6
ゆっくりと、僕は目を覚ました。
今が何月何日の何曜日で、地球の公転が何回目なのかは定かではないけれど、起きた場所が船室であるということだけは、なんとか理解出来た。
うーん。
寝てたのか。
「おはよう、ハクロ」
「ん……」
眠い目をこすりながら、声のしたほうに視線を向けると、そこには着物を着た緑葉の姿があった。……ああ、そうそう、パーティとかに、行くんだったっけ。で、正装をしていて、緑葉は着物で……ああ、良かった、僕はちゃんと、上着を脱いで寝ていたようだ。どころか、ワイシャツまで脱いで、シャツ一枚で寝ていた様子。皺にならなくて良かった。僕自身が方々からみすぼらしい人間と評価されるのは構わないけど、緑葉とか、青藍兄さんとか、少佐や枝梨花さんの評価を貶めるわけにはいかないもんなぁ。
「よく寝てたね、ハクロ。ていうか、よく寝られたね?」
「びっくりしたよ。こんなに突然思考が途切れるなんてね。心情的には二ヶ月くらい寝ていた計算になってるんだけど……僕、どのくらい寝てた?」
「えーっと、一時間も寝てないんじゃないかな? 流石に二ヶ月も寝てたら起こすよ」
「そうだよね。いやはやびっくりした。寝ている間、色んな夢を見たよ……夢で良かった。地獄の日々だったからね。遠くに行ったり、色々と、お金を使ったり……まあいいや、とりあえず起きよう。起きるぞー!」
覚醒しきらない頭はいつものことなので、僕はふらふらしながら起き上がって、恐らく緑葉が畳んでくれたのであろうワイシャツを手に取り、もそもそと着て、ボタンを留め、ネクタイを締めた。
僕は案外、上手にネクタイを締められるものだから、曲がっているぞ、と緑葉に直されることはない。少し残念なような、でも実際やられたやられたで僕は困るんだろうな、とか。そんなことを恥じらいもなく考えられる程度には、僕の頭はあやふやだ。
「んー……ふらふらするなぁ」
「なんでそんなに寝不足なんだろうね。成長期?」
「かなぁ? そういや身長がべらぼうに伸びてたんだっけ。ダメだダメだ。寝起きの僕の頭は、最高に使い物にならない」
伸びをしながら、部屋に設置された壁掛け時計を見る……と、紅蓮島への到着まで、もう三十分程度の余裕しか残されていなかった。まあ、退屈な移動時間を有意義に消費出来たのだとすれば、それはそれで良い結果だろうけれど。それに、船上にいるという意識を飛ばせたことは良いことだ。
さてと。
えーと。
眠ってしまう前までは、何をしていたんだったっけ。確か、緑葉と一緒に船内に出て……フリーバトルに興じられるような場所はなかったものの、一応、デッキでポケモンバトルが行われていたから(ほとんどショーみたいなものだったけど)、それを緑葉と見学して、僕が一方的に飽きて、帰ってきたんだったか。結局のところ、僕は面倒臭い戦闘が嫌いなんだろう。仕組まれているというか、決まり切っているというか。
予測不能だから、戦闘は面白いのに。
「緑葉は僕が寝てる間、何してた?」
「んー? ハクロの寝顔を眺めてました」
「寝首を掻く気かよ……」
「うん。もう少しだったのになぁ」
ていうか、本当だとしても嘘だとしても、恥ずかしくなるからそういう発言はやめていただきたいものだ。ああ、恥じらいが戻ってきたということは、僕の頭も、そろそろスッキリしてくるところだ。
「あー……今更だけど、なんで僕パーティなんか来たんだろう。絶対合ってないよね? 誰もそんな展開求めてないって気がするんだ。僕の知り合いは。日がな一日ごろごろしてるのが僕の特性だよね」
「ハクロの知り合いは、ハクロが何しても気にしない人ばっかりな気がするけど?」
「それもそうか……いや、だってパーティ行って、多分泊まって、帰るだけだよ。今からでも、非生産的な未来しか想像出来ないよ。それくらいなら、ジム戦の行われてる場所まで遠征して見学した方がまだいい……」
「ハクロは頭でっかちだなぁ。若いときは行動あるのみだよ。紫紺のお婆ちゃんが言ってたし」
「緑葉は行動的でいいね……爪の垢を煎じて僕にくれよ。毎日食後に飲むからさ」
「でも、行動的なハクロなんて見たくないけどね」
「本当にねー……どうせそうだろうよ!」
なんて感じにぐだぐだしながら、僕は次第に、思考回路を覚醒させる。起動に時間のかかる脳みそだから、いい加減買い換えの時期かもしれない。買い換えなんて出来ないけど。部品の追加すらも出来ないのだから、人間の脳は本当に低脳だ。
老化する一方の脳みそは、やっぱり寝て起きて再起動を繰り返すしかないようである。
大事に使わないとな。
「ま、とりあえず、もう兄さんのところに行こうかな。仕事してるか、寝てるか……どっちにしろ、多分何の準備もしてないだろうから。停泊と共に下船しろってわけはないと思うけど、早めに準備をしておくにこしたことはないよね」
「そうだね、私たちも準備して出ないと。枝梨花さんにも会わないとだもんね」
「そだね。……よし、そうしようか」
恐らくこのままこの部屋には戻ってこないと思われるので、僕は荷物を全部――とは言っても、僕の荷物なんてほんの少しのものだけれど――持って、部屋に備え付けられたハンガーかけから外した上着に袖を通した。
部屋の中を見回す。
忘れ物は……ないよな。
忘れ物をしても、部屋割りがされているんだから、きっと永遠に失うようなことはないと思うけれど……一時の別れとは言え、所持品を失うようなことは、出来ればしたくないものだ。僕の持ち物は、今のところ、財布と、モンスターボールと、ポケギアと、招待状くらいだし、なくしそうにはないけど……と、ポケットに手を突っ込んだところで、何か硬い物に指が触れた。違和感と共にそれを取り出してみると、
「……ああ、指輪か」
青藍兄さんから貰ったんだったっけ。
せっかくだし、僕はその指輪を、右手のどこかに嵌める試みを行う。小指……は無理。薬指はなんか恥ずかしいし、中指では少々キツいので、結局人差し指に落ち着けた。ピッタリとまでは行かないけれど、抜け落ちる心配もなさそうな嵌り具合だ。
嵌めたての指輪は、やはり違和感を僕に与える。
ペンダントヘッドにでもしたほうがいいのだろうか。
そもそも、なんで指輪なんだ?
色気づけって意味なんだろうか。
「ハクロ、もう大丈夫?」
「ん、大丈夫大丈夫。僕は基本的に、持ち物が少ないしね。緑葉こそ、忘れ物ない?」
「多分大丈夫だと思うよ。それに、最悪モンスターボールだけあれば大丈夫だから」
「清々しいね。見習いたいよ」
緑葉は自分にとって何が大事かちゃんと分かっているんだろうなぁ、と、なんとなく僕は思った。
対する僕は、何かをなくすなんてことは、出来ればしたくない。
僕は全部失いたくない。
でも、緑葉にはちゃんと、物事の順位ってものがあるんだろう。そして、一位以外のものなら、替えが効く……そんな真理が、緑葉を大胆な性格にしているのだろう。
果たして、僕は緑葉の順位の中で、何位にランクイン出来ているのだろう?
