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翌々々日。
口語的に言えば、明々後日。
僕は単身、山吹市のリニア駅にて、文庫本を読みながら、暇をつぶしていた。ちなみに、文庫本のタイトルは『赤と白の衝撃』である。母さんが残していった本の一冊だけれど、本好きにとっては、結構有名な小説らしい。時期にして大体、僕が生まれる五十年くらい前の小説だそうだ。ということは、今から六十五年前か……うーん、お婆ちゃんとか、巌鐵さんが丁度世代なのかな。まあ、はっきり言って、僕には合わない小説だったけれど、暇つぶしには適当な小説だったように思う。
さて、青藍兄さんから連絡があったのは、昨日の夕方。上都にて無事、緑葉を捕まえることが出来たらしい青藍兄さんは、翌日――つまりは今日、関東行きのリニアで、こちらに向かってくるとのことだった。そんなこんなで、僕は二人を出迎えるために、一人で、こんなところにいるわけである。
あー……ううん。
なんか。
最近、結構な割合で、緑葉と会ってる気がするなぁ。
もちろん、これまでも、何度か連絡を取り合っていたし、電話をしたりもしていたから、会っていないという気分にはならなかったけれど……それでも、やっぱり、直接会うというのは、気概が違う。
こんな時に、なんて言葉で言い表せば良いのか分からないけれど……直接会う時の気持ちってのは、きっと僕の感情に一番近い表現は、安心、ってことになるんだろう。
緑葉が存在として、身近にいる安心感。
……まあ、会うからこそ、離れたくないっていう面も、確かに存在はするけれど。
そんな不条理も包み込むような、安心。
「あと十分……か」
駅の中にある時計によれば、緑葉と青藍兄さんの到着予定時刻まで、あと十分ほどの余裕があった。その間、『赤と白の衝撃』を読むのも良いけれど、活字を読み進めるのも面倒臭くなってきていたので、章の終わりでスピンを挟んで、僕は文庫本をシャツの胸ポケットにしまった。
青藍兄さんと会うのは……一年ぶり、くらいか。まあ、会おうと思えば、緑葉とも、青藍兄さんとも、いつでも、いくらでも、会えるんだけれど……一人になってから少しの間、誰とも会いたくない時期が続いていたからな。今はもう、大丈夫だけど……それに今は、どちらかと言えば、会いに行くのが面倒臭い、という心理の方が、強く働いている気がする。
面倒臭い……けれど、会ったら会ったで、幸せにはなれるんだけどな。まあ、だから、向こうから会いに来てくれる機会は、出来るだけ、丁重に持て成すつもりで、僕は臨んでいたりする。とは言っても、気を遣いすぎても相手も滅入るだろうから、そこはさじ加減が必要だけど……。
僕はリニアの到着を待つために、目を瞑り、そっと背中をベンチの背もたれに預けた。
「オー! ハクロボーイ!」
「……」
……えっと。
あー、うん。
そうだな……さじ加減が必要だ。気を遣いすぎず、気を遣わせない心遣い。うん、気ではなく心で接するという感じだろうか。僕にしては、中々、良いことを考えるじゃないか。なんて。
「アイハーヴントゥスィーンユフォァローングターイム! ハッハー!」
「……」
ん、あと……八分、か。ていうかまだ八分もあるのかよ。六十秒に八かけて四百八十秒かよ……長いなぁ。長いよ。いや、そうだな、こういう時こそ、暇つぶしアイテムの文庫本を読もう……古典文学に触れるべきだな。というほど、古いわけでもないけれど、僕にとっちゃもはや過去の遺物だし。
「ワッウェンロング? どうかしましたカー? ハクロボーイ? オッホーウ!」
「……大丈夫です、なんでもありません」
「セ・ビャン」
「言語を統一しろよ」
ていうか日本語で喋れよ。
最終的に少佐に応じてしまった僕も僕だけれど、なんだってこんなところに少佐がいるんだか……ほんと、この人、ちゃんと働いているのか、疑問に思う。まあ、仕事の面では、かなり優秀だってことを、朽葉ジムの人から聞いたことはあるけど……。
「フゥー」
喜劇みたいな溜め息を漏らしながら、少佐は僕の隣に座った。幸い、と言うか、不幸にもと言うべきか、僕は人混みから離れた位置に陣取っていたので、小声で話すと、周囲には僕らの会話が聞こえないわけである。まあ、それだからこそ、少佐も近づいてきたのかな……とは思うけれど。
「四日ぶりか?」
早速口調を元に戻して、少佐は僕に話しかけてくる。
「玉虫ジムで会って以来……ですね」
「ほーかほーか。いやぁ、最近は月日が経つのが早いよなぁ。俺ももう、じじいかなぁ」
「いや、少佐が老いたのは分かりましたけど……何故わざわざ山吹くんだりまで来てるんですか。仕事はどうしたんですか仕事は」
というか、今回ばかりは僕も尾行に厳重注意してきたはずだから、少佐がわざわざ僕の後をつけてきたってことはなさそうだけど……それに、少佐も流石に、そこまで暇じゃないだろうし。
「んー、今日は個人的なお出かけだ。人を迎えに来たんだよ。いや、個人的っつーか頼まれ事だな」
「へえ……なんか意外な理由ですね。まさか奥さんとかですか?」
「いや、上都のジムリーダーさんだ。まあ……俺もそんなに親しい仲ってわけじゃねーけどな、知らない人ってわけでもない。恩義のある人だ」
「ふうん。なんか、ジムリーダー同士って言うと、お仕事っぽいですけど……そういうわけでもないんですか」
「ああ、まあ仕事と言えば仕事なのかな……あれだ、桂に頼まれてな。流石に紅蓮から山吹は、遠いだろ」
「ああ……なるほど。でも、山吹なら、棗さんの方が近いんじゃないんですか? ああ、少佐が棗さんから嫌われているからしょうがなく、とか?」
「いや、あいつはこの週にジム戦があるからな」
「ああ、単純に忙しいんですね……」
そっかそっか……今週は、山吹ジムと、石竹ジムのジム戦がある日か……ジム戦の前って、結構忙しいらしいしな。少佐はジム戦の前日に、僕と酒飲んだりしてたけど。嘘。未成年なので魔法の液体を飲ませていただいたんだけど。
でも、桂さん繋がりということは、必然的に……ポケモン屋敷でのパーティに関連した客人ということになる……の、かな? まあ、上都のジムリーダーとは言っても、今はほとんど面子も変わっているから、僕の知らない人である可能性が高いけど。
それに、まさか筑紫ってことはないだろうし。
蜜柑ってことも……ないだろう。
「んで、お前はどうした?」
「ああ……僕も、まあお迎えですね。人を待ってるだけです」
「ほう。最近やたら忙しそうだな、お前」
「まあ、そうですね。とは言っても、それ以外はほとんど家で寝てますけど」
「青少年らしい生活しろよ。青春したり、恋したりよぉ」
「大きなお世話ですよ」
まあ、してるっちゃあ、してるんだけどね。
少佐も、分かってて言ってるんだろうけどね……。
まあ、その後、少佐も空気を読んでか、僕に話しかけることはなく……ただただ、二人で、リニアの到着を待つこととなった。その間、流石はジムリーダーと言うべきか、何人もの山吹市民が少佐のことをちらちら覗っていたけれど、これまたジムリーダーだからか、気軽に声をかけてくる人間はいないようだった。少佐の場合は、髪の毛が髪の毛だし、体つきが体つきだから、帽子を被っても、サングラスをかけても、あまり意味がないんだろう。
逆に、その隣にいる僕はどう思われているのか、少し不安でもあったけれど……特に山吹の面々には、僕の顔は割れていないだろうし、不審がられていたかもしれない。
いや、道場に通っていたから、知っている人も、いるにはいるのかな。まあそんなの、微々たるもんだとは思うけど。
『間もなく、上都方面からリニアが参ります』
場内にアナウンスが響いて、リニアの到着が知らされた。それを機に、待合い場にいた何人かが立ち上がったけれど、僕も少佐も、そんな不毛な体力を消耗するつもりはなかった。ゆったりと、待ち人が見えるのを待つ。
「ああそうだ……そう言えば、招待客リストに、お前んちの名前があったな」
何でもない世間話のように、少佐が呟く。遠方から何かが接近してくる様子が伺えるが、リニアであるので、レールを噛む車輪の音は聞こえない。
「何の話かは分かりますけど、今ここで言う必要はないでしょうに」
「いや、丁度今思い出したんだ、それ絡みの用事だからさ。お前、あれ出るのか? 屋敷の復興記念パーティ」
「正直なところ、まだ決めかねてますけど……あの招待状、参加不参加の意思表示は、いらないんですよね? それに、飛び入り参加も歓迎と明記されてましたし。まあ当日のノリで決めようかと思ってます。失礼な話かもしんないですけどね」
「人を都合で縛らせないのが桂の信条らしいからな……まあ、来るなら来いよ。お前なら、顔を売っといて損はないだろ、ジムリーダーも何人か来るからな」
「まるで少佐も参加するような口ぶりですね」
「そりゃそうだ。関東のジムリーダーには、全員分、招待が行ってるからな。来るかどうかは知らんがな」
……。
……まぢかよ。
でもまあ、そりゃそうか。
一応あれ、表向きは、ポケモンリーグ関係の建築物ということになっているらしいからな……。
何もあんな辺鄙な場所に建てなくても良いと思うけど、辺鄙な場所だからこそ、良いのかもしれない。
