを覚えていた僕だったが、ようやくその違和感の正体に気づく。それは、彼の一人称が「僕」というところだ。なんか妙に、不似合いだ。不揃いというか、不確かというか……。何故か不安な気持ちになる。「不」で始まる単語を全て並べても、それでも言葉が不足するような不信感。って、そんなことを僕が――同じく一人称が「僕」である僕が――言ったところで、何言ってんだって話ではあるのだけれど。
 僕が僕と言ったから、僕と名乗るのだろうか。
 人のマネして?
 その可能性は……ない、か。
 そもそも、一人称は意識していても、簡単に変えられるものじゃないからな……。
 って、そんなの別にどうでもいいことっちゃどうでもいいことなんだけど。
 現実を直視したくないせいか、無駄な思考ばかりが芽生えていく……。
「それでも一応、せっかく何かの縁で室内に集まったんだし、自己紹介くらいしとこうぜ? ってことで僕が切り出したわけだ。一時的とは言え、同じ集団なんだ。呼び名はあった方がいいだろ?」
 明るい人だ。
 あるいはめげない人。
 一家に一人――一集団に一人いると、理想的。
 寡黙な女性と、微動だにしない少佐の付き人、さらに船酔い(強)が二人いる室内で、彼の存在は歓迎されるべきなのか排他されるべきなのかは分からなかったけれど、確かに自己紹介くらいは必要なのかもしれない。多少以上の気持ち悪さから、いつも通りの思考になれてはいないけど、多分、自己紹介は、必要な類の存在だ。
「そうですね……」数秒遅れて、僕は返事をした。「しましょうか、自己紹介」
「おう、ありがとな。流石に返答がねぇと寂しいんだぜ?」彼は人懐こい笑顔を見せながら、口を開く。「んじゃ言い出しっぺからな。僕の名前はギンだ。英語で言うとSilverだな。日本人っぽい名前だけど、実はハーフなんだよな、これが。アメリカンなうちの親父が、関東と上都の間にある白銀山にちなんで名付けた名前。だからまあ、ニュアンス的にゃSilverに近いっつーわけで、和名とは言い難い。以上」
 両手を広げて、ギンさんはこれで終わりだと言わんばかりにぼんやりと天井を見上げた。拍手でもするところかと少し迷ったけれど、僕が手を叩く前に、ギンの隣の女性トレーナーが口を開いた。
「私は淡水晶と申します。淡い水で淡水、日が三つで晶です。初めまして、よろしくお願いします」
 端的にそれだけ。
 自己紹介において、これ以上も何もないけれど。
 しかしその紹介方法は、古風……なのかどうなのか、とりあえず、初対面で苗字まで名乗る人は今どき珍しい、と僕は思った。それは過剰な情報提供であるし、苗字を持たない人間がそれなりに存在する現代において、多少なり気分を害する人がいないとも限らないから、一般的に親しまれていない。が、それは本来の日本であれば奨励されるべき行為であるし、僕自身はそうした行為が嫌いではない。
 第一印象は、悪くなかった。
 淡水晶さん。
 名前の通り、淡い水のような人だ。
 雪解けの水とか……そんな感じだろうか。
 それに、少しだけ神経を研ぎ澄ませると、水ポケモンの雰囲気を感じ取ることが出来た。すぐ隣にいる青藍兄さんのものではない。ギンさんか、晶さんか、少佐の付き人さんか。海上であるという理由もあるかもしれないけれど、それとはまた異色の――所謂魚介類とは違う異質な水属性だった。
 ギンさんの視線が、僕に注がれた。
 僕の番ということなのだろう。ゆっくりと、口を開く。
「それじゃ今度は、僕ですかね……えっと、ポケモントレーナーのハクロです。エリートトレーナーじゃないんですけど、諸事情あって乗ってます。よろしくお願いします」
 いっそ苗字まで名乗ろうかと思ったけど、変に意識するのもおかしな気がしてやめておく。
 僕は肘で青藍兄さんをつっついて、自己紹介を促した。青藍兄さんは本気で参っているらしく、小さな声で「研究員の青藍です。所属は、ないです……」と呟くだけだった。