興味はあったけど、質問はしないでおく。
聞いても聞かなくても、プラスには働かないだろうし。
「よし」
最後に壁掛け時計を一瞥して、僕らは部屋を出た。雑念が残るほどの時間この部屋にいたわけではなかったので、この部屋との永遠の別れは、残念と言うほどではない。ただ、あのベッドの寝心地は中々のものだったと思うのが、多少心残りだろうか。少なくとも、自分の部屋で寝るよりは、快眠だった。必要以上に、深い眠りについてしまったわけだし。
色々な想いと共に、部屋から出て。
部屋に鍵をかけて、一呼吸置いて。
「さて」
「さて?」
僕の真似をするように緑葉は言う。そんな仕草がいちいち可愛く思ったり思わなかったりなんだけど、決して顔には出さずに冷静さを保つ。
「兄さんの部屋まで行こうか」
「そうしよっか」
と、意気込むほど遠くはない、五つ隣の部屋。僕と緑葉は何の言葉も交わさずに、部屋のドアを三つ通過して、四つ目で立ち止まり、一応は礼儀として、ノックを試みる。
返事はない。
屍ではないようだが。
「……仕事中かな」
「寝てるんだったら、そっとしておいたほうがいいんじゃない?」
言いながら、僕と緑葉がそっとドアを開けて部屋に入ると、案の定、青藍兄さんは椅子に座ったまま机に突っ伏して、爆睡していた。しかもパソコンは起動しっぱなし。どうやら本気で疲れているようだった。
「寝てるみたいだね。外で待ってる?」
「うーん、だけど、この場合は起こした方が兄さん的には嬉しいはずなんだよね。経験上、兄さんは起こされることを望むんだよ……時間ギリギリで起こしても、処理出来てない仕事もあるだろうしさ。このままだと『なんでもっと早く起こさなかったんだ』ってセリフが聞けるけど、聞きたい?」
「のーさんきゅー」
青藍兄さんに近寄って、肩を叩く。よく寝る割には寝起きがいいのが青藍兄さんのいいところだ。これで寝起き最悪だったら、手が付けられない。
「……んあ、なんだ、弟よ」
完全に寝起きな声で、青藍兄さんは起動した。
「もうそろそろ到着の時間だからね。起こしに来たよ。どうせ処理中だったんでしょ、それ」
「ん……ああ、そうだそうだ……よく起こしてくれたな。俺のことをよく理解している。さすがハクロだ。とりあえず、保存しておくか……」
まだ完全に眠りから覚めているわけではなさそうだけど、青藍兄さんは手際よくパソコンを操作して、実行中の何やらを保存していた。僕は電子機器に詳しくないので(一般的なポケギアとポケモンセンターのパソコンが使えるぐらいで)、青藍兄さんの作業は、ある種の恐怖を覚えるほどには迅速だった。
「あと……ああ、二十分か。まあいいや。仕事はこの辺で切り上げておくか。あとは楽しもう」
「そうそう。パーティなんだし、今日くらい仕事は休んだらいいと思うけど……って言っても、兄さんとしてはそれも仕事のうちなのかな。兄さんのプライベートって想像がつかないな」
「俺のプライベート? 今日の午前中なんてプライベートだぞ。仕事してなきゃ俺はプライベートだ」
「そういうもんなの?」なんだかよく分からない理論だった。
「社会人はそういうものさ。仕事をしてないときは、俺は社会人じゃない。社会人になどなるものか」
そういうものなのか。
子どもの僕には、よく分からない。
しばらく青藍兄さんはパソコンに向かって、色々やっていた。僕のイメージからして、パソコンでの作業というものはキーボードをかたかたと叩くのが一般的だったけれど、やっぱり普通にマウスを使うものらしい。イメージダウンでこそないけれど、何故に僕はキーボードばかり連打するイメージを持っているのだろう。テレビの影響だろうか。
「内装とか、ほとんど同じなんだね」
僕がベッドに腰掛けてぼんやりしていると、緑葉が青藍兄さんの部屋を物色しながら、部屋の類似性について述べていた。確かに僕と緑葉がいた部屋とそっくりだ。こういう船室を作るのにも、一応デザインする人間がいるのだと思うけれど、そういう人たちはどういう経緯でこの部屋をデザインしているんだろう。なんてことを考えてしまうほど、僕は呆けていた。基本的に、僕は一対一でないときには、饒舌ではない。
……理由は自分でもよく分からないけど。
緑葉も見学に飽きたらしく、持て余した暇を解消すべく、僕の隣に腰掛けて、僕にちょっかいをだしてきた。脇腹に軽くパンチしてみたり、膝をくすぐってみたり、ネクタイを締めてみたり――
ぃゃー。
と、声にならない悲鳴を出したくなる恥ずかしさを味わったが、青藍兄さんがいる手前、何も出来なかった。たまに緑葉はこういうことをするのだけれど、いい加減僕の性格に気づいて欲しい。僕はクールなキャラクターなのだ。そんなことをされて恥ずかしがらない肝を持ち合わせてはいない。
「よし……終わりだ」
パソコンからデータのようなものを取り出して、青藍兄さんはゆるりとした口調で述べた。
「お疲れ様」
「ああ。おやすみ、ハクロ」
「いやいや寝ちゃダメでしょ。起きて船を降りる準備をしてよ。何のために僕が来たと思ってるんだ」
「くっそー……めんどくせーなー……ああ、色々準備してくれる奥さん欲しい。今、もの凄く奥さんが欲しいぞ俺は……」
「じゃあ結婚しなよ……」困った兄貴に対して、僕は溜め息を吐く。「兄さんなら引く手数多だろ」
「自分が一番好きな人は、中々振り向いてくれないものなんだよ。まったく誰だ、こんな世界作ったのは……」
青藍兄さんはそう言いながら、なんだか疲れたように笑った。
「つっても俺もあんまり荷物ないから、準備も何もないんだけどな。データと、招待状と、タバコとライターと……んー、そんくらいか」
「あれ」青藍兄さんの独り言に、緑葉が反応した。「青藍さんって、モンスターボールとか、持ってないんですか?」
どうやら緑葉にとっては、モンスターボールを持っていないというのは常識外れの行動であるようだ。
「ああ、俺は持ち歩かないよ。今やどの施設でも、パソコン経由でポケモンの送受信は可能だしね……荷物もほとんどパソコンに預けてあるし。まあ、そのお陰で大本のシステムがパンクしそうだから、今後は荷物の預かりシステムは廃止するとかいう話が出てるらしいけど……俺からすれば、ポケモンの預かりシステムより、荷物の預かりシステムの方が重要だよ。ははは」
僕らの方を向かないまま、青藍兄さんは答える。よくパソコンの操作と一緒に、会話が出来るものだ。
「……僕より持ち物少ないんだな、兄さんって」
「買い物はカードで十分だし、ポケギアは電源入れたら鳴りっぱなしだから邪魔なだけだし。この船にあるパソコンでだって、ポケモンや道具の出し入れは出来るし、紅蓮島でも出来るだろ? 今はデジタル社会だからな。それを他人に押しつけるつもりは毛頭ないけど、推奨はするよ。その方が格段に効率が良い。もっとも、引き出すまでに若干のタイムラグはあるけどな」
青藍兄さんは言いながら、パソコンの電源を落として、立ち上がった。確かに青藍兄さんの言う通り、緑葉や木賊といったポケモントレーナーでない限り、常時モンスターボールを持ち歩く必要はないのだろう。僕だって、お守り代わりに持っているだけで、使う場面なんて滅多にないわけだし……。
「さて、そろそろ準備するか。と言ってもやっぱり、鍵かけて部屋出るくらいしかないんだけどな……って、お前ら何いちゃついてんだ」
振り向き様に、青藍兄さんは僕と緑葉を見て、ゲンナリした表情で言う。いや、確かに、僕の頬をつまむ緑葉の姿は、そう見えるかもしれないけど……。
「いちゃつくならお前らの部屋でやれよな」
「いや、いちゃついてないし」
「ごめんなさい……」
「いや緑葉もそこは否定しようぜ? 変な誤解を生むからさぁ!」
なんて言ったところで、僕のよく伸びる頬を緑葉が引っ張っていたら、そりゃそう見られても仕方がないというものかもしれない。ていうかなんで引っ張られてるんだ。そんなに伸ばしたくなるか僕の頬は。
青藍兄さんの視線が痛いので(主に心に突き刺さる)、僕と緑葉は、一足先に、廊下に出ることにした。移動手段であるだけの船内なのだし、これ以上、面白いことなんて起こらないだろう。
面白いことが起こるのは、いつも上陸後だと相場が決まっている。
◇
僕と緑葉と青藍兄さんが廊下で停船を待っていたら、どこからともなく枝梨花さんが現れた。そして、現れたと同時の一瞬の出来事ではあったけれど、枝梨花さんが緑葉の着物を注視しているのが、僕には分かった。一体何を気にしているというのだろう。別に何もしてないですよ? 着物、はだけてないですよ?