そうして僕が口を噤んだどころで、緩やかに、リニアは関東へと上陸した。こんな速度で走っていたのかと思うほどの高速。そのリニアが停止して、しばらくすると、幾つかある扉が開いて、わらわらと、乗客が降りてくる。
僕も少佐も、じっと昇降口を見る。
緑葉は……性格的に、人を押しのけてまで先に降りようとするタイプじゃないから、降りてくるのは最後だな。青藍兄さんも……人混みが面倒っていう理由で、最後に降りてきそうな気がする。
そして、長期の旅ともなれば、上都のジムリーダーであるらしい少佐の待ち人は、人に見られるのを嫌がって、きっと降りてくるのは最後の方になるだろう。本来、有名人であるジムリーダーや四天王の人間が、変装なしに外界をうろつくこと自体、おかしなことではあるんだけど……まあ、少佐は例外か。少佐は有名人であることを楽しんでいる様子だし、もし誰かに命を狙われたとしても、それを返り討ちに出来るほどの実力があるからな…………まあ、そういう緊急事態においては、ポケモンを使っての武力抵抗も、認められてはいるはずだけど。
少佐は人間の醜い争い事に、ポケモンを使うような人じゃないし。
「さて、そろそろか」
「ですね」
ほとんどの客がリニアを降りて、関東側の人間と感動の再会らしきものを果たしたあと――僕と少佐は立ち上がり、リニアの近くへと、歩み寄った。
これで実は二人とも乗り遅れていたとかいうオチだったら面白いよなぁ……とか、再会を期待しすぎないように自分に抑制をかけてみたけれど、そんなことを思う必要は全くなかったようで、リニアの出入り口からは、緑葉のトレードマークである帽子がひょっこりと覗いていた。
「あ、ハクロ、やっほー」
「やぁ」
「……なんだ。待ち人って、何のひねりもなく嬢ちゃんかよ」
隣で、少佐が小さく溢していた。なんだってことはないだろ……とか思ったけれど、反論はなしにしておく。少佐に食ってかかると、緑葉は僕を咎めるからな。先月も、色々とお世話になったことだし。
本来、少佐には世話になりっぱなしなはずなんだけどなぁ。
どうしてこうも、感謝する気になれないんだろう。
「おっとと」
「ほいよ」
大荷物な緑葉がこけそうになったのを、自然な流れで、僕が受け止める。僕より健康的で僕よりも筋肉質なのかもしれない引き締まった四肢に、若干の柔らかさが残っている。……って、何考えてるんだ僕。
「あ、ハクロ殿、あまり近寄らない方が……」
「ん?」
「わたくし、旅の者でして……近寄ると、その」
「え? ……ああ」
緑葉の突然の拒絶に嫌われたかと思ったけれど……何事かと思ったら、汚れてたり、お風呂入ってない的なことか。
いや、まあ、全然気にならないどころか、女の子特有の甘い匂いが……微かに香ったり、してはいるけれど……それに、ポケモンセンターに行けばシャワーくらい借りられるから、まるっきり不潔ってわけでもなさそうだし。
「全然気にしないけどね」
「私が気にするんですけど……」
一月ぶり――とは言っても、先月は二日程度しか会ってないから、これはこれで、体感的には、三ヶ月程度の、久しぶり。僕らの一ヶ月は、感じ方としては、まだまだ、随分と長い期間である。
「んぁー……おーハクロ、お兄ちゃんだぞー」
そして、今回のメインキャラ……ではないけれど。とりあえず、緑葉に続いて、青藍兄さんが、寝ぼけ眼で降りてきた。
「こっちも久しぶり」
「扱いがぞんざいだなぁ」
顔立ちだけ見れば、恐ろしいほどの美青年……いや、いっそ美人と言ってしまっても、良いのかもしれない。女性的とも、男性的とも言える顔立ち。髪の毛も半端じゃなく長いので、その気になれば女装も簡単だろう……眼鏡が黒縁なのは、お洒落なのか、ダサいのか。しかも私服が白衣ってのも、お洒落なのか、非常識なのか。
まあ、イケメンなら何やっても許されるってやつですか?
本人には、そんな自覚すらないんだろうけど。
それがまた、鼻についたりするんだけど。
「うぁー……関東も関東で暑いなー。豊縁に比べたらそりゃー良いけどよー。一回上都に泊まったのが悪かったなぁ……体感温度はプラスのままだよ。湿気多いなー関東は」
「知らんけど」
青藍兄さんは、緑葉に比べて、恐ろしいほどの軽装だった。多分、他の荷物なんかは――例えばパーティ用のスーツとかは――後で届くように手配してるんだろう。もしくは、何か別の方法だろうか。
青藍兄さん、僕と違って、金遣い荒いからな。
「ん、あ、マチスさんじゃないですか」
ホームに降りたってから、青藍兄さんは、少佐に気づいて、そんな言葉を漏らした。顔見知り……かと思ったけれど、少佐の方は、
「オー、ハクロボーイのお知り合いデスカー? ナイストゥミーチュ。クチバジムリーダーのマチスデース」
と、エセ外国人状態だった。
どうやら、顔見知りではないらしい。
が……少佐の発言を聞いて、青藍兄さんは、周囲を見渡して……その後小声で、少佐の耳に向けて、
「ご安心下さい。マチスさんの噂は、鉄扇さんから、色々とお聞きしておりますので」
「……ガッテム」
少佐にしては珍しい、心からの悲痛な叫びだった。
鉄扇さんとやらが誰かは知らないけど……少佐の頭が上がらない人である事は、間違いなさそうだ。
一つ、弱みを握れた気もした。
「さて、それじゃ早速、駅から出るとするか……あー、建物の外も、暑そうだなー」
「そうですねー」
「まあ、慣れればそんなでもないと思うけどね。豊縁に比べたら、天国でしょ」
「だから俺らは上都から来たんだっつの」
なんて会話をしながら、僕と緑葉と青藍兄さんは、早速、朽葉に向けて、歩を進めようとした。
その時――
何やら、背後から、涼しい風。
扇風機が出すような風とは違う、冷酷な――そう、クーラーが吐き出す、その場全体の温度を低下させるような、そんな風が、僕らを過ぎ去っていった。それが実際、本物の冷風であるのかは、判断出来ない。けれど、僕の温度を下げたことは事実であり、また――その後に聞こえて来た声によって、僕の背筋が凍ったことも、また、事実だった。
「いやいや、やはり上都に比べると、少し暑いな……」
そんな声とともに、恐らく、乗客としては、最後の一人になるであろう人物が――ゆっくりと――まるで、出し惜しみでもしていたかのような速度で、リニアから、降りてきた。
手には杖。
けれど、それは不可欠な存在としてではなく。
伊達眼鏡ならぬ――伊達杖、なのだろうか。
歩行というよりも、直立する時に必要な支えとして扱われているような長さの杖を手に持ちながら、ゆっくりと、ゆっくりと――
「どうもお久しぶりです。ようこそ関東へ」
「ああ、すまんな若造。わざわざ迎えに来てもらってしまって」
「いえいえ、桂さんからの直々のお願いですから」
「ふむ」
そんな、少佐には似合わない、腰の低い言葉を、まるで価値なしと言わんばかりにあしらって、その人は、リニアのホームへと、降り立った。
少佐同様、ジムリーダーなのに、変装はしていない。
というか……その人からは、まさかこの人がジムリーダーであるとは思えないような、逆説的なオーラと、何故か凍り付くような、冷風が放たれている。
僕らは無意識に、歩みを止めていた。
そして、その人物に、魅入ってしまっていた。
青藍兄さんと緑葉が足を止めた理由は、分からない。けれど、僕が足を止めたのは、この人物に対して、僕がいくらかの面識と、トラウマを、持っていたからであり…………。
「おや?」
当然のように、その人は、僕に視線を向けた。
そして、驚いたように目を見開いた。
「坊主……もしかして、私と会ったことがあるか?」
「あ……は、は…………」
「会ったことがあるな? どうだ?」
「はい……会ったことがあります、先生」
「そうだろう」
師匠と言ったら、良いかもしれない。
恩師と言っても、良いかもしれない。
深奥地方。
雪に囲まれた、極寒の地。
そんな場所に、僕みたいなガキが存在して、もしも僕が本物の天才だったとしても、いくら才能に溢れていたとしても――一人でポケモンバトルについてのイロハを理解することが出来るはず、常識的に考えたら、有り得てはいけないのだ。
いくら才能があっても、それの使い方を知らない人間は、天才には、成り得ないのだから。
だからもし――この世に天才がいるのなら。
それには、天才を育てる事が出来た逸材が、いたというだけの話。
「私の名前は、覚えているな?」
「もちろんです……柳先生」
上都地方のジムリーダー。
柳。
しかし『冬の柳』の通り名は、決して伊達ではなく――
「坊主は、いくつになった」
「すぐに、十六になります……」
「そうか。分かった。あとで私のところに来なさい。しばらく、朽葉ジムにいるだろう。お前が来るまで、待っているよ」
「……分かりました、先生。すぐに伺います」
逆らえるわけが、ない、そんな口調。
逆らえるわけが、ないと、確信している、そんな口調。
僕は先生に、気づかぬうちに、深々と、頭を下げていた。視線を合わせたくなかったのか、恐縮過ぎたのかは、定かではないのだけれど。
そんな僕を、先生は、ろくに見もせずに、駅の出口に向かって、歩いて行ってしまう。
…………まだ生きてたのか。
