5
翌日。
口語的に言えば、次の日。
ボーイスカウト、ガールスカウトとのダブルバトルに勝利した緑葉が、感極まって僕にその勝利を報告しようと振り向いた時、どうやら僕は爆睡していたらしく、その光景を見た際に驚いた緑葉は、それを驚きから怒りへ、怒りから呆れへと変貌させて、それから数時間、ご機嫌が斜めを向きっぱなしだった。まあ、呆れから廃れへ方向転換しなかったり、ご機嫌が明後日の方向を向かれないだけ、マシだったのかもしれないけれど。そしてそれから僕は甲斐甲斐しく緑葉のお世話に尽力して、なんとか一命を取り留めた。信頼関係という名のライフラインを、である。
「ぐう……」
とは言え、僕がバトルの観戦中に寝入ったことに関して、緑葉もさほど面白いバトルだとは思っていなかったらしいので、そこまで怒っているわけではないようだった。まあ、面白い、面白くないという表現を、的確に言い表すことは難しいけれど……百パーセント勝てる――もちろんそんな勝負、有り得ないのかもしれないけれど――と思えてしまうような、処理的なバトル。あるいは、事務的なバトル。いっそ、受動的なバトル。自分から何をするでもなく、ただ与えられた仕事をこなすだけのような、そんなバトルは、僕らは面白いとは、思わない。逆に、相手にとってはそれは面白いバトルなのかもしれないけれど――挑戦されて、ただ力任せに倒せてしまうようなバトルは、はっきり言って、やる意味がないほど、面白くないのだ。
強い人と戦うのは、面白い。
弱い人と戦うのは、面白い。
同じ人と戦うのも、面白い。
ただ――勝ち負けが決定している戦いだけは、つまらない。勝つかもしれない。負けるかもしれない。そういう駆け引きのないバトルは、見る価値も、やる価値も、ない。全然、まったくもって、意味がないのだ。だから僕は寝てしまったんだと思うし、緑葉自身も、「喜び勇みつつハクロを振り向いたのに!」とか「嬉しくて嬉しくて一緒に喜んでもらおうと思ったのに」とか「もう少しで抱きつくところだったのに!」とか供述しているけれど、きっとそんなのは嘘だろう。緑葉が喜ぶ時は、到底叶わない人間に勝ったときだけ。まあ、最後の一つを聞いたときには、流石に心が揺れたけど……うん、いや、嘘だけどね。
「うあー……」
第一、何ヶ月か前に、木賊と戦った時だって……緑葉は、そこまで喜んでいなかった。
勝てると踏んで戦ったから、喜んでいなかった。
まあ、あれは流石に、緑葉の誤算だったと思うけど。
六対一で、あそこまでの痛手を負うなんて、ね。
結果として勝ったから、実際に『勝てると踏んだ戦い』ではあったのだろうけれども。
「あー……やっぱ息苦しい」
そんな回想をしながら、僕は現実逃避していた。
どうにもこうにも、頭を使っていないと、首もとに神経が通ってしまっていけない。息苦しいのだ。僕が太ったのか、シャツが小さいのか。いや、きっと正確にはどちらでもなく、ただ僕が成長したからだろうと思うんだけど。
現在、慣れないスーツ姿で、ネクタイなんかを締めている僕である。まあ、紅蓮島に到着するまでは別にワイシャツだけでいいかな、とは思っていたのだけど、枝梨花さんが来ている手前、船に乗るまでは正装でいよう、と思い直したのである。それに、船内には一応個室が用意されているらしいので――考えてみれば凄く豪華な船だ――そこに行くまでは、せめて我慢しようと、自分を戒めているところだ。
戒め、ね。
何が言いたいんだか、って感じだけど。
それにしても、ネクタイなんて……随分とまあ久しぶりに締めたけど、忘れないもんだなぁ、締め方って。まあでも、最後に締めたのも、三年前……だから、十三歳の時に覚えたことともなれば、そうそう忘れないのかもしれない。
何のために締めたんだっけ。
……。
……。
うーん……?
「…………ああ、葬式だったっけな」
まあ、今更思い出して泣いてしまうことでもないけれど。三年という月日は、思いの外、僕の中にある悲しみ成分を過去へと追いやってくれるものだ。それに、元来こういう人間性だし。無感動なわけじゃないけれど、そこまで感情に作用される人間ではない。
悲しいことには、変わりがないけど。
悲しんでいるほど、暇もない。
と。
鏡の前で何とかジェントルマンを目指して身なりを整えていたところで、チャイムの音が、室内一帯に、鳴り響いた。枝梨花さんは既に到着して緑葉を改造しているから、他の訪問客となると…………考えられるのは青藍兄さん、かな。
「はーい」
結局連絡が取れなかったから、もしかしたらパーティそのものをサボるんじゃないかと思っていたけれど、ちゃんと来てくれて良かった。まあ、約束をしておいてそれを破るような男じゃないとは思っていたけど、心配は心配だったりしたのだ……と。
「あ。お、おっはよー」
「…………」
青藍兄さんじゃなかった。
何故木蘭さんなのだろう。
制服も着ていないし……。
「わ、どうしたの、ハクロ君……スーツだね」
「……スーツですね」
なんだろう。
この羞恥心。
この高揚感。
不思議な感覚……!
「弟よ、元気だったか!」
「原因はお前か!」
「なんのことだいブラザー」
とぼけた様子で、青藍兄さんは、木蘭さんの背後で、大仰に両手を挙げていた。テンション高めだなぁ! って、それはいつものことだけどさ!