「お久しぶりですね」
「どうも」
「どうもー」
僕と緑葉で、枝梨花さんに応じる。青藍兄さんは、気恥ずかしいのか、それともうまく発するべき言葉を持ち合わせていないのか、黙ったまま、会釈をするだけだった。けれど、それが本来の大人の対応なのかもしれない。
「みなさま、ゆっくり休めましたか?」
「ゆっくり出来ました」着物が脱げたらもっと良かったですけど、とでも言いたげに、緑葉は帯に触れる。
「まあ、何て言うか、寝るくらいしかやることなかったですけど」
「せっかく緑葉様と同室だったのですから、お話でもしていらしたら良かったではありませんか。私は一人ですから、暇で暇で仕方ありませんでしたわ……出来れば緑葉様を、私のお部屋にお連れしたかったくらいです」
「え? 私なんかいても面白くないですよ……?」
「うふふ。そんなことはありませんわ」
なんて、妖艶に、枝梨花さんは笑う。
緑葉、気に入られてるなぁ……まあ、年上にも、年下にも、あるいはほとんど全ての人間から愛されるような、そんな人間だからな。逆に言えば、そういう、誰からも愛される人間を憎む人からは、必要以上に忌み嫌われるのかもしれないけれど……そんな嫌な性格してる人間からは好かれたくないのが普通だし、緑葉って結局、得な性格してるよな、と僕は思った。
打算的な意味ではなく。
別に羨ましいとも思わないけれど。
あるいは、損な性格してるよな、でも、この場合は代えが効くのかもしれないけれど。
「ああ……そうでしたわ。その、お屋敷につきましたら、大変申し訳ないのですけれど、私は面倒な……」言ったあと、とてつもない上品は笑顔を枝梨花さんは見せた。「……いえ、大切な方達と、色々なお話などをしたりしなければならないので、ハクロ様や緑葉様、青藍様とはお話が出来ないかもしれません……ですが、恐らくマチス様は暇をしていると思いますので、会場ではあの方を頼りにされると良いかと思われますわ」
「ああ、それはそれはお疲れ様です。ていうか、少佐……ですか」
少佐が暇してる。
イメージ通り、なのか。
ていうか今、枝梨花さん、うっかりではなく、意図的に、お偉いさんとの会話が面倒だと言った。やっぱりジムリーダーともなると、必要以上に面倒臭い人間関係に縛られることになるんだろう。僕はごめんだな……と、ジムリーダーになる未来など有り得ないのに、そんなことを思った。
「しかし、僕らは助かりますけど、少佐も少佐で困ったものですね。パーティ会場でも、あんな感じなんですか? 飄々としているというか、なんというか」
「いえ、マチス様は、その……仕事やこうしたパーティなどで行う社交辞令のようなものを、苦に思わない性格というか……とにかく、対応が上手な方なんです。ですから、会わなければならない方達とはちゃんと会って、しなければならない会話もして、自分に課せられた仕事を全うしても、自由に動き回れる時間を作っているかと思いますわ。本当に、仕事が早いというか、立ち回りが上手な方で……引き留められるということがないんですよね。あれでもう少し性格も大人なら、素敵な殿方なのですが……」
まるで、困った兄を持つ妹のように、枝梨花さんは少佐を評価した。実際、その気持ちは僕にもよく分かる。少佐は自分の欲望のためには手段を選ばないような人間ではあるけれど、やらなきゃいけないことは、怠らない。自分の仕事、義務、それらを全てクリアした上で、自分の時間を、作り出す。それは、僕のような――あるいは枝梨花さんのような――一時の仕事を耐えて、それが終わるのを待ってから自由時間を楽しむような生き方ではなく、一秒たりとも時間を無駄にしないような、そんな生き方なんだろう。
まあ、それにしたって、必要以上の精神力と、行動力と、体力が必要なんだろうとは思うけれど。やる気だけではなんともならないことが、この世には多く存在しているんだろうと、最近の僕は、思う。
……やっぱり、体、鍛え直した方がいいかなぁ。
少佐みたいにガッチガチになるつもりはないけれど、あの体力がなければ、あそこまで精力的には生きられないだろう。
毎日ぐだぐだしているよりは、良いかもしれない。
やるとしたらなんだろう。やっぱり、空手……かなぁ?
……まあでも、それもまだ、空想程度に留めておこう。パーティなんだから、難しいことはやめだ。
「じゃあ、遠慮なく、少佐を頼ろうかと思います」
「そうですね。マチス様も喜ばれるかと思いますわ」と、枝梨花さんは微笑みながら言った後、急に表情を変えて、「……ああ、いけない、お聞きするのを忘れていました。今日は皆さん、紅蓮島にお泊まりですか?」と、口早に、僕らに尋ねた。
「え? あ、はい、そのつもり……ですけど。っていうか、あんまりよく分かってないんですけど。泊まれるんですよね? ……緑葉も、そのつもりだよね?」
「え、うん。ハクロについてく気まんまんだったけど……」
「そうでしたか」やっぱり、と言ったような表情で、枝梨花さんは少し困惑した。「ええ、あのお屋敷は、もともとそういう目的の施設ですから、宿泊に関しては心配ないと思います。それに、桂様のお住まいもありますから、参加者全員とは行かないまでも……ほとんどの方が泊まれるだけのスペースがあると思いますわ。もっとも、私はパーティが終わったら、すぐに帰ってしまうのですが……」
「え、枝梨花さん帰っちゃうんですか?」
と、珍しく緑葉が積極的に、枝梨花さんに質問した。あまりにおどおどしているのも枝梨花さんに悪いと判断したのか、それとも単純に枝梨花さんに慣れたのか、緑葉の言動も、親しみを感じ取れる程度のものになっていた。
「ええ、その、てっきりというか、うっかりというか、すっかりというか……すみません、失念していました。自分のこういうところが、私はすごく嫌いなのですが――そんなことを言っている場合ではありませんね。ああ、どうしましょう。紅蓮島にまともな服が売っていれば、一式揃えて、緑葉様にお渡し出来るのですが……それだけが気がかりで」
「……ああ」
僕は一人で合点が行く。
「……一式?」
しかし緑葉は分かっていないようで、けれど不穏な空気は察している様子で、首を傾げた。
「ですから、一日中着物というわけにはいきませんでしょう? 寝間着は常備されていると思うのですが、明日帰るときに着る服がないと困りますものね。それに、下着も買わないといけませんし……ああ、自分勝手な自分が嫌になりますわ……」
枝梨花さんは一人で狼狽していた。
ていうか、どれだけいい人なんだろう、この人。なんだかすごく怖い人という印象を持っていたけれど、付き合う時間に比例して、化けの皮が剥がれる……という言い方は違うかもしれないけど、この人の本質が分かってきているような、そんな気がする。
まあ、僕も失念していたけれど、緑葉、着替えがないから、もしこのまま泊まることになると、着物のままなのか。って、それは僕もそうだけど……僕は我慢すればスーツで帰ることくらい、なんでもないしな。
大問題なのは、やっぱり緑葉か。
でも、一式揃えるって、一体どういう感覚してんだろうか………………ああ、緑葉の正装を一式買おうとした僕と同じ感覚か。
まったく、困った人たちだ。
どっちも狂ってやがる。
「わ、私、明日も着物で大丈夫ですから……」