「所属なし? へえ、はぐれ研究員なのか。珍しい」
 青藍兄さんはギンさんの問いかけに、微かに首を上下させる。マジでやばそうな雰囲気だ。
「まあ、見た目そんな感じするな……つーか、悪いな、本気で顔ヤバそうだな。会話に巻き込まないから、そっと休んでてくれ」
 青藍兄さんは再び首を上下させて、ベンチに座り込んだ。
 ……さて。
 一人ダウンで、三人になってしまった。
 もう一人は、はなから自分の存在を否定している。
「えーと……どうしましょう、世間話でもします?」
 僕はそれとなく、会話を繋げてみた。
「なんだ、ガキっぽくない物言いだな、それ」ギンさんはあからさまに顔を顰める。「あ、もしかして童顔なだけで、結構な大人なのか? だとしたら失礼働いたことになるが」
「いえ、僕は正真正銘、十五歳の子どもですけど……あ、そうか、今日、十六歳になったんでした」
「へえ、誕生日か」ギンさんは破顔する。「そいつはおめでとう、これで若干、大人の仲間入りだな」
 意図してはいなかったけれど、何となく、会話が成り立ってしまった。しかし良い機会だし、その話題を薄く薄く、引き延ばしてみる。
「ありがとうございます。えっと……ギンさん、はおいくつなんですか? 失礼でなければ」
「僕は二十六歳だ」耳を掻きながら、なんでもないようにギンさんは言う。「世間的には、結構、いい大人だな。あと名前、お前に抵抗がなければ呼び捨ての方が気楽でいいけど……なんか、無理っぽそうだな、お前の性格的に」
「無理ですね、僕の性格的に。へえ……でも、見えませんね、歳。十歳違い、ですか?」
「おお、なんだ、ガキっぽく見えるか?」
「いえ、実に若々しいです」
「そう言うお前は、ガキっぽくないなぁ」
 そんなやりとりの最中、僕はちらりと、晶さんを覗った。晶さんは再び両目を閉じて、絶好調でお澄まししていらっしゃる様子。と思いきや、僕が視線を向けると、再び片目だけを開けて、僕を見るのである。すぐに僕は視線を逸らす。なんだろう、視線センサーでも搭載しているのだろうか?
「まあ、馴れ合うつもりもないけど、旅の身としては、こうやって色んな事情で人と知り合うのが楽しかったりするもんなんだよなぁ」ギンさんは晶さんに顔を向けながら話した。輪に加えようとしているらしい。「せっかくの機会だし、どうせ僕たちは、任務を終えたらおさらばの関係だろ?。まあ任務ってほど壮大なもんでもねぇけど」
「まあ、そうですかね……僕は根無し草ってわけではないんですけど、周りにいる人は旅人ばっかりなんで、そういう気持ちも分かりますね、なんとなく。受ける側として、ですけど」
「へー、ハクロ……って呼んでいいか? お前、旅に出てるわけじゃないんだな。まあ、歳が歳だし、普通はそうか」
「ですかね……」そう言われて、少し安堵する。「でも、知り合いの多くは、十歳から吹っ飛んでるようなヤツらばかりですね。もちろん定住者もたくさんいますけど」
「ふうん。僕は旅人として生活し始めたのは、二十歳を超えてからだったからなぁ。それまでは学校とか行ったりしててさ、自由がなかったんだよ。まあ、エリートトレーナーになるようなヤツらは、大体そういう教育受けてるもんだけどな」
 ギンさんはその事実を嘲笑うでもなく、自慢するでもなく、平然と言った。けれど、青藍兄さんもそういう類の教育を受けていたらしい、という話を聞いたことがあったので、僕も別段、何とも思わなかった。
 なんとなく、視線を晶さんに向けてみる。と、阿吽の呼吸で片目が開いて、僕を見る。
 僕は興味本位から、晶さんを会話に巻き込んでみることにした。というより、ギンさんの相手を分担して欲しいという気持ちからの行動である。面倒じゃないけど、四人いるうち二人だけが喋っているという空気は、なんつーか、微妙だ。晶さんに悪いような気もするし、二人だけ和気藹々とするのも、気が引ける。
 気を使いすぎだろうか?