「いや、すっかりお前の家への道のりを忘れてたからな。通りすがりのお嬢さんに道案内してもらっただけだ。うん、実に合理的だろ? まさか本当に案内していただけるとは思えなかったけどな」
「通りすがりって……」痛くなりそうな頭を押さえながら、僕は出来るだけ冷静な思考を取り戻そうと努力する。「ちょっと待て、まさか山吹から連れてきたのかよ」
「ん? そうだなー、要約すると、そういうことになってしまったかな。気づけばこんなところまで、失礼しましたお嬢さん。許していただけますか?」
「あ、いえ、大丈夫ですから……お気になさらずー……」
……いや、まさかとは思うが、木蘭さんの出番、これだけなのか。
いつにも増して出ている方だとは思うけどさ。
いやいや……僕としては、今回はいないにこしたことは、ないのか。喜ぶべきなのだろう。
……不憫と言えば、不憫な扱いではあるが。
「とりあえず、冗談はともかく、助かりました。よろしければこれ、どうぞ」
言いながら、青藍兄さんはスーツのポケットから――ていうか、何を思ったのか、青藍兄さんは白いスーツを着ていた。頭沸いてるんじゃないのか、この人――何やら取り出して、木蘭さんに渡していた。
「え、いえ、ほんと、気にしないでください……」
「断られると余計気になりますから。さ、どうぞ」
強引に、青藍兄さんは木蘭さんに何かを渡す。一体それが何なのか、僕に確かめる術はなかったが……薄いところを見ると、紙類のようではあった。封筒に入れられたお札とかだったら、僕は青藍兄さんの人格を疑うことになる。
お礼にお札って……ギャグかよ。
「では、ありがとうございました」
青藍兄さんは優雅に一礼して、それで終わりと言わんばかりに、僕を越えて、家の中へと、入っていった。そういう自分勝手な行動すらも、様にはなるんだけど……やっぱり、人格はおかしいようだ。人格と並行して、性格もおかしい。あるいは閉口するほどに、人格も性格もおかしい。
「……どうも、お手数をおかけしました」
「あ、大丈夫だよー……珍しいもの、見られたし」
「それは、もしかしなくとも、僕のことですかね」
「うん」
屈託のない笑顔。
「……まあ、光栄ですけど」
昨日の緑葉の気持ちが、分かりそうなものだった。
見せ物じゃないんだぞ……!
「それより、あの人……青藍、さん……だっけ? ハクロ君のお兄さんなのかな?」
「いや、血縁関係は愚か、法的にも他人ですけど……ましてや、桃園で契りを交わした間柄でもありませんけどね、近しい人間ではありますよ。便宜上、兄貴ってだけで」
「う?」
分かってないようだった。
「いや、忘れてください……ただの知り合いです」
木蘭さんに言いたくない理由もなければ、話したい理由もなかったけれども。
まあ知らないで済むなら、知らないで居た方がいいだろう、と、そう思った。木蘭さんの場合、言ったら言ったで、聞いたことを後悔しそうだしな……そうは言っても、そこまでどろどろした関係ではないけれども。
「そっか。うん、分かった」
「じゃ、本当に、兄さんのこと、すいませんでした。ありがとうございました」
「うん……じゃあ、またねー……」
控えめに言いながら、消え入るように、木蘭さんは退場していく。
……まあ、流石に、青藍兄さんの道案内のためだけに朽葉に来たとは思いたくないけど。
多分、他に何か、用事があるんだよな……この前も、夕方、フレンドリィショップで会ったし。朽葉に滞在する用事でもあるのかもしれない。まあ、どうでもいいといえば、どうでもいいことだけれど。
「まあ、良い人だからな……」
押しが弱いと言うか。
意志が弱いと言うか。
木蘭さんの背中を見送りきる前に玄関を閉めて、廊下に上がり、僕はリビングへと、舞い戻っていく。見れば、ソファに腰掛けて、黒のワイシャツに白のスーツ、さらには赤いネクタイという、奇抜を通り越して何かのアニメキャラのコスプレか、と思うような服装の青藍兄さんが、ポケギアをいじくっていた。ご丁寧にもその長い足は組まれており、髪型も整っているし、眼鏡も、日頃かけているものとは違ったシャープなものだ。
お洒落しただけで激変するよなー。
これだからイケメンは嫌いなんだ。
「兄さんさ……木蘭さん、僕の知り合いだったから良いものの、一般人捕まえて変なことさせるなよ」
「知り合いじゃなかったらお前んちなんて分からんだろ。その辺の計算は俺にも出来る。俺がどういう性格かは知ってるだろ? 無茶は言っても、無理はさせないさ」
ぐう。
正論ではあるが認めたくない意見だった。
「それより、緑葉ちゃんはどうしたよ?」
「んー、今着替えてるところだね」寝室を示しながら説明を行っておく。「女の子だからね、準備に時間がかかるんだよ。それに、服装も服装だし」
「あー、それもそうか。いや、それにしても、着てく服あったのか? 緑葉ちゃん、何も持ってなかっただろ。俺もそのことに昨日の夜気づいたんだけど、面倒臭くて連絡すんの忘れてたよ」
……おかしいな。
こいつ、最低人間か?
「……まあ、何とかなったけどね。結構な浪費だったけど」
「ふうん。いくらかかった? 緑葉ちゃんは俺が無理矢理呼んだんだし、社会人だからなぁ。俺が持つぞ」
「残念だけど、お金の問題じゃなかったね、今回ばかりは」
「そうか」
冷蔵庫から麦茶を取り出して、僕は二人分、コップに注いだ。青藍兄さんに一つ渡して、もう一つに自分で口をつける。
「それにしても……兄さんさ、その服装、なんなの」
「あー、これ? かっこよくね?」ワイシャツをつまみながら、本心から青藍兄さんは言っているようだった。
「いや、格好良いけどさ……憎たらしいことに、実に格好良いけれども、だ。そんなの、パーティじゃ浮かない?」
「男なんだから、目立ってなんぼじゃんか。つーか逆にお前地味だなぁ。もっと気張れよ、一応、社交界なんだから」
「目立つのは嫌いなんだよね。影のようにひっそりとしていたいし」
質素というか、地味というか。
兄さんと並んでも、明らかに『若さ』というオーラ的には兄さんが勝っているような気がする。僕はなんともはや、地味である。
目立たない。
或いは、影。
ポケモンが飼い主に似るのか。
飼い主がポケモンに似るのか。
まあ、どちらにせよ、ポケモンも、僕も、お互いに似合っていることは間違いないのだろうけれど。
――似合うって、そういう意味なんだろうか。
「まあ別に、否定も非難もしないけどなー。お前に俺と同じ服装しろっつっても、ぜってー似合わないだろうし」
「助かります」
不服な言い分だったけど、確かに僕には似合わない。名前に似て、白黒の服が一番無難だったりする。
「まあな。――って、あー! そうだ、忘れるとこだったじゃねーかお前!」
と、突然大声を出して、青藍兄さんはスーツの内側に手を突っ込んだ。すわ拳銃でも出てくるんじゃねーのか、と思ったけれど、出て来たのは拳銃でも何でもなく、何やら小さな金属の塊のようだった。
「緑葉ちゃんがいない時に渡しとこうと思ったんだ。……ほれ、十六歳おめでとうハクロ」
「ん……何これ」
受け取って、眺めてみる。
金属の輪であった。