「でも、お一人では着られませんでしょう? 普段ならこの時期はそれほど忙しくもないのですが、明日はジム戦のことでどうしても玉虫に帰らなくてはならなくて……はぁ、どうして私ってこうなんでしょう? 私の失敗ですから、緑葉様のお洋服は、私が用意します。お気になさらないでください。本当に、着せることだけに意識が行っていて、これではまるで着せ替え人形で遊んでいる子どものようですわね……お恥ずかしい……」
「え、でも……その、気にしますよ!」緑葉は負けじと反論するが、枝梨花さんは「本当にもう……」と困惑を続けるだけだった。
「紅蓮にちゃんとしたお店があればいいんですけど……紅蓮にはあまり詳しくないものですから……」
「枝梨花さーん!」
枝梨花さんはもう完全に緑葉の話を聞いてなかった。青藍兄さんと僕は、その様子をぼーっと見ていることしか出来ない。なんていうか、自分勝手から派生した失敗を、自分勝手に解決している姿を見て、枝梨花さんの人間性というものを、少し理解出来たような、そんな気が、しないでもない。まあ、人から嫌われる類の自分勝手さでは、ないのだけれど。
「……なんつーか、面白い人だな」
青藍兄さんが小声で、僕に呟く。
僕は、青藍兄さんが誰かに対して丁寧に行うものより、ぶっきらぼうな口調の方が落ち着くということに気づく。そういえば今朝から青藍兄さんは常に誰かと一緒だったし、僕は青藍兄さんが喋る度に、変な違和感を持っていた。
「まあ……ジムリーダーって、変わってる人が多いよね。枝梨花さんといい、少佐といい……桂さんもそうだしね」
「変人じゃねーと、色々やってけない世界なんだろー……俺は絶対嫌だけどな。まあ、ジムリーダーになるなんてありえねーけどさ」
「だね。僕もそう思う。僕自身にも、そう思う」
「だなぁ」
なんて、男二人で会話をしながら、枝梨花さんと緑葉の攻防を、僕らは見守っていた。
楽しそうで何よりだ。
無駄な争いのない日常は、本当に、心から、何よりだと思う。
◇
結局、緑葉と枝梨花さんの服についての論争がどういった決着を見たのかは分からなかったけれど、どんな理由であれ、緑葉は年齢的にも、立場的にも、性格的にも、枝梨花さんに太刀打ちできるような人間ではないから、きっと、必要以上に値の張る服を買ってもらうことになったのだろうと思う。
僕ら四人は、停泊の後、下船が出来るようになってすぐに、船を降りた。船内にいるうちは何とも思わないのに、乗船、下船の瞬間になると、どうしても自分が船に乗っているということを再認識してしまう。それは、どうも青藍兄さんも同じらしく、見るからに具合と気持ちが悪そうだった。
そして、ちょっとした手続きの後、紅蓮島に到着して、夏の紅蓮島の驚くべき暑さを体感した直後、ふいに枝梨花さんが、
「では、緑葉様をお借りしますね」
と言いながら、緑葉を連れて、どこかへ消えて行ってしまった。店でも探しに行ったんだろう。恐るべき自分勝手。しかもやはり、他人にとって不快ではない方向に伸びている勝手さだから、嫌いになる理由も、方法も、ないのだろう。おせっかいが極まった感じだろうか。ていうか、まあ、軽々しくこんなことが出来るあたり、やっぱりジムリーダーって儲かってるのかなぁ……とか、思ったり。
「お気を付けて」
「行ってらっしゃい」
「ハクロー!」
青藍兄さんと僕は、にこやかに手を振りながら、緑葉と枝梨花さんを見送った。枝梨花さんに引きずられながら助けを求めるように僕を呼ぶ緑葉だったが、一時的な難聴を自分に課すことで、緑葉の声を、僕は理解出来なかった。
緑葉よ永遠に。
……さて。
「んー……ようやく到着か」
「到着だね。どうしようか」
青藍兄さんは眼鏡を外して目頭を押さえながら、頭を振っている。まだまだ絶好調に眠い様子だ。
「もう、ポケモン屋敷行く?」
「そうだな……ああ、パーティってそもそもいつからなんだ?」
「さぁ……全然覚えてないや。ていうか、招待状見たらいいんじゃない? 書いてあるでしょ」
「ああ、それもそうだな。見てくれ」
「自分で見ろよ……」と、言いながらも、いい加減弟キャラも板についてきた僕は、懐から招待状を取り出して、裏面を確認。「んーと、開場が五時で、開始が七時半だって。待ち時間長っ!」
「まあ……船の関係で早く来た人を待たせない処置だろ。桂さんはそういう人だからな。きっと、一日早く着いていたって喜んで歓迎してくれるはずだ。まあ、五時っつーと……今が六時半だから、余裕で入れるわけだな。部屋があったら、パーティ開始まで寝たい感じなんだけどなぁ」
「だろうね。すごい眠そうな顔してるし」
「今なら泥睡出来る」
「それもしかしなくても、造語?」
「と、その前に、ポケモンセンターに寄りたいんだった。色々やることがある」
「ふうん?」
言うが早いか、青藍兄さんは僕に目もくれず、歩き出した。木蘭さんを連れて僕の家に来るくらいだから、土地勘はないようだけれど、流石にポケモンセンターを探すくらいのことは、出来るようだった。青藍兄さんは赤い屋根の建物を見つけると、ふらついた足取りで、自動ドアへと向かった。僕もそれに続いて、自動ドアをくぐる。
ポケモンセンターなんてどこでも同じように思えるけれど、実際のところ、少しばかり内装や雰囲気が違っていたりする。まあ、ポケモンの回復や、パソコン通信だけを主目的にしている人には分からないかもしれないけれど、雑誌とか、観葉植物とか、チラシとか、ポスターとか。それぞれの町の特色に、溢れている。例えばここ紅蓮のポケモンセンターには、紅蓮島の名物酒『紅蓮』のチラシが、大量に置かれていた。せっかく火山があるんだから、温泉でもあれば良いのに……と思うけど、まあその辺も色々、複雑なのかもしれない。
そういえば豊縁には温泉があるんだったっけ。
……来月、本当に僕、豊縁連れて行かれるんだろうか。
「んー……なんだったっけな」
うなり声を上げながら、青藍兄さんがパソコンを操作していた。いつの間にか青藍兄さんの足下にケースがあったので、パソコン通信で引き出したのだろう。見た感じ、ノートパソコンかな……? 科学の力ってすげー、と感嘆せざるを得ない。
「とりあえず二匹も入れば十分か」
「なに、ポケモンでも引き出すの?」
「ああ。まあ、俺自身ポケモンなんて趣味程度の知識しかないし、研究材料としての見方が主だけど、話題にはなるからな。今の世の中、社交界での自慢話には、必ずポケモンの話題がついてくるしなー」
「まあ、それもそうか」
小さい頃も、よく大人がポケモンを自慢しているシーンを見た気がする。
「自慢って言い方だとなんかあくどいけど、別に利用してるわけじゃねーぞ? 俺だってポケモン好きだし。けどまぁ、常時携帯するほどの熱はねーなぁ。そろそろポケギアとモンスターボールを合体させたらいいんじゃねーかな。つっても、俺はそれすら持たないんだけどなー」
青藍兄さんは一人でぐだぐだ言いながら、パソコン通信で二つのモンスターボールを引き出していた。僕は無意識に、あるいは習慣的に、そのモンスターボールの中身がなんなのか判断しようとするが、青藍兄さんがすぐにそのモンスターボールをポケットに入れてしまったので、水タイプと、炎タイプというところまでしか、判断出来なかった。
「ああ、そうだ、悪いハクロ、ちょっと荷物持ってて」
「ん、荷物持ちは別に構わないけど……」
僕が荷物を持つと、青藍兄さんはポケモンセンターの受付に向かって、今引き出したばかりのモンスターボールを、トレイに載せていた。……ん?
