ポケモン3。
 パーティは何の問題もなく、何の障害もなく、また、何の心配もなく、始まった。そして僕も、緑葉も、何の問題も障害も心配もなく、パーティに参加している。いや、多少の心配と問題は、抱えているのかもしれないけれど……。
 ともかく。
 少佐の言っていた通り、今回のパーティは、乾杯の前にくどくどと長い演説があったわけでもなければ、桂さんのなぞなぞがあったりもしなかった(僕は密かに期待していたけれど)。まあ、もし演説があったとしても、こんなに大人数であれば、それをまとめ上げることなんて不可能だろうから、無駄話に興じていても怒られないだろうし、そんなに退屈な時間にはならなかったことだろう。ま、かと言って、することと言えば、僕はまったくといっていいほど社交的ではないので、緑葉といつも通り雑談をする程度だろうけれど。
 そして今現在は、パーティが始まってから既に十分ほどが経過していた。ホールの中は人でごった返していて、壇上の人がマイクを使ってしゃべっても、一度で全員に声が届くことはないだろうと思うほどに、溢れている。ホールが広いことも手伝ってか、ところどころで小さなイベントもやっているようなので、静められない大騒ぎの現状だ。
 こんなに大勢の人間がいる場所に来るのは、いつ以来だろう?
 やっぱり、両親の葬式以来だろうか?
 それとも……それ以前のパーティだろうか?
「いやーそれにしても、知らない人ばっかりだ」
「そうだねー」
 そんな風に人でごった返している場において、あまりにも場違いに、そして和やかに、僕と緑葉は食事をしている。立食パーティではあるけれど、当然、隅っこには休憩用のテーブルぐらいは存在している。僕と緑葉は隅っこにあるテーブルについて、大量に取ってきた食事に手をつけていた。
 当然のことながら、料理は非常に美味である。
 緑葉が作ってくれる家庭的なご飯を食べるのもいいけれど、プロの料理人が作った食事を優雅に食べるというのも、なかなか乙なものだ。僕一人じゃあ、このパーティはそこまで楽しめなかったと思うから、やっぱり緑葉がいることが重要なんだろうと、僕は思ったりして、突然そんなことを思った自分が、少し恥ずかしくなる。最近どうも、思考がおかしい。
 考え過ぎだろうか。
 という考えも、既に過ぎているけれど。
「この中に、マチスさんも枝梨花さんも青藍さんもいるんだよね」群衆を見渡しながら、緑葉がふいに言った。「どこにいるかは全然分かんないけど」
「本当にね。特に男連中は軒並みスーツだし、黒くてみんな同じようなものだよな……ああ、でもさっき、袴穿いてる人見たよ。和服も捨てたもんじゃないね」
「ふーん」口に料理を入れたまま、緑葉は相づちを打って、それを飲み込む。「上都の人かな」
「そうかもね」皿の上に乗った、名称の分からない料理にフォークを刺す。「……ああ、でもそういや、兄さんも少佐も枝梨花さんも、三人とも目立つ服装してたから、案外簡単に見つかるかもしれないね。兄さんは変な色のスーツだし、少佐は金髪だし、枝梨花さんは着物だし……」と、それとなく周囲を見渡してはみたけれど、三人の姿は見つからなかった。壇上近くの、お偉いさんの集まりにいるのだろう。「……で、多分、この中で一番見つけにくいのは、僕だろうね。緑葉も人目を引くし」
「ハクロは地味だもんねぇ」
 羨むような口調で、緑葉は言った。
「はは……うるさいよ」
 まあでも、確かに僕は地味だった。何の特色もない。特色がないのがいっそ特色と言えるくらいに、地味だ。地味という味があるならまだマシだけど、好んで味わいたくはないものだ。
 しかし、自分で絶望しておいてなんだけど、きっと僕にはこういう服装が一番似合っているんだろうと、なんとなく、思う。普通が一番なんだろう……という思考は、やはり僕が普通じゃないから思うことなんだろうか? まあ、自分のことを普通じゃないと思っているのは、自意識過剰かもしれないけど。それでも僕が金色のスーツを着たりするよりは、黒一色の方が似合っているはずだ。
 って、それは流石に、誰でもそうか。
 いや、少佐なら或いは……。
「それで緑葉、着物の着心地は?」
 思考を遮断。話題を転換する。
「うーん、悪くないかな」帯に触れながら、緑葉はまんざらでもなさそうな言い方をする。「それに、ちらほらと着物の人も目に着くし、段々と開き直ってきました」
「だろ? まあ、あんまり気にする必要はなかったってことで。自分で思うほど、人間なんてちっぽけなものだよ」それは僕にも言えることだけれど。
「……なんかキャラ変わってない? ハクロらしからぬ発言だけど」
「変な発言するのはいつもと変わってないと思うけど……まあ、ちょっとだけ、陽気になってるだけだよ、きっとさ」
「お酒とか、飲んでないよね?」
 にこやかな緑葉。
 逆に怖い。
「そのはずだけどね」
 まあ流石にお酒ってことはないけれど、僕が陽気になっているのは、場の空気に酔っているからかもしれなかった。豪奢というか、なんというか。きらびやかな世界が、僕は案外、嫌いじゃない。それは、もともとそういう世界で育ってきたからかもしれなかった。
 贅沢は、嫌いじゃない。
 無駄な生活も、嫌いじゃない。
 こうして湯水のように金と時間を無駄にする行為は、実を言えば、望むところだった。
 とは言え一人きりの状態では、そんな贅沢をしていても寂しいだけだから、客人のいないときは極力地味で質素な生活を心がけている。毎日米を研いで炊いて、というサイクル。たまに面倒くさくなって即席麺とかレトルトとかを食べたりもするけど、暇になったらフレンドリィショップで安い食材を買ってみたりするし……まあ、その反動で、緑葉やその他が遊びに来ているときは贅沢をしたいんだけど、緑葉はそういうときに制限をかけるタイプの子だから、それも難しい。だからこうして、公的に贅沢が出来る時間というのは、非常に心が安まるものだった。
 それに、招待されたパーティって、他人の財布から生まれている贅沢だし。
 人に持て成されるというのが、贅沢の中でも最上級の贅沢だろう。
「でもなんていうか」僕はけだるげに、机に突っ伏しながら呟いた。「思ったよりやることないなぁ」
 本来なら先生を探して挨拶をしに行くべきなんだろうけど、今はまだパーティが始まったばかりで、先生も他の人とのお話に忙しいだろう。僕みたいな小僧の相手は後手後手でいいはずだ。と、勝手に自分のだるさを正当化しながら、皿に薄く盛られたマグロをナイフで切断していた。あまりにも薄すぎる気がするが、これが上品というやつなんだろう。まあ味は良いので、文句をつける部分は特にない。魚にドレッシングというのも、中々に乙なものだ。
「ハクロはちゃんと招待されてる身なんだから、桂さんとお話でもしてきたらいいんじゃないの?」と、こちらは牛肉の薄切りで野菜を巻いている緑葉。「マナーっていうのかな。招待してくださってありがとうございます、みたいなの。主催の人にさ」