「何って指輪だよ。プレゼント」
「ああ……そっか、ありがとう」
青藍兄さんのことだから、もっと変なもん渡してくるんじゃないかと思っていたけれど……そんなことはなかったらしい。
指輪……指輪、ね。
意外と言えば、超意外。
でも、兄貴が弟にするプレゼントとしては、中々どうして、うーむ……。
「ふうん……」
プレゼントをもらえるって、わかりきっていても、嬉しいものだ。いや、わかりきっているからこそ、なのかもしれないけれど。
「それと、これはおまけ」と、青藍兄さんは次なるアイテムを取り出した。
「そんなに気ぃ使ってくれなくていいんだけどな……」
「いやマジ、おまけっつーか、ついでだな。これは別にプレゼントでもなんでもないんだ」
僕は再び、青藍兄さんから、何かを受け取った。薄い封筒に入っているが、封筒には、ポケモンリーグ協会を表す、デフォルメされたモンスターボールの印刷がされている。つまりは、公的な封筒ということであり、確かにプレゼントとしての役割を果たせそうではない。
……嫌な予感しかしない。
「なんで協会絡みなんだ……」
「あって困るもんじゃないと思って、勝手に申請しといた。更新は自分でやってくれ」
「なんなんだよ一体……」
封筒を開けて、僕が中から取りだしたのは――果たして、一枚の、カードだった。
それこそ、クレジットカードとか、そういうのと同じくらいの大きさで、同じくらいの厚みのカード。財布に丁度入るぐらいのカード。一般的な『カード』の大きさをした、カード。
記載されている情報は、僕がパソコンを使うために必要なIDナンバーと、氏名。フレンドリィショップ等の、ポケモンリーグ公式店で使える金額。僕は持っていないけれど、ポケモン図鑑とリンクした場合の捕獲数。そしてトレーナーとしての総合成績があり、右側に、トレーナー(いつ撮影されたのか、僕本人)の全体像が映っている。
裏面は――全ての情報が、未記入。
初期状態、というやつだろう。
「なんでトレーナーカードなんだろうか」
至極全うな質問をしてみた。
「どうせ持ってないだろうなーと思って、作っといた。お前、使ったことないだろ? 便利だぞー、金突っ込んでおけばリニアの料金もそこから落とせるしな。フレンドリィショップでもカード支払いで買い物も出来るし、ポケモンに関する雑費はほとんどそこから落とせるようになる。まあほとんど銀行から直落としに出来るってわけだ。ああ、貯蓄もそこから出来るぞ? 戦いのあとの賞金のやりとりも可能だし」
「……」
クレジットカード感覚かよ。
金銭感覚狂いそうだから、これだけは持つまいと、思っていたのだけれど。
いや、正確に言えば、持ちたくないわけではなくて……一生涯、僕は自分でこのカードを申請することはないと思っていたから、持つことはないだろうと、そう思っていたのだけれど。
意外や意外。
まさか青藍兄さんがねー……。
「これで晴れてお前もポケモントレーナーだな」
「……それ、もしかしなくても、嫌がらせ?」
「嫌ならへし折ってもいいんだぞ」
「いや……もらっておきますけれどもね」
むしろそれこそ嫌がらせかよって話だったけど。
せっかくもらったものだし、もらっておこう……。
そもそも、考えてみれば、トレーナーカードも持たずにジムリーダーに挑むなんて、失礼極まりない話だしなぁ。実を言うと、あるならあるで便利かな、とも思っていたのが本音だった。自分から作ろうとは思わなかったけれど。
でも、ある意味、トレーナーカードがないからこそ、僕は正規の手続きが出来ないという理由もあったんだけど……だからこそ道場破り形式で、ジムに挑戦出来ていたんだけど。これでその言い訳も出来なくなってしまったわけか。
僕は一応、財布の中に、トレーナーカードを入れておくことにした。役に立つ日が来るかどうかは分からないけれど、役に立たないことはないから、持っていて損はしないだろう。
「これで面倒事は終わり。……んで、出発はいつだって?」
僕の誕生祝いは面倒事だったのかよ、と思いながらも、僕らは話題の矛先を元に戻した。
「昼過ぎ……かな。一時とか、そのくらいだったと思う。もう船は乗れるみたいだけど……緑葉がまだだしね、それまでは待機かな」
「ん。わかった。んじゃ悪いけど、出発まで寝るわ」
「分かった」
眼鏡を外し、細目で僕を見ながら、青藍兄さんは一言、「お前ももう大人だなー」と言って、眠りについた。
「意味深な言葉を吐くなよなぁ……」
考え込んじゃうんだから、僕は。
性格が性格だからね。
んー……まあ。
それにしても。
大人、ね。
大人かあ。
十六歳……という年齢がどういう理由で大人になるのかと言えば、そりゃまあやっぱり、仕事が出来るようになるから、だけれども……それは法律上ってだけであって、ほとんどの子どもは、十六歳で就職なんてしない。出来る仕事も限られてくるし、何より、そんなに早くから自立したがるのだとしたら、そいつは何処かに欠陥があるとしか思えない…………いや、それは流石に言い過ぎか。木蘭さんは、確か十六歳で就職していたはずだ。理由は定かではないけれど。別段欠陥もないだろうし。
それに、研究者とか、ポケモントレーナーを仕事と呼んで良いのなら、緑葉はもう、仕事をしていると言っても差し支えないのだ。だから僕の思考の方が、常識よりもずっと離れているだけなのかもしれない。
そういう意味では、僕は仕事をしているとは言えない。いや、どちらの意味でも、か。
「……まあ、それは何度も考えてきたことだし」
今更悩む必要はない、か。
僕ごときが悩んだところで明確な解答になど辿り着けないのだし。
僕は考えすぎないうちに、思考回路を遮断する。
「ふう」
考えすぎは頭と心に良くないからね。
さて……とりあえず、今しがた寝入った青藍兄さんのスーツが皺になると思ったので、僕は青藍兄さんを揺り起こしてみる。けれど、一向に起きる気配がないので、無理矢理スーツを剥いでおくことにした。こういうところがだらしないと思うのに、ちゃんと暮らしているのだから不思議だ。まあ、それは僕にも言えたことだけれど……それにしたって、適当すぎやしないか、というものだ。
スーツをハンガーにかけて、椅子の背もたれに引っかけておく。緑葉と枝梨花さんは……まだ準備をしているんだろうか。まあ、時間はあるし、待つことは嫌いじゃないから、別にいいけれど。女性の支度は黙って待つものだとは、父さんの弁である。
それにしても。
パーティに行って、それで、どうしよう。
一応、何かしら、緑葉に言おうと決めていることはあるのだけれど。
確固とした形で決めておきたいのか、それとも、ただ単純に、口にしたいだけなのか。
分からないけどね。
とにかくはまあ、紅蓮島への出発を、待つことにしよう。
◇
「うりゃー」
「ぐっへぇ」
なんて、おかしな奇声を上げながら、僕は青藍兄さんの頬をぐーぱんちして、それを食らった青藍兄さんは大仰に驚いていた。
「いてーな……反抗期かよ」
「とっくに過ぎたよ」
呆れ顔で反論しておく。
ていうか、僕には反抗期すらなかったのだが。
……いや、そういうセリフこそ反抗期の証拠なのかな?