「回復させますか?」
「お願いします」
紅蓮島のポケモンセンターを担当している女医さんは、朽葉の鴇さんとはまったく毛色の違う、黒髪で眼鏡の、美人なお姉さんだった。なんとなく、全員ピンク色の髪の毛で巻き毛なイメージがあるけれど、この時代、社員の格好を統一させることに何の利益もないということか……とか、そういうことを思っている場合ではなくて。
「引き出したばっかりなのに?」
「んー、そうなんだけどな、なんか気持ち悪いんだわ。変な感覚だけどな。パソコン通信で引き出したポケモンを、ちゃんと現実に引き戻したいっつーか……まあ、固定する意味でも、俺は毎回ポケモンを引き出したあと、回復してもらってんだ。意味はねーけどな」
「ふうん。まあ、そんなもんか」
パソコン通信を利用しない僕としては、まったくもって、理解出来ない現象ではあったけれど、確かに、理屈を詳しく理解しているわけじゃない僕にとっても、パソコン通信で預けているポケモンって、なんだか現実味がない。何しろ、電子情報でしかないのだから。実体のある、実物のいる、生物としての認識は、一瞬ではあるけれど、崩れかける。
青藍兄さんと一緒に、ベンチに座って、ポケモンの回復が終わるのを待った。全快状態であろうと、瀕死状態であろうと、ポケモンセンターでの治療にかかる時間は、変わらない。それはつまり、健康であろうと、不健康であろうと、薬を飲むのにかかる時間は変わらないのと、同じようなことだろう。
「お待たせしました」
女医さんがトレイに二つのモンスターボールを載せて、青藍兄さんに返却した。瞬間的に、片方のポケモンがヒトカゲであることは確認出来たけれど、もう一方は、結局確認出来ず終いだった。
「どうも、ありがとうございました」
「またのご利用をお待ちしております」
青藍兄さんが外面の良さを発揮させながら、僕の方に戻ってくる。少々、女医さんの頬に朱が翳っているような気がしないでもないけれど、気のせいということにしておこう。兄と弟を演じている関係だとは言え、青藍兄さんは僕の本当の兄でもなければ、義理の兄でもないし、嘘の兄でもない。血の関わりは皆無だから、青藍兄さんが美しい顔面を持っていたとしても、僕には共通する要因が、ないのだ。
なんか……悔しいな……。
「さーてハクロ、お兄ちゃんとパーティ会場行くか」
「寝不足が度を超えておかしくなってんの?」
「んー、それもあるかもしれんな。寝不足なときはテンション低めだが、それを一歩越えると、ハイテンションじゃないとやってられなくなる。人前だと制限出来るんだけどなぁ……家族の前だとやっぱダメだ。無理無理。お兄ちゃん頑張れないわ」
「頑張れよお兄ちゃん」
「頑張れないわ」
それから何が面白いのか、青藍兄さんは「頑張れないわ」と何度も小声で繰り返していた。壊れたレコードのようだ、と思ったけれど、僕はそういえば、壊れたレコードは愚か、レコードというものにすら、触れ合ったことはなかったな……慣用句って、知らない間に錆びていく。
僕はポケモンセンターを出ると、未だにぶつぶつと「ないわー」と言っている青藍兄さんに、尋ねる。
「それにしても、緑葉と枝梨花さん、待たなくていいのかな?」
「女の買いものは時間かかるだろー。ハクロが待ちたいっていうなら構わんが、俺は一人で屋敷に入るぞ。もうマジお兄ちゃん眠気がやばいんだよ。つらつら喋ってないと死んじゃう感じ。ちょっと気を許すとするっと行っちゃいそうだね。あ、悪い、荷物持ってきてもらっていいか? 下手したら落とす」
軽い口調で落とす、とか言っているけれど、きっと、冗談ではないのだろう。精密機械でもなんでも、青藍兄さんが落とすと言ったら、きっと落とす。
「ま、荷物持ちごときでうだうだ言わないけどね」
しかしこの眠気、青藍兄さん、どれほど過酷な毎日を送っているというんだ……僕なんて、毎日惰眠を貪っていても、まだ眠いというのに。まあ、それは、成長期であるとか、そういうことも、関係してくるのかもしれないけれど……まあ、それにしたって、青藍兄さんの寝不足は、もはや病気だよな。
あるいは仕事に侵されているのか。
本人は満足しているようだし、口を出すことでもないかもしれないけど。
僕と青藍兄さんは、結局、緑葉と枝梨花さんを待たないまま、ポケモン屋敷に向かうことにした。実際、待つと言っても先に行っててという返事が予想出来たし、青藍兄さんを一人で行かせるのも、心配だった。
ふらふらと、しかし着実にポケモン屋敷に向かう青藍兄さん。方向音痴ではあるようだけど、地図――招待状に同封されている、小洒落たものだ――があれば目的地にはつけるらしい。まあ、僕の家にたどり着けなかったのは、ただ単に、調べるのが面倒臭かったのかもしれない。あとは、一人で山吹から朽葉に来るのが、寂しかった、とか。
「あー、いかん。限界来る。マジヤバイ。寝るに寝られない。死ぬに死ねない。消すに消せない」
「本気で大丈夫かよ兄さん……もう本当になんか、いっちゃいけないほうのヤバさに辿り着いてる感じがするけど?」
「あー、寝不足で気持ち悪くなってきた。白昼夢って、見たことないけど、こんな感じ? すごくふらふらするんですけどー」
もう完全にヤバめだった。なのにも関わらず、ちゃんと歩いて目的地に向かっているのだから、青藍兄さんは出来た男だ、と、僕は感心しながらも、やっぱり、どこか心配だった。今すぐ倒れても、別段不思議ではない。
青藍兄さんが頭を抑えながら歩いているうちに、周囲がにわかに賑わっていることに、僕は気づいた。フォーマルな方達が、笑顔やら、厳格な表情やら、値踏みするような視線やらで、溢れている。どう考えても場違いな僕だけれど、場所は間違えていないようだ。
「……ここだ」
呟くように、青藍兄さんが言った。青藍兄さんの視線を辿ると、そこでは、何かパーティでもやってるんじゃないかというほどに人の出入りが行われていて、過剰なほどに、けれど上品な装飾がなされていて……っていうかどう考えても、その場所がパーティ会場であることは、間違いない様子だった。
「よし……俺はここで寝る」
「ダメでしょ。起きてなって」
「無茶言うな。お兄ちゃんはお前をそんな子に育てた覚えはないぞ」
「僕も覚えはないなぁ」
言いながら、僕は青藍兄さんの背中を押して、群衆の中に突撃した。何故か存在している、三、四段程度の階段を上って、開きっぱなしのガラス戸を抜け、僕らは旧ポケモン屋敷である、この――まあ、新ポケモン屋敷に、やってきた。来てしまえばどうということはない。立派は立派だけれど、気圧されるほどではなかった。
屋敷からはみ出るようにして存在している人たちも、立ち話をしている人がほとんどで、奥の受付自体は、それほど混雑している様子ではなかった。ある意味では、受付のこの瞬間から、既に社交界は始まっているのかもしれなかった。
「受付はハクロがやれよなー、ちきしょー」
「無理言ってないでさ、あとちょっとだから、頑張ってよ」
もう青藍兄さんは完全にガキになっていた。眠気が増すか、普通にテンションが高いときは、なんというか、どっちが兄だって感じの力関係になる。それが嫌ではないから、やっぱり僕は、青藍兄さんが嫌いではないのだろう。
僕の招待状も青藍兄さんに渡して、受付を同時に済ませてもらうことにする。面倒ごとは、回避出来るなら、回避したい。そんな性格で、こんな生活がいつまで出来るかは知らないけど、出来るうちはしておこうというのが、僕のささやかなプライドである。僕も眠いのか、自分で何を言っているのか分からない。
「終わった。寝る。泥になる。泥か泥になりたい」
「一択かよ。まあ、うん、おやすみ。あとで起こしに行くよ……部屋は?」
「さんまるご。にもつもらう」
やる気のない口調で言って、僕から荷物を受け取ると、青藍兄さんはゆっくりと、人混みの中へと消えていった。僕はそれを呆然と見送って、ようやく一人になれたと、安堵の溜め息を漏らす。と同時に、少しだけの孤独を味わって、不安になったりもした。まあ、僕はここでゆっくりと、緑葉と枝梨花さんを待ったほうがいいだろう、と、僕はロビーにある、メリープの体毛に匹敵するくらいやわかいソファに腰を降ろして、ゆっくりと、息を吐いた。
……割と、疲れたなぁ。
人混みが苦手っていうのもあるんだろうけど。
見たことのあるような、ないような。そんな程度の顔もあれば、見ず知らずの顔もあって、明らかに見たことはあるけれど名前が思い出せない人までが、存在していた。僕みたいなガキが来る場所ではないよな、本当に……と思ったけれど、実際のところは、子どもも何人かいるようだった。僕にもあんな時代があったよなぁ、なんて思いながら、勝ち気な女の子とおどおどした男の子を眺める。あの頃は、こんな社交の場に連れてこられても、楽しみなんて一つもなかった。知らない人ばかりで、大人だらけ。無理矢理堅苦しい格好をさせられて、ゲームは愚か、漫画も読めない。食べたいときにご飯を食べられるわけじゃないし、並べられた料理も、大人向けのものばかり。用意された飲み物も、オレンジジュースが精一杯で、素敵なジュースは存在していない。
じゃあ一体、僕はあの頃、どうやって暇をつぶしていたんだろう? 多分僕のことだから、物静かに、両親の言う通りに行動していた……のかもしれない。同い年くらいの子と遊んでいたりもしたのだろうか? 一夜限りの出会い。初対面で、面識もないのに、よくあそこまで仲良くなれたものだな……なんて感傷に浸る。それくらいしか、やることもないし。
しばらくして背後で拍手が起きたので、振り返ってみると、ジャグラーか何かが、ショーをしているようだった。そういう余興も、抜かりがないようだ。モンスターボールをお手玉のようにして投げてみたり、ヒコザルと交互に受け渡してみたり……。そのポケモンの選択は、猿回しだからなのか、それとも、紅蓮島だからなのか……色んな思惑がありそうだけれど、案外、あのジャグラーの趣味なだけかもしれない。
そんなとりとめもない思考を展開しては破棄して、浮かべては沈めて、繰り返しては遮断した。緑葉からの連絡は来ないし、パーティが始まってしまうまで、まだまだ、時間がある。
暇を持て余すのは嫌いではないけれど、出来れば、自宅で持て余したいものだ。
こんなとき、周囲の人間は、どうやって時間を潰すのだろう?