それは、嬉しいような、不思議なような気持ち。
ていうか、まだジムリーダーやってたのかよ……。
「坊主」
「何も思ってません!」
「そうか」
僕は大きな声で否定して、ただ深々と、頭を下げ続けるだけだった。
やりにくい……というか、もう、なんか。
……………………パーティ、行くのやめようかな。
◇
当然、そのことについては、緑葉から色々と、問いただされるわけで……。
「あの人、丁子ジムリーダーの柳さんだよね? なんでハクロのこと知ってる風だったの? ハクロ、丁子に行ったことあったっけ? あとで私のところに来なさいってどういうこと? しかもなんでハクロは先生って呼んでるの? なんでどうしてどういうこと? ちゃんと説明してくれるよね? ね? ね!?」
……とまあ、色々と質問されたけれど、ひとまず僕はそれらを全て保留して、緑葉を僕の家に連れてきて、風呂に入れたのだった。
青藍兄さんはどうやらそのまま山吹市内のホテルに泊まるらしく、パーティについてとか、豊縁までの行き方とか……そういった話し合いはまたあとで、という運びとなった。てっきり、青藍兄さんも僕の家に泊まるものだと思っていたけれど……色々と、やらなきゃいけない仕事も、あるんだろう。一応、研究者だしな。というか、多分、青藍兄さんのことだから、僕と緑葉を二人にするということで、変な気を利かせたつもりなんだろうけれど――
正直言って、先生の登場で、もはやそれどころじゃないんだけどなぁ。
「ふー、さっぱりした!」
というわけで。
何やら既視感を覚える登場の仕方で、緑葉は何ヶ月か前と同様に、風呂から上がってきた。僕はそんな緑葉に、麦茶を一杯、ごちそうしておく。「さんきゅー」と言いながら、緑葉はソファに腰を降ろし、長い髪の毛から水分を拭き取っている。
「それで?」
「なにか?」一応とぼけてみる。
「柳さんとハクロの関係についてだけど?」
「ああ、うん……」
自分の分の麦茶をコップに注いで、ボトルは冷蔵庫にしまっておく。
先生との関係について、か。
さて、何処から話したものだろう……。
「まあ、先生って呼んでいる以上、僕の先生なんだけど……」
「それくらい分かるよーだ」
うーん。
もしかしなくても、拗ねてるよなぁ、緑葉。
まあ、気持ちも分からんでもないし、こういう結果になりそうだったから、出来れば未来永劫、先生と僕との関係は、誰にも知られたくはなかったんだけど……。
「まあ、早い話が、僕のポケモンバトルの先生」
或いは、ポケモンの接し方についての、先生か。
どちらにしたところで、僕と先生の関係は、一言で言い表す事が出来る関係とは思えないけれど。
「なんで上都のジムリーダーがハクロの先生なの? どういう切っ掛け?」
「うーん……なんて言えばいいかなぁ」
「ハクロって、上都にいた頃はポケモンとかあんまり興味なかったじゃん。普通に遊んでる方が楽しそうだったし」
「うん、だから……先生と会ったのは、上都じゃなくて、深奥なんだよね」
「……ふぃ?」予想もしていなかったように、緑葉は首を傾げる。「なんで深奥? 柳さんって、上都のジムリーダーだよね?」
「でも、先生って、氷ポケモン使いだろ。だから……深奥に足を伸ばすことも、多かったみたいなんだよな。ポケモンを捕まえるためとか、修行のために……とかだとも思うけど」
今現在、老体となった先生が深奥くんだりまで足を伸ばしているのかと言えば、それは分からないけれど、実際、当時は、結構な割合で、修行に来ていたらしいし、僕もそれに付き添っていた。特に、鋒の付近にある雪山は……先生好みの修行場みたいだったし。
ま、誰もそんなことには気づいていないようだけれど。
あの人には、人目を惹くオーラが、まるでない。
一般人以下――そんなジムリーダーのオーラ。
「まあ、そこで色々と、修行したわけ。的確な攻撃方法とか、色々ね。ほとんど実戦だったけど、それが今の僕に根付いているって感じなわけさ」
「へー……ハクロにもそんな時代があったのね」
「まあ、流石に独学じゃ、そこまで強くはなれないだろうしね……いや、別に自慢しているわけじゃ、ないんだけどね?」でもどういうわけだか、緑葉さん、顔色が悪いですよ?「……うん、マジで、ね?」
「ふーん。でもなんかずるい。ずるいなー」
「……だよねぇ。それは僕も思う」
よくよく考えなくても、ジムリーダーの弟子をやってたっていうのは、結構な財産だよなぁ。
昔はスパルタなクソじじいとしか思っていなかったけれど、今思えば、かなり貴重な経験をさせていただいたものだ。と、考え直す余裕ぐらいは、どうにかこうにか出来ていたようだ。
「まぁ……実質、二年くらい、かな。七歳から九歳まで、秘密裏に特訓を受けていたんだ。とは言っても、先生と直接戦ったことはなくてね…………ああ、一度だけあるかな。最初に一回だけ、戦って、それ以降は戦わなかったんだけど」
「ふうん……修行って、普通は先生と戦いながらするもんなんじゃないの? で、最後に私を倒したら合格だー! みたいな」
「いや、最初の一回で、僕の勝ちだったからさ」
しかも六対一で。
まあ……その時は、先生も、僕を甘く見ていたんだろうけど。
「だから、これ以上戦う必要はないって、先生から言われたんだ」
「…………もしかしなくても、ハクロって、なんか、天才だよね。ずるいよね。なんか……はーあ……なんかなぁ……はぁ」
「マジで落ち込むなよ……どうしようもなくなるだろ」
僕だって、出来ればこの才能を緑葉に上げたいくらいなんだから……無償で、無利子で、全部、差し上げたいのだ。
「まあそういうわけで、先生は僕に負けたんだけど、戦い方が粗いからってことで、直々に指導してもらったわけ。まあ……ほとんどが野生のポケモンとの戦闘だったかな。スパルタだったよ。一応、毎晩家には帰れたけど……今思えば、父さんも母さんも、不審がってただろうなぁ」
十歳になるまでは、僕がポケモンを持っていることは、隠していたし。それに……先生からも、自分が深奥にいることは口外しないようにと、口止めされていたし。
「いいなぁ。なんていうか、ハクロは才能とかもそうだけど、とにかく運が良いよね。タイミング、って言うかさ」
「あのスパルタを体験すると、そうも言ってられないけどね……いくら深奥に住んでいたとは言え、猛吹雪で視界も不安定な場所で戦闘とか、結構な痛手だからさ。まあお陰で、心身ともに鍛えられたわけだけど……」
「ふーん。ハクロがマフラー一つでも生きていけるのは、そういう背景があったからなんだね」
「いや、流石にそれは寒いだろうけどさ」
深奥にいるなら長袖くらい着ようよ。
マフラー一つは自殺行為だろ。
「とにかく、僕と先生は、そういう関係。形式的に、ジムリーダーはジムトレーナーとして成長を見守るのは良いらしいけど、個別の弟子を取るのは……限りなく黒に近い行為らしいから、口外は禁止みたい」
「そうなんだ。でも、それじゃ、私に言っちゃいけないんじゃないの?」
「自分で聞いておいて何を今更……」
それにまぁ、別に隠しておくつもりもなかったし。
緑葉にはそうでなくとも、色々と、言えてないことがあるんだし。
「さて、話も済んだところで……」
僕は緑葉のバッグを引っ掴み、緑葉へと放る。緑葉はそれを上手い具合にキャッチしながら、困惑した表情で、僕を見る。
「な、なに?」
「恒例の行事でもしようかと思ってさ。緑葉のポケモンは、どれだけ育ったかなコーナー? いえーい! ぱふぱふー」
「え、あ……いや、前に見てもらったばっかりだし、もういいんじゃないかな……」
「つっても別に、育ってないわけじゃないんでしょ。形式的なものだし、是非見せていただきたいところだけどさ」それに、先生と会うまでに心の準備をしておきたい気持ちもあったし。「僕も、それが楽しみだったりしてね。緑葉がどれだけ頑張っているか、という」
「うー……実は、メンバーチェンジを経ていまして、あんまり育ててないんだ」
「へえ、そうなの? じゃあ尚更見たいけど」
「そのせいで、まだ育ってない子がいるんだってば」
「うん? まあ、それは仕方ないんじゃないかな。というわけで、さあどうぞ、お姫様」
「うー……」
何がそんなに嫌なのか、緑葉は何度も何度も躊躇しながら、モンスターボールをいじくり回していた。しかし、まあ結局、僕の視線に射殺される形で、色とりどりのモンスターボールを、リビングに放った。
「いっけーぃ……」
へろへろへろ。
やる気のない緑葉から、一つずつ、モンスターボールが放物線を描きながら、放たれる。
トップバッターのキュウコンは――見たところ、以前と同じで、見た目上の変化はないように見える。ニックネームはご存じの通り、「こんこん」のままである。当然か……しかし、このニックネーム、僕の知り合いの姓名判断士に見せて、もう少し良い名前に改名したら良いと思うんだけど……緑葉がこの名前を気に入っている以上、それは難しいんだろう。それに、キュウコン自体も、これだけ緑葉に懐いてるってことは、まんざらでもないのかもしれない。
成長度合いは――――全体の半分、ぐらい、だろうか。以前に見た時よりも、割合で言えばほんの少しではあるけれど、育っているようだ。まあ、緑葉のポケモンの中でもエースだしな、こんこん。パーティの中で一番育っていなければ、面子も立たないってもんだ。
