12
さて――まあ、何と言うべきか。
当然ながら、と言うべきなのか、それとも特別に、と言うべきなのか。いや……やはり順当に、と言うべきなのだろう。
フリーザーは二匹とも、先生が引き取ることになった。二匹とも先生が捕まえ、そのまま先生が、所持する。当たり前のことなのだから、問題なんてない。けれどやはり、伝説を二匹同時に所持するという事実には、多少の驚きが含まれるものだった。
もちろんそのことは、誰の口からも語られないことであり、誰の耳に入ったところで、その誰もが、言葉にはしない事実だった。理由は様々。伝説のポケモンを一個人が所有しているという事実は公表しない方が良いし、公表したところで得はしない。いや、損をすることの方が多いだろう。それに、先生は他人に自慢をしたがるタイプでもないし……言い訳のような内訳だけれど、あんな巨大なポケモンを飼育出来るのは、ジムを構えている先生くらいのものだ。先生のジムは氷タイプのポケモンたちが安息出来るように、完璧な温度設定を保っている。と言うよりもはや極寒の地だ。だから、やっぱり、フリーザーたちを飼育するなら――もしあとほんの少しの命なのだとしても――先生に任せた方が良いのだろう。
……と、少佐は、考えたようだった。
「まあ、本来俺が意見するようなことじゃねえんだけどな」
とも、言っていた。
人がポケモンを捕まえることに問題が発生することはなく、それが伝説のポケモンであろうと、同じこと。
「まあ……そう言う例は、他にも色々とあるみたいだしな。伝説と謳われたポケモン、幻と崇められたポケモン。そういうやつらは、しかし、実在するからこそ話題に上がる。絶対量が少なくて、所有者が口外しないからこその伝説や幻ってことなんだろう。だからまあ、柳さんが大切に育てるなら、それはそれで、良いことなんじゃねえのか?」
ギンさんは船上で、そんなことを話していた。帰りの船――双子島での騒動を終えた僕たちが、少佐の運転する船に乗って、紅蓮島を目指して帰還しているところだった。
乗っているのは、少佐と、僕たち四人だけ。
柳先生は、個別に、トドゼルガに乗って帰って行った。あの老体で、この海をポケモンに乗って渡っていくのもすごいことだとは思うけれど、どうやら半世紀越しの夢が叶って、気持ちが高ぶっているようだった。いやはや、弟子の僕よりも遙かに元気な師匠である。
もっとも少佐だって、負けていないほどにパワフルだった。少佐だから、という理由で済ませられそうな気もするけれど、冷静に考えると、人並み外れた行動力を持っている。
ジムリーダーにしておくことすら惜しい存在だ。
最近僕は、本気でそう思う。
少佐本人が言うには、あの時波に流されたエリートトレーナーさんたちを救出した挙げ句、彼らを一度紅蓮島に送り届け、付き人さんにその後の処理を任せて――そのまま、速攻で双子島にとんぼ返りしてきたということらしい。まあ、僕たちが双子島を探検していた時間を考えればそのくらいのことをする余裕はあったのかもしれないけれど、精神的に、体力的に、本気で戻ってきちゃうところが凄い。やる気とかそういうちゃちな問題じゃなく、単純明快に、少佐は人間として、色んなところが図太いんだろう。そうなりたい、とは思わないものの――そういう存在に、憧れは、する。
少佐はそんな存在だった。
「まあ実際、伝説や幻のポケモンと相対して、それを捕獲出来るようなポケモントレーナーは、富や名声を欲するタイプではありませんしね……」青藍兄さんは、ギンさんの言葉を受けて返事をしていた。「ねえ、晶さん?」
青藍兄さんは不適な表情で、そう付け加える。
「え? ええ……そう、ですね」
晶さんははっとしたように、頷いた。自分がフリーザーを捕まえられなかったことが残念……というわけではないようだけれど、どこか落ち着かない雰囲気だった。こうした話題が、あまり好きではないのだろうか……と、僕はとぼけてみたりする。
「それにしても、お前、柳さんの弟子だったんだな」ギンさんが笑いながら僕に話題を振った。「道理でお前、馬鹿みてーに強いわけだ。いや、ジムリーダーに直々に鍛えられたからと言って、到達出来るレベルじゃねえな。お前もそれなりに、努力をしたんだろうな」
「いや、別に、そんなんじゃないですよ」
「だが、戦ったら僕が負けるぜ?」
ギンさんは、何故か楽しそうに言う。
まあ、でも確かに、ギンさんのポケモン構成を思い返してみれば……戦闘に特化した今の僕のダークライに、ギンさんのポケモンたちが勝てる要素は微塵もない。いや、先生にすら、僕は勝てるだろう。少佐にだって勝てる。負けると思う要素は、欠片も、存在していない。
唯一思うのは、パーティで出会った、トキワジムリーダーのグリーンだが――彼以外に対しては、敗北の予感は、一切沸いてこない。しかし彼と戦うことなんてあり得ないわけだから、僕は敗北の恐怖に苛まれることはないのだろう。
「まあ、勝ち負けが全てではありませんから」と、青藍兄さん。「多分、ハクロも分かってることだと思いますよ。こいつは強いですけど、まあ、なんていうか……トレーナーとしては未熟ですしね。なあ?」
「いや、そもそも僕はトレーナーじゃないって」って言っても、トレーナーカードを持ってるけど……「まあ、青藍兄さんたちの戦いを見て、少し知識不足かなとは思ったけどね」
「そういやぁ、お前ってそういう感じだよなぁ。戦闘に関するセンスは抜群だが、知識や常識が備わってねーっつーか……いや、感覚だけで勝ってるって感じかな」
「まあ、ええと……」否定はしないけど。
「だからこそ、鍛え甲斐がありそう、という感じですよね」晶さんが上品に口を挟む。「柳さんの気持ちも分かります。ジムリーダーが個人的な弟子を持ってはいけない、という風習を無視してでも、育ててみたい、という気持ち。ギンさんだって、そういうことを思っているんじゃないですか?」