 恐らく最年少のくせに。
「あの、淡水さんは……えっと、旅をされてるんですか?」と、ぎこちない質問。
「……ええ、もう、十何年かになりますね。ハクロさんは、旅に興味がおありなんですか?」
 意外なことに、食いついてきた。
 会話となればちゃんと応じる、というところも、何か人間として出来ている雰囲気だった。てっきり、口数少なく会話を途切れさせることに長けている、木蘭さんみたいな人かと思っていたけれど、何てことはない、ただ空気を読んで、僕とギンさんの会話に割り込んでこなかっただけのようだ。
 しかも、何気に会話拾ってくれてるし。
 ……大人だなぁ。
 とりあえず、せっかく広がった話題を早々に畳んでしまうのは忍びないから、さらに広げてみる。
「あると言えばあるんですけど……まあ、僕はあまりポケモンバトルが好きじゃないというか、有り体に言って苦手なんですよね。だから、旅をするには不向きというか、なんというか。一人じゃ生活も出来なさそうな感じですし」
「そうなんですか」晶さんは首を傾げる。「でも、無理に戦わなくてもいいと思いますよ。ポケモンを連れて旅をするのは、何も、戦い合うことだけではないですから」
 晶さんは笑顔コンテストでもあれば上位に食い込むことは間違いない涼やかな笑顔を見せて、僕にそう説いた。
 美人の笑顔は素晴らしいなぁ、とか何とか。
 何考えてんだ僕は。
「まあ、確かに晶さんの言う通りだよな」ギンさんは腕を組んで頷く。「昔の僕なら分からんだろうけど、いい歳になると、何となく分かる。争い事と無縁な旅をしてるトレーナーってのは、結構よく見かけるし、気持ちも分かるなぁ」
「そういうものなんですか」
 言葉を鵜呑みにしながら、僕は問い返した。
「ああ。例えば、捨て子が野生のポケモンに拾われて、大きくなったその子が、自分を拾ってくれたポケモンと一緒に宛てもなく故郷を探してるってのがある。何年か前に、実際に会ったことがあるんだよ。そいつは非戦闘主義者らしくてな、ポケモンリーグから直々に証明書を貰ってて、純粋に旅だけをしてたよ。その証明書ってのも、現物を見たのはそのときが初めてだったなぁ」
「なんですか、その証明書って」
 聞いたことのない証明書だった。
 まあ、ポケモン関連について、そこまで詳しいと自負しているわけではないけれど。
「簡単に言うと、それを持っているとあらゆる戦闘行為を回避出来る、というものね」晶さんは静かに説明を始める。「と言っても、ポケモンに関する事柄に限られるんだけど……様々な事情で、そういう証明書が必要になることがあるわね。法律でこそないけれど、声をかけられたらバトルをするのが暗黙の了解になっているでしょう? そういうものを法的に回避出来るのが、その証明書なの」
「正式には、ポケモン戦闘行為拒否回避許可証と言う……」
「あ、生きてたの?」
「どうでもいいが『い』を『お』に訂正しろ」
 青藍兄さんは蹲っていた体勢から急に背筋を伸ばして、天井を仰ぐようにベンチに座り直した。
「フー…………小難しい話をしている方が気が紛れるということが判明したようだ。ああ……現実回帰。ちなみに小難しい名前なのにポケモンって単語が使われてることから、近年に作られた法律であることは明白だな……」
「何言ってんの」ていうか勝手に小難しくするなよ。