見ず知らずの人に声をかけて、お喋りでも楽しむのかもしれない。
だからこそ、周囲の人々は、お喋りに夢中なのだろう。子どもだってそうだ。孤立しているのは、恐らく僕だけ。招かれているのに、迎えられていないような錯覚も、ちらほらと、覚えるような。
僕はふっと溜め息をついて、立ち上がった。
あまりに腰がソファに沈んでいたので、立つのに苦労した。やわらかすぎるソファは、こういうときに座るくらいで、丁度いいな、と、なんとも貧乏臭い発想をして、周囲の人間との交流を拒絶するかのように、両手をポケットに入れて、歩き出す。
どこへ行こう。
紅蓮島という町で、青藍兄さんといるときよりも、もっと狭い枠の中で、まるで迷子のように、途方に暮れた。限られた場所なのに、どこに行けばいいのか、見当もつかない。どこに行っていいのかすら、僕は知らない。
招待状を取り出して、眺める。封筒の中に、骨董品のような真鍮の鍵が入っていて、『208』と彫られていた。僕の部屋は――同時に緑葉の部屋は――この部屋ということになるようだ。ああ、そういえば、緑葉は受付でどう対処してもらえば良いのだろう? あとでまた、受付に来ればいいのだろうか。考えてみても結局考えがまとまらないので、僕は鍵だけをズボンのポケットに入れると、招待状も封筒も、上着の内ポケットにしまった。
行くところもないし、部屋に行くか。
どうしても僕は社交的になれない体質なんだろうから、無理して誰かに声をかける必要はないだろう。居場所が用意されているなら、それが例え周囲との関わりを遮断する場所であっても、そこにいる方が、僕は落ち着く。
……なんて、変にネガティブだな。
親子連れが妬ましいなんて、そんな陳腐な理由でもないだろうに。
まあ、でも、そんな風に、一人で孤独を噛みしめて、味が出る頃には飽きてしまうくらいが、僕らしいのかもしれない。知り合いが近くに誰もいない状況なんて、誰も遊びに来ていない日常と、なんら変わりないし、その日常での僕は、いつもそんなものだったはずだ。
なんだか上手く落ち着けられない思考をシャットアウトするために、部屋を目指して、歩き出すことにする。声を出して道を開けてもらう必要などないほどに、ロビーは広かった。
ああ、なんだか、本当に……どうしたんだろう。上手く、いつも通りに、自分を嗤えないな。どこでスイッチが入ったんだろう。やっぱり、パーティ会場なんていう場所に来てしまったから……だろうか。
思ったところで、何の利益もないけど。
「……おっかしいな」
別に悲しくはなかったけれど。
涙も枯れて、独り言くらいしか、出なかった。
◇
「情緒不安定すぎるだろ」
とのお言葉は、筋肉質な肉体にスーツがよく似合う、海外のお生まれである我らがスーパースター、イナズマアメリカンこと、少佐からのものだった。
「……面目ないです」
「その年齢じゃ普通かとも思うが、少々多感すぎるな。ん? 少々と多感って、結局多いのか少ないのかどっちだ?」
「知りませんけど……」
都合よく、なのか、あらかじめ練られていたのか、僕が自分の部屋である二○八号室に向かうと、定められていたように、廊下で少佐と出くわした。でも、少佐は少佐で燕尾服を着た紳士と英語で会話をしていたようだったので、待ちかまえていたというわけではないのかもしれない。これは多分、一種の、悪意ある偶然だろう。
「少佐、こういう場ではエセ外国人は演じないんですか?」
「状況によってはするけど、公式な場所でそういうことするのも変な感じだろ。まあ、顔見知りばっかだからする必要がないってのが正しいか。よく、有名人はサングラスをかけたり、帽子を被ったりして、身分を隠すだろう?」
「隠してるのは身分なのか自分なのか分かりませんけど、やってますね」
「まあな。俺がやってるのは、そういうのと同じさ。だから、公式の場ではそうした仮面を被る必要がない。逆に失礼だろう? 仕事とは言え、プライベートだ」
「どっちなんですか」
「どっちもさ。仕事とプライベートは、何も反発しあうもんじゃないだろ」
プライベート。
個人的な――か。
確かに、個人的な仕事は、同居する言葉だ。
幾つものドアに挟まれる廊下に設置された、一つの長椅子。木製で、ロビーにあったそれとはまるで違った座り心地だけれど、僕にはこの堅さが丁度良かった。値段で言えば、同じくらいなのかもしれないけれど。
「しかし、金のかかった屋敷ですね」
僕は屋敷の内装を見ながら呟いた。
「心の病気はもういいのか?」
「からかってるんですか? もう大丈夫ですよ。ちょっと陰鬱としていただけですから」
「どうもなぁ……お前は感情の起伏が激しすぎる気がするんだが、かといって感情が表に出やすいタイプでもないしな。別に、無理してパーティなんかに出なくても、桂に挨拶だけして部屋で休んでてもいいんだぞ? パーティでは主催者以外、替えが効くんだ」
「大丈夫です。一人だとむしろ、色々考えるだけですから」
誰かといれば落ち着ける。
どこかに着陸出来る。
つまりは、空港のない場所では僕は遊覧するしかないのだ。空の上では、錨をおろして留まることも出来ない。
「まあお前がそう言うならいいんだけどな……何だっけな? ああ、屋敷か」少佐は足を組み直し、話題を元に戻した。「まあ、ここは富豪どもの財力が結集した屋敷だからな。ポケモンリーグも噛んでるし。リーグが関わる式典で使われるのは、大体この場所だ。大昔に、大した研究家がこの屋敷で大規模な実験をして、それ以来ポケモンがはびこる屋敷になったそうだが……噴火と同時に消し飛んだ」
「みたいですね。じゃあ、今回ポケモン屋敷が建て直されるまでの間、式典とかって、どこでやってたんですか?」
「ん? まあ、石英高原にもそういう施設はあるからな。一般人は立ち入り出来ない場所だが、まあ探せばそういう場所は多くあるさ。どんな世界でも、自分と関係のない場所には立ち入れないもんさ。見ず知らずの人の家だって、一般人は立ち入り禁止だろ?」
「まあ、不法侵入になりますしね」
薄暗いのに視力が落ちる心配は起きない照明と、臙脂色の絨毯。時折紳士や淑女が通り過ぎていくが、少佐を見て笑顔で会釈をするだけで、話しかけてくるようなマナー違反はいなかった。流石にこういった場所に招待されるだけあって、嗜みのある人ばかりだ。あるいは、場に飲まれて、そうせざるを得なくなっているのか。
「そういえば、今更ですけど、今日のパーティって、どんなことをするんですか?」