「ん、まあ確かに……僕もこいつがどれほど強くなるのか、気になるけどな。よく、強いやつを見ると協力したくなるって言うもんだが、分からないでもないな。僕だって、こいつが強くなろうとしているなら、道具をやったり、ポケモンをやったりしたいからな」
褒められるのは嫌いではないけれど、べた褒めされるのは、あまり得意ではなかった。というか、居心地が、めちゃくちゃ悪い。実際に自分の戦いを見せてしまった以上、強さを否定したり嘘をついたり出来ないところが、さらに居心地を悪くする。ああ……なんで僕、あんなに興奮してしまったんだろう。
まあ、先生とのダブルバトルは……楽しかったけど。
師弟共闘、とでも言うか。
まあ、倒してはいないけれど。
捕獲――それも、先生だけが、だけれど。
それでもやっぱり、戦うことは、楽しかった。
「あ、そろそろつくみたいですね」青藍兄さんが、窓の外を覗きながら言う。「もう深夜ですけど……まあ、騒ぎも収まりましたし、このまま寝て、明日には普通に帰れそうですね」
「元々そういう目的で来てたって節もあるし、まあ別にどっちでもいいけどな。それに、知り合いも出来て良かったよ。強い知り合いがな」
「僕も皆さんとお会い出来て良かったです。うーん……まあ、僕自身がトレーナーに興味があったというわけではないんですけど、知り合いがいるのは、良いかな、とか思います」
「トレーナーの知り合いがたくさんいると、彼女さんの役に立ちますか?」
「え? ああ、まあ……って彼女じゃないですよ? ていうか、ああ、そう言えば、緑葉に色々と説明しないといけないんだった……」……また一人で説明しないで来たし。「ええと、兄さん、僕の肩持ってくれるよね?」
「ん? んー……それは面倒くさいな」
「面倒くさいとかじゃなくてね! 僕がこんな騒ぎに巻き込まれたのは元はと言えば青藍兄さんのせいなわけだからね! 流石に味方してもらわないとさ!」
「ああ、ああ、大丈夫。分かってるよ。でも、別に悪いことしたわけじゃないんだし、いいだろ? どうしてもってなるまでは、自分で弁解しろよ」
と、青藍兄さんは簡単に言うけれど――いやぁ、どうだろう。緑葉には、一人で突っ走らないと、檜皮で約束したような気がする。しかも、檜皮での約束から、ほんの少ししか時間が経過していないわけだし……いやしかし、なんか双子島頂上決戦があまりに途方もない戦いだったせいか、数ヶ月――あるいは一年間くらい記憶が吹っ飛んでいるような気もする。まるで双子島で一年間、時を過ごした気すらする。
気のせいだろうか。
……いや、やっぱ気のせいだろ、流石に。
青藍兄さんが来てからの一件が、二年くらいかかるような長い物語だったよなぁ! とか、そんな感想すら生まれてくるよ! 不思議だ!
「あ、そういやハクロ、お前の番号教えておけよ。気が向いたら連絡するからさ」
「ああ、えっと……」僕はポケットに手を伸ばした。が、ポケギアは水浸しだったんだ。ちょっと気分が落ち込む。「えっと、屋敷についてからでいいですか? 僕、自分の番号記憶してないので……」
「ああ、そういや俺もだったな。買い換えないとなぁ……データはちゃんと生きてるのか、これ」
「いざとなったら私が役に立ちますよ。電子データは、専門ですから」
理科系の男……じゃない。理系の男であるところの青藍兄さんは、ここぞとばかりに笑顔を見せた。是非とも僕のデータも復旧して欲しいところだ。緑葉や、婆ちゃん、筑紫等々の電話番号が記録されているわけで……これを失うのは、僕にとっては、怖ろしいまでの損失だった。
「さて、それじゃあ一同屋敷に戻りましょうか。お別れの挨拶は……また明日、ちゃんとするとして」
「そうだな。お前らも船で帰るのか?」
「ええ、僕たちはそうですね」
「私もそうです」と、晶さんは言う。
「だったら、帰りにまた一緒になるんだろ。その時でいいんじゃねえか? 俺は朝起きられそうにないしな」
「それもそうですね、じゃあ、そういう感じで」
窓の外に、紅蓮島の全景がはっきりと見て取れた。暗闇の中でも、町の明かりが煌々と島を照らしている。もし緑葉が心配して僕に電話をかけまくって、通じないことに憤っていたら……と考えると、マジで胃が痛かった。
あとで少佐にも弁明を手伝ってもらおうか。
先生にも……出来れば頼もう。
女一人に、とか言われそうだけど……大問題だもんなぁ。
「さて、それじゃあ、伝説も幻想もない現実に、戻るとしましょうか」
青藍兄さんの言葉にそれぞれ頷いて、僕たちは、船の動きが止まるのを、静かに待った。
◇
「ハクロ!」
「はい!」
「何度言ったら分かるの! どれだけ心配したと思ってるの! 何となく察しはついてたけど、一言言うなり、書き置きするなり、色々やれることはあったでしょ! なんでハクロはいつもそうなの! なんでこういう時に限って大人しくしてられないの! いつもはあんなに無気力なのに、どうして急に元気になるの! いつもみたいに面倒臭がって寝てたら良かったでしょ!」
「はい……あの、緑葉さん、言い過ぎでは」
「言い過ぎじゃありません!」
「そう……です、ね。はい、言い過ぎではないです……僕はいつもそんなんです……」
「とにかく怒ってるんだから反省しなさい!」
「はい……面目ないです」
僕はひたすら頭を垂れる他なかった。
屋敷に帰って部屋に戻ると、案の定、緑葉が起きていて、怒っていた。ドアを開けた一瞬だけはとても素晴らしくて可愛い笑顔を浮かべてくれたのだけれど、急に思い出したようにふくれ面になって、僕を叱責し始めた。いやもう、怒られる理由があって、それを受けるべき責任が僕にはあったので、もう怒るだけ怒ってもらって許してもらうまで謝るしかなかったのだけれど……それでも、怒られているうちはまだ良い方かな、とか考える僕は、そろそろいい加減、危機感というものに目覚めた方が良い気がした。緑葉に嫌われるということを、現実的に、考えるべきだ。今まで一度もなかったからと言って、いつ人間関係に亀裂が生じるかなんて、分からない。