「桂さんに挨拶してる人なんていっぱいいるでしょ」一番人が集まっている区画を示しながら僕は言う。「だから、僕みたいなガキはいいんだよ……まあ、確かに、少佐に挨拶しろとは言われてるから、あとで桂さんが暇そうだったら行こうかとは思ってるけどね。邪魔しても悪いし。っつーか、本当はさっと行ってさっと挨拶して帰ってくるのがいいんだろうけどさ……とりあえずは最初のお皿が食べ終わってからってことで」
「呑気だねぇ」
 いっそ呆れるように、緑葉は言った。
「んー、父さんの教えが生きてるんじゃないかな? 割と呑気な人だったから。パーティではけだるげに、やるせなく、がうちの家訓」
 炭酸の飲み物が入ったグラスから、液体を体内に流し込む。これ、結局なんなんだろう。ジンジャーエールだろうか。給仕さんらしき人がくれたから思わず貰ってしまったけれど、あんまり僕好みではない。でも、他にありそうなのはカクテルとかワインばかりだしな……どこかに子ども用の飲み物が置かれているコーナーとかあるんだろうか。出来れば今は、冷たいお水かお茶が飲みたいんだけど。
 テーブルに肩肘をつきながら、ぼんやりと、緑葉が食事をしている風景を眺める。頬に目一杯詰め込んでから頑張って咀嚼する姿は、なんというか、見ていて飽きない。
 こういう場所にいると、ポケモントレーナーとしての緑葉は、完全に消失してしまう。人間なんて、そもそも自分が持っている称号を持ち続けることは不可能なのかもしれない。少佐が僕と会話をしているとき、どう見てもジムリーダーではないように、緑葉もこんなに大勢の人間に囲まれてしまえば、ただの女の子だ。
 それに僕だって、ただのガキだ。
 恐らく、本気で戦えば、このホールの中でポケモンバトルを嗜む人間――軽く見積もっても九割はいるだろう――を全員、僕は倒せることだろう。緑葉だって、ほとんどのヤツらを蹴散らすことが出来るに違いない。それほどに、本来は僕も緑葉も、ポケモンに精通していて、力のある子どもなはずだ。
 とは言え流石の緑葉でも、少佐や、枝梨花さん、桂さんに、先生――確認出来ているだけでも四人いるジムリーダーに勝つことは難しいかもしれない。しかし、状況が有利に働けば、万が一ということも有り得る。緑葉の実力は、その程度にはあるのだ。毎日ポケモンのことばかり考えて、毎日ポケモンバトルに明け暮れているだけあって、趣味でポケモンをやっている大人に比べたら、相当の手練れ。あるいは、本気でポケモンをやっている大人よりも、強いだろう。若さだろうか、それとも努力だろうか? 何が原因で、緑葉は強いのだろう。
 がんばっているから、なのだろうか。
 ポケモンに関しての才能は、ほとんどゼロに近い。
 ある意味では、最高に、ポケモンに見放されている女の子なのに。
「……あの、見られると食べにくいんですけど?」
 ようやく料理を飲み込んだ緑葉が、怪訝そうな視線を向けて、そう言った。
「あ、ごめん、ぼんやりしてた」
「せっかくのパーティなのに、ただご飯食べてるだけだし、私なんか見ても面白くないでしょ……なんかしてきたら?」
 まるで息子を気遣う母親のような発言だ。
「なんかっつってもなぁ……今のところは緑葉の食事を見てる方が面白いよ。着物を汚さないようにビクビクしながら食べてるところが、特にいいね」
「そりゃあ借り物だし、汚したら悪いと思うと、無理は出来ないよ」そう言いながら、汚れていないか着物を確認する緑葉だった。「料理もさ、ソースとか、跳ねそうなものがいっぱいだし」
「こういう食事ってなんでこういう面倒なもんばっかなんだろうね。美味しいけどさ。やっぱ、家庭で出来ない料理を出すとなると、それなりに面倒になるもんなのかね」
 そんなことを言いながら、僕もゆったりと食事を再開した。まあ、確かに液体が跳ねそうなものは多いけれど、実際、丁寧に食べていれば不注意で着物を汚すような料理は存在していない……ように思う。
 立食パーティ……面倒なものも多いけど、まあ何にせよ、テーブルマナーの必要な食事じゃなくて良かった。テーブルマナーなんて、僕はすっかり忘れてしまっているだろうし。外側からナイフやらフォークやらを使っていくということくらいは覚えているけれど、他の細かいことは、忘れてしまった。
 あんなに叩き込まれたことなのに、なんで忘れてしまうんだろうか。時間を置くと、こうなってしまうのだろうとは、なんとなく、分かるけど。
 ……ポケモンも、しばらく距離を置いていたら、忘れてしまうんだろうか?
 観戦が趣味なだけあって、僕のポケモンに関する知識の衰えは、まだまだ先だと思うけれど。
 実戦の方は、あんまりと言えばあんまりなほど、僕はご無沙汰だ。最後に戦ったのは、恐らく、筑紫との、一戦ということになるのだろう。となると、一ヶ月……いっそ二ヶ月近く、実戦をしていない計算になる。
「あ、その黄色いの、美味しそう」
「これ? うん、なかなか美味しいよ。一個あげる」
「わーい」
 木賊と二度の対戦。筑紫と一度の対戦。それ以外には――少佐との対戦が、そういえば、あったっけ。オレンジバッジをもらったんだから、当然と言えば、当然か。まあ、少佐の中ではもうなかったことになっているようだけれど――思い出すと、少し歯がゆい気持ちが、ないでもない。一対六だとは言え、僕をあそこまで追い込むのは、流石は少佐だと思わずにはいられなかった。もちろん、少佐には口が裂けても、そんなこと言えないけど。
 そして今度は、枝梨花さんとの対戦が予定されている……か。
 この一年で、一般的に見れば強者と呼ばれる人とばかり、僕は戦っている。
 それは、僕が弱者との戦闘を避けているという理由から来るものでもあるし、強者からの誘いを、僕が断れないという理由も、あるのだろう。
 戦闘が嫌いだとしても、強い人間との戦いを拒めない好奇心が、まだ僕のどこかに潜んでいる。
 本能的に、闘うことが、好きなのだろうか。
「じゃあお返しに、ハクロにはこれあげる」
「なにこの紫色の物体。毒?」
「毒かもねー」
「かもねーじゃないよ」
 けれど、そのどれにも、僕は勝利してしまっている。
 負けたくないから、戦わない。けれど、勝ちたい。そこに孕まれた矛盾の割合は、結局、負けたくないの成分が、勝っているのだ。緑葉だって、木賊だって、筑紫だって、少佐だって――全員、負けたくないに決まっている。けれど、勝ったときの興奮を知っているから、戦いたがる。
 勝ちたがる。
 だからみんな、誰かと戦う。
 けれど――負けたくないから、僕は戦わない。
 自意識過剰、なのかな。
 あるいは、一度も負けたことがない故の、プライドなのだろうか。
 百パーセントを、汚したくない。
 白紙に黒点を、落としたくない。
 その敗北が、恐らく僕の人生で、異常なまでのオーラを放ってしまうから。だからそれくらいなら、最初から戦わない方がいいと、そう思うんだろう。
「美味しい?」
「嫌いじゃないかな」
 あるいは、僕より強い人間になら、負かされたいと思うのかもしれない。
 僕は、自分が負けてもいいと思える人間に、出会えていないだけかもしれない。
 それは、誰だろう?