「一昔前まではポケモンも野生生物と呼ばれていたんだな。だから、ポケモン関連の法律や書物は、呼び方だけで大まかな年代が把握出来る。……まあ、ポケモンって総称自体人間のエゴだが」
「知らんし……って、どうしました晶さん」
「いえ……何でも……」
 僕と青藍兄さんのやりとりを見て、晶さんは微笑ましく思ったのか、馬鹿らしいと思ったのか、声を殺して笑っていた。正確を期すのなら、微笑んでいた、という方が良いだろう。
 基本的に、笑顔が似合う人なんだろうけれど、この程度のやりとりで笑って貰っては、僕らは会話もままならなくなってしまう。
「いやしかし、先ほどからうちの弟が不躾な質問ばかりをしまして、失礼しました。私自身も、船酔い続きで申し訳なかったです」
 青藍兄さんは晶さんとギンさんに向けて、小さく頭を下げた。すっかり保護者気取りだ。実際そうだけど。ていうか一人称が『僕』から『私』になっているのは、僕の記憶違いだろうか。
「いやぁ、まあそんな恐縮しないでさ」ギンさんは椅子に深く座り込んで、両手を上げた。「せっかく知り合ったんだ。楽しい話でもしようぜ」
「楽しい話……? この面子で共有出来る楽しい話となると……ああ、伝説のポケモンの話でもしますか?」
 青藍兄さんは辛そうでありながらも、それなりに会話を全うしようとしているのか、そんな話題を振った。どうしても自分のテリトリーに話題を引き寄せたいらしい。
 小難しい話が好きだからな、青藍兄さん。
 反対する人もいなさそうだし、話題の選択としては、正しいのかもしれないけれど。
「伝説、ねぇ」
 僕はぽつりと呟く。
 今僕らがまさに倒そうと――あるいは、止めようとしているポケモン。
 伝説上の生き物。
 フリーザー。
 氷鳥。
 しかしその話……本当に楽しいのだろうか?
「歴史的に見て、伝説と謳われるポケモンが目撃された例は数少ないですね」確認もせずに、青藍兄さんは語り始めた。「目撃情報として有名なのは、上都地方で目撃された、スイクン、エンテイ、ライコウの三匹……上都地方じゃ、都市伝説程度かもしれませんけど、その三匹を草むらで目撃したって話もある。まああれらは四足歩行の動物だし、人間の目の届かない遥か上空を飛び交うわけじゃないから、目撃情報があって当然なのかもしれない。この、上都の伝説の三犬と、関東の伝説の三鳥には微妙な共通点があるけれど……それも不確定な情報だから、置いておくとして」
 青藍兄さんはぺらぺらと、持っている知識を吐き捨てるようにして情報を吐露していく。
「まあ、彼らが伝説と称されるのは、単純に強い戦闘力と生命力を持っているから、繁殖の必要性がないということになる……強い生物は補食される危険性が少ないから、無駄に増える必要がない。しかし、いくら伝説上の生き物とは言え、寿命に逆らうことは出来ないから、今回のような現象が起こる、か……」
 青藍兄さんは、自分自身に言い聞かせるように、独り言を言い終えて、目を瞑った。他の三人――加えてずっと黙っている少佐の付き人――は、全員入り込む隙のない青藍兄さんの発言に、面を喰らっていた。
「じゃあ何故こんな風に海が荒れているのだろうか? はい、ハクロ」
「はい?」突然振られて、言葉に詰まる。「えっと、僕? さあ……フリーザーが怒ってるんじゃない?」
「いや、お産だろ?」と、ギンさんは当然と言わんばかりにすんなりと答えた。
「正解です、ギンさん」
 青藍兄さんは僕の解答を無視して、ギンさんの発言に正解を出す。
 お産。
 お産?