「何があったか、ちゃんと説明してもらうからね。はい、どうぞ、説明して」
「はい……あの、本当にすいませんでした」
「説明」
「はい」
どこまで話していいものやら、と僕は考える。
今回の一件、あるいは幕引きは、先生の名誉が傷つくような話ではない。けれど……緑葉に話して良いものだろうか。もちろん、緑葉が他人に漏らしてしまうような性格でないことは知っているけれど……こういうのは、誰かに言わないから、という理由で誰かに話していい類のものではない気がする。秘密というのは、本来どんな理由があっても口伝してはいけないものだ。見た者、知った者だけが心のうちに秘め、絶対に口頭では伝えない。それが大事なのだと、僕は思っている。
だから、言うべきじゃないんだろう。
緑葉を信用していないとか、そういう次元の話ではなくて……ただただ、話すべきではないのだろう、と、僕はそう思う。
先生を取るか、緑葉を取るか、とか、そういう結滞な話ではなくて。
ただ単純なまでに、ルールとして。
だから僕は、先生の話はしないことにした。
「えっと、フリーザー、って知ってるよね」
「伝説のね。双子島に住んでるね。今は繁殖期なんだってね。フリーザーが怒ってるんだってね」
「あ、はい……その通りですが」
「聞いたよ!」緑葉は両手を突き上げて怒った。「全部聞いたよ! 心配で色んな人に聞いて回ったんだから全部知ってるよ! もう! ハクロに言い訳の余地なんかないの! ただ謝ってればいいの!」
「……えっと」
「知ってるのに聞くなよ、とか思わない!」
「はい……いや思ってません」
もうダメだこれは。
僕一人では何も解決しないようである。
一応、緑葉も、色々と分かってはいるんだろう。今回のことが、緊急事態だったということ。ポケギアが完全に水没してしまって起動しなくて、連絡が取れなかったこと。僕の実力がそれなりに役に立ったこと。僕の立場的な問題。
だから怒ってはいるけれど、本気で怒っているわけではないようだった。緑葉の目で、口調で、僕にもそれが分かった。
でも心配したんだよ、と。
心配で心配で、眠れなかったんだよ、と。
緑葉は、そう言っているのだ。
「……ごめん」
「ごめんじゃない!」
「うん、ごめん。そうだよな、緑葉はさ、いつも怒ってるってわけじゃなくて……僕が何かするのを黙ってることに怒ってるわけじゃなくて、僕が危ないことしてるって、心配してくれてるわけなんだよな」
「え、う、うん……」
「だから、ごめん。僕はちょっと、なんて言うか、檜皮の時……いや、もっと昔からか。何か危ないことをする時、緑葉に心配をかけるから黙っていよう、って考えてたんだけど、僕が黙ってるから、緑葉は心配するんだよな」
「……」
「だから、ごめんな」
僕は緑葉の瞳を見つめる。
緑葉の瞳が潤んでいることに、僕は部屋に戻ってきた時から、ずっと気づいていた。
自分だって、ずっと連絡しないで旅に出ているじゃないか、とか……緑葉だって似たようなところあるじゃないか、とか……まあ、実際のところ、思わないでもないけれど、これはそういう話でもないのだろう。これは、別に、お前も同じだから僕もいいだろう、とか、そういう話じゃない。
誰かが誰かを心配しているんだ。
どこにいようと、誰といようと。
ここにいないで、私ともいない。
そういう気持ちが、人を心配にさせるんだ。とても安全な場所に、自分よりよっぽど頼りになる人と一緒にいるより――今にも崩れてしまいそうな洞窟の中で、自分と一緒にいた方が、その方がよっぽど、僕たちは救われる。
自分の身に置き換えてみればすぐ分かる。
僕は緑葉を、いつだって、心配している。
その時の僕たちの間には……何か、特別なことをしてしまえるような空気と、それを遂行出来るだけの空白の時間が存在していたような気がする。緑葉の潤んだ瞳が近くにあって、頬も、額も、眉も、鼻も、唇も――すぐ近くに存在していたような気がする。けれど、多分それは、ただの気のせいだろう。二人きり、という情報が僕の脳を倒錯させていただけに過ぎないのかもしれない。全く、僕はいつからそんな妄想癖を身につけたのだろう。あるいは、そんな卑劣で安易な行為で、緑葉の機嫌を取り繕おうなんて考えが頭に過ぎるなんて――僕は、全く、いつからこんな軟派者になったんだか。
唇の柔らかさは、多分幻覚。
緑葉の囁きも、きっと幻聴。
二人を包んだ幸せも、幻影。
「……」
「……ごめん」
「……もう、いいよ」
「うん……ありがとう。今度から、全部、ちゃんと話すよ。緑葉に心配をかけないようにする」
「だから、もう、いい、から」
緑葉は紅潮した顔をふいと背けて、ベッドの上に俯せに寝転んだ。明日も速いし、このまま眠ってしまった方が良さそうだと、僕は思う。流石に歩き疲れて、戦い疲れて、僕もすぐに眠れそうだった。
ホテルというわけではないからなのか、部屋の電気類はベッドの付近ではなく、扉の近くにあった。僕は電気を消すためにドアに向かい、ついでに鍵も閉めておくかと確認しに向かう――――が。
人がいたので手が止まる。
う……う、ぅ?
「……あの、すみません、お邪魔でした、ね」
「……う、あ、え!?」
「え、ど、どうしたのハクロ」
晶さんがいた。
部屋の前に。
少しだけ、ドアを開けて。
覗き見ている……というわけではないようだったけれど。
「は、はくろー?」
「あ、いや……え? あのえっと……あ、晶さん? どうしてここに……というか何というか」
「あの、ごめんなさい……ハクロさんにお話があったので、先ほどから、呼んでいたつもりだったんですけれど……聞こえないのかな、と思って、その、失礼だとは思ったのですが、鍵がかかっていなかったので、ドアを……」
み、見られた……!
いや見られてない!
見られて困ることなんて、断じてしてない!