 現チャンピオンの、ドラゴン使いだろうか。
 それとも、伝説のポケモントレーナー――
「ハクロ、何考えてるの?」
「んー、難しいこと」グラスを手に、僕は緑葉の瞳を眺める。
「難しいことは考えないようにするって、船で言ったのに」
「そうだったっけ。ああ、確かにそんなことも言ったような……」
 けれどやっぱり考えてしまう。
 気づかないフリは簡単だけど、考えないようにするのは、難しい。というか、無理な相談だ。
 考えないように考えてしまうんだから。
 戦うことも。
 戦わないことも。
 戦わないという事実と、戦わなければいけない。
「ハクロはね、変なこと考えると、眉間に皺が寄るんだよ」
 言いながら、緑葉は人差し指で、自分の眉間を押し上げる。
「それ、誰でもそうじゃない?」
「そうかな?」
「うん……緑葉だって、難しいこと考えるときは眉間に皺、寄るよ?」
 そうかなぁ、と再び言いながら、緑葉は眉間に皺を寄せていた。多分、過去の自分を振り返っているんだろう。それが緑葉にとって難しいことなのかどうかは、分からないけど。
「んー……」
 ……ていうか、なんでわざわざポケモンと関係のないパーティなのに、ポケモンのことで悩んでしまったんだろう。
 別に、僕ってそこまでポケモンフリークってわけじゃないと思うんだけど。
 ……やっぱり、僕の人間関係が、あまりにポケモンに準拠しているからなのだろうか。
 それとも、ただ単に、僕の知識がそこに深くはまっているだけなのだろうか。
 ま、ディナーについての知識なんて、ほとんどないし、パーティやらこの屋敷の歴史についても同じだから、そういったことに思考が飛んでしまったとしても、おかしいことではないのかな。
「そういうことにしておくか」
 適当に自己完結。
 あまり深入りする思考は持ってないし。
「どういうことに?」
「んーと、僕は難しいことを考えると、眉間に皺が寄る?」
 僕が言うと、眉間に皺を寄せた状態で緑葉は、
「うー……じゃあそういうことで」
 と言った。
 そういうことになった。
 僕の特性、難しいことを考えると眉間に皺が寄る。
 ……なんかバカっぽいな。
 まあいいか、どうせ僕、あんまり頭良くないし。
「さて。僕のお皿も空になったところで、ぶらぶらしようかな。まだまだ桂さんも先生も暇じゃないと思うけど、どの辺にいるかくらいの目星はつけておいたほうが良さそうだ。特に先生は――どんな服装で来ているのかすら、分からないしさ」
 僕は言いながら、しかし、緑葉が食べ終わるまで席を立たなかった。僕が立てば緑葉も立つだろうし、焦って食べることになるだろう。でもそんな必要はない。パーティはまだ始まったばかりだから。
「……ふと思ったんだけど、あんまり食べない方がいいのかな? なんか、食べ放題感覚だったけど」
 心配そうに、緑葉が言った。その気持ちも分からんではないけれど。
「大丈夫でしょ。こういうときは必要以上に食材を用意してるもんだろうし。人数分きっちり出すところなんて、そうそうないよ。どんな貧乏パーティだって思われるからね。捨てるくらいが丁度いいんだよ」
「でも、うーん……はしたなくないかなぁ」と、緑葉はお腹に手を当てる。
「僕は気にしないけど、緑葉が気にするなら、適度にね。ま、こういうときしか食べられないんだから、好きなだけ食べたらいいんじゃない? 一日リミッターを外したくらいで、太りもしないだろうに」
「そうだといいなぁ」
 まあ、実際、緑葉は少しくらい太った方がいいんじゃないかと、おっさんみたいなことを僕は思った。
 それは僕にも言えることかもしれないけれど。
 青藍兄さんにも言えることかもしれない。
「まあ僕もまだまだ食べるつもりだから。成長期だしね。成長期という名の免罪符……なのかな。まあ僕は太っても問題ないし、僕は気にしないけど」
「ハクロが太ったら……うーん、嫌いになるかな?」
「冗談でもへこむからやめてよ」
 まあそう簡単に太りもしないだろう。
 一朝一夕で身につくものなんて、利益でも、不利益でも、そんなには存在していない。あるのは即物的なものばかり。お金とか、宝石とかの高価なものくらい。
 努力なんて、何年続けても身につくかどうか分からないものだし、才能なんて、もってのほか。
 まあ、身につきにくいものほど、失いにくいとも言うけれど。
 ……ああ、だから才能は、失いにくいのか。
 手に入れられるものなんかじゃないから。
 持って生まれるか、持たずに生まれるかの、二択でしかないのだろう。
「よし……今日はもうハメを外そう!」
 緑葉が皿の上に乗っていた料理を平らげて、そう宣言した。多分、それが正解だ。食わずに後悔するより、食って後悔した方が後腐れは少ないだろう。
「覚悟は決まった? じゃあ、もう思い切って、外し放題外せばいいよ。食べたあとは、どうせ寝るだけなんだし」
 僕はそう言いながら、手に皿を取って、立ち上がった。飲み終えていない炭酸が残ったグラスはどう処理するべきか迷ったけれど、席取りの効果があるならそれを発揮してもらえばいいし、勝手に片付けられるなら、それでいいか。
 座る席は、他にもあるんだから。
 こういう思考が、贅沢の良いところだ。
「じゃ、行こうか」
「そうだね。まず誰のところから?」
「とりあえず……んー、色々把握してそうな少佐からかな」
「そういえばマチスさんもスーツで来てるんだよね」少佐の姿を想像しようとして、緑葉は眉を顰めた。想像出来ないらしい。「ハクロは会ったんだっけ?」
「うん。まあ、見ればすぐ分かるよ。あそこまで潔い金髪は、そうそういないからね」
 身長も高いし体つきもいいから、すぐに見つかるだろう。なんというか、目立つために生まれてきたような男だ、少佐。流石はイナズマアメリカン。
 僕と緑葉は、混雑していながらも歩行に支障は出ない程度のホールを歩き回って、背の高い金髪を探すことにする。
 先生と桂さんに挨拶をするのは、少しだけ……ほんの少しだけ気が重いけれど、それこそさっき緑葉に言ったように、僕が思っているほど、向こうは僕のことなんて気にしちゃいないんだろう。
 とは、言うものの。
 いやしかし……。
 …………まあ、自分の立場になると、上手く処理出来ないのが、僕の悪い部分なんだろう。自分勝手、あるいは、自己中心的か。
 まあ、挨拶はするけどさ。
 やっぱ、先生と会話するのは、どんな場所であれ、どんなタイミングであれ、気が重いよなぁ。
 とかなんとか、ね。

 ◇

「良い弟子を持ったもんじゃのう柳」
「弟子なんて、そんな大したものじゃないよ」
「いやいや、大したお弟子さんじゃよ。うーむ、ワシももうちょい若者に対して社交的だったら、特定の弟子が出来たかもしれんのにのう! 研究に費やした過去が、少し残念な気もするわい。もっとも、可愛い娘さんなら今でも大歓迎なんじゃがな……」
「はは。いやしかし、私たちはジムリーダーだからね、特定の弟子、というものは禁止されているはずだ。桂も知っているだろう? 私のは異例だよ。いや、異例というか、違反だね。あまり大きな声では言えないことだ」
「そうじゃったかのう? はて、知らない罪を犯しても罰せられるんじゃろか? 無知は罪かな?」
「知りませんでした、で人を殺したら犯罪だろう? なあ、桂。無知は罪だよ。しかも知っていながら犯す罪よりも重いさ。たちが悪い、とでも言うかね」
「ふむ、それもそうじゃな。そういうことなら、この白黒少年のことは、ポケモンリーグには黙ってないといかんのう! まあ元々そのつもりだがな!」
「はは……そうだな。なあ、坊主」
「………………はい………………」
 ……はいじゃねえし。
 いいえでもねえけど。
 僕と緑葉が席を立って、ホールの中で少佐を捜していたら、まず枝梨花さんを発見し、少佐の居場所を尋ねようとしたら、強引に緑葉をさらっていった。あの強引さは人さらいもいいところだったが、なんとなく枝梨花さんには逆らえず、僕は緑葉を生け贄にした。ばいばい緑葉。大事に育てね、枝梨花さん。
 その後一人になった僕が適当にうろついていると、ホールの隅っこに、元気な金髪が周囲から浮くように存在しているのを発見した。踊るように目立つ金髪だったので、僕がさっそく少佐に近づいてみたところ、その周囲に、まるで定められているかのように、銀髪と、小気味よく禿げ上がった頭もが、存在していたのである。当然、僕の恩師であるところの、「冬の柳」こと柳先生と、ここ紅蓮島で紅蓮ジムのジムリーダーをしている、「熱血クイズおやじ」こと、桂さんだった。見た感じ、二人に温度差がありすぎるのは、氷と炎だからだろうか?