ポケモンはトレーナーにだけ追従するように見えるけれど。
六匹の中でのバランスというものも、重要だと思う。
誰をリーダーに置くか、という問題。
その方が、何かと都合が良いだろうし。
「しかし、こいつはいつ見ても妖艶だよなぁ……」
「そうだね、こんこん、狐のポケモンだからね」
妖艶である理由は、そんなものなんだろうか。
もっとこう、成長過程とか、生まれたことに対しての背景とか、そういうものが影響してきそうな気もするけれど――
ともかく。
「とりあえず、キュウコンは順調そうだね」
「キュウコンじゃないです。こんこんです」
「そうね、こんこんね。とりあえずこんこんは終わり」
「扱いがぞんざいじゃない?」
「気のせいだって」
次。
キュウコンの隣で、多少暑苦しそうにしている、緑葉の性格を具現化しているようなポケモンであるところのワタッコは――前回見た時と、あんまり、変わっていない。それよりも、以前は同レベルだったはずの、ワタッコの隣で涼しそうに床に寝そべっているシャワーズの方が、いくらか育っているようだ。まあ、ワタッコはそもそも、ザコとの戦闘向きというよりは、補助とか、長期戦向きのポケモンだからな……短期間で、旅の途中に成長するのが、困難だったりするのかもしれない。特に、成長も佳境に入ってくると、育てるのが難しいタイプだろう。
草タイプ。
成長が早いとはつまり――育ち切るのが、早い。
だから終盤での育成は、あまり見込めなかったりもする。
戦う相手が強くなれば強くなるほど、一回の戦闘に、時間を食い始めるのだろうし……育成論を語ればキリはないけれど、難しいところだ。
その点、シャワーズはザコ掃除に持ってこい、という感じだろう。特殊攻撃主体で、大技を連続して繰り出しやすいような、そんなイメージがある。
「ワタッコは……まあ、前と似たり寄ったり、だけど、シャワーズは結構育ってるね」シャワーズに近寄りながら、僕は訊ねる。知り合いにシャワーズ使いがいるので、扱いには慣れていた。「こいつも、キュウ……こんこんと一緒で、主戦力なの?」
「うん。最近、洞窟とかよく行くし、先頭はシャワーズにしてることが多いかな」
「……ああ、岩タイプとか、地面タイプか。確かに、水って結構、万能な属性だよね。万能というか……ハズレを引かない、か」
「かもね。野生で電気とか草って、あんまりいないし。旅をしながらだと、水ポケモンと地面ポケモンが重宝されるのかなー、と思うよ」
旅慣れしている緑葉から言われると、なるほどもっともな意見だと、僕は思った。野生というくらいだから、その地域に密着したポケモンが多いのだろう。
トレーナー同士の戦闘がメインで――しかも自分は参加せず、見ているだけの僕だから、あまり、そういう事情には詳しくなかったりする。知識だけは、まあ、あるのだけれど……経験が、少ないのだろう。
特に僕は、深奥の野生しか知らない。
あそこは特殊なポケモンが多いからなぁ。
あてにはならない。
さて。
次――だけど。
以前なら、この三匹に加えて、オオタチ、ヨルノズク、そして望んでいない進化を遂げさせられてしまった悲劇のポケモン、デンリュウがいたはずであったが――どうやら彼らは、この場にはいないようである。
「メンバーチェンジ……なのかな、一応」
「うん。固定ってわけじゃないんだけど、気分転換っていうか、そろそろ他のポケモンにも手を出そうかなーって思ってて。この前、深奥行ったときに捕まえた子たち、パソコンに預けたまんまだったからさ」
「ふうん、なるほど、それはまあ分かったけど……」数ヶ月前に起きた悲劇について思い出しながら、僕は言う。「……ていうか、そんなにデンリュウ嫌いなのかよ。可哀想なデンリュウ。あんなに可愛いのに」
「そう言われると思ったから見せたくなかったんですー。デンリュウはもう全然可愛いよーだ!」
そんな反応をする緑葉の方が可愛いよ、なんていう歯が浮き出るような台詞が頭をよぎったけれど、よぎるだけに留めておく。そんなことを言う度胸は僕にはない。「可愛いよね、デンリュウ」とだけようやく言うだけだった。
まあ、緑葉が姿格好でポケモンを選ぶとは思えないし、デンリュウがこの場にいないのは、他にちゃんとした理由があるんだろうけど――さっきの話じゃないけど、洞窟をメインで移動するのなら、電気属性のポケモンは不利だろうし――まあ。
どうにも変なイメージが、付きまとっていた。
さて、そんな三匹に代わり、新に緑葉の旅のメンバーに入ったポケモンはと言うと――
ユキワラシと、ヤミカラス。
白と、黒。
そんな発想をしてしまうほどに、分かりやすいカラーの二匹だった。
「まあしかし……これはまた、意外なメンバーだね。いや、何のポケモンに変わっていたところで、僕は意外って言うんだろうけどね」
「確かにハクロはそんな感じがするね」緑葉は笑って言う。
「適当なんだよな、僕って」そもそもが保守的なんだろうけれど。「まあとにかく、えっと、深奥産だったよね? このお二人さんは」
「うん。前に関東来る前まで、私、深奥に行ってたじゃん? その時に捕まえたポケモンなんだけど、氷と悪って、普通の戦闘でもそうだけど、トレーナーと戦うときとかに、意外と便利だったりしてね……色々戦ってる間に、そういうことに気づいたんだ」
「確かに、意外な弱点をつけるからなぁ。トレーナー戦は、野生と違ってタイプが豊富だし、特に悪は――無効化が狙えるわけ、か」
エスパーとか、地面とか、飛行とか――特に飛行ポケモンとエスパーポケモンに関しては、移動の利便性に言及すればほぼ百パーセント投入していると言っても過言ではない――ほとんどのトレーナーが一匹は入れているであろうポケモンに対して、効果的なダメージを与えることが出来る……か。それに、ドラゴンタイプやゴーストタイプは、氷や悪以外の弱点らしい弱点を、持っていないから――それは同時に、同じタイプを弱点とするという共通点でもあるのだけれど――ただでさえ強い二タイプを沈めるには、そのメンバー選びは、重要なのかもしれない。
まあ、それにしても。
それにしてもというか、そういう理由はあったにせよ、だ。
「メンバー、一匹減らしたんだね」
引き継ぎが三匹と、新規が二匹。
合計で、五匹のメンバー。
数を頼りにしていそうな(言い方は悪いけれど)緑葉にしては、珍しいなと、僕は思った。
最大限の利用を、最大限に利用しない。
出し惜しみなんて、らしくないように思えた。
「あ、うん。特にこれといって理由はないんだけど……育てるのは二匹が限界かなぁって思って」少し困ったように緑葉は言う。自分の力ではそれが限界だ――とでも、言わんばかりだった。「この子たちが育つまで、今のところ、五匹で行こうかなって思ってるよ」
「ふむ。ま、考えてみればそうだね。賢明な判断だと思うよ」
それに……五匹もいれば、戦力としては上々か。
むしろ緑葉の場合、実を言えば、引き継ぎの三匹だけでも、十分に強いし。
才能がないとか、散々自虐している緑葉ではあるけれど、努力の才能だけは、他の追随を許していない。
「でも、ジム戦では、デンリュウとオオタチとヨルノズクが、まだまだ現役だよ。一番強いのはあの子たちだし、雷タイプは、役に立つ場面が多いしね」
「まあ、ベストメンバーって言うのは、本来、臨機応変であるべきなんだろうね。様々なポケモンに手を出して、見聞を広めるべきなんだろうな、と思うよ。固執してしまうのは、悪い癖だと思うし。可能性を潰すことと同義だしね」
「確かにそうだけど」緑葉は意地の悪い視線を僕に向ける。「ハクロが言ってもね?」
「……だよねー」
心の底からそう思います。
ていうか、言われなくても分かってたけど……数にしても、ポケモンにしても、一番固執しているのは、僕なんだよなぁ。一匹だけで、ダークライだけで、他にはポケモンを所持せず――パソコン通信で預けることもせず、今まで、生きてきたのだ。
何しろ、最初に捕まえたポケモンから、今の今まで、何も変わってないもんな……。
っつーか。
まあ、僕はポケモントレーナーじゃないし(筑紫の前ではそう自称してしまったけれど)、僕のことなんかどうでもいいんだけど――
このメンバー選びに、気になる点が、一点。
非常に個人的な意見では、あるのだけれど。
むしろ、そういう点を気にする時点で、僕はやはり、根っこの部分ではポケモントレーナーなのかもしれないけれど……。
「緑葉さ、このパーティの組み方について、質問があるんだけど」
「ん、なに?」
「この前、上都で、僕と戦いたいとかなんとか言ってたけどさぁ……その時って、既にこのメンバーだった?」
「え? どうして?」
僕は言葉を発した緑葉を、慎重に見つめる。
緑葉の瞳の色は――濁ってはいないし、焦ってもいない。やっぱり、僕の思い過ごし……なんだろうなぁ、とは、思うんだけど。緑葉は、ダークライの技構成を、全て知ってるわけじゃないし、見破れる可能性は、ないはずだし。
数ヶ月前、朽葉ジムで木賊と戦った時、ちょろっと見ただけ……かな? それ以外には、秘密にしているはずだから、知っているはずはないよな。
思い過ごしか?