「すみません、退散します……」
「いやいてもらった方が良いかな! 誤解も解かなきゃって解く誤解なんかなかった! あ、晶さん入ってください! もう入っちゃってください! そして全部忘れてくれればいいんじゃないかなーなんて!」
「は、ハクロ? 大丈夫? えっと……」
傍から見れば女性二人を部屋に連れ込んでるという異常とも思える行動だったけれど、僕は仕方なく晶さんを引きずり込んで、部屋の鍵をかけた。これ以上誰かが入ってきて誤解を生まないために必要な行為だ。不埒な感情は、本気で混じりっけなし。
ベッドに座っている緑葉と同じように、晶さんを僕のベッドに座らせた。僕は立ったままで、二人を交互に見る。おいおいどういう状況だこれ。いや見た通りの状況だけど。
「あ、えっと……彼女さん、ですよね?」
「はぁ……」意味が分からない様子の緑葉。「えっと……ハクロ? あの……」
「ああ、ええと、晶さん、まずこちらがその、例の緑葉です。僕の幼なじみの……なんつったらいいんだこれ」
「えっと、初めまして、淡水晶と申します」
「え、あ、梔子緑葉と申します……」
うーん……何故か気まずい。
「何と言うか……緑葉、この方はほら、えっと、さっきの双子島の件でご一緒したエリートトレーナーさんで……えーと……何のご用で?」と、聞くほかなかった。
「あ、いえ……その、もし緑葉さんとハクロさんの間に認識の違いがあったら大変だと思って、その、説明をしに来たのですが……私は必要なかったようですね。出しゃばったようで。ごめんなさい。すみませんでした」
「いやそんなことはないと思いますよ?」焦りながら限界まで首を捻る。いやぁどうだろう。実際そんなことはないのか?「まあええと、一応、和解したもんね?」
「……」
「なんで無言だよ!」
「じょ、冗談だよ! えっと……あの、ハクロがご迷惑をおかけしました。エリートトレーナーさんと一緒だったって聞いて、だったら大丈夫かな、と思っていたので……多分、認識に問題はない、よね?」
「えーと……多分ね?」また首を捻る僕。
「それでしたら良かったのですけれど……すみません、心配性というか、気になってしまったものですから。気になるともう居ても立ってもいられなくなる性格らしくて……その、誤解があると色々、困ることもありますし。でも、あの、問題がないようで、良かったです…………」
何故か頬を赤らめている晶さん。
……なんでだ。
一体何を見たんだ。
幻覚でも見たのか?
「と、とにかく誤解も解けたし、晶さんの心配事も解決したり、万々歳……かな? 良かった良かった。うん。ええと、今度からは僕が気をつけますんで、その……お世話かけました」
「そうだね」
緑葉はじと目で僕を見る。やめてください。
「ええと……そうだ、晶さんも、その……明日早いですし、ええと……部屋に戻って寝た方が良いような気もするんですけど、どうでしょう? ああていうか、わざわざ来ていただいたわけだし送っていくのが筋か……」
「あの、では手短に……その、元々は、ハクロさんにお話があったものですから」
「ああ……そう言えばそうでしたっけ」
未だにきょとんとしている緑葉と、疑問符に塗れている僕。晶さんも頬を赤らめつつ、言葉を紡いでいた。誰かに見られたら誤解されることは必死だ。いやぁ、三人だけで良かった良かった。
「えーっと……何でしょう?」
「ええ、その、もし不躾でしたら断っていただいて構わないですけど……私と戦っていただけませんか? という、だけの、お願いなんですが」
「え? ああ、なんだ、そんなことですか……」てっきりもっと修羅場る話かと思ったけど、どう思い出しても晶さんと良い関係になった記憶なんて一欠片「は!?」
「ご、ごめんなさい……やっぱり失礼でしたね」
「いや、え? あの、すいません、さっきからちょっと展開が急すぎて処理がおいつかないんですが……? な、なあ、緑葉?」
「えっと……え? あの、わ、私に振られても困るけど……」
「……だよねぇ……」
「ごめんなさい……いえ、先ほどの柳さんとの戦いを見ていて、ハクロさんとは是非お手合わせをお願いしたいと思ったものですから。でも、ギンさんや青藍さんの前で言うことでもないと思っていたので……それに、明日になってしまったら、都合がつかないかもしれないと思って……それで今、お話しておこう、と」
「ああ、気になってしまったんですね……」
「……すみません」
緑葉の前だからなのか、それとももっと他に何か理由があるのか……晶さんは双子島で見せた凛とした姿ではなく、何故か恥ずかしがって体を縮こまらせていた。一体何か、晶さんの心をへし折ってしまうようなことを、僕と緑葉はしていただろうか……などととぼけてみたり。
「えっと……緑葉、僕たちって明日、何時に出るんだっけ?」
「えっと……お昼くらい、だっけ?」
「じゃあ、どうでしょう……うーん、船は朽葉港に着くから、少佐にジムを借りる……いや、そもそも僕と戦ったところで、あまり楽しいことは……」
「それでいいんです」
晶さんは少しだけ、真剣な表情を取り戻しながら、そう言った。
「それでいいって言うのは、その……」
「私はハクロさんと似ていると……そう思います。けれど、私よりもハクロさんの方が、優れていると、そうも思うのです。ですから、出来れば私と、手合わせをお願いしたいな、と」
晶さんの表情は、今や完璧に、真剣そのものだった。まるで僕を何かの仇のように、見据えている。狙われる覚えはないけれど、恨まれるようなことをした記憶もないけれど……それでも。
何となく、理由は分からないでもない。
あるいは一環していたのか。
テーマとして。
それとも、人間性として。
出会った時に感じてから、ずっと。
「すいません晶さん、えーっと……すぐに行くので、外で待っていて貰えますか? 多分、個人的に話した方が良いことのような気がするので」