 桂さんは合計で五秒にも満たない乾杯の音頭を取ったときにチラリと拝見したけれど、そのときと同じ、赤シャツに白スーツ、さらに白いハット(今は椅子にかけてあったが)という、なんとも若々しい(という表現は少佐のものだが)出で立ちだった。白い口髭が今日も勇ましいし、つるりと禿げ上がった頭も美しい。ことこの人に関しては、面と向かって「ハゲ」と口にしても、不快に思って怒るどころか、そんな低俗な言葉を吐く自分を正道へ導いてくれるであろう、などという妄想をしてしまうくらいに、出来た人物なのである。
 ……というのが、少佐から聞いたイメージを元に作成した、僕の桂さん像だった。
 研究者としての一面があり、尚かつジムリーダー。
 それだけで、この人の頭が非常に優れていることは、火を見るよりも、明らか。紅蓮島なだけにな! というわけではないけれど、まあ、そういうわけだった。しかし、赤いワイシャツにオレンジのネクタイって、どういうセンスしてんだ。いや、ものすごく似合ってはいるけれど。……その上に白いスーツだもんなぁ。ジムリーダーの服のセンスって、みんなこうなのか?
 と思いきや、ちゃんとした服のセンスを持ったジムリーダーもいる。
 それが先生だ。
 なんというか、自分の恩師にこういう考えを持つのは失礼だが、非常に、その……枯れた感じのするお姿だった。しわになっているわけではないのに、何故かくたびれたように感じる白ワイシャツ。その上にベストを着ていて、ポケットから銀のチェーンが覗いている。恐らくは銀時計だろう……まあ、なんというか、なんだろう、少し上品な老人というか、孫の授業参観に来たお爺さんっていうか――
「坊主」
「はい?」
「語尾を上げながら応答するのはやめなさい」
「はい、以後気をつけます」普通に怒られた。
「今、何か私に失礼なことを――」
「あ! 先生、お皿が空じゃないですか! 何か食べますか? 僕、持ってきますよ! ね!」
「ああ……、そうだな、頼もうか」
 強引に言いながら、先生の前にある皿を回収。グラスもついでに回収する。
 何故、先生は僕が不埒なことを考えると、僕を呼び止めるのだろう。マジで分かってるのだろうか? そんなことは有り得ないと信じたいけれど……棗さんじゃないんだから、エスパー使うとかいうのはなしにしてほしい。既に先生は僕の中で、氷、格闘、というタイプ設定がされているのだ。もちろん格闘タイプなのは、先生自身だ。
「桂さんもよろしかったら何かお持ちしますが……」
「おお、そうか!」甲高い声で、桂さんが反応する。「すまんな白黒少年! 適当に持ってきてくれるか。柳と一緒のメニューで構わんよ」
「かしこまりました。あと、少佐」
「んー?」少佐は、呑気に頭の後ろで手を組んでいる。
「持ちきれないんで、ちょっと、手伝ってもらえますか」
「おう、いいぞー」
 少佐は気楽な感じで言いながら立ち上がって、テーブルの上に乗っていた皿を回収し、僕と共に、先生と桂さんのテーブルを、離れる。
 そして、料理がひしめきあっている長机に近づいたところで、溜め息をつきながら、
「……焦りますよ、マジで」
 僕は心情を吐露した。
「挨拶が一気に済んで良かったじゃねえか」
「いや、まあそれもありますけど……なんていうんですかね、心の準備というか、なんというか……先に少佐から、お二人の動向を伺っておこうと思ってたんですけど、そんな暇もなく。だって、いきなりラスボス二人ですよ? 緊張しまくりましたよそりゃあ」
「俺から伺うだぁ? 舐めたこと言ってんじゃねえぞ」いつもより、ほんの少しだけ、口調がさらに砕けている。「俺だって桂や柳さんの前じゃ若造だからな、心境はお前と似たようなもんだ。緊張しまくりよ。ま、桂には慣れてるけどな」
 その割には随分と肝が据わっているような気もしたけど……いや、少佐のそれも、僕と同じで、ただの虚勢なんだろうか。あるいは虚像か。
 はったりって恐ろしい。
 僕と少佐は一度使った皿を給仕の人に押しつけて、新しい皿を何枚か取り、その上に料理を盛りつけていく。先生も桂さんもご老体だから、なんとなく健康的なものを盛りつけておこう……って、そういう思考は余計なお世話すぎるだろうか。
「うめー、なんだこれ」
「直食いはやめましょうよ少佐」手づかみでウインナーを平らげる少佐に、僕は冷静な忠告をした。「流石に一旦皿に取ってから……っていうか、まず立ったまま食わないでくださいよ」
「まあいいじゃねーか、立食パーティなんだしよ。それに、俺に文句ばっか垂れてるとこのままどっかいっちまうぞ? 俺がいないと困るだろ。いや、俺もお前がいないと多少心許ないが」
「……うーん、確かに、そうですけどね。珍しく、持ちつ持たれつ状態ですね」
 確かに、少佐がいない状況で先生と桂さんに会っていたら、今ごろ僕はどうなっていたか分からない。悪いようにはならなかったと思うけれど、胃袋は五分の一くらいに縮小していても、不思議じゃないだろう。結構食べてるし、縮小したら、確実に中身を吐き出すような気もするが。
「いやーしかし、柳さんは強烈な人だな。俺だったら柳さんの弟子にはなれねぇよ。こえーし。軍の先輩の方が、よっぽど優しいもんだぜ? 冗談が通じる分な」
「軍って響きが僕には十分怖いですけど……まあ、先生の怖いところはなんていうか、人の自信とか、そういうものを容易くへし折るところですよね。反論の余地がないというか、痛いところだけ突くというか……頭ごなしじゃない分、反抗のタイミングもないし」
「見てる分にゃ楽しいが、お前の代わりは絶対に無理だな。いやあ、俺は若くなくて良かった」
「そう言わないで代わってくださいよ」
「じゃあお前は俺の代わりにジムリーダーだな」
 それこそ出来ない相談だった。
 同じような料理を二皿分取りながら、僕と少佐は長机を右から左に移動していく。
「おう、そういやうっかり忘れてたけど、嬢ちゃんはどうした? 一緒なんじゃねえのか? まだ着物姿を見てねぇぞ俺は」
「ああ、えっと、途中まで一緒だったんですけど……枝梨花さんにかっさらわれました。あの人もなんか、押しが強いっていうか、なんていうか……まあ悪いようにはされないと思ったんで、にこやかに見送りましたけど」
「ああ、枝梨花か……そりゃご愁傷様ってもんだな。どうせあいつの知り合いにオモチャにされてんだろ。嬢ちゃん、可愛いからな……」
 言いながら少佐はバクバクと料理に手をつけていた。そんな勢い良く食べていいもんなんだろうかとも思ったけど、パーティだし、難しいことは考えない方がいいか。緑葉と誓い合ったばかりだし。
 今日はいっそ、馬鹿っぽい僕らしさを全面に出して行こう。
 適当に盛りつけた皿を両手に持って、少佐が飲み物を手にし、僕と少佐は地獄のテーブルに戻った。先生も桂さんもお酒を飲んでいるようだけど、全然変化が見られない。単純に強いのか、あまり量を飲んでいないのか……。
「お待たせしました」
「すまんのう白黒少年! さあ、ここに座りなさい」
 しろくろ少年って、言いにくくないかなぁ。
 桂さんが、隣の椅子を引いて、僕を手招きする。いやぁ、さすがに……それは、どうなの? と、救いを求めるように少佐を見たが、少佐はそっぽを向いている。あの野郎!