「まあ痛くはなかったけど……お? あー、緑葉ちゃん、すげーもん着てるじゃん。ひゅー」
「あんまり見ないでくださいな……」
緑葉をじろじろと見ながら、青藍兄さんは言って、テーブルからぬるくなった麦茶のコップを取り上げる。なんだか言動だけ見れば変態オヤジだけど、イケメンなので大して問題にはなりそうにない。イケメンからはイケメン税でも取ったら良いんじゃないだろうか。
「そんで……ハクロ、こちらはどなたさんだ? 着付けの先生とか?」
青藍兄さんは僕を一瞥してから、枝梨花さんを見て尋ねる。
「おはようございます。どうも初めまして、私、玉虫に住んでおります、枝梨花と申します」
そして麦茶を飲みながら、一瞬遅れて、
「ぶっふ!」
……吹き出した。
まあ兄さんが吹き出すのも無理はないという感じだった。あまりにも、場違いすぎる登場だろうし、枝梨花さんという存在は、一介のトレーナーとご一緒して良い存在では、間違ってもないのである。
青藍兄さんは速攻で眼鏡をかけて、枝梨花さんを確認。一秒かからずに認識したらしく、僕に獰猛な視線を向けてきた。
「おいおいおいおい、聞いてねぇぞハクロ」
青藍兄さんは僕に肩を回して、耳打ちしてくる。聞いてないと言われても、そりゃ言ってないんだし仕方ないってなもんではあるけど……。
「僕もまさか一緒に行くことになるとは思ってなかったんだよ……」
「どういう繋がりだよ」枝梨花さんを気にしてか、青藍兄さんは小声だ。
「緑葉の着物を借りる相手。ただそれだけ」
「……ほんと、頭痛いわ」
僕だって痛いよ。
……ていうか、僕の方が痛いよ。
「さあ、それでは参りましょうか」
パンパン、と手を打ち鳴らしながら、枝梨花さんが場をまとめようとする。マイペースな人だ。僕が言えた義理ではないけれど。
「緑葉様はこれを。荷物を入れておきましたので」緑葉に何か手提げ鞄を持たせながら、枝梨花さんは緑葉の身体をなで回していた。「緑葉様、何処か苦しいところはありますか?」
「えっと、そこら中苦しいです」
「そうですか。我慢してくださいね」
いや聞く意味あんのかよ。
枝梨花さんっぽい発言ではあるけども。
「さて、それでは船に乗りましょう。受付等々、面倒事は先に済ませておくのが一番ですからね」
「そう……ですね」
行動が早いなぁ、と、思わざるを得ない。
なんともまぁ……本当に、親戚の叔母さん、って感じの人だ。とは言え、僕にはこんな感じの親戚の叔母さんはいないのだけれど。イメージ的に、とても似つかわしい雰囲気だった。
僕の親戚は、ほとんどが一般的な像とはかけ離れた存在だしな……青藍兄さんは割とまともな『兄像』だけれど、血縁じゃないし。
「ハクロ様、戸締まりは大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫です。さっき見ておきましたので」
「良い心がけですわ。では、参りましょうか」
枝梨花さんを先頭に、緑葉、僕、青藍兄さんという順番で、僕らは家を出て、朽葉港へと歩き出した。
紅蓮島でパーティ……ということで、流石にいつもよりも、朽葉が賑わっている気もする。とは言え、一般人が参加するパーティではないから、朽葉港自体が参加者でごった返しているわけではないようだった。単純に、警備の強化だろう。朽葉警察の人間が多く配置されているし、朽葉ジムの皆さんの顔も、ちらほらと見える。そして野次馬っぽい人がちらほらと……いるようだった。
要人にでもなったようで、何か違和感を感じるところだけど……まあ、こういう環境にも慣れたと言えば、慣れたのかもしれない。あるいは、小さい頃にも、知らず知らずのうちにこういう環境に身を置いていたから、生まれ持って、僕はこういうことに対する耐性の初期値が高いのかもしれない。
枝梨花さんも良いとこの生まれって感じだし、ジムリーダーだし……青藍兄さんも生まれは僕と同じように、結構な家柄だったようで(訂正。僕の家はそこまで家柄が良いというわけではないのだけれど)、青藍兄さん自身、こういう状況に物怖じしない人物だから、問題はなさそうだ。
問題があるのは、緑葉……かな。
一般家庭(とは言っても、漁師の家ってのは僕からしてみれば全然一般的ではないけれど)に生まれて、ポケモントレーナーとして普通の生活をしている緑葉にとっては、こういう対応は、難しいところなのだろう。いや何も難しがる必要はないとは思うけれど、緑葉にとってみたら、こういう状況を『難しがらない』ことこそが、『難しい』のだと、そう思う。
「そういえば、緑葉、荷物とかってどうするの? モンスターボールとか、そういうの」
「うん、一応、枝梨花さんにこれは貸してもらったんだけど」
言いながら、緑葉は先ほどの手提げ鞄らしきものを示した。正式名称は不明。僕はあんまり、和物についての造詣が深くない。
「ちっちゃいけど、一応、ポケギアと、モンスターボールは入ってるの。だから大丈夫かな? って」
「ふうん……まあ、それだけあればいいか。私服に着替える余裕もないだろうしね」
「だよね」しばらくこの格好であるということを想像して、緑葉は少し気落ちしたようだった。「ハクロは?」
「スーツにはポケットがたくさんあるからね。それに、元来ポケモン関連の道具って、ポケットに入れるサイズとして作られてるわけだから……ポケギアも、モンスターボールも、入ってるよ。あとは財布とか、そういう小物ぐらいかな」
「ふうん。招待状は?」
「ああ、それだけはちゃんと確認して持ってきた」
僕は上着のポケットを叩いて、存在の証明をしておいた。緑葉から見えるわけではないけれど、なんでかこういう動作というのは、そういうことへの証明と成り得る。僕が叩いて感触を確かめるための行動なのか、それとも相手を安心させるための動作なのか。考える必要があることではないかもしれないけれど、なんとなく、気になった。