「……そう、ですね」晶さんはすっと立ち上がり、長い髪の毛を揺らす。「すみません、緑葉さん、お騒がせしてしまって……私、ただのトレーナーですので、ご心配には及びませんから」
そんな意味深なセリフを口にして、晶さんは部屋を出て行く。廊下には長椅子があるし、少し待たせても、大丈夫だろう……と失礼なことを考えながら。
「……まず、先に緑葉に話さないとね」
「こうやってちゃんと話されると、それはそれで、ちょっと困るものだね」緑葉は少し笑う。「晶さん? 綺麗な人だったな……それに、エリートトレーナーなんて、すごいよね」
「うん……まあ、女性であるとか、綺麗であるとか、そういうところは、まあ置いておいてだ」別にやましい気持ちもないけれど。「これは緑葉に言っても、別にいいだろうと思うけど」
「うん」
「僕のダークライ……は、稀少だろ?」
あるいは貴重。
数少ないポケモンだ。
「だね……あんまり、ハクロとダークライについて突っ込んだ話はしたことないけど、珍しいポケモンだよね」
「うん。まあ、僕が捕まえた以上、同じようなポケモンがどこかに生息しているはずなんだろうけれど――人里に降りてこない、人に姿を見せない、ほとんど伝説のような、幻のような、希少種としての扱いなわけで。で、それは多分、みんな何となく、分かっているんだと思うんだけど……」
「そうだね。私も色んな所行ったけど、ダークライみたいなポケモンは、見たことないし」
「でも、僕はそんなポケモンと出会って、所持してる」
「うん」
「晶さんも、きっと、そういう人なんだ」
と、僕は考えていた。
最初に会った時から、ずっと。
どこか、普通のポケモントレーナーとは違う、異質な雰囲気を感じ取っていた。
「晶さんも、あまり、人目に触れない方が良い、というポケモンを持っているんだと思うんだよな。なんとなくずっと、そんな気がしてたんだ。だけど、そういうポケモンって、何となく、人目に触れないようにしよう、と思っちゃうんだよな。ほら……赤火の件も、そうだけど」
「そうだね。あんまり、口外しない方が良いことかもね」緑葉は頷く。「私は持ってないけど……もし持ってたら、そう思うかも」
「それに実際、珍種のポケモンが見つかると、実験台になるっていうような噂もあるし……手放したくないって気持ちがあるよな」
もっとも、そういうことを抜きにしたって、人の目に触れさせたくないと考えるのが、一般的な思考だと、僕は勝手に思っている。
伝説や幻が人目につかないというのは、案外そういうところに、理由があるのだろう、とも。
「だから……晶さんは、そのポケモンを思い切り戦わせることが出来ないんじゃないかな、とか、ね。そんなことを考えたわけ」
「ふうん……何だか、大変なんだね、エリートトレーナーさんも」
「まあ、本当のところはどういうわけだかは分からないけど。とにかく晶さんが戦いたいと望んでいるなら、僕は……うん、双子島で、お世話にもなったし、戦ってみようかな、と思ってるんだけど」
あるいは――ダークライを戦わせたいなどと、僕自身が思っているだけなのかもしれないけれど。
技構成を変え、さらに戦闘に特化し――様々な状況に対応出来るようなバリエーションに特化してしまったことも、原因かもしれない。
けれど、とにもかくにも。
人の役に立つのも、悪くない。
「だから、ね」
「うん、なんかあんまりよく分からないけど、そういうことなら、行ってきたら? それで、ハクロももう、ちゃんとしたポケモントレーナーになっちゃえばいいのに」
「……まあ、それは、うん」
あんまり、楽しい話ではないし。
トレーナーカードは持っているけれど……そう言えば、緑葉には言ってなかったんだっけ。ああ、緑葉には言ってないことばかりだ。
少しずつ説明していかなきゃ。
けれど今は後回しにして。
「とにかく、行ってくる」
「うん……引き留めたい気もするけど、ハクロのためには、そっちの方が良さそうだね」
僕は緑葉とおやすみの挨拶を交わして、部屋を出ることにした。ドアのすぐ近くのスイッチで電気を消して、廊下に出た。そう言えば双子島に行く時は鍵をかけていなかったんだっけ……なんて今更不用心さに辟易としながら、僕は部屋に鍵を掛ける。
晶さんは長椅子に座って、真剣な表情をしたまま待っていた。
「お待たせしました」
「いえ、夜分にすみません」
「選ばれた人間――と言うと、慢心が過ぎますかね」僕は鍵をポケットに入れて、そう呟いた。「分からないでもないでんです。僕たちの感覚ってのは、ギンさんや、青藍兄さん、ましてや普通のトレーナーの人にはあり得ない感覚ですもんね。いや、まあ……僕がガキだから、そんなことを思うだけなのかもしれませんけれど」
「いいえ。選ばれた人間であることは、確かですよ」
晶さんは、微笑む。
けれど、それは否定的な笑みで。
「でも、選ばれた人間という意味では、誰もがそうです。誰もが選ばれて、様々なポケモンと一緒になる。誰もが、選び、選ばれて、ポケモンと一緒になるんです。どんなポケモンだって、どんなトレーナーだって、それは同じことです。私たちが捕まえた稀少なポケモンは、種族が稀少であるという意味でしかなく、個としてはどんなポケモンであれ、唯一の存在ですから」
「……ですね。やっぱり、慢心してるんだな、僕。こいつのこと、どっかで、そういう存在としてしか見られていないのかもしれない」
あるいはそれは、比較対象となる、同じ種族の違う個を、見たことがないからなのかもしれない。
絶対的な存在になってしまう。
一匹しか見たことのない、一匹。
だから――種としても、個としても、見られないでいるのかもしれない。
「でもそれは、悪いことではありませんよ」
晶さんの優しい微笑みに癒されながら、僕はポケットの中のモンスターボールを握った。
熱い鼓動を感じるわけではない。
けれど確かな存在が、そこにある。
「どこかで、戦いましょう」
「――今から、本当に、いいんですか?」
「明日になったら、面倒くさくなるかもしれませんし、面倒事は、その日のうちに終わらせたいな、と。幸いまだ、記念すべき日ですから」