「メインはお屋敷のお誕生パーティだな」僕のネクタイを手に取りながら、少佐は答える。「桂は面倒臭いことが嫌いだからな、長々とした演説なんかはないだろう。まあ、あったとしても、乾杯の前にはしないさ。食いながら聞ける。お前らが心配するようなことはないさ…………って、そうだ、枝梨花と嬢ちゃんはどうした? 姿が見えないな」
「ああ、今はなんか、二人で買いものに行ってるみたいですけど」
「買いものぉ? 何考えてんだ枝梨花のやつは。若い嬢ちゃん捕まえて、娘時代に戻ったつもりか」
「えーと……話せば長くなるんで最終的なことだけ言いますけど、緑葉の服がないんで買いに行くとか」
「服」数秒、少佐は天井に視線を向けた。「ああ、帰りの服を忘れてきたのか」
「そんな感じですね」
察しの早い少佐だった。本当に、よく出来た大人だと関心せざるを得ない。
「そうか、ってことは枝梨花は今日中に帰るのか……俺は今日一日ゆっくり、ってわけにはいかないが、とりあえず泊まってくつもりだからな。まあ明日はお前らと一緒に帰れそうだ」
「へえ、少佐もてっきりジム戦の仕事でもあるのかと思ってましたけど」まあ、少佐なら既に片付けていそうな気もしたけれど。「ゆっくり出来ないって、なんかあるんですか?」
「ん? ああ、気にすんな。ちょっとした仕事だ」
そうした言い方が、少佐らしくなく、少しだけ気に掛かった。
「そういえば、警備がどうとか言ってましたね。あれですか?」
「まあ、そんなとこだな」
いつもは聞いてもいないのにべらべらと話してくる少佐なのに、はぐらかす……わけでもないけれど多く語ってこないということは、本当に僕が知らなくていいことなんだろう。聞けば教えてくれるだろうけれど、そんな子どもっぽいことをするほど、僕はもう子ども心を持っていない。
「でも、それなら尚更、こんなところで油売ってていいんですか?」
「警備は休憩時間中だ。それに、もうあらかた顔合わせは終わってるからな。今は休みだ。あとは食って喋るだけだな」
はえぇ。
めっちゃ仕事はえーよ少佐。
「もう、ですか?」
「挨拶回りは酒が入る前に終わらせたほうが早く終わるしな。それに、早いうちの方が、俺に話しかけてくる側も多くの人と顔を合わせないといけないわけだから、話を切り上げやすいだろ? 面倒事は早めに終わらせるに限る。それにパーティ自体も立食だからな、話しかけられる確率が格段に上がる。先手を打ったほうが楽だろ?」
「はぁ……やっぱ、そういうのって面倒なんですかね、枝梨花さんも言ってましたけど」
「そりゃー面倒だ。お前だって、ポケモンリーグからの勧誘は面倒くせーだろ? 手紙とか行ってるんだろ?」
「ええ……」と、頷きかけて、「あれ? 話したことありましたっけ?」と、そんな当然のことに気づく。
「軽く聞いてるだけだ。まあ、適当にあしらっとけよ。俺もいつもそうしてる」
本当に軽く、少佐は言う。
「そうしてるも何も、少佐はリーグの人間じゃないですか、一応。それに断るって何をですか」
「ポケモンリーグにも色々あんだよ。ジムリーダーとか、四天王とか、その辺は結構自由にやってられるけどな、俺にも『引退してする仕事もないところの椅子に座らねーか』って話も来てる。桂なんかは特に強く勧められてるみたいだぞ? ジムリーダーをやめたら、桂はポケモン研究にもっと金を使えるからな」
「はぁ……色々、大変なんですね」
「ま、別にジムリーダーから降りろって遠回しに言われてるわけじゃないんだけどな。桂は桂で、研究者としての実力があるんだ。ポケモン屋敷とも、深く関わってるしな」
ポケモン屋敷とも関わっている。
研究者?
「……ポケモン屋敷で実験してた人が、桂さん、とかですか? いや、まさかですよね」
「ああ、そうじゃないんだが……まあ、そういう歴史について気になるんだったら、桂に直接聞けよ。快く教えてくれるだろうしな」
それは情報の入手先を提示すると共に、暗に、自分からは話せないという拒絶の意志でもあった。
でも、当然のことか。
人づてに聞き回っているのも、趣味が悪いし。
「お、かれこれ五十分……か」腕時計を見ながら言って、少佐は立ち上がった。「んじゃ、俺はそろそろ挨拶回りに戻る。会場で俺を見かけたら遠慮なく声をかけてくれ。話が切り上げやすいからな」
「困ってるようだったら、そうします」
「おう、頼むぜ。んじゃなー」
気軽に言って、少佐は去っていく。どう考えても、僕なんかと軽々しく会話をしていていいような人物じゃないよな、と、思わずにはいられない。
「はぁ……」
そしてなんとなく、嘆息。
少佐も少佐で、色々大変なんだろう。もしかしなくても、僕よりも大変なものを背負って、生きているのかもしれない。だからといって僕が元気にならなきゃいけない理由にも繋がらないとは思うけど、まあ、なんというか、相対的に見て、僕の心って弱いなと、思わざるを得ないわけで。
僕はふいに立ち上がると、ポケットに手を突っ込んで、真鍮の鍵を取り出した。このまま閉じこもるというつもりではなかったけれど、することもないし、せっかくここまで来たのだから、と、僕は少し歩いて二○八号室の前に来て、鍵を開けた。
ドアを開けて中に入ると、そこには一流ホテル並……とまでは行かないまでも、並のレベルではない内装の部屋が、広がっていた。素晴らしい。その一言に尽きる。僕の部屋とは似ても似つかない。
青藍兄さんは三○五号室と言っていたけれど、どうして二人同時に受け付けをしてもらったのに部屋が離れているのだろう? と不思議に思っていたけれど、ベッドが二つあることで、それについて疑問は、多少なり、解消された。多分、青藍兄さんが僕の部屋を二人部屋にしてくれたのだろう。ありがたい心遣いだった。これで久しぶりに、緑葉と、違うベッドで、眠れるわけか……一緒に寝るのも、嫌ではないけど。なんて言うと変人のようなので、決して口には出せない。
ふう。
さて。
「ばふー」
窓際のベッドの上にダイブ。
このまま眠りにつこうかと一瞬考えたが、僕まで寝たら青藍兄さんは起きてこないだろう。うつ伏せから仰向けに半回転して、天井を眺める。一人になると本当に、色々と面倒臭いやつだと、自分を評価する。
「……これが寂しいから、人は動物でも飼うんだろうか」
あるいは、ポケモンと一緒にいるのだろうか。
「いや、普通ならまず、人と触れ合うか」
……いい加減、一人でいるときの独り言が多くなってきている。周囲に誰かがいれば、その独り言もなんとか正当化出来るけど、一人きりだと、言い訳も出来ない。
言い訳をする人もいない。
だから打つ手がなくなる。
「…………ダメダメだなぁ」
ポケットからポケギアを取り出して、電話帳から緑葉の名前を選択。すぐに発信した。
きっと、寂しいのだろうか?
それは、悲しいのだろうか?