あるいは考えすぎ。
いや……ビビリ過ぎなだけか。
「いや……やっぱ気にしないで」
「ん? うん……」
不思議そうに、緑葉は首を傾げる。まあ、突然言われても、そりゃ分からないよな……でも、僕にとっては、このメンバー選び、死活問題だったりして。
ヨルノズクは……確か、違ったはずなんだけど。
このヤミカラスの特性が『不眠』だった場合――どう足掻いても、僕、緑葉に勝てなくなるわけだし。
……うーん。
まあ、不眠である可能性が高いかどうかは、分からないし、いくら僕でも、見ただけで人のポケモンの特性を判断することは出来ないけれど――
もし、そうだった場合。
先月、上都は檜皮で、筑紫と木賊が戦ったときと同じように、勝負は詰んでしまう。
戦わずして、勝敗が決まる。
……やっぱ、不眠対策として、手持ちを増やそうかなぁ?
あるいは、技構成を、変えるべきか。
でも、元々僕、戦闘嫌いという設定だしな……戦うためにポケモンを捕まえるのも嫌だし、かと言って、緑葉の申し出を断るのも辛いところだし……緑葉と戦うつもりがあるのなら、それを見越して、ダークライの技構成を、普通の戦闘に耐えられるようなものに変更するべきだし……もしくは普通に、手持ちを増やすべきなんだろうと、そう思う。
「どした?」
心配そうな、緑葉の声。
「いや、進路について悩んでるところ」
まあ緑葉に限って、そんな卑劣な選択もしないとは思うけれど。
どんな状況下でも詰まないポケモン配置をしておくべきなのが、ポケモントレーナーってやつなんだろう。
「進路? 学生じゃあるまいし、何言ってるんだか」
「いや、これでも僕、結構真剣なんだぜ……?」
でも、木賊なんかは、僕との戦闘を経て、不眠ポケモン投入してたりしそうだしなぁ……いや、鋼タイプに不眠はいなかった……と、思うけれど、どうなんだろう。僕の知らないそんなポケモンがいたとしたら、不眠タイプのポケモンを投入していても、おかしくない。いや、いっそ僕に勝つために、鋼ポケモンという己のルールを破っていたりするかもしれないな。
卑劣も卑怯も、存在しない。
それがポケモンバトルなのだから。
……まあ、姥目の森での戦闘中は思わず啖呵を切ったけど、考えてみるまでもなく、僕の戦闘の仕方って、かなり危ない橋渡ってるんだよなぁ。
不眠で来られたら、一発即死。
どころか、睡眠対策を練られた時点で、かなり不利な状況に置かれることに、なる。
……やっぱり技構成でも、見直すべきなのか。
まあ、何にしても、バッジを集めるなら、いつかは考えなきゃいけないことでもあるのかな。
ダークライの技も、メンバーの増加……についても。
いつか、ね。
いつになるのやら。
まあ十五歳のうちはまだいいや。
「まあ、とにかく、点検終了。戻していいよ」
「はーい」
緑葉は頷いて、わらわらと群がるポケモンたちを回収する。出てすぐ回収かよ、というポケモンたちの不満が聞こえてきそうだった。
「さて、どうしようか。緑葉、なんかしたいことある? 観光するほど、朽葉は楽しい町じゃないけど」
「んーと……マチスさんのところって、今空いてるのかな? 朽葉ジムって、解放してるタイプのジムだったりする?」
「ジム?」不穏な単語だ。「………………まさか、僕とバトりたいとか、考えてないよね?」
「ハクロに勝てるわけないじゃん」わざとらしく頬を膨らませて、緑葉は否定した。「そうじゃなくて、デンリュウのことで、ちょっと聞きたいことがあったりしたのです」
「ほう。で、なんで少佐に?」
分かってはいたけれど、とぼけてみる。
「だって、マチスさんって、電気ポケモンのエリートだし。それに、ハクロの知り合いでしょ? 私はコネがあればどんどん利用しちゃうよ。あくどいんだからね。ふふん」
ああ、そういや少佐って、電気ポケモン使いだっけ。その名もイナズマアメリカン! ……バカなんじゃねえの? いや、バカじゃないんだろうけど。でもなんというか、普段の付き合いをしていると、どうもポケモントレーナーとしての少佐を、見失ってしまいがちだ。
「それにしても、コネ……か」緑葉の自称するあくどさが稚拙で、何か笑ってしまいそうだ。「まあ、コネと言えばコネだけど」
「うん……まあ、なんだろね。二回も会ったし、話くらいは聞いてくれるかなーって」
緑葉の判断は、いささか押しが強いようにも思えるけれど、少佐にとったら素晴らしい根性といったところになるのだろう。少佐はあんまり、そういう細かいことを、気にしなさそうだし……まあ、それにしても、緑葉ほどあくどいって言葉が似合わない人間も、いないよなぁ。それくらいのことをあくどいと思っている時点で、全然甘ちゃんな気がする。
分かってやってるのかな。
……多分、分かってないんだろうなぁ。
「まー、少佐も暇じゃないとは言え……頼み込んだら時間くらいどうにでもなるんじゃないかな。あの人、仕事片付けんの早いらしいし。まあ元々は遊ぶために早く片付けてるらしいけど」
「そっか。では、そういうわけで、マチスさんのジムにお邪魔したいと思います。ハクロは、何かある?」
「……まあ、別に用事もないし、そうしようか」
それに……多分、僕も必然的に、少佐の所に行かなくてはならないのだと思う。先生から、呼び出し食らってるし。いやいや、マジで学生じゃあるまいしって感じなんだけれども。
「近所にジムがあるって便利だねー」
「……ジムリーダーによるけどね」
まあとにかく。
緑葉が悩んでいるデンリュウのことについて、不勉強の僕が答えられるはずがないし、そういうことについては、本当に、専門家である少佐の意見を伺った方が良いのだろう。僕はほんと、ノリと運で勝ち残っているだけだからな……あとは、数ある実戦経験のみ、か。だから人に戦闘を教え込むことなんて、出来るはずがないのだ。
分類するならだけど、緑葉みたいなトレーナーが、きっと、エリートトレーナーと呼べる存在になるんだろう。そしてそういう人間こそが、ジムリーダーや、四天王には相応しいのだと、僕はそう思う。
知と技と師と里。
そのどれもが欠けても優良なトレーナーが育たないという時代は、もう随分と前に終わっているんだろうけれど。まあ、前半二つぐらいは、未だに生きていて欲しいものだと、そう願うところだ。
あとは、友情と、愛情か。
「さて、そういうわけで善は急げだよ、ハクロ。ちゃっちゃと準備して、朽葉ジムにレッツゴー」
「うん? ああ、まあ僕は準備するもの何もないけどね」
「え、あ……じゃ、じゃあすぐ準備するからちょっと待ってて!」
とにもかくにも。
とりあえず、先生に色々と、小言を漏らされてくるとしようかな。
積もる話は、なければないほうがいいけど。
こうして緑葉とポケモン談義に花を咲かせられるのは、間違いなく、先生のお陰だから。
数年ぶりに、感謝の意くらいは、伝えたいところだ。
◇
緑葉と一緒にポケモンセンターに行き、とりあえず、件のデンリュウをパソコンで回収してから、僕と緑葉は、朽葉ジムへと足を運んだ。
万が一の可能性として、少佐も先生もいなければ良いのになぁ……というか、色々と取り込んでて手が放せない状況なら良いのになぁ……! という淡い期待を抱いたけれど、当然のようにそれは的中することなく、ジムの職員の皆様(みんな結構ノリが軽い人たちばかりで、流石は少佐のジムで働いているだけある、という感じだ)に案内されるまま、僕と緑葉は、二人のジムリーダーの元へと、通された。
事務室の扉を開けて、「失礼しまーす」なんて朗らかに言いながら中に入ると……なんか二人とも、厳格な表情をしたまま、無言で向き合っていた。先生は静かにお茶なんか飲んでるし、少佐は先生の顔色を窺うようにしているし……ジムリーダーの実態って、こんなものなのだろうか。いやまあ、面識がなければ、誰だってこんなもんか。少佐と先生は、ジムリーダーでこそあれ、関東と上都という違いがあるのだし、恩義があっても、親しくはないと、少佐が言っていた。
「失礼します」僕は出来るだけ大人しそうに、言う。
「ああ、坊主、よく来た……それと、そちらのお嬢さんは?」僕などには視線もくれず、先生は緑葉に尋ねた。「先ほども拝見しましたね。彼の知り合いかな」