「彼女さんは……いいんですか?」
「ちゃんと説明しましたし、もう大丈夫だって、分かってくれたと思います」
それに、いい加減緑葉の方が限界だろう。
僕は晶さんと連れ添って、屋敷の廊下を歩いて行く。屋敷の中にも戦闘出来るスペースはあったはずだけれど、深夜にはあまり好ましくないだろう。紅蓮島の、どこか人気のないところで戦うのが、ベストであるような気がする。
「そう言えば、僕、ふと思ったことがあるんですけど」
「何ですか?」
「桂さんに、柳先生に、少佐……マチスさん。炎、氷、雷。色で表すと、赤、青、黄。伝説の三鳥の組み合わせと、今回、双子島の件で活動していたジムリーダーの皆さんって、そういう組み合わせなんだなぁ、と思ったんですよ」
「ああ……そう言えば、そうですね。気づきませんでした。本当、もしかしたら、桂さんやマチスさんも、三鳥を狙って……あるいは所持しているかもしれませんね」晶さんは微笑む。
「ええ。関東地方において、ものすごく有名な神話ですもんね、三鳥伝説。でも……」
僕は一呼吸置く。
階段を下りて、玄関へ。
深夜であっても、出入りは自由であるようだった。
「あの、僕、上都の生まれなんですけど、言いましたっけ」
「ええ、ギンさんとお話されてる時に」
「あの、上都だと、三鳥より有名な神話があって……三犬っていうんですけど。まあ、もちろん、ご存じですよね。これも、赤、青、黄の組み合わせなんですけど」
晶さんは答えない。
まあ、尋ねる必要もないんだろうけれど。
「スイクン、っていう三犬のうち一匹がいます」
僕は、もしかしたら、ずっと前から、理解していたのかもしれない。
晶さんと初めて会った時に感じた感覚――あれは、水ポケモンという感覚だけではなかった。野性的な――生物的な、獣としての感覚。魚類ではない、水の感覚。
もしかしたら――という感覚。
しかしそれが今は確信になっている。
「晶さんがどういう方なのか、出会って数時間の僕に分かるはずもないですけれど、ポケモンのことは、何となく分かりました」
「それは、私のセリフですよ」
と、晶さんは言う。
どちらも正体不明の――一般人でありながら、妙なポケモンを連れている者同士。
「ハクロさん、あなた、何者なんですか?」
「親戚が極端に少ない、ただの少年だったはずなんですけど……どうなんでしょうね?」
自分でもよく分からない。
僕がこれからどうなるのか。
どうしたいのか。
憧れも、夢もない。
けれど――完成だけは、してしまっていて。
「晶さんと戦ったあとで、考えてみようかな、とか思ってるところです」
「勝ったらですか? それとも、負けたら?」
「いえ……すいません、僕、負けないです」
「……ええ、そうでしょうね」
晶さんは機嫌を害することはなく、むしろ楽しそうに微笑んだ。
今の僕の発言は、不遜な態度だろうか?
それとも、調子に乗っているだろうか?
……いや、そうじゃない。
きっと晶さんには勝てないと思います……なんて言うことの方が、今から戦う相手に対してよっぽど失礼だということを、僕はもう、完璧に理解していた。
今回、様々な人と出会って、僕は理解した。
強者に求められる資質。
あるいは相応な態度。
力を与えられてしまったなら――それに応えなければ、力のない人間に対して、失礼なのだということを、僕は、思い知らされていた。
上に立つものは、超然としているべきだ。
それが、上に立っているという自覚がなくても、上に立ちたいと、願っていなくても。
そう生まれ、その位置にいるなら、そうしなければならない。
「でも、私も自分が負けるとは思っていません」
だからこそ、晶さんはそう答える。
僕は、笑う。
いや……無意識に、笑っていた。
ああ、そうだ。
この感情。
お互いが、自分の勝利を確信している。
そうした者同士の、戦い。
そしてほんの少しの、敗北への畏れ。
ああ、だから――僕にとっては、これがきっと、初めてのポケモンバトルで……そして、ポケモントレーナーとなる、初めての舞台なのだろう。
◇
……。
……。
さて。
終わったと思っていた紅蓮島での物語はまだ続いていたらしく、目が覚めた時には緑葉は既に起きていて、着替えが終わっていた。まあ、着替えと言っても昨晩とほとんど似たような格好ではあったのだけれど、それよりも少し動きやすそうな、ラフな格好だった。部屋は冷房がついていて、少し寒いくらいだった。
「……おはよう」
「あ、おはようハクロ。いつの間にか帰ってきてたんだね。私は寝てたみたい」
「……うん、僕もいつどうやって帰ってきたのか……」思い出してみる。うん、ちゃんと覚えていた。「えっと、覚えてるな。夜の二時に、歩いて帰ってきたんだった」
「ちゃんと覚えてるじゃん」
晶さんとの勝負については……まあ、これも覚えている。けれど別段、特別なことがあったわけでもないし、それを発表したいという気持ちもない。それを緑葉に報告して、褒めてもらおう、なんていう気は起きない。そうしてもらったところで、僕は喜ばないし、緑葉も別に、嬉しくなんてないだろう。
「んーと……そうだ、ご飯食べに行こうか?」
「ああ、うん……今日は、もう帰るだけだもんね」
僕はベッドから抜け出して、体を伸ばした。ポケットの中にモンスターボールはない。机の上に、それはある。鍵や、使えなくなったポケギアと一緒に、存在している。肌身離さず持っていたダークライは、今はそうした危機感とは距離を置いた場所に、存在している。
「ああ、そうだ。僕の電話番号、緑葉、分かるよね?」
「うん、どうして?」
「昨日会ったトレーナーさんたち……えっと、晶さんと、もう一人、ギンさんっていう男の人がいるんだけど、その人に聞かれてたから。あとで焦らないように、今調べておこうかなと思ってさ」
「そうなんだ? ふうん、ハクロが番号交換ねー」
何か含みのある言い方をしながら、緑葉は僕の電話番号を紙に書いてくれた。僕はそれを受け取り、ポケットに忍ばせる。今日朝食の席で会えればそれでいいし、会えなくても、船の上で会えるだろう。縁っていうのは、そういうものだ。