「どうしたんじゃ白黒少年」
「いや、そんな、僕なんかが」
「目上の好意は受けておきなさい」
「あ、じゃあ、お言葉に甘えます……」
 先生と桂さんの前にお皿を置いて、僕は桂さんの隣に、腰を降ろす。ていうか、いつの間に椅子を調達してきたんだ。さっきまでは椅子がなかったから、僕は立ちっぱなしでも違和感がなかったのに。
 少佐も少佐で椅子に座って、僕の対面に位置する。
 僕の左隣には桂さん、右隣には先生、正面には少佐。
 ……おいおいおい、場違いにも程があるだろ。
 壮絶すぎる顔ぶれだ。
「今なあ、柳から白黒少年のことを色々聞いとったんじゃ。いやあ、才能とは恐ろしいものだ! 君は実に面白い少年のようじゃな、白黒少年」
「いや、そんなことはないですよ」
「謙遜するでないよ。柳が育てたがるトレーナーという時点で、君は実に優れている。ワシやマチスと違ってな、柳は孤独主義者だ。体裁を保つために、ジムにはジムトレーナーを置いておるがのう、本当は一人で修行だけをしていたいっちゅー男なんじゃよ。ああ、もっとも、こいつが若い頃はジムトレーナーなんて一人もおらんかったけどなぁ」
「いらないことを言うもんじゃないよ、桂」
 先生の孤独主義、というのは、なんとなく理解出来る。他人に干渉しないで、実力だけを磨きたいという、精神。恐らくは、自分だけが強いと思っている、盲信。
 それが若さによるものなのかは判別出来ないけど。
「しかし、もう何年も前の話になるが、柳がジムトレーナーを取るようになって、どうもおかしいと思っとったんじゃ……そうしたら白黒少年、君が関係していたんじゃな。いやぁ、天晴れ天晴れ!」
「僕……ですか?」
 それは紛れもなく、初耳だった。
「桂」
 静かに、厳格な響きで先生は言う。
「まあいいじゃないか柳、良い機会なんだし、お前ももう、白黒少年を育て上げようなんて気はないんじゃろ? 見ただけで分かるわい。この少年は、ワシらの誰よりも強い」
「へ」
 さらりと、桂さんは仰った。
 そんな、耳に痛いような、そんな言葉。
 強者にしてみれば、もっとも言いたくないであろう言葉の一つが、すんなりと放たれて、雑踏に溶ける。
 それを、そんなに軽々しく口にして、いいのだろうか。
 ジムリーダーなのに。
 そして対象である僕は、こんなに若いのに。
「柳がこれからこの少年にしてやれることは、ポケモン以外の教えくらいじゃろ。生活態度とか、常識とか、そのくらいに決まっとる。ポケモンに関しちゃ、同等か、それ以下じゃろ」桂さんはそんな言葉を、こともなげに、笑顔で言い放った。「なあ柳」
「いや、そんな、先生より強いなんて……ましてや皆さん、ジムリーダーじゃないですか……」
「強者の謙遜は嫌味じゃよ、白黒少年」発言を遮るようにして、桂さんは言う。「まあ、ワシは研究分野で、柳は人格者として、それぞれ、少年より数段上の場所にいる。年齢もずいぶんおっさんだしなァ! しかし、ことポケモンに関しては、お前さんが一番じゃろ。見りゃ分かる。ワシの腕も、それが分からんほど衰えてはおらんよ」
 清々しい。
 居心地は悪いけれど、心地良い場所。
 戦わずして認められるというのも、久しぶりの感覚だった。
 あるいは、初めてだろうか。
 なんとも不思議な感覚に、僕は包まれた。
「おいおい桂、俺だってこいつより目上だぞ?」僕が何も言えないでいると、助け船を出すように――或いは空気を打開するように、少佐が発言した。「フォローしてくれよ」
「んん? おおそうか、すまんかったな。そうじゃな、マチスも……男としちゃ白黒少年より上におるかのう? ははは。しかし、マチスだって、ポケモンじゃ白黒少年には負けとるんじゃろ?」
 桂さんは僕を見ながら、嬉しそうに言う。なんだか、年齢のせいか、良いお爺ちゃんって感じで、言われて悪い気も、恐縮もしない……僕は、桂さんに、そんな印象を持つ。
「まあ確かにな。こいつより強いおっさんジムリーダーなんて、関東じゃ凶ぐらいなもんじゃねーか? ああ、あいつはもうジムリーダーじゃないか。それに、凶は一対複数の対戦に強いってだけだしな。ハクロが本気でベストメンバー組んだら、勝ち目はない」
「他にも公的に戦えるヤツじゃったら、弥くらいなもんかのう? いや、弥もまだまだ若造じゃし……って、白黒少年の方が若造だったわい! いやー、若い才能を見るのは何よりの薬じゃ。若返るわい」
「えっと……」どうすりゃいいんだ。
「あまり持ち上げるなよ、桂。図に乗る性格じゃないが、飴は少ない方がいい。ポケモンだってそうだろう。無計画な褒美は毒だよ。なあ?」
 なあ? と言われても……。
 僕はすっかり、大人の会話についていけずに、最終的に黙り込んでしまった。どうやら、僕が褒められているというのは理解出来たけれど――甘く見られるのには慣れているけれど、こうして、持ち上げられるのには、どうにも慣れていないようだった。いつもガキのクセにとか、ポケモン一匹で、とか、そういう風に、疎まれていたし――小さい頃なんて、余計にそうだったから。
 負い目ばかり感じていたのに。
 何か、不思議な気持ちだ。
「しかし柳……お前も物静かな男じゃと思っとったが、こんな才能を芽生えさせてたとはな……今まで黙っとったことが信じられん。マチス、お前も同罪だぞ」
「俺?」意外そうに、少佐は首を竦める。「俺は前から言ってたじゃねえかよ。朽葉のジムリーダーの継ぐのはこいつさ。もう決めてんだ、俺は」
「んぐ」当然僕は食べかけていた食事を喉に詰まらせる。「ちょ、ちょっと何言ってんですか少佐。僕はジムリーダーとかそんな話聞いてないし、そもそもなる気ないですって。協会からの話も断ってるって――」
「昔っから適材適所っつー言葉があるだろ」僕の発言を遮る少佐。「お前それでも日本人か?」
「お前は日本人じゃねえだろ!」
「坊主」
「ぐう……はい、今のは言い過ぎました……でも! でもですね先生!」
「それに、坊主はうちのジムを継がせるよ」
「ああ、そう。そうなんですよ少佐……ってそうなんですよじゃねえですよどう考えても! 先生まで何言ってんですか! 突然すぎるでしょ!」
「昨日決めたんだ。出会いがなければ諦めていただろうが、これも何かの縁だろう。私もそろそろ、引退しようと思っていたところだからね。タイプの相性なんて関係なく、使いこなせるだろう。それに、氷は似合いそうだ」
「んー……ハクロは確か、元々は上都の出身だったはずだからなぁ……リーグとしても、柳さんとこでリーダーをさせたがるかもしれんなぁ」
「呑気に言ってないで止めてくださいよ少佐!」
「お前ら楽しそうじゃのう。よし! ワシも白黒少年争奪戦に加わるぞい!」
 はは…………。
 どう考えてもおかしい。
 ああ、そうか。
 なーんちゃって!