「あ、ポケモントレーナーの緑葉って言います。あの、ハクロの幼馴染みで、その……お話を伺いたいと思って、無理を言って連れてきて貰いました」
「そうですか。どうも初めまして」先生は心から穏やかそうな表情で、頭を下げた。緑葉も恐縮して、頭を下げる。「私は、上都は丁子で、ジムリーダーをやっております、柳と申します。どうぞ、よろしくお願いします、お嬢さん」
「は、はい。こちらこそ、よろしくお願いします……!」
なんて、僕の前ではついぞ見せなかった、逆に怖くもあるようなとても紳士的な対応を、先生は緑葉に対して、行った。確かに、先生って、基本的には温厚で紳士的なんだよな……物腰も柔らかだし、年相応の貫禄というものが、備わっているし。それは小さい頃の僕ですら感じるほどだから、相当なものなのだろうけれど、何故僕や少佐に対しては、こんなに怖い人なのだろう。女性に対してだけ、発揮されるものなのだろうか?
「それで、坊主はどうした? 私の所へは、一人では来られなかったのかな」
先生は、口元を少しだけ上げる。どうやら僕をからかっているようだったが……それに対して、反発しても、気づいていながらスルーしても、先生的に、僕への評価は最悪だろう。こういう場合は、大人な対応――含みながらも切り返すことが重要だと、何度か教えられたことがある。
一体何を教わってるんだ、って感じだけれど。
人生経験って、こういうことを言うんだろうか。
「彼女は彼女で、少佐に用事があるとのことです。ここに来たのは、両者の意見が一致したからですね。もちろん、お世話になった先生を紹介したいという気持ちもありましたけれど……」
「なるほど、そうだったか。いや、すまんな、久々の再開で、無意味なからかいをしたようだな」先生は愉快そうに笑う。「まあ、本心ではないよ」
「んん?」黙って聞いていた少佐が、やりとりを一通り聞いてから、ようやく口を開いた。「ああ、俺が目当てなのか……なんだ、嬢ちゃん、おじさんと遊んでくれんのか?」
「その言い方、どう聞いても変態にしか聞こえませんよ、少佐」
「うるせえ」と、口の形だけで少佐は僕に言った。「それでは、ハクロ君とは積もる話もあることでしょうし、柳さんは、どうぞこのままで、事務所をお使いください。緑葉ちゃん、おじさんと向こうに行こうか」
「あ、はい」
言いながら、少佐は立ち上がって、緑葉をエスコートする形で、出口へと向かっていく。
「分かった。時間になったら呼んでくれ」
「では、失礼します」
「あ、少――」
――佐、と僕が言い終える前に、少佐は緑葉の手を引いて、事務室から姿を消してしまった。面倒事を全部押しつけやがって……いや、押しつけられたわけではないのか。本来、先生との話し合いを終わらせなければいけないのは、僕なんだったっけ。つーか、いや、ていうか、ほんと、何というかさ……先生と二人っきりにするなよなぁ、って感じだ。
なんか、どこか気まずい感じだ。
久しぶりすぎて、なのか。
単純に、先生だからなのか。
克服出来ない恐怖が、そこにはあった。
「さて、ハクロ」
渋く、落ち着いた声で、先生は告げる。
「とりあえず、そこに座りなさい」
「……失礼します」
少佐が座っていたソファに、僕は腰を降ろす。
……非常に怖い。
有無を言わさぬ圧迫感。それは決して、僕が先生に対して、恩義とかトラウマとかを感じていることだけが原因ではないように思える。
もっと根本的な。
本質的な。
そんな恐怖に程近い。
「……まさか、君が関東に移り住んでいるとは思わなかったな」昔を懐かしむような視線で遠くを見ながら、先生は語り出した。「深奥には、いつまで居たんだね」
「深奥に居たのは、五年前までですね。十一歳の時に、移り住みました」
なんだか、予想外に、和やかな会話で、僕と先生の再開は始まった。まあ、そりゃそうだよな。いくらジムとは言え、事務室でいきなり稽古をするほど、先生もバカじゃないだろうし。
「そうか。私が君に指導の真似事をしていたのは、君が九歳の頃までだったから……こうして会うのは、実に七年ぶりか」
「はい。その節は、お世話になりました。別れてから、連絡も差し上げられずに、すみませんでした」
「お互い様だよ。それに、君に教える技術や戦術は、もう既になかったしね。引っ越す頃には、免許皆伝だった」
坊主と言ったり、君と言ったり。
先生によれば、坊主とか、小僧とか、そうした少し見下した呼び方をする際には、何らかの親しみが込められているということらしいけれど。だから、少佐を『若造』と呼んだのにも、それなりの理由があるのだろう。そして、僕を『坊主』呼ばわりするのも――
けれど、一対一となると、その呼称も、『私』と『君』の関係に変わる。何故だか少しの違和感と、一抹の物悲しさを、感じないでもない。
認められているのか。
それとも便宜上なのか。
坊主と呼ばれる方が、いくらか、接しやすいのだけれど……。
「それで……あの時の、君の珍しい友達は、元気かね。なんと言ったか……黒い、珍しいポケモンだったね。未だに他の場所で彼を見たことはないけれど、間違いなく、ポケモンなのだろう?」
「はい。今も一緒です」
腰に通したモンスターボールを示しながら、僕は頷いた。
「それは良いことだ……友達は、いつかいなくなってしまうものだからね。出来ることなら、避けられない別れが来るまでは、一緒に居た方が良い。一緒にいることが、一番素晴らしいことだ」
何気なく、先生は言った。
避けられない別れ――そういう言葉で思い出すのは、やっぱり、父さんと母さんのことだった。避けられない……というわけではなかったのかもしれないけれど、やっぱり、僕としては、避けておきたかった別れではある。
いや、それがあったからこそ、人一倍、別れを怖がっているというところも、あるのかもしれないけれど。
それを学ぶには、あまりに大きい代償だ。
ダークライと比較することは、出来ないけれど。
「それに、そう……君のご両親のことも、先ほど若造から聞き及んだよ」
「あ……」
少しだけ、鼓動が早くなった。
「そう、ですか……」
「君は余計なことを、と思うかもしれないが……そういう気遣いは、大切なことだ。人の生き死にを知らないことは、知らず知らずのうちに、誰かを傷つける。私が知らぬうちに君の闇に触れぬよう、教えてくれたというわけだ。出来た男だよ、あの若造は」
「……まあ、そう、ですね」
余計なことを、と、一瞬、確かに思ったけれど……冷静に考えれば、僕の口から説明するよりも、幾分か、気が楽だった。どんな相手であれ、身内の不幸を他人に説明するのは、気が重い。そしてそれが、両親よりも目上の、年上の人間であれば、尚更、不自然な感情に襲われる。
話をしても、誰も幸せにならない。
その役目を、少佐は負ったのだろう。
……いつか、礼を言おう。
「私と君では境遇が違うのだろうが、私も随分前に両親を亡くしているからね、その辛さは、多少は分かるつもりだよ。もっとも、私の場合は、自分がいつ死んでもおかしくない年齢だがね……ははは」
「何言ってるんですか……全然、十分、元気じゃないですか、先生は」
お世辞でも何でもなく、ありのままを伝える。
「元気であることと、死期が近いことは、関係のないことなのだよ。まあ……会って早々、暗い話もないだろう。何か、明るい話題はないかな……ああ、そうだ、君は今、何をしているんだね」
「今……ですか。いや、お恥ずかしい話ですが……特に、何もしていません」
乾いた笑い声を、無理矢理くっつけてみる。
明るい話題……には成り得なかった。
まあ、笑い話には、なるのかもしれないけど。
「そうか……何をするか探している、ということかな?」
「……まあ、そんなところ、なんですかねぇ」
その問いに対して、僕は何と答えるのが、正しいのだろうか。考えてみれば、意外なことに、僕はただ、毎日毎日穀を潰しているだけの人間なんだよな――いや、意外でもなんでもないか。とは、言ってみても、ポケモンリーグ協会から、何度かお誘いは受けているのだけれど……それは、仕事ではないし。ああ、でも、十六歳ともなれば、がんばれば働くことが出来る年齢でも、あるのかな。学校に通っていなかった僕にとっては、難しいことかもしれないけれど、だからと言って、何かやりたい仕事はあるわけでも、ないんだけど――