「なんだかとっても長い時間、紅蓮島にいた気がするね」と、緑葉が言う。
「ああ……そうだね。気持ち的には、一年……いや、二年くらいいた気がするよ。何故だろうね? たった一日いただけなのに」
「さあ……」
「どうしてかなぁ」
なんて会話を交わしながら、僕たちは部屋を出た。廊下に出ると、屋敷に宿泊していた人たちとすれ違う。昨日の一件を知らない人も、多くいることだろう。
「ハクロ、帰ったらどうするの?」
「あー……そう言えばなんか、兄さんが豊縁に行くとか、何とか言ってたけど、どうなるんだろう。緑葉は帰るつもりあるの?」
「うーん……顔を見せなきゃ、とは思ってるから、この機会に一緒に行こうかな?」
「赤火のポケモンも気になるんだけどね、個人的には……」
ダークライよりも、遙かに伝説級――あるいは幻級のポケモンのことを気に掛けながら、僕と緑葉はホールに出向いた。昨日に比べて明らかに人は減っていたけれど、それでも全員を把握出来ないくらいに、人は集まっていた。トキワジムリーダーの姿は――流石に、ないようだ。
昨晩と同じく立食形式の朝食。僕と緑葉はテーブルを一つ確保して、皿を片手に食事の前を練り歩いた。朝からしっかり食べる、という方針の緑葉に合わせて、僕もしっかり食べることにする。いつ何時、何が起こるか分からないのだし。
「うーっす」
もの凄い形相の青藍兄さんが近づいてきて、僕たちの座っているテーブルについた。手にコーヒーを持っているだけで、食べ物は一切ない。
「おはようございます」
「おはよう兄さん……やっぱ寝起き悪いね」
「いやつーか、疲れたんだよ。はあ……久々だなぁ、ポケモンバトルしたなんて」
「え、青藍さんも戦ったんですか?」
「ん? ああ……そう言えば緑葉ちゃんとは全然双子島の話をしてなかったな。見せたかったなぁ、俺の勇士」
まあ確かに、青藍兄さんが行った昨日の戦闘は、是非とも緑葉には見せるべき姿だったかもしれない。今もまだ、緑葉は青藍兄さんがエリートトレーナーだということを知らないだろう。僕だって知らなかったし……まあ青藍兄さんが自分から言わない限り、僕が言うようなことでもないんだろうけれど。
「それで、青藍兄さん、豊縁がどうとか言ってたけど……結局、どうするわけ?」
「ああ、そうそう、お前らを連れて行くって話な。せっかくだし、顔見せに行こうぜ。どうせ暇してんだろ、ハクロ。それに、緑葉ちゃんもたまには親に顔見せないとな」
「そうですねー」
青藍兄さんが言うと、妙に説得力のある話だ。まあ、僕が言っても同じことだろうけれど。
両親がいない二人。
僕たちには、会わせる顔があっても、見せる親がいないのだ。だったら緑葉には、本当にたまにでいいから、実家に帰って欲しいな、と、思うばかりだ。
「つっても、どうやって行くわけ? 船?」
「ヘリでも借りるか?」
易々と、青藍兄さんはそんなセリフを口にした。いや、どうだろう……実際、青藍兄さんの財力があれば、出来ない話ではないのだろうけれど。
「まあ、朽葉について、少しゆっくりしてから考えようぜ。俺は少し、疲れた……最近仕事詰めだったのに、また妙なところで、仕事しちまったからなぁ」
「仕事って……」まあある意味、エリートトレーナーとしての仕事なのかもしれないけれど。「とにかく、朽葉につくのが先決……か」
「だな」
「ですねー」
三人で朝食を食べている間、少佐や、桂さん、先生の姿を見ることは出来なかった。晶さんやギンさんとも接触しなかったし、他のエリートトレーナーさんたちと会うこともなかった。まるで昨日のことなんて、淡い夢だったのかもしれない、と思うような……。
「あーそういや、出発時間は昼だったはずだけど、お前たち、どうする?」
「僕は……特にはないかな。緑葉は?」
「え、うーん……紅蓮島って特有のポケモンもいないし、双子島は……近寄らない方が良いよね? だったらやることはないかも」
「まあ、あんまり好ましくはないかもな」と、青藍兄さんはぶっきらぼうに呟いた。「まあ、行きたいんだったら、ハクロ連れてけば安心だろうけど、俺はパスだ」
「いやいやいや」
「じゃ、ゆっくりしてよっか、ハクロ。ハクロも疲れてるんでしょ?」
「ん、まあ……熟睡したとは言え、疲れたかもね」
若いのに……とか自分で思いつつ。
僕らは満足するまで朝食を食べて、お互いに部屋に戻った。その道中でも誰かと出会うことはなく、驚くほど穏やかな時間を、僕は過ごしていた。昨晩緑葉にかけた心配を穴埋めするかのように、緑葉と一緒に、過ごしていた。
「実家に帰ったら……うー、長居しちゃうからなぁ」
「緑葉はちょっとは休みなよ。頑張りすぎだって」
「だって、頑張らないと上に行けないもん」緑葉は不満そうに言う。「もっともっと頑張らないと……エリートトレーナーにすらなれないしさ」
「うーん……まあ、僕に言えることは、ほどほどにね、ってところかな」僕はそれだけ言って、ベッドに寝転がった。やっぱり体がだるいようだ。「ねえ緑葉、本当にどこにも行かなくていいの? せっかく紅蓮に来たのに……」
「せっかく来たけど……ハクロ、今回は紅蓮に来たことより、もう少し大事なことがあった気がするけど?」
「……え、なんかあったっけ?」
「……とぼけてる?」
「いや……」何かあっただろうか。ああ、パーティ? いや、緑葉の着替えか? 着物可愛かったよ、とでも、言うべきだろうか。いや……「……えーと? ごめん本当に分からない」
「誕生日」
「……ああ」
そう言えば、そうだったっけ。
すっかり、てっきり……忘れていた。いや、正確には過ぎたこととして、忘却しようとしていたのだろう。誕生日なんて、過ぎてしまえば、何のイベントでもない。一日限りの、夢なのだから。
「そう言えば、僕は十六歳になったんだっけね」
「うん。だからせっかくお祝いしてあげようと思ってたのになー」