僕らはそのまま何の問題もないまま、朽葉港へと入ることが出来た。途中、何回か検査というか、関所のような場所で止められたけれど、枝梨花さんの顔パスが功を奏して、大した問題が起こるわけではなかった。いやはや、ジムリーダーという特権は恐ろしいものだと思う。もちろん簡単なチェックはしていただいたのだけれど。
朽葉港の良いところは、なんと言っても潮風とそれを最高の立地条件で受けることが出来る造りにある。
つい最近出来たばかりの、少しばかり嫌な思い出があるけれど――まあそれも、今となっては良い思い出だけれど――やはり朽葉港は良い場所だ。
「ハクロ様」
「はい」呼ばれたので、従順に返事をする。
「こちらへ。それから……青藍様、でしたかしら?」
「はい。僕の名前などを覚えていただいて、感激です」
潮風に吹かれながらなんとなく涼んでいたら、枝梨花さんが僕と青藍兄さんを呼んだ。
青藍兄さん、一応目上の人には敬語で一人称が『僕』になるんだな、と、どうでも良い感想を抱きながら枝梨花さんに近寄っていく。
「招待状を貸してくださいな」
「ああ……これ、ですよね」
僕は懐から、大袈裟な封筒を取り出して、枝梨花さんに手渡した。青藍兄さんも、僕と同じように行動して、同一の封筒を渡す。
「手続きは私がしておきますから、皆さんは少し、ここで待っていてくださいね」
「あ、どうも、すいません」
「ありがとうございます、だろ」
青藍兄さんに後頭部を掴まれて、そのまま前に押し倒される。そんな僕らを見て、枝梨花さんは上品に声を立てて笑っている。いやあ、僕らって、端から見たら仲良し兄弟なのだろうか……確かに、すいませんと言うよりも、ありがとうと謝辞を述べた方が、この場合は適切だろう。僕はどうも、そういうとこに気が利かない。この辺は元来の性悪が影響しているんだろうか、とか何とか思ったりして。
「いやあ……噂には聞いていたが、随分と出来た人だ」
言いながら、青藍兄さんはポケットからタバコとジッポライターを取り出す。「あ、お前らタバコ大丈夫か?」と、口にタバコを咥えながら、青藍兄さんは尋ねた。
「僕は大丈夫だけど」
「あ、私も大丈夫ですよー……」
緑葉は目に見えて疲弊している。着物って、やっぱり、辛いんだろうか。ただ慣れていないだけだとは思うけど……年中スニーカーな緑葉だし、履き物に関しても、やっぱり動きづらいってのはあるのかもしれない。
青藍兄さんはタバコを咥えて火をつけると、煙を吐き出してから、「良い女性だ」と呟いた。
「枝梨花さん?」
「ジムリーダーは人間性も問われるからな。大体、人間出来てる人が多いんだが……中でも玉虫の枝梨花は人一倍人間が出来ているという話を、以前聞いたことがあった。もっとも、最近じゃあろくに礼儀も知らないやつもいるけどな……深奥は特にそうだ。バカが多い。俺が保証する」
「いや保証されても」
深奥のジムリーダーって、菘さんくらいしか知らないけれど、あの人は常識人だったはずだ。
「とにかく良いパイプだ。大事にしろ……と言うとなんかあくどい感じだけど、まあその通りだろう。どんなに些細な繋がりだとは言え、こうしてジムリーダーと繋がったことは貴重だ。無礼でなければ、一生涯繋げておくことが出来る太いパイプだ」
「ん、まあ……無礼を働こうとは思わないけどね」
「さっきのだって無礼に値するんだぞ? お前はもうちょっと、礼儀を弁えろ。礼儀が無いと書いて、無礼だ。無礼は働くもんじゃねーからな」
青藍兄さんは少しだけ、緊張しているようだった。怒っている、とは少し違うのだけれど、言葉に遠慮と冗談がなくなる。焦りの兆候だ。そういう青藍兄さんを、僕は今までに何度か見てきている。
「まあ、肝に銘じておくよ」
「それと、緑葉ちゃん」
「はい」
突然声をかけられて、緑葉は寄りかかっていたポールから離れる。
「玉虫のバッジは?」
「まだ持ってませんけど」首を傾げながら、緑葉は答えた。
「じゃあ今度挑戦する時に、色々と話が出来るな……良いタイミングだ。実に良い感じだ。いや、別に何を企んでいるわけじゃないけどな……この世界において、ジムリーダーとか、四天王ってのは、本当に、不当に大きい存在だからな。知り合っておくことに越したことはない。将来的に関係あっても、なくても、だ」
緑葉と、僕を見て、青藍兄さんは言う。
「…………いや、お前らに言うことじゃないかもしれないな。忘れてくれていい。お前らはそんなことしなくても、十分に、人と繋がっていけるだろうしな。今のは、大人の腐った考えだ」
青藍兄さんはよくわからないことを言って、ポケットから携帯灰皿を取り出すと、その中にタバコをねじ込んだ。環境に優しいことは良いことだと、結論をすり替えるように、僕は思った。
「まあ、今日はパーティだ。別に、難しいことを考える必要はないな……とりあえずお前らは、当初の目的通り、食うことだけに専念していればいいんじゃねーかな」
「私はそんなこと考えてませんー……」
唇を尖らせながら、緑葉は反論する。
「ハクロも、緑葉ちゃんも、もっと食って太った方がいいんじゃないか? そんなにやせ細ってると、折れちまうぞ」
「いや流石に折れはしないだろ……まあ確かに、もう少し肉つけた方が良いとは思うけどね」
というか、それを青藍兄さんが言うのはお門違いだろう、と思った。僕より背が高いくせに、もしかしたら僕と同じくらいの体重しかないんじゃないのか、と思わせるような細身だし……別段、羨ましいとかそういうわけではないけれど。僕の場合は、無駄な筋肉を、少々つけすぎている。
「そうですわ。それに、あんまり細すぎても、着物が似合いませんからね」
「ふお」
突然会話に口を挟んだのは、枝梨花さんだった。
帰ってきたなら言ってくれないと、びっくりしますけど……。
「緑葉様も、もう少し、お肉がついた方が宜しいかと思いますよ……うふふ」
「そ、そうですかね……」
少しだけ、憎悪の入り交じった声色だった。緑葉も萎縮している。いや、僕も青藍兄さんすらもが萎縮していた。人間的には出来ているのかしれないけれど、やっぱり何処かに、毒のある感じだな……。