 そんな夢でした!
 というオチだったんだ。
 ……ということに、どうにか出来ないだろうか。
 パーティ会場には色々なグループが存在しているんだろうけど、ここほど濃いグループも、なかなかないだろう……ていうか、僕自身は、あまりに浮きすぎている気がする。このまま浮遊して、どこかに飛んでいきたい気分だった。
 周囲からの雑音。そして非現実的すぎる話を目の前で繰り広げられることによる精神崩壊。まるで夢の中を漂うような感覚だ。
 大人たちの会話に混ざる気力を完全に失って、僕は三人の大人――よく喋るおっさんと、威勢の良い若造と(つっても僕より全然年上だけど)、物静かな最年長――の会話を、聞いては捨てていた。三人とも、自分のジムを僕に継がせるという話題で楽しんでいる。ていうか、後継ってこんな簡単に決めていいものなのか? しかも僕、まだまだ全然ガキなのに……って、筑紫がいたっけ。ああ、じゃあ別に年齢なんてどうでもいいんだ。強ければそれでいい。そういう世界なんだろうな……強いと言っても、ポケモンで勝てるというだけじゃあ、ダメだと思うけど。精神力とか、多忙さに打ち勝てる強さ……。
 炎ポケモン、氷ポケモン、電気ポケモンの使い手。そんな三人の会話は、タイプとしても、別段似通っているわけでもなければ、炎と氷にしかタイプに有利不利は存在していないから、如実な力関係も、見つからないのだけれど。それでも何か少しだけ、その三タイプに引っ掛かる部分があったけれど――まあ、些細なことだろう。僕がジムリーダーになるなんていう荒唐無稽な話を聞いて、少し、疲れてしまっているのかもしれない。
「よし、白黒少年はワシがもらい受ける!」
「いや、俺のあとを継がせるぞ。何せこいつは朽葉住民だ。面倒見てんのは俺なんだからな。それくらいの恩恵に預かっても良いはずだぜ」
「……はは、そうかな」
 先生は静かに笑うだけ。確信に満ちた表情だった。みんな僕の気持ちも知らずに好き勝手やりやがって! という気分だった。けれど実際、全員が全員、本気でそう思っているとは、思えなかった。三人とも、自分がジムリーダーであることを楽しんでいるように、僕には思える。先生は――確かに、引退したがっているようにも見えるけれど、中途半端に投げ出すような人にも、思えない。
 だから、きっとこれが、パーティの空気なんだ。
 なんとなく面白い話題に首を突っ込んで、それについて白熱して、核心に至るような――大事な話は、しない。当たり障りのない話で、食事の席を盛り上げる。
 ……本当に、そうだといいけど。
 まあ、緑葉がいなくて、良かったかな。
 緑葉がいたら、なんとなく、気まずい空気が流れているところだと思う。将来はポケモンリーグで働きたいと思っている木賊に比べたら、緑葉の方が気まずくなる割合は低いだろうけど、緑葉は緑葉で顔に出さないからな……その点では気まずさが高い。主に僕の自分勝手な思い込みが。
「なあハクロ。お前は俺に、返しても返したりない借りがあるもんなぁ」と、少佐。
「借り、か……深奥の冬は寒かったな、坊主」と、先生。
「む、ワシは白黒少年との歴史が浅いからのう……仕方あるまい、少年、しばらくここのジムでバイトでもせんか? 住み込みで三食昼寝付きじゃ!」
 なんつー誘いを聞いたりしつつ。
 それに適当なお断りを入れつつ。
 みんな冗談で言ってるんだろうという願いを根底に置きながら、僕はぼんやりと、パーティの空気に酔っていた。桂さんのジムでバイトをするのも悪くはないように思えたけど、家からここまで通うのは、ちょっと遠すぎる。だからといって少佐のジムでバイトをするのも、なんだか気まずい。ジムトレーナーの皆さんとも、結構顔馴染みだし……出来れば僕は永遠に、一般人でいたい。
 ああ、今、緑葉は何処で何をしているんだろう。
 なんてことを思いながら、最年少の僕は、大人たちに抵抗することも出来ず、ずるずると、だらだらと、ぐだぐだと、ただ椅子に座って、右から左に、左から右に、前から左右に、言葉を受け流しているだけだった。
 この状況で、それ以外に、僕に出来ることなんてあっただろうか。
 いっそダークライを繰り出して、三人を黙らせるとか?