十六歳。
就職出来る年齢、か。
この前、木蘭さんと会ったときに、木蘭さんが言っていたことは、つまり、そういうことなんだろうか。
十六歳という特別性。
いや、しかしそれは、男女で違うわけでもないし……。
「いやいや、焦る必要はないよ。君はまだ若いのだしね……どころか、若すぎるくらいだ。そう、本当にね……私は何度か、若すぎる君に酷なことをさせたのではないかと、そう思ったことがあるのだよ。君と出会わなくなってから、歳を負うごとに、そうした思いが強くなっていったものだ」
「いや……そんなことはありません。先生から教わったことは、今の僕にとって、大切な教えになってますから」
或いは礎に。
ポケモンバトルを抜きにしても――大切なことを、随分と教えてもらっている。
「……そうか。いや、多くは語るまい。そう言ってくれるなら、私にとっても、それはありがたいことだ。無理に蒸し返すこともないだろう」
私もあの時より、少し老いたということだろうな……と、先生は言って、少し遠くを見た。それは、何でもない、純粋に、遠くを――過去を見るような目。僕のような子どもには出来ない、過去が随分遠くにある人にしか出来ない、そんな目だった。
「しかし、実を言うとね、私は君がいつか私のジムに来るのではないかと、密かに思っていたんだよ。いや、楽しみにしていたと言っても、過言ではないな。それはしかし、結局のところ、見当外れだったが……」
「先生のジム……丁子、ですよね」
上都の地図を思い浮かべながら言う。
檜皮からは、結構距離があったはずだ。
「そうだ。しかし、見たところ、君は今、ポケモントレーナーという風ではないね。それに……連れているポケモンも、どうやら、あのお友達だけのようだから、その才を伸ばしているようには見えない」
「そうですね……機会がなかったのとは、違いますけど。ポケモンバトルには、そんなに興味がないと言うか……いや、興味じゃないな、えっと……熱くなれない、とでも言うか……うーん、言い方が難しいんですけど、意欲がそこまでないんですよね」
「才能を持った者が、それに興味を示さない。よくあることだ。向上心がなくなるというやつだな」
「そうなんですか?」
「得手は上手になれないからな。成長する楽しみがない」
そう言って、先生は、少しだけ笑った。まるで、自分にも覚えがあると言うような――そんな笑顔。
「ということは、バッジは一つも持っていないのかね」
「いえ、ここ朽葉ジムのバッジと――上都の、檜皮ジムのバッジは持っています。つい最近、免許感覚で取り始めたんですけど」
「檜皮……ああ、土筆の坊主か」その名前を出した途端、先生は笑顔になる。「あれは良い坊主だ。背丈が小さいからな、昔の君を見ているようでもある。あの坊主の成長は、上都の年寄り連中の楽しみだよ」
「…………え、やっぱりあんな感じだったんですか、僕って」
強くて腰の低い、生意気なガキ……いやもちろん、僕の方が百倍ぐらい、生意気だったとは思うけど。
似ているとは思っていたけれど。
やっぱりそうか……。
「そうだな。しかし昔に比べて、君は随分と、落ち着いたようだ。昔はもっと、無邪気だったように思うが――今は、影が差した、とでも言うのかね」
「……そうかもしれませんね」
落ち着いたと言うよりは、ただ単純に、落ちただけかもしれない。僕は着地が上手く行かなかったのだと、今になってみれば、そう思うことも出来る。
何が起因しているのか。
全てが原因なのかもしれない。
「しかし、珍しい方法でバッジを取っているようだね。関東と上都で、一つずつ、か」
「ええ、そうですね。まあ、ただ、里帰りした時に、筑紫君と知り合って――ああ、僕、実家が檜皮にあるんですけど――それで、その縁で、勝負して……バッジを、貰っただけです。バッジ欲しさに挑戦をした、というわけではありませんね」
「そうか、檜皮にね……いや、君とは随分、色々なことを話したと思っていたけれど、中々どうして、互いのことを知らないものだね。実家や、経緯……こうして戦いとは無縁の場所にいると、つくづくそう思うよ」
「同感です。それになんだか――思っていたより、苦痛ではありませんし」
「私と話すことがかな」
心配するような視線を、先生は向ける。
「それもありますけど――もっと広い範囲で、昔の知人と、会うことが、ですかね」
あるいは、両親が死ぬ前に別れた人と、会うことが。
過去を全て、亡きものにしようとしていたからか。
あまり、好きこのんで会おうとは思っていなかった。
「ふむ。確かに、小さい君には、確かに酷いことをしたものだからね。君が私を恐れていても当然だ。……私も、夢中だったんだろう、君という才能が伸びていくことに」
「才能――ですか」その言葉を口にする度に、心に影が差す思いだった。「あの、先生、お聞きしたいんですけど、才能なんてものは、本当にこの世に存在するんですかね」
それは自分を否定したいためと言うよりは――緑葉のような人間を、肯定したいための質問だった。
しかし先生は、
「ないかもしれない。けれど、言葉はある」
とだけ、言った。
そして、言葉がある理由を考えれば、分かることだ、と。
先生は小さく、しかし確かに、そう呟いた。
そしてそれ以上は、何も言わない。
「……まあ、自分で考えることですよね」
「そういうことだな」
緩やかな笑顔を浮かべて、先生は僕を見た。いや、見守った、と言うべきかもしれない。師匠と弟子の、この上ない、枠にはまった行動だった。
「ああ、そうだそうだ、忘れるところだったよ。若造に聞いたんだが……君も紅蓮島の催しに参加するようじゃないか。いや、まだ決めかねているといったところかな?」
「はい。なんていうか、行く義理や理由はありますけど、果たす義理は、ありませんし……でも、色々見ておくのもいいかもしれない、とは思っています。何分、日頃は時間を持て余していますからね」
先生は僕の言葉を聞いてから、しばらく沈黙して、少しだけ真剣な顔つきで、僕に告げる。
「君と再会出来たのも、何かの縁だろう。無理にとは言わないが、私を師と思ってくれているなら、是非とも参加してほしい。どうだ?」
「分かりました」
その真剣な表情に、竦んだわけではなく。
師の願いを受け入れるという形で、僕はあっさりと、パーティへの参加を、この場で決意した。
「君を桂に紹介したいのだ」
「……ありがとうございます」
紹介、か。
弟子として、なのか。
知人として、なのか。
友人として、なのか。
どれを取っても、どこかしっくり来ないけれど。
「…………そう言えば、先生は桂さんとお知り合いなんですよね」それとなく気になっていたことを、僕は訊ねた。「差し支えなければ教えて欲しいんですけど、えっと、どういう知り合いなんですか?」
「なんのことはない。昔の馴染みさ」
そして先生は、無邪気に笑った。
思ったほど、苦しくないし、辛くもない。
どころか、少し、気が楽になったかもしれない。
過去が増幅して、先生を恐怖の対象と思っていたけれど――いや、違うか。『過去』そのものを、恐怖の対象と思っていたけれど、実際、こうして対面してみれば、そんなことはなかったようだ。先生は、同一視してはいけないとは思うけれど、今では同じ目線で会話をしても、間違いではないような、そんな気もする。まあ、身長が伸びて、先生よりも背が高くなったというのも、あるのかもしれないけれど。
「桂も私も、もう老いぼれたな。桂の方が、いくつか若いがね……しかし、せっかく会えたのだから、君のことぐらい、教えておきたいのだ。私が培った財産としてね」
「……一応、僕は、弟子ってことになるんですかね」
伺い立てるように、尋ねてみる。誇りなのか、意地なのかは分からなかったけれど、会って改めて、先生に感じる所も、僕にはあったのだ。
「そうだな。ジムでは何人もトレーナーを育ててきたが、個別に鍛えたのは、君だけだ。唯一の弟子と言っても良いだろう。もっとも、弟子の割には、ポケモンの種類や扱い方がまるで違うがね」