「さ、手続きは終わりましたよ。招待状はお返ししておきますから、大切に保管しておいてくださいね」
「はい、ありがとうございます」と、僕。
「ありがとうございます。お手数をおかけしました」と、青藍兄さんが順番にお礼を述べた。
「いえいえ。一緒にお願いした方が、向こうの手間も省けますから。では、さっそく乗りましょうか」
枝梨花さんは緑葉の手を引いて、船へと向かって、
「ひぁっ!」
「うふふ。羨ましいですわ」
途中で緑葉のお腹を触っていた。
なんて羨まし……ではなく、公共の場でそういうことをするのはやめていただきたいと、僕は切に願うはめになった。
枝梨花さんに引き連れられた緑葉を追うように、僕と青藍兄さんは、船へと乗り込んだ。小さい頃は――特に、深奥に住んでいた頃は頻繁に船に乗っていたから、船自体には慣れているのだけれど、精神的な部分で、やはり、どこか拒絶感が拭えないところがあった。それは青藍兄さんも同じのようで、どこか緊張した面持ちのまま、船内の廊下を歩いていた。
「招待状ごとにお部屋が用意されているようです。これがお部屋の鍵です。お渡ししておきますね」
枝梨花さんから、部屋番号の書かれた透明なブロックにチェーンで繋がれた鍵を受け取る。僕と青藍兄さんの部屋は……さほど離れているわけではないようだ。同じ階層の、五つ隣。いや、そこまで離れると、隣とは表現しないのかもしれない。
「それで、私の部屋なのですけれど……一応、ジムリーダーや、リーグの関係者は上階の部屋になるそうなので、ご一緒出来ないのです。移動と言っても、五時間程度のものですが……緑葉様は、どうされますか?」
「あ、私はハクロと同じ部屋で大丈夫です」
「そうですか……大丈夫、ですか?」
と、言いながら、枝梨花さんは何故か僕を見ていた。
怖い目で。
…………いやいやいやいや。別に何も変なことしませんよ。そりゃ、年頃の男女が同じ部屋って、普通に考えたらまずいかもしれないけどさぁ……。
「なんだったら、僕と青藍兄さんが同じ部屋でもいいけど」
それでも一応、僕は提案してみる。
「俺は別に構わんが、少し仕事をしなきゃならん。うるさくていいならいいけど……別に、ハクロと緑葉ちゃんなら、問題もないだろう。小さい頃から一緒なんだ」
「うん、僕もそうは思うんだけどね……」
控えめに、枝梨花さんに視線を向けてみた。
「……そう、ですか。まあ、今も一つ屋根の下、滞在しておられるようですし、心配はないですわね。それに、緑葉様は一人では着物を着られませんし……いえ、何でもありません。それでは、何かありましたら、連絡してくださいね」
さらりと怖いことばかり言う人だった。
一人で着られないから何だって言うんだ。
一人で着られないと何か困ることでもあるのか?
別に脱ぐ予定なんかないぞ! 全然ないからな!
「それでは、またあとで」
枝梨花さんはにこやかに言って、階段を上がっていった。ああいうことを言っているときだけは、非常に幼いイメージになる。まあ、髪型とか、若々しいしな……三十台でも若い人って、結構いるし。枝梨花さん、独身……だったはずだし。
……そこが原因なのか?
いや、考えるのはやめておこう……。
「……」
「……」
「っていうか」
枝梨花さんの残していった気まずい雰囲気を、真っ先に打開したのは、青藍兄さんだった。
「さっき、連絡してくださいね、って言ってたけど……まさか、電話番号とか知ってんのか?」
「あ、はい」思い出したように、緑葉が反応する。「さっき、ハクロの家にいるとき、教えてもらいました……」
「すげー……ジムリーダーの私用電話番号かよ。いや私用かどうかは分からんけどな……」
えらく緑葉は枝梨花さんに気に入られてしまったようだ。まあ、僕が言うのもなんだけれど、緑葉、良い子だしな……『良い人』とは違う意味での、『良い』子である。僕はどちらかと言えば、良い人の分類に、なるのだろう。ああ、ていうかもう、子どもという分類でもなくなってしまうのかな? 大人から見れば、子どもであることは間違いなさそうだけれど、世間的には、大人である。
「まあ、とにかく、青藍兄さんも……何かあったら、連絡してよ」
「わかった。んじゃ、五時間つってたか? そんくらい後にな。つっても俺はほとんど仕事してると思うけどな……あー、この船のパソコン、快適だといいけど」
言いながら、青藍兄さんは僕らを置いて、部屋を探しに行った。忙しそうだなぁ……大人っていつでも忙しいイメージだ。そういうのを見ると、僕はいつまでも子どもでいたいものだと思ったりする。
「それじゃ、僕らも部屋に行こうか」
「そうだね。私はもう早く座りたいよ」
「僕も早くネクタイを取りたいよ」
鍵をポケットから半分突き出して、僕は歩きながら、少しずつ、ネクタイを緩めていった。
◇
船内。
室内。
出発してから、数時間。
僕らは、暇の一言に尽きていた。
「ラフレシア」
「アーボック」
「ク……ク? クなんていたっけ」
「いるじゃん。ほら……ん、あれ? クなんていたっけ?」
「……あ! クロバットだ。クロバットクロバット」
「トー……ト、ト、トサキント!」
「なんかずるいなそれ、一回スキップって感じでさ。まあいいけど……えーと、ト、か。ト? ト……あ、あれだ、トリトド…………」
「んー?」
「いや、なんでもない。間違えてないけど間違えた。完全に間違えただけだから別に間違えてないし」
「ハクロの負けねー」
「違う!」
「八連敗ねー」
「違うって! きっと将来的にトリトドスとかに進化するんだって! ポケモンの未来は明るいんだってば! 本当に! 本気で!」
……なんて。
そんなくだらないしりとりくらいしか、僕らはすることがなかった。
いくら部屋に二人きりだからといって、間違っても枝梨花さんが心配するような行為に及ぶ僕らではないのである。もとより、及ぶ準備もなければ、覚悟もないし、予定も勇気も何もないのである。
あるのは興味ぐらいか。
……いや、一般的に言って、というレベルだぜ?