なのに、一人でどっか行っちゃうんだから……と緑葉は拗ねるように言って、唇を尖らせた。その姿を愛おしい、と思ってしまう僕は、やっぱりなんていうか、ちょっとやばいんだろう。最近少しばかり、緑葉に対して、盲目的だ。
「お祝いって……?」
「誕生日過ぎちゃったから、もうあげない」緑葉は膨れたまま、顔を背ける。「ハクロがいけないんだからね」
「……まあ、妥当な判断ですかね」
僕は大人しくそれを受け入れる。緑葉からのプレゼントを期待していないわけではなかったけれど、過ぎてしまったのなら、仕方がない。僕はそれを受け入れてしまうことにした。そうした方が、色々と楽だろう。
とても疲れた体を横にしていると、意識がぼんやりと薄れていくのが分かる。疲れていたのか、寝不足なのか……それとも成長期なんだろうか。僕は目を閉じて、穏やかな呼吸をし始める。両手足は鉛のように重く、瞼は多分、接着されてしまった。目を開けたい。緑葉と話していたい。そうした欲求があるはずなのに、目を開ける、起きる、という行為がとても面倒くさいことに思えている。
閉じた目はもう開かない。
それが当たり前のことなのだと、自分を正当化している。
薄れ行く意識の中で、僕は緑葉の言葉を聴く。幻聴かもしれない。僕の妄想かもしれない。緑葉は僕のすぐ近くで、言葉を呟く。何て言ったのだろう。それはとても楽しい言葉で、嬉しい響きで、喜びの呪文だった。僕はその言葉を聴いて、とても幸せな気持ちになる。その言葉を言語化することは、眠りについてしまった僕にはもう出来ない。僕はそれでも、緑葉に何か言ってみたくなる。何かを伝えたくなる。しかし、僕の口は開かない。何かに押し潰されて、まるで接着されてしまったかのように、圧迫されていた。けれど、それは嫌な圧迫感ではない。そして僕はただただ、重力に従って、落ちていく。
緑葉の匂いがする。
それで、僕は幸せな気持ちになる。
僕がいるのは夢の世界なのか、それとも現実の世界に夢が来たのか。僕はとても清々しい気持ちのまま、眠りにつく。抵抗することは何もない。ただただ、優れた幸福に包まれて、落下していく。
「おやすみ、ハクロ」
緑葉の言葉を聞き取る。
もう僕の口に圧迫感はなかったけれど、僕は何も言わずに、眠りについた。
◆
蛇足に塗れた、読後感の良さを打ち壊してしまうような夢を、あるいは、過去の記憶を思い出すような夢を、僕は今、見ている。
「晶さんの夢って、何ですか?」
僕は晶さんに訊ねているようだ。
不思議な気持ちのままで、自分と晶さんのやりとりを、俯瞰している。
「夢ですか? ……ハクロさん、おかしなことを訊くんですね」
「いえ、答えたくなければいいんですが」
「そんなことはありませんけれど……そうですね、咄嗟に答えられないということは、考えたことがなかったのかもしれません」晶さんは困ったような表情で、そう呟いた。「ハクロさん、同じことを訊き返してもいいですか?」
「でも、僕の答えも、同じですよ」
「ええ、そうでしょうね」
人気のない、上級者同士のバトルとはとてもじゃないけれど言えないような場所で、僕と晶さんは対峙している。僕たちのようなトレーナーには、とてもじゃないけれど似合わない場所。戦いの場として、とてつもなく不似合いな場所で。
僕たちは、対峙している。
「僕、今、少し感情がおかしいんです。伝説のポケモンと遭ったからか……それとも、こうして、同じような境遇にいる晶さんと出会ってしまったからか。詳しいことは分からないんですけど、それでもどこか、感情が揺らいでいるんです」
「分かります」
「まるで……僕の居場所――いや、僕にとっての前方≠ェ見つかったような気がして。そっちを向いていると、楽しいんです。気持ちが良いんです。わくわくするんです。早く進みたいって、そんな気すらしてくるんです」
「……ええ」
「だから僕はきっと、戦うことが好きなんだと思います。強い人と戦うのが、好きなんだ」
「私も同じです」
「でも、それは、勝ちたいだけじゃない。自分の力を試したいって言うか……負けるかもしれないっていう、ギリギリの戦いをしてみたいっていうか……そんな感じなんですけど」
「贅沢な悩み、ですよね」
「そうかもしれません」
「でも、分かりますよ。私も数年前まで、同じようなこと、思ってましたから」
晶さんは、そう不適に呟いて、モンスターボールを手にした。
「そして今は、それよりもっと洗練された考えを持って、進んでいます」
上品さの中に、獰猛さを隠して。
淡水晶。
エリートトレーナー。
「……戦いませんか?」
僕は訊ねる。
「ええ、戦いましょう」
晶さんは応えた。
僕はモンスターボールを手にして、それを宙に放り投げ、捕まえる。
確かな重量感。
それは、何度も手にしてきた、ダークライだけが持つ、不思議な質量。
「なんていうか……今の僕、負ける気はしないんですけど」僕は不遜な態度であることを自覚しながらも、そうした言葉を言わずにはいられなかった。「それでも、何故か今、勝ちたい、という気持ちでいます」
「負けないとは思うけれど、勝ちたい、ですか?」
「ええ、だから、不思議なんですけど……」
けれど、それが僕の正直な気持ちだった。
僕は、
僕は。
「僕は、勝つために戦います」
自分以外の誰かのために戦うのではなく。
約束を果たすためだけに戦うのではなく。
自分自身の欲望のために――僕は、戦う。
「ポケモントレーナーの、ハクロです」
「エリートトレーナーの、淡水晶です」
二人のトレーナーは、対峙したまま、しばらく視線を交錯させあって――そして寸分狂わぬタイミングで、お互いのポケモンを繰り出した。
まるで、お互いを象徴するようなポケモン。
「スイクン、勝ちましょう」
異質なまでの、生物のバリエーション。
その情景は――やはり、居心地が良かった。
だから僕は、口にする。
「ダークライ、勝つぞ!」
そしてその約束は、果たされる。
僕たちはお互いに、選ばれた者同士だから。
ポケモン3。了。