 ……いや、それこそ自分の株を上げるだけだ。

 ◇

 僕がようやく三人の大人に解放されたのは、もうパーティも佳境になってきた頃合いだったと思う。
 青藍兄さんが挨拶がてら僕を助けに来てくれることを期待していたけれど、どうやら既に、青藍兄さんは桂さんへの挨拶を済ませていたようだった。というか、もうパーティが始まる前に、桂さんはほとんどの人と挨拶をし終えていたとか……僕の非常識さが身に染みるお話である。ゆっくり飯を食ってんじゃねえよ、って感じだ。まあ、ここで常識を身につけて、今後こうした機会があったら頑張ろうと、まだまだ若造である僕は、心に決めた。
 少佐は僕を解放する気なんてさらさらないし、先生も、桂さんも、同様。となると最終的に、僕を救うことが出来た知り合いの、発言権のある大人はと言えば、枝梨花さんくらいなものであった。
「まあ桂様、お久しぶりですわ」
「おお、枝梨花嬢か。今日もまた一段と艶やかな衣装じゃな」
 華やかに、艶やかに。むさ苦しい男集団も、枝梨花さんがいるだけで爽やかになってしまいそうな、そんな登場の仕方を、枝梨花さんは、した。会話を途切れさせるでもなく、声を大きくするでもなく。切れ目を狙って、あくまでも自然に。
「ありがとうございます。ご挨拶が遅れてしまい、申し訳ありませんでした。柳様も、お変わりありませんか?」
「ああ、ええと、玉虫のところの」先生はしばらくしてから思い出したようで、握手を求めて手を差し出した。「……もうすっかり老いぼれていますから、あとは枯れるだけですよ」
「まだまだお若く見えますわ。生き生きとしていらっしゃいますもの。私も見習いたいくらいですわ」
 桂さんと先生の二人と、会話のお手本、というような言葉を二、三交わしたあとで、少佐は静かに、
「で、俺は?」
 と呟いた。
「あらマチス様、いらっしゃったんですね」
 なんていう、まるで定められたようなオチを持った寸劇を終えた枝梨花さんに、僕は自然な流れで、席を譲った。枝梨花さんは挨拶しに来ただけで、もしかしたらそのままどこかに行ってしまうかとも思われたけど、色々疲れていたのか、それともジムリーダーの砦と化したこのテーブルの居心地が良さそうに思えたのか、すんなりと僕の提案を受け入れ、僕と入れ替えに、席に座った。他にも何人か、ジムリーダーは来ているようだったけれど、結局、パーティ会場で僕が見かけたジムリーダーは、その四人だけだった。
「じゃあ僕は、連れを探しに行きますんで。桂さん、先生、少佐も、失礼します。お話、ありがとうございました」
「ああ、君には今後、若造を通じて、連絡を取らせてもらうことにするよ」
「う……ありがとうございます」
 とにかくそんな感じで、僕はそれ以上、今回のパーティで、世界の要人であるところのジムリーダーたちと関わることは、なかったのだった。
 ――いや。
 もう一人、見かけたことは、見かけたか。
 少佐情報では、関東のジムリーダーというのは、特に集まりが悪い――という話だったけれど。
 鈍ジムの剛さんは、性格こそ温厚で、物わかりの良い人らしいが、修行に明け暮れる毎日で、向こうからこうした会場に足を伸ばすということはあまりないと言う。まさに岩タイプである、とでも言ったところか。
 縹ジムの霞さんは、他に色々やることがあるらしく、今日は来ていないようだ。まあ、もしかしたら暇つぶしがてらに来てるかもな、とは少佐の意見だが、おてんば人魚は拘束が難しいのだろう。年頃だし、案外デートでもしているのかもしれないとは、少佐の意見だ。
 そんな朽葉ジムの少佐は、律儀に出席中。
 玉虫ジムの枝梨花さんも、同様に。
 石竹ジムで石竹ジムリーダーを襲名した、凶さんの娘であるところの杏さんは、多分どこかにいるだろう、ということらしかった。ジムリーダーになってまだ日が浅いので、挨拶やら何やら、こういう機会に色々やらなければならないとか。確か明日は石竹ジム戦だったはずだけど、体、持つんだろうか? 人付き合いって大変だよな、と僕は思った。まあ忍者の末裔らしいし、分身でもしてるのかもしれないけれど。
 山吹ジムの棗さんは、当然不参加。今日がジム戦だからだ。「まあ、棗ならテレポートでもしてくんじゃねーの? 神出鬼没なんだよ、あいつはさ」とかなんとか少佐は言っていたので、どうやら少佐も結構、酔っているようだった。
 紅蓮ジムの桂さんは、主催であるので、当然、出席中。
 ――そして、常葉ジムのジムリーダーであり、ポケモン研究の第一人者であるオーキド博士の孫にして、ポケモンリーグチャンピオン経験者であり、当時の最年少記録保持者。そして伝説のポケモントレーナーであるレッドのライバルでもあり、親友にして、存命が確認される人物としてはもっとも最強に近いとして知られる男という、ステータスを見ても、実歴を見ても、噂だけでも幻のような存在――

 グリーン。

 常葉ジム、グリーンバッジの名に相応しい、あまりに完成されたその名前を持つ、レッドに対を成すとされる彼は――――
「わっ」
「おっと……わりぃ」
「いや、こちらこ、そ――?」
「お前、怪我ないか? ……大丈夫そうだな。んじゃ、悪かったな。気ぃつけろよ」
 僕にぶつかって、去っていった。
 …………。
 …………。
 ……。
 ……。
「…………え? は?」
 ジムリーダー集団から解放されて、一人でホールを歩き回っている僕に、よそ見をしながら歩いてきて、ぶつかっていった、どう見ても同年代には見えない、同年代の少年。
 あるいは、青年だろうか。
 まるでやる気のない正装で、正装にあるまじきシルバーのチェーンをズボンにぶらさげ、そこに六つのモンスターボールを携えていた、青年。
 適度に整髪され、微かに香水が香り、僕よりはるかに長身で、精悍な顔立ち。そして、強者のオーラ。
 料理が山盛りにされた皿を持って、それにフォークを突き刺しながら、呑気に歩いて、人混みの中に、消えていった。
 グリーン。
 最強の二番手、などと揶揄されている人物。
 しかし、その実態は――
「……うぇえええええ!」
 僕があまりのオーラに、中てられてしまうほど。
 闘争心が掻き立てられる。
 今すぐに、勝負をしかけたいなんて。
 そんな妄想を抱いてしまうほど。
 二番手?
 何を基準に?
 誰が言った。
 そんな暴言を吐いたヤツを叩きのめしてやりたくなる。
 同年代。
 十六歳か、十七歳。あるいはもしかしたら、十八歳くらいか?
 しかし刻まれた風格はあまりに多く。
 僕は、ぶつかった右腕が、何故か熱くなっていることに、しばらくの間、気づくことが出来なかった。怪我をしたわけではない。パーティの中。雑踏の中。飲み込まれていた僕は、ただ呆然とその場に立ちつくし、グリーンが消えて行った方向に、視線の限りを注いでいた。
 グリーン。
 その名前は、外国の生まれである証、なのだろうか。
 それとも、豊縁地方だろうか?
 まあ、どこの生まれであろうと、外国名が付けられていたとしても、別段おかしい世の中ではないけれど。
 緑色。
 あるいは、あまりに有名な人物であるが故の、偽名だろうか。
 筑紫のような?
 しかしそんな小細工をするようにも見えない。
 そんなくだらないことをするような、自分の名を恥じるような、小さい人間には見えない。
 そしてそれを受け入れるような弱さもない。
 呆然と。
 僕はただ呆然と、立ちつくす。
 何故僕は、彼がグリーンだと分かったのだろう? 僕はグリーンの顔など、ろくに知らなかったし、会ったことも、一度だって、なかったのに。それなのに、何故か理解出来た。否、理解させられた、のだろうか。
 負けるんじゃないか?