断じて僕は、そこまで何かを溜め込んでいるわけではない。
いくら相手が、和服姿の緑葉であっても、だ。
可愛いなぁ、とは思うけれど。
「ハクロはしりとり弱いなぁ」
「おかしいな……少佐としりとりすると負けないんだけどな……」
とはいっても、あれはポケモンの名前を限定したしりとりではないし、縛りがあるのだとすれば『言語』であるから、ポケモン縛りしりとりよりは、明らかに楽なフィールド対決なのだが。
「まあ、ハクロはあんまり、普段からポケモンに触れ合ってないもんね。咄嗟に名前が出ないのも、当然と言えば当然かも」
「確かにそれはあるかな。どうしても、いくら世間にとってポケモンが一般的とは言え……ある種の人間にとっては、日常的じゃないから、知識がない――つまり、語彙が少ない、って感じになっちゃうよね。しりとりなんて所詮は情報量の戦いだからなぁ……多すぎても逆に、地雷を踏むこともあるけど。だからまぁ、僕と緑葉くらいの情報量同士で遊ぶのが、しりとりとしては一番楽しいのかもしれないね。負けるのは僕だから、別に楽しくなんてないんだけど」
「そうやって難しく考えると、面白みがなくなるよ?」
一蹴されてしまった。
まあ、本来考えることとは無縁の遊びのはずだからな、しりとりって。緑葉の言う通り、難しく考えないで適当に言葉を連続させていくからこその、面白さだし。
それに、考えすぎたら、語末に「ん」なんて、つかないし。決着も、つかないし。
「そりゃそうだけどね……まあ、うん。子供の遊びなんてのは、突き詰めてしまうと面白くないものばかりだもんなぁ……顕著なのはじゃんけんとかだけどね。あれも、もの凄く反射神経を鍛えると、絶対に勝てるようになるんだよ」
「え、そうなの? じゃあじゃんけんしてみようよ。ハクロが超反射神経で私に勝つ感じで」
「いやいやいや。鍛えれば勝てるってだけで、僕の反射神経は全然ダメ。ゴミ以下。勝てるはずがないね。運が良ければ、そりゃ勝てるけどさ。あんなのは理論上可能ってだけのおもしろ話だよ。常人には不可能だと思うね」
「ダメじゃん」
「ダメだね。ダメダメだよ」
そもそもじゃんけんなんて、超反射神経だとか、相手の裏を読むとか、そういう違反行為――じゃんけんにルールなんてあるのかどうか怪しいところだけど――をするよりは、運に任せて、グー、チョキ、パーのどれかを繰り出した方が、明らかに勝率は上がる。まあ、じゃんけんでルール違反をしたところで、別に負けになるってわけじゃあないだろうけれど。
……じゃんけん、か。
グー、チョキ、パー。
三つ巴。
ポケモンの世界にも、そういえば、御三家と呼ばれる――それはレッドが好んで使っていたからそう呼ばれているだけだけど――火、水、草のポケモンがいたっけ。
ヒトカゲ、ゼニガメ、フシギダネ。
リザード、カメール、フシギソウ。
リザードン、カメックス、フシギバナ。
けれど、やつらもよく考えてみたら、別にちゃんと、純粋に三つ巴しているというわけではないのだろう。ゼニガメ系統に限っては、純粋な水タイプのポケモンを全うしているけれど――ヒトカゲはリザードンに進化した時に、大空を翔る翼を手に入れ、飛行タイプを有する……はずだし、フシギダネに至っては、最初から草と毒の二タイプを有している。
まあ、だからと言って三匹の力関係が崩れるというわけではないのだけれど……リザードンは、フシギバナに対してさらに分かりやすいな有利性を手に入れるし、毒を持っているからといって、フシギバナがカメックスに弱くなることもないのだから、そういう意味合いでは――純粋な有利不利という関係性では、三つ巴ではあるのだけれど。
まあ、火と、水と、草。
その三角関係。
御三家。
火水草。
三つ巴。
だからその力関係は、恐らくは昔からずーっと長い間、培われているものなのだ。特化するわけでもなく、対抗するわけでもなく、放棄するわけでもなく。三者三様、生き抜いている。
グーチョキパーと同じように。
……まあ、ポケモンはじゃんけんのように、有利なタイプのポケモンを出したら勝てるというものでもないし、ダブルバトルというものもあれば、道具もあり、草タイプだから草タイプの技しか使えないというわけでもなければ、物理攻撃や特殊攻撃と同様、物理攻撃に対する防御と特殊攻撃に対する防御があって、素早さの違い、体力の違い、なにより――それぞれに、特性が備わっているのだから、そこまで簡単なことじゃないのだろう。
ポケモンバトル。
百人百様な、トレーナーの争い。
多種多様な、ポケモンの個性。
だからこそ、相手が何を出すのかという裏技行為が黙認されているのかもしれないけれど。
じゃんけんに対して、反応速度を上げること。
不可能だとは思うけど。
一般人の僕には、とてもとても、到底成し得ない行為だと思うけど。
超反射で、相手の動きを見る?