数秒待って、通話が始まる。
「あ、もしもし……」
「もしもし。僕だけど」
「うん、うん。えっと…………助けてハクロぉ……」
「何が起きたんだよ……」
大方予想はつくものの。
泣きそうな声だし……。
「恐縮しすぎて死にそうです……」
だろうねー。
「まあ、枝梨花さんも好意でやってくれてるんだし、気にしないでおいたほうがいいんじゃない? あんまり気にしすぎても、なんか悪いし」
「うーん……そうなんだけどさぁ」
「とりあえず、僕と兄さんはもう屋敷について、二人とも部屋にいるよ。兄さんは寝てるし、僕は……まあ、暇してる。開始は七時半って言うし、荷物を置くなら急いだほうがいいかもね。部屋は二○八号室。下手したら僕、寝ちゃうかもしれないから、鍵は開けとくよ」
「ん、ん。分かった。あ、」
と、驚いた声を最後に声が途切れて。
「ハクロ様ですか? すみません、ついつい緑葉様にお洋服を着せるのが楽しくなってしまって……」
突然話し相手が枝梨花さんに変わってしまった。
しかし動じることなく僕は応じる。
「ああ、いえ、別に僕は構いませんけど。ていうか、わざわざすみません。僕が勝手に連れてきたのに」
「いえいえ。私たちももう少ししたら向かいますので、お待ちになっていてください。そういえば、マチス様にはお会いできましたか?」
「はい、つい先ほど。いつも通り、飄々としてました」
「それは何よりです。では、また後ほど」
そう言って、枝梨花さんは黙った。僕は礼儀として自分から通話を切って、ポケギアを隣のベッドに投げた。ついでにポケットの中にあるモンスターボールと、真鍮の鍵と、招待状も一緒に、投げておく。
なんでこんなに疲れてしまっているんだろう。
パーティはまだ始まっていないのに。
◇
「ただいまぁ……」
「………………んぁ!?」
寝てはいなかったけれど意識が完全に飛んでいた僕は、緑葉の声で、覚醒した。ベッドから飛び降りて、緑葉を見る。
当然だが、着物のままである。
洋館とも言える屋敷の中で、着物。
……うおお。
すげー浮いてる。
「色んな人にすっごい見られた……死にたい……」
「ああ、えっと、その……か、軽々しく死にたいとか言うもんじゃないよ? まあ、見せ物になるような気持ちは、分からんでもないけど」
「この格好、絶対浮いてるよぉ……ていうか、ずっと枝梨花さんと一緒にいるつもりだったのに、枝梨花さんは枝梨花さんで他の人と会わなきゃいけないみたいだし……私一人で行くの? 無理だよ。もうこの部屋から出たくないよぉ……」
「……まあ、うん、いっそ開き直れば? 上都出身者はそれでこそだよ。僕も鼻高々だし、なにより緑」「ひぃいゃぁだぁ……」「……はい」
発言を遮られた。
そうとう参ってるな……。
赤面に続いて奇声まで上げ始めた緑葉は、そのままベッドを静かに殴っていた。気持ちは……分からないじゃあ、ないんだけどさ。僕も玉虫ジムで、見せ物のような視線を浴びたし。けどまあ、ここまで大人数で、しかもみんなほとんど同じ服装となると、怖いものがあるかもしれないが。
「まあ、何人かは和服もいるでしょ。気にしない気にしない。上都のお祭りでも、女の子だけ浴衣で男は私服だったじゃん」
「あれは浴衣の割合が多いじゃん」
「まあ、そうだけどねー」
僕は適当なことを言って相づちを打っておく。隣のベッドから荷物をかっさらって、ポケギアで時間を確認すると、七時十分だった。それほど時間は経っていない様子。あと二十分で、広間についても……まあ、実際の開始時刻は遅れるのが相場だ。
緑葉は隣のベッドの上に、買ってもらったらしい服を袋から出して並べ始めた。なんだかとても高そうな気がする服が出てくる。明らかに必要じゃない量、出てくる。
「……」
絶句。
「何も言うなー!」
泣き声ともつかない口調で、緑葉は落胆していた。
「うん、言わないでおくよ……」
「はぁ……これ、全部でいくらしたんだろう……消えたい……泡になりたい……私なんて消えちゃえばいいのに……」
「あ、ありがたく受け取っておいたほうが、枝梨花さんも喜ぶんじゃない? そのつもりで買ってくれたんだろうし」
「でもさぁ…………さあー!」
煮え切らない様子で、緑葉はベッドの上に並べられた服を眺めていた。恐ろしい量だし、その気持ちも分からないではないけれど、もう諦めたほうがいい。お金を払うなんてこと、枝梨花さんはきっと認めないだろうし。
「まあ、パーティも始まるし、そろそろ出よう。実際、お腹も空いてるし……先生にも挨拶しないといけないしさ。ね?」
「うん……分かった。けどもうちょっと……あと五分……落ち込ませて……」
寝起きかよ。
かなり参ってるみたいだな……。
僕は仕方がないので、強硬手段に出ることにした。立ったまま呆然としている緑葉の手を取って、もう片方の手で緑葉の手提げを持ち、部屋を出る。このまま放っておいたら、きっと緑葉はこのまま部屋でぐだぐだ言い続けるだろうし。こういうときは、いっそ開き直る方がいい。どうせいつかは打開しなければならないものなのだし。
「ハクロの強情……酷い……」
「あとで僕に感謝するって」
部屋の鍵をかけながら、緑葉に手提げを渡す。
まだ少し時間はあるけれど、僕には青藍兄さんを起こすという使命があるのだ。
「日本家屋ならなぁ」
「いつまでも言ってないで、兄さんの部屋に行くよ。……いや、ほんと大丈夫だって、似合ってるし。変に思う人はいないよ。人目は引くけど、引かれはしないから」
「うぅ……」
何を言っても立ち直れていない様子の緑葉である。しかし、気遣っている暇はあまりない。無理強いさせてまで緑葉を連れだしたほうが、結果的にはプラスに働くのだ。
そういうことを、僕は緑葉に、何度もしてもらっているし。
階段を上って、三階へと向かう。どうやらこの屋敷、四階まであるようで、横にも縦にもかなり大きな建築物になっているようだ。ちょっとしたホテルのようなものかもしれない。二階から上は全て客室になっているようだし、なんだか雰囲気としては似合わないけれど、装飾を合わせたエレベーターも、存在しているようだ。色んな人に合わせた造りなんだろう。僕の知らないところで時代は進んでいるようだ。
三階に辿り着いて、僕は青藍兄さんの部屋を探す。緑葉ももう諦めがついたようで、普通に歩いてくれていた。手を放すタイミングを逸してしまっていたけれど、青藍兄さんの部屋まできたところで、手を繋いでいたほうの手を使って、ドアをノックした。
「兄さん……起きて、ないよね」
寝ると予告していたのだから、寝ていて当然だろう。僕はドアノブを捻ってみる、と、鍵は開いているようだった。そのまま押し入って、一つだけあるベッドの上で兄さんが寝ているのを見つけた。
上着はちゃんと脱いで寝たらしい。
素晴らしい成長だ。
「青藍さん、疲れてるんだね」
「だろうね。兄さんは仕事しすぎだよ。ほら、兄さん、起きて」
「……んぁ!?」
「ハクロと同じだ」
兄さんの起き上がりに対して、緑葉が小さく漏らした。なんとも失礼な話だ。僕はこんな起き方、断じてしていない。
「あー……もう時間か」
「だね。あと十分ちょっと……とは言っても、開始時刻って総じて遅れるものだと思うから、そこまで急ぐことはないけど。立食らしいから、席もなさそうだし、途中で行っても問題ないと思うけど、一応ね、決まりは守っておこうかと思って」
「そりゃそうだな。とりあえず食えるだけ食って飲むだけ飲んで、桂さんと、研究者畑の人間に声かけて、あとは資産家に顔売って……帰ってきて寝よう」
「兄さんさ、気になってたけど……パーティ来たのって、実は休むため?」
「それもある」
憮然とした表情で言いながら兄さんは立ち上がって、上着を手に取り、中からタバコとライターを取りだした。
「一服だけして行く……廊下で待っててくれ」
「分かった」
「緑葉ちゃん、似合ってるね」
「あ、ありがとうございます……」
緑葉を気遣ってか、青藍兄さんはさりげなくそんな発言をして、タバコを口に咥えた。
僕と緑葉は廊下に出て、二階にあったものと同じような造りの長椅子に腰を下ろす。
俯きがちに右人差し指くんと左人差し指ちゃんをいちゃいちゃさせている緑葉。まだ恥ずかしがっているのかよ、と半分呆れて、半分心配で、僕は言う。
「変な言い方になるけど、僕らが思っているほど、他人は僕らの格好に興味なんて持ってないよ。心配するだけ損だって」
「うん……」
「そんなことより楽しんだ方が得だと思うよ?」
「始まったら大丈夫になるから……」
どこまで本当なのやら。
緑葉はもじもじしたまま、僕は緑葉がおかしい分冷静になれて、やけに澄んだ視線で、絨毯の毛先を眺めていた。
開始時刻が迫っているからか、焦ったように、何人かが廊下を歩いていく。今のその人の頭にあるのは、開始時刻に間に合うことだけだろう。きっと緑葉の格好になんて、気づいていない。
気づいていたとしても、目を向ける労力を使うほどではないのだ。
青藍兄さんの部屋のドアが開いて、スッキリした表情の青藍兄さんが出て来た。少しの睡眠時間でも、快眠だったのだろう。手には茶封筒が握られている。これが例の論文とやらだろう。
タバコの匂いを消すためか、微かに香水が香っていた。
「さて……行くか」
「そうだね」
僕が立ち上がると、緑葉も静かに立ち上がった。
大したことなんて起こらないまま、パーティはお開きになってしまうのだろう。得てしてパーティなんてそういうものだ。
だけど僕らは、今からその瞬間のために、貴重な時間を潰しに行く。
それに見合う対価は得られるのだろうか。
得られたら今度は、使いこなせるのだろうか?
難しく考えるのはやめにしようと、船上で緑葉に言われたばかりだったけれど、結局僕は、難しく考えることをやめられない生き物のようだった。