 戦ったら。
 僕が、負けるかもしれない。
 そんな危惧を抱くような。
 戦う機会なんて、あるのかどうかすら、そもそも、分からないけど。
 そんな危惧を抱くような。
 恐ろしい、人物――――
「ハクロー」
 遠くから、記憶にある声がする。
 声が記憶と合致する。
 情報が統合されて。
 導き出される結論。
「……あ、緑葉」
 自分でも分かるほどに、呆れた声色。
「何ぼーっとしてんの?」
「いや……」
 その瞬間、緑葉に対して、今出会ったグリーンのことを喋りたくない、という気持ちが、何故か僕の中で芽生えた。独占欲? 情報を? 切っ掛けを? だけど自分自身だけの利益のために、恐らく僕は、緑葉にその話をしないのだろう。グリーンと会った、という事実。疑う余地のない強者に出会えた事実。もしあれがグリーンでないとしたら――グリーンよりも力量の劣っている人間なのだとしたら、それはそれで、嬉しいことなのだけれど――でも、あれはグリーンだった。同年代にして、あの風格。ポケモンリーグチャンピオン経験者。その栄光は、一時間にも満たなかったと噂されているが、しかし最年少での殿堂入り記録を打ち立てた人物としては、レッドよりもそれが早いとして、公的な情報に、記録されている――
「なに? どした?」
「いや、場の空気に酔った、のかな」
「ふうん。あ、桂さんと柳さんに会えた?」
「ああ、うん、ていうか、ずっと拘束されっぱなしだったよ。ほんと、大人は話が長いよな……」
「そうなんだ。で、ハクロ、そっちに何があるの?」
「え?」
 ようやく僕は、緑葉と会話をしながら、視線をずっと、グリーンが消えて行った方向へと向けたままだったことに気づく。ギリギリ、と、アニメや漫画で使われる手法のように、ゆっくりと緑葉に視線を向ける。錆び付いた歯車のようで、うまく回らない。
「んー……誰か知り合いでもいた?」
「は? 何が? え?」
 動揺しているつもりはなかったけれど。
「誰か探してるみたいだったから」
「ああ、いや、別に? 全然、そんなことない。いや、向こうに何か飲み物ないかなーって。ずっとさ、座りっぱなしで、喉渇いた的な。うん、え? 何? その目。僕なんか怪しい?」
「すっごい怪しい」
「へー……それはそれは」
「怪しすぎるなぁ」
 なんて言いながら、結局緑葉は、それ以上の追求をしてこなかった。まあ、追求されたところで、隠すほどのことではないのかもしれないけれど――なんとなく、言いたくなかった。少佐や、桂さんや、先生が、僕にジムを継がせるとかいう妄言を吐いていたことよりも――もしかしたら、言いたくなかったかもしれない。言えないわけじゃあ、ないけれど。ただ単に、言いたくない。そういう気持ちも、なんだか久しぶりだった。
 久しぶりというか、上乗せなんだろうか。
 リーグとか、ジムとか、そういうことよりも、もっと本質的な、『言いたくない』ってもの。
 隠したいことなのか。
 隠し通せることなのか。
 隠せるようなことなのか。
 隠していられることなのか。
「そろそろ、部屋に戻ろうか?」
 一呼吸置いて、僕は呟く。
「ん、もういいの? 喉は?」
「あ……いや、部屋に冷蔵庫あったし、もう最悪、水道水でもいいや。パーティはさ、賑やかなうちに帰る方がいいんだよ。ホールが笑い声とか話し声で溢れてるうちに部屋に行ってさ、それでゆっくり休むんだ。人が少なくなってから帰るより、抜け出す感じが丁度いいっていうか……分かるかな」
「なんとなく。お開きって寂しいもんね……ていうか、ハクロって結構寂しがり?」
「それはご想像にお任せするよ」
 確かに寂しくなるから、僕は早めにパーティを抜け出したいのかもしれない。でも、早めにとは言っても、一番最初に抜け出したりはしない。それもきっと、寂しいから。一番最初も、一番最後も、寂しくなる。だからみんながばらけ始めたところで抜け出して、まだ騒がしいうちに、眠りにつくような。誰かが騒いでいるその中で、沈んでいきたいような。
 孤独の寂しさがそうさせるのだろうか。
 団欒の楽しさがそうさせるのだろうか。
「ま、とにかく、さ」
 これ以上この場所にいて、僕がグリーンを探し出さないとも限らない。
 彼は、グリーンだ、と、思う。
 常葉ジム、ジムリーダー。
 だったら、今探し出してもどうしようもない。
 いつか戦えばいいだけ……。
 そう。難しいことは、考えなくていいんだ。
 今日はパーティなんだから。
「帰ろうよ」
 少し強い口調で、僕は言った。
「帰るって、お部屋にだよね」
「うん……それに、緑葉もそろそろ、着替えた方がいいんじゃない? あ、でも、枝梨花さんがいないとダメか」
「あ、うん、帰るちょっと前の時間になったら、連絡してくれるって、枝梨花さんが言ってたから……」そして緑葉は、途端に不安そうな表情になる。「ねえ、私、図々しいかな? 図々しいよね? あー、なんでこんなことになってるんだろう」
「今さら思い返すなって。枝梨花さんも楽しんでるんだろうし」どころか、これからも楽しむつもりだろうし。「……ま、そういうことならとりあえず、僕らは先に部屋に戻ろう。正直疲れた。心の方が」
「私はおもちゃにされて疲れました」
「おもちゃ? へえ?」
「枝梨花さんのお友達の人のね……ほっぺ痛いよ」
「なるほどね、お疲れ様」
 ていうかなんでほっぺつねられてんだよ。
 まあなんとなく、そんな風に、僕と緑葉は疲れてしまった。存在するだけでも体力と精神力を消耗していくのが、パーティというものだ。少佐はこのあとも仕事があるとか言っていたけれど、ほんと、タフな人だよな……夜中にする仕事っていうのが何なのかすら、僕には分からないけど、まあ、結構お酒飲んでたし、そこまで重要な仕事でもないんだろう。
 僕と緑葉は、ホールをあとにする。この喧騒も、明日には消えてなくなるもの。あとにはガランとした空虚な空間が残るだけだろう。ああ、でも……明日の朝食とかは、もしかしたらここで食べるのかもしれないな。どうなることかは、分からないけど。
 心なしか少なくなった参加者の間をくぐり抜け、馬鹿丁寧に彫刻された手すりに手をかけ、なんとなく気分が高揚していた僕は、緑葉に手を貸しながら、階段を上がっていく。部屋は……二○八号室、だったっけ。で、青藍兄さんが三○五、か。記憶が曖昧だけれど、そのくらいのことは、なんとか覚えているようだ。
「ねえハクロ」階段を上りながら、緑葉は嬉しそうに、僕に訊ねてきた。「なんかさ、機嫌いいよね?」
「ん、どうして?」
「や、別にどうしてってことはないけど……」
 階段を上りきってもまだ僕が緑葉の手を握っていることに対して、緑葉はそんなことを言ったんだろうか。だとしたら、その読みは、恐らく正しい。僕の機嫌は、今、最高に良かった。
 ポケットから鍵を取り出して、鍵穴に差し込む。
 ああ、機嫌が良い、どころじゃない。
 最高だ。
 今までで一番、人生を楽しんでいる。
 単純構造すぎる。
 でも、それでいい。
 生きる希望が見つかったような、そんな錯覚。
 生きる目標が見つかったような、そんな誤解。
 生きる未来が見つかったような、そんな失敗。
 それでもいいやと思えるような、
 そんな感情。
「珍しいね」
「そう? でも、僕って大体、機嫌いいと思うけど」
「そうじゃなくて」
 部屋のドアを開けながら僕が緑葉の手を離すと、見ているこっちが恥ずかしくなるくらいの笑顔で、緑葉は言った。
「ハクロの目が笑ってるの、久しぶりに見た」

戯村影木 ( 2013/05/03(金) 13:00 )