出来るはずがない。
だけど、それはポケモンバトルにおいて、相手が繰り出すポケモンを、一瞬の間だけで、判断することと同じような――モンスターボールに入っている状態で、相手が何のポケモンを繰り出すのか理解するような――そんな特性なのだとしたら。
人間にも、一人一人に特性があるのなら。
じゃんけんを、反射神経だけで制するということも、あながち無理なことじゃないのかもしれないと、そう思うことも出来る。
ましてや僕自身、ポケモンに関しては、裏技を日常的に――意図せずとも、使用出来るのだから。
「まあ、机上の空論だけど」
出来る出来ない、は置いておくとしても。
机上の空論なのだ。
全員が全員、同じように行えないようなら、それはもう、空論と定義して、良いのだろう。緑葉も、木賊も、少佐も、筑紫も――僕が出会ってきたポケモントレーナーの中で、僕と同じように、裏技を使用出来るポケモントレーナーは、いないのだから。
僕だけが異常。
僕だけが特別。
僕だけが卑怯。
そう考えておくことが、重要なのだ。
先生にしたって…………『ポケモントレーナー』としては、僕よりも優れているけれど、ポケモン『トレーナー』としては、僕よりも、劣っているのだ。
分類するなら、だけど。
緑葉は『ポケモン』トレーナー。
筑紫は『ポケモントレーナー』。
木賊はポケモン『トレーナー』。
……そうすると、僕はポケモントレーナーというくくりですら、ないのかもしれなくなるのか。
いやはや、世知辛い世の中だ。
「そういう意味でも、机上の空論か」
僕がみんなと同じように、一般的なポケモントレーナーを目指せないこと。
それは僕にとって、途方もない、机上の空論だ。
「何さっきから、机上の空論机上の空論って」
「うーん、大人は机上の空論が好きなんだよ、きっと。だから僕も言ってみた」
「大人じゃないじゃん」
「大人になりたいなぁ」
なりたいものにはなれない。
もう大人なのかもしれないけれど。
違和感の環状。
不思議な感慨。
不得手な勘定。
まだ子供なのかもしれないけれど。
戻りたいものには戻れない。
「……いや、大人にはなりたくないなぁ」
戻れなくなるなら、尚更なりたくない。
「前言撤回が早すぎ」
「まあまあ、それが日常的な会話の特権じゃん。前言撤回し放題なのがいいところであってさ……いや、まあ、別にずっと子供でいたいってわけじゃないんだけど。いつかは大人になるんだろうけどさ……大人になるのって、よく分からないし、難しいところだよね。どこまで子供なのか、とか、どこから大人なのか、とかね」
「二十歳になれば大人じゃない?」
「ん、確かにそうなんだろうけどさ……少佐を見てると、そうも思えないっていうか。いや、もちろん悪い意味じゃないんだけどさ。無邪気でいられるというか、子供の心も忘れないっていうか……じゃあ別に大人と子供の区分っているのかな、とかね」
「んー、確かに、マチスさんは頼りになる大人って感じがするけど、ハクロと話してる時は、友達と話してるみたいだよね」
「そう。だからさ……よくわかんないんだよね」
僕がどうなのか。
僕がどうなるのか。
「ポケモンくらい顕著ならなぁ」
「ポケモン?」
「進化することがね。例えばロコンは、キュウコンになったらもう進化して、大人になって……って感じじゃん」
「うーん、あれは大人になるっていうのかな?」
「あー、どうだろ。進化であって成長ではないのか。となると、人間にしか、大人子供っていう概念はないのかな」
概念なんてものすら、ポケモンにはないのかもしれないし。
知能が人間より劣っているポケモンばかりではないと、僕は思っているけれど。
「どうなのかなー。進化しなくても年寄りなポケモンもいるしね」
「ああ、そっかそっか、緑葉のデンリュウもそうなる可能性があったんだったっけ」
「うるさいな」緑葉はわざとらしく頬を膨らませる。
「まあ、なんにせよ、ポケモンは変化が顕著ってところかな……でも未だに、ポケモンの進化を進化として認めていない団体もあるみたいだし。進化論とか、色々……僕には分からないことだけどね。そういうことは、兄さんの専門だろうな。緑葉の言う、難しく考えるってやつだ」
「青藍さんって、進化関係の研究してるの?」
「それもやってるみたい。色々やってるんだよ、兄さんはね」
実際、僕も青藍兄さんがどこからどこまでポケモンの研究に手を伸ばしているかは知らない。
色々やる。
それが青藍兄さんの仕事だ。
「……まあいいや。やめやめ。今日はパーティに行くんだし、頭使う必要はないか」
「そうだよ。難しいことはやめよー!」右手を宙に突き出して、緑葉が宣言している。
「嫌いじゃないけど、まあ、四六時中やってたいほど好きってわけでもないし、やめておこう。それに、紅蓮島に着いたら……多分、何人か、知り合う人もいるだろうし、先生にも会わないといけないからな。頭を休憩させておこう……でも、逆に言えばそれだけやれば自由だからね。向こうから声をかけられない限り、誰も僕が父さんの代わりに来てるかなんて分かんないだろう……」
「ハクロも大変だねぇ」
「家には家の都合ってもんがあるから、仕方ないとは思うけどね。受け入れるつもりだよ」
まあしかし、僕は今のところ、その家柄を守るというような使命感には駆られていないから、自由にやっていられるけれど。
楽しい人生。
それだけを望んでいたい。
「さて……と。なんかすることもなくなってきたし、船の中でも探検してこようと思うけど、緑葉はどうする? 一緒に行く?」
「んー、そうしようかな。この姿で出るのはちょっと恥ずかしいけど、ずっと部屋にいても、暇だし。ハクロはしりとり弱いし」
「悪かったな……」本気出したら二秒で倒すんだけど。「ま、多分、どっかにバトルが出来るスペースとかもあるだろうし、観戦でもしようか。緑葉もその辺で戦ってみたら? ……でも、今日はそうか、紅蓮島い行く人くらいしか乗っていないんだっけ。趣味でポケモンバトルを嗜んでるお金持ちならいそうだけど」
「だねー。ま、探検するなら早いとこ行こうよ。着物で歩くのにも、慣れておかないといけないし。色々は歩きながら考える!」
「そうだね、それでこそ若者だ」
ああ、そうか。
僕らには、そういう便利な言葉があったんだった。
大人でも、子供でもない。
若者。
青年。
モラトリアムの時代。
「さて。とりあえず、モンスターボールを持ってって……あとは、置きっぱなしでいいよな。鍵かけときゃ大丈夫だろうし」
僕はだらしなくワイシャツをズボンから出したままの状態で、モンスターボールだけをポケットに入れ、部屋の鍵を持って、立ち上がる。
「正装じゃなくても……大丈夫だよなぁ」
「船の上がパーティってわけじゃないんだし、いいんじゃない?」
「だね。そう思うことにしておこう」
紅蓮島に着くまでの道中もパーティです。
家に帰るまでもパーティです。
……なんてことになっているのだとしたら問題だろうけれど、知恵のない子供が常識外れの行動を取っていたとしても、別に大した問題にはならないだろう。
なんて、子供を盾にして生きていられるのは、いつ頃までなのだろうか。
十六歳ならもう大人なんだから、常識くらい弁えろ、とか。
そんなこと、言われるんだろうか。
「まあいいや、別に」
僕はクールなキャラクターで生きたいので。
そんなことにはこだわらない感じを、演出していたい。
「それじゃ行こっか」
「うん、行こうか」
そして、僕と緑葉は紅蓮島までの移動時間の残りを、想像以上に広大だった船内を探索することで、消費することにした。
これから始まる、宴への準備段階として。
或いは、冒険活劇への、序章として。