「……ほんと、唯一の弟子が、こんな体たらくで、すみません」
「強くするために教えたのだ。勝つために鍛えたのではないよ」
「――はい」
それは――師事している時から、何度も何度も、言われてきた言葉だった。勝つことと、強いことが、同意義ではないということ――けれど、僕の場合は、基本的には、勝利しか納めないのだけれど……それでも、勝つことと強いことは、違うことだと、幾度となく、僕は思った。
木賊に対して僕が思うのは、そういうことなのかもしれない。
木賊を弟子と思っているつもりは、微塵もないけれど。
「まあ、何度も言うようだが、君にはまだまだ時間がある。土筆坊主は例外だが、大体の人間が頭角を表すのは、二十歳前後だろうよ。もっとも、ジムリーダーにはその例外が多くいるがね……気に病むことはない。自分のしたいことを、思う存分やったらいいんだ。……まあ、そういう風に、勝手なことが言えるのも、老いた者の特権なのかもしれないな」
「いえ、しっかりと、胸に刻んでおきます」
それが例え真実でも、虚実だとしても。
恩師からの教えは――全てを胸に刻んでおくべきだと、そう思う。その上で、それを利用するかどうかを、決めるべきだ。
「さて……そろそろ時間だ」
先生は腕時計で時刻を確認してから、そう呟いた。
「このあと何か、予定でもあるんですか」
「ああ、俗に言う、挨拶回りというやつだな。土台が同じとは言え、上都と関東は違う地方だからな。今はそうでもないだろうが、昔は他人の領土にそう易々と、余所者が顔を出して良いものではなかったんだよ。特にそれが、ポケモンリーグなんていうものに縛られている身分ならね。まあ、昔からの習慣というヤツだ。老人ならではのな」
「そうなんですか……」
だとしたら、先月、何食わぬ顔で上都に上陸していた少佐は、一体どんな裏技を使ったと言うんだ……いや、少佐なら、どんな手段を使ってでも、やりかねないけれど。
「さて、それではまたあとで会おう……と、言いたいところだが、恐らく、次に会うのは紅蓮島になるだろうな。老体であろうと、他地方であろうと、ジムリーダーの責務は変わらんのだ。忙しくてな。少しでも話が出来て良かった」
「はい。紅蓮島で会えるのを、楽しみにしています」
「……いや、もっと君に恐れられているかと思ったが、笑顔で会話が出来て良かった。私はどうも、若者に好かれる性質ではないものでね」
「はは……まあ、先生の場合、戦ってる最中が怖いだけですからね……日頃は結構、紳士的ですよ」
「そうか。土筆坊主と似ているのかもしれんな」
そう言って、先生は笑った。けど、いや……筑紫の場合は、尋常じゃない変貌ぶりだからな。ていうか、それは僕にも言えることなんだろうけど。
そういう部分は、先生から受け継がなくても良かったんじゃないかと思う。戦う最中だけ怖いとか、どんなキャラ作りだよ、と。
「しかし、若造はまだお嬢さんと話し込んでいるようだな。どれ、時間もないし、私は勝手に行くことにするよ。若造には、よろしく伝えておいてくれ」
「あ、そうですね、僕もそろそろ……帰りますんで」
出入り口に近い方に立っていた僕は、言葉を発しながら立ち上がり、扉を開けようと、ドアノブに手をかける。
と、その時、先生が普通に立ち上がったので、ふと先生の杖の存在が気になり、何となく、尋ねてみることにする。
「先生」
「なんだ?」
「ふと気になったんですけど、その杖、なんで持ってるんですか? まだまだ、足腰丈夫そうですけど」
「ああ、これか。これはな……」
先生は杖を手に持ち、少し口元を歪めてから、僕に近づいて――――
「ほっ」
――――っと、何を、思った、の、か。僕はギリギリ、その杖を絡め取って、気づけば、左手で、押し伏せていた。先生はその行動に驚きの表情を見せつつも、咄嗟に杖から手を離し、攻撃を、受け流す。結果的に、僕の反応に対して、怪我を負うことは、なかったようだ。
当然、先生が突き出した杖を僕が絡め取ることで、先生の腕は必然的に、自然な流れで、急激な降下を余儀なくされるところだったけれど、それをいとも簡単に――むしろ容易く、自然と、手を離した。普通なら、得物を盗られそうになったら、意固地になるなり、反撃に出るなり、しそうなものだ。素人考えでは、それが普通。なのに、先生は、離した。
普通の動きじゃない。
それくらいなら、僕にも分かる。
「……び、っくりするじゃないですか!」
あまりの衝撃に、杖を床に押し伏せた体勢のまま、僕は大声を上げていた。
「………………うわははは!」
一瞬の沈黙のあと、豪快に笑いながら、先生は僕の手から杖を抜き取る。僕はそれを黙って見ていることしか出来なかった。
「いや、すまなかった……しかし驚いたのは私も同じだ。驚かすだけにしようと思っていたのだが……。君は随分、強い人間になったようだね。精神的にも、肉体的にも。いやしかし、本当に驚いた。君は何か、武術でも習っているのかな」
「はぁ、まあ……一応過去に空手を、三年ほど」数年前の道場の風景を思い返しながら僕は答える。「今はさっぱりですけどね。ちゃんと習ったのは、型くらいなもんですよ。暇な時、家で一人で練習したりはしますけど……今のは完全に、反射神経でしょうね……」
「なるほど、身についているのは、基礎の基礎ぐらいまでか。いや、偉そうなことを言える立場ではないが……君にとってのポケモンが得手ならば、これが私にとっての得手であると、そういう話だ。ちょっとだけ、自慢をしたかったのかもしれんな。見事に反撃されてしまったが。ははは」
先生は心底愉快そうに笑いながら、放心している僕を置いて、一人でさっさと事務室を出て行ってしまう。
得手、得手……え、っと、武術が得手ってことか……? 杖の武術って……杖術ってことになるんだろうか。
先生は、杖術を嗜んでいるってことか?
初耳すぎるぞ、そんなこと……。
放心から一拍遅れて、僕は先生の後を追う。
「――み込みが早い! 嬢ちゃんは天才だな!」
「――りがとうございます!」
「よーし次だ! デンリュウ、でんじ……あ、柳さん! ……うわ、時間過ぎてる! すみません!」
バトルリングの上には、何故か緑葉と少佐と、二体のデンリュウがいた。そして先生を見つけるや否や、少佐は慌てふためいて腕時計を見やり、混乱している様子だった。落ち着けよ。いいから。いいから落ち着けって。
「いや、構わんよ。坊主との話も終わったところだ。私は一人で帰る。若きトレーナーへの指導を続けてくれ。そちらの方が、重要な仕事だ」
「すみませんでした! 高いところから失礼します!」少佐がバトルリングから降りようとするのを、先生は「見送りはいらん」と再度抑止する。
「迎えに来てもらっただけで十分だ。今度は桂に、君を友人として紹介してもらおう。紅蓮島で、また話をしようじゃないか」
「はい。それでは、また紅蓮島で」
「そうしよう。では、お嬢さんも、またお会いしましょう」
「あ、は、はい! ありがとうございます!」
迅速なお辞儀が二つ分。なんだかノリで、僕まで会釈をしてしまう。
「それじゃあ坊主、また紅蓮島でな」
「はい……楽しみにしています」
そしてもう一度、僕は深々と、頭を下げる。
なんだか認識が、色々と、変わってしまった。
先生のこともそうだけど、過去に抱いた感情も、色々と。
僕が先生に感じていた恐怖――それは、単なる大人に対する恐怖心ではなくて、もっと他の、得も言えぬ恐怖心で。それが何なのか、今までずっと分からなかったけれど――そして今も、しっかりと分かっているとは思えないけれど、なんとなく、輪郭だけは、掴めた気がした。
僕が先生に感じる恐怖。
それは、僕が自分自身に感じる恐怖と同じ。
――その人を知ることが出来たと思った直後に、また新しい片鱗を見せつけられる――
底なしの沼のような、永久の闇のような。
そんな恐ろしさを、おそらく僕は、先生に対して、感じていたんだろう。
「……マジでさぁ」
敵うわけないよなぁ。
本当に、先生の後姿を見ながら。
僕は、そう思わざるを得なかった。
鏡を見るように、とは言わないけれど。
ガラスを一枚隔てるような、そんな感覚だった。