「伝説は、繁殖の必要はないのでは……?」
「まあハクロ、伝説も基本的には他の動物と同じさ。ただ、無駄に増えずとも、子孫は残さないと寿命は来るからな。一子相伝みたいなもんだ」ギンさんは僕に対して、優しく答えを教えてくれる。「そして、そのときに生まれた命ってのは、赤ん坊だから酷く弱い。だから、その生まれた命が危険に晒されないように、お産を守ろうとしているわけだ。簡単だろ?」
「はあ……簡単、ですけど」つまりは今回の騒動は、赤ん坊を守るためにフリーザーが暴れ回っていて――「あれ? じゃあ何で僕らはそれを知ってるのに、フリーザーを倒しに行くんですか?」
「倒しに行くわけじゃないの」
 晶さんが静かに口を挟んだ。
「倒すという意味で言うなら、フリーザーが安心出来るように、他のポケモンを沈静化させるという意味の方が正しいかな。ハクロ君も見たと思うけど、普段は目にしないようなポケモンが、海上にまで溢れていたでしょう?」
「ですね」紅蓮島の光景を思い出しながら、僕は頷く。
「あれは、何も双子島でフリーザーが暴れているという理由だけじゃなくて、双子島の深部に潜んでいる凶暴なポケモンたちが、フリーザーに刃向かっているから、居場所を失って逃げてきているだけなの。双子島に住む他のポケモンにとって、絶対的な王者として君臨しているフリーザーを根絶やしに出来る瞬間でもあるわけ。だから、こういう時には、こうした争いが起こる。もっとも、普段はここまで大規模じゃないけど。少なくとも、双子島の外に影響が出るほどではないはずなんだけれど……」
「はー……」
 なるほど、と思う半面。
 迷惑な話だ、とも思った。
 フリーザーにとっては、変な話、一世一代の世代交代期なわけなのに、それを守ろうとするのが裏目に出て、他のポケモンを挑発しているように思われているわけか……。
 自然界、もっと上手く行かないもんなんだろうか。
 つーか、その自然界の話に、わざわざ人間たちが首を突っ込む必要性って、あるんだろうか……邪魔をしているようにしか思えないのは、僕が子どもだからだろうか。
「それはさ」
 僕の自分勝手な独り言に、青藍兄さんが補足をする。
「結局、人間のエゴなんだよな。歴史とか、習慣とも言うだろうけど……昔はただ単に怒っているだけだと思って、それを静めるために行動してたんだよ、俺たち人間は。でも、今は繁殖期だと分かっているけど、人間が無理矢理ポケモンたちに関わりたがって、無駄に首突っ込んでるわけだ。人間っつー生き物は、歴史の上で、浅い生き物だからさ。他の生き物に干渉したがるんだよ。絶滅危惧種を保護するのとかが、良い例だ」
 青藍兄さんは、まるで人間たちを嘲笑うように言ったけれど、青藍兄さん自身も人間であり、その首を突っ込む集団の一人であるのだ。
 けど、気持ちも、分からんじゃない。
 人間は、ポケモンに寄り添いたいのだろう。
 とてもか弱い生き物だから。
 すごくひ弱な生き物だから。
「なんだかなぁ……」
「難しく考えないで、郷に従えばいいんだよ、ハクロ」ギンさんは平然とした様子だった。全てを知った上で受け入れている、というような。「不条理なことばっかりな世の中なんだよ。不思議なことがあっても、誰もがそれを何となく受け入れて生きてるわけだ。そういうものだよな、晶さん?」
 ギンさんは隣に折り目正しく座っている晶さんに話題を振った。晶さんは会話をし出してから、ずっと両目を開けている。
「私ですか?」
 晶さんは思わぬ指名に戸惑いながら周囲を見渡したが、それも何となく、受け入れたようだった。
「まあ、そうでしょうね。きっと、誰も責任を負いたくないのだと思いますよ。こんな無駄なことはしなくて良いのでは? と言うのは簡単ですが、それを実行する――今までの前例を全て否定することが、どれほど難しいことか、分かっているのだと思います。だから、誰もが流されてしまうのでしょうね。でも、それも人間らしくて良いのかもしれないと思います」
 晶さんはそう話を纏めて、口を閉じた。
 何だか釈然としないような。
 かといって、僕に何が出来るとも、思えない。
 何となく。
 そんな言葉で済ませられることじゃないと思うけど。
 かと言って、それ以外にどんな言葉で飾ればいいのかと言えば、そんな言葉は、思い浮かばなかったりする。
 何となく。
 いや、まあ、それは案外僕の人生を代弁するワードかもしれないけれど、他人もそういう風に生きているんだと思うと、釈然としないところが、ないわけでもなかったりして。
「あと数分で、到着します」
 今までずっと黙り込んでいた少佐の付き人らしき人が、腕時計を確認しながら、静かに、しかし全員に聞こえるような声量で告げた。
 地図だけを見れば、紅蓮島と双子島は隣合っているようにも思えるけれど、実際に移動しようとすれば、それなりの時間がかかることは明白だ。
 普通に船で移動しても、時間にして、三十分――いや、四十分くらいは、かかるだろう。この荒れた海を渡るとなれば、さらに時間を食っていても、当然かもしれない。
 双子島に着く。
 その情報のせいかどうなのか、自然と、会話が止んだ。
 僕は隣の青藍兄さんを覗う。
 青藍兄さんは、気持ち悪そうにしながらも、少しだけ口元がにやついている。これから迎える伝説との対峙に、あるいはこの空間に対して、だろうか。
 ギンさんを見ると、視線が合った。何となくお互い微笑んで、視線を逸らす。あまり僕が出会っていないタイプの、完全な大人でもない、完全な子どもでもない、分類するなら自由人であろう、ギンさん。それなりに強く有り、それなりに弱さを知り、それなりに自分の居場所を掴んでいる、諦めとも受け入れとも取れる人。
 視線を隣に向ける。
 晶さんは今は目を閉じずに、ぼんやりと天井を眺めていた。姿勢や口調から、冷徹な人の印象を受けるけれど、よく観察すると――歓迎されるものではないだろうけど――少しだけ口が開いていたり、人差し指だけが断続的に動いていたりして、完璧にはなりきれていない様子だった。それが人間らしさで、完璧に成り得ない美しさなのだろうか。
 晶さんも、僕があまり出会ったことのないタイプ。
 冷徹を装う木賊とも違うし、完璧をどうとも思っていない食堂の店長とも違うし……完璧じゃないのに、完璧と勘違いされるような人なのだろうか。
 興味はある。
 綺麗な女性だから、という理由以上に、ポケモントレーナーとして、エリートトレーナーとして――緑葉の未来を、想像出来るからだろうか?
 根は明るそうだ。
 そんな印象を受ける。
「ああそうだ、お前にこれ、渡しておく」
 青藍兄さんが、突然僕に箱を渡してきた。それは、よくフレンドリィショップやデパートで見る、ポケモンリーグが公式に発売しているポケモングッズの箱だった。
「何これ」
 受け取りながら、質問と観察を同時に行う。
 あまり見かけない。
 つーか、あまり触れないタイプの、高級そうな化粧箱。
「回復薬だ」
「ああ、傷薬? ありが」「いや、読んで字の如くだ」「と……う?」
 言われてパッケージを読んでみる。「回復の薬」と書いてあった。ああ、まんまじゃねえか! ていうか、これ、結構値段張っていたような気がする!
 箱を開けずに、内容量の確認。五個入りである。いくらしたんだろうか計算しようと思ったけど、何か嫌な気持ちになりそうだったのでやめておいた。
「これは……えっと、何?」
「回復薬」
「じゃなくてだね」
「一応、お前にボディガードをしてもらおうとも思っているし、お前も戦闘行為に至るだろうから、それなりにな。俺も一応は護身用に何匹か連れてきたけど、基本的にはお前に任せるつもりだから。頼んだ」
「はぁ……じゃあ僕は、これを貢いで、少佐にでもボディガードを頼もうかな」
 窓からちらと屋外を覗うと、屈強そうなエリートトレーナーたちは、楽しそうに酒を酌み交わしていた。彼らは好戦的な雰囲気だし、いざとなったら面倒な戦闘は彼らに任せることにして、僕は影でひっそりしていた方が良いのかもしれない。
 戦いたくないと言うのも、理由の一つだけど。
 あまり、ダークライを人の目に触れさせたくないというのが本音だった。
 影は影らしく。
 闇は闇らしく。
 嘘は嘘らしく。
 人目につかない場所で、ひっそりしているべきだ。
 それは僕にも言えることなはずなんだけどね。
「……到着したようです」
 付き人らしき人が立ち上がると共に、ボードは減速し始めて、やがて停止した。
「しばらくそのままでお待ちください」
 そう言いながら、付き人らしき人は部屋から出て行った。
「さて、いよいよ二次会の始まりだ」
 ギンさんは面白そうに言って、腕時計をいじっている。いや、腕時計じゃなくて、ポケッチ……かな。僕は持ってはいないけど、緑葉が欲しがっていたので知っていた。どんなアプリを操作しているのかは分からないけど、ギンさんがポケッチをいじると、無機質な電子音が数回鳴った。
「まあ、簡単な話、伝説見学ツアーさ」
 青藍兄さんは小声で、平坦な調子で言う。悪意も善意も含まずに。
「普通は見られないポケモンも、こういう時期は人前に姿を現す。向こう側から姿を見せてくるような恵まれた人間もいるにはいるが……そういう魅力のない凡人たちは、こういう機会に、伝説と対峙したいのさ」青藍兄さんは寂しそうに、僕を見た。「……ま、お前にゃ分からんかもしれがな」
「……どうだろうね。正直言えば、興味がないかな」
「だろうな」
 はは、と乾いた笑い声を上げて、青藍兄さんは口を閉じた。
 魅力。
 そんなもの、僕にあるのだろうか。
 伝説の存在と言う意味では、ダークライにそんな箔はないと思う。伝承、あるいは民話、もしくは都市伝説として――そんな噂話を、深奥にいるときに、聞いたことがあったかもしれない、という程度。
 上都では聞いたことがない。
 関東でも聞いたことがない。
 その程度の存在ではあるけれど。
 しかし、姿を見せないという意味では、伝説級の、ダークライ。
 夢の中でしか、出会えないはずの――存在。
 こいつが僕に近寄ってきた理由。
 こいつを僕が捕まえられた理由。
 それが魅力のせいだとしたら、ダークライは、これまでの生活において、その魅力に満足出来ているんだろうか。
 世界を見ずに。
 人と触れ合わずに。
 一生のほとんどを、モンスターボールの中で過ごしているダークライ。
 こんなトレーナーに、魅力はあるのだろうか。
 戦うことも、あまりなく。
 必要なときに、駆り出される。
 そんな生活に、満足出来ているのだろうか。
 僕はポケットの中にある、モンスターボールに触れた。性質上、錆び付くことはなく、傷つくこともほとんどない。使用期限もないし、壊れることも、故障することも、稀だ。
 だから、これは、小さな檻だ。
 化け物を押し込んでおくための。
 小型の檻。
 永遠に詰め込んでおくことだって、出来る。
「皆さん、どうぞこちらに」
 促されるままに、僕たちは部屋から出て行く。僕は四人の最後尾を、ポケットに手を入れたままで、歩いていた。
 たまに、忘れてしまう。
 ポケモンは生き物だということ。
 ポケモンは、電子情報じゃないということ。
 パソコン通信で転送が出来て、モンスターボールで捕獲出来て、電子情報に変換することが出来たとしても、その存在は情報じゃない。
 生きている。
 それを、たまに、忘れてしまう。
 モンスターボールの中にいる間、彼らは何を思っているんだろう。
 息苦しいのだろうか。
 それとも、一切の記憶を、失うのだろうか。
「……あとで考えよう」
 呟いて、自分に言い聞かせる。
 一度も捕獲されることなく生涯を終える、伝説上のポケモンたち。
 生まれたときからモンスターボールに入れられ、生涯を終えるポケモンたち。
 どちらが幸せなのだろう。
 どちらが自然の姿なのだろう。
 僕のダークライは、今、死にたがってはいないだろうか……?
 そんな疑念だけが、僕の思考を蝕んでいた。

戯村影木 ( 2013/05/03(金) 13:01 )