ポケモン3。
11
 僕にとって、それは初めての経験だった。
 幼い頃から、ポケモンを見れば、それがどんな性質を秘めていて、どの程度育っているのかということが、手に取るように分かった。モンスターボールや、凡栗の中に入っていても、それを認識することが出来た。それはもう、感覚でしかない。だから、言葉に換言することは難しかったし、どうすればそういうことが出来るのかということも、説明は出来なかった。
 そんな僕だったから、ポケモンに対峙すれば、それがどんなポケモンで、どれほど熟成しているのか分かったし、近くにいなくても、その雰囲気を察知することは出来ていた。だからそれを利用すれば、ポケモンを避けて歩くことも、ポケモンの数が少ない場所では可能だったし、それらに向かっていくことも、容易だった。
 けれど。
 僕は初めて、そんな経験をした。
 その事実を把握しても、まだ頭が理解を示さないほど、感覚が否定するほど、完璧なまでの類似性を持ったポケモンが存在すると言うことを、僕は初めて知った。否、今までにだって、そうしたことが起きていたのかもしれない。それでも、そういう存在がいるのだということを認識したのは、この時が、初めてだった。
 二体の、フリーザー。
 その存在を知り、視線を稼働させ、正体を突き止めても尚――まだ疑う価値のあるような、類似性。
 紛れもない。
 同じポケモンが、二体いる。
 外見上、ポケモンたちはそれぞれ似通っていて、人間がぱっと見ただけでは判断出来ないほどに、違いが見られない。けれど見慣れた人間なら、仕草や行動で、それが理解出来る。
 その点、僕のような人間であれば、それらをさらに差別化することが出来た。成熟度、性格、個性、様々な違いが、ポケモンたちにはある。
 しかし、フリーザーたちは、違った。
 まるで同じ。
 双子のように――
「島の双方に守り神がいる……ってことか」青藍兄さんが、僕の思考をトレースしたようなタイミングで呟く。「信じられないな、全く……」
「おいおいおいおい……じゃあエレブーは、もう一匹のヤツの攻撃を食らったってことか?」ギンさんが焦ったような表情を浮かべていた。「計画が丸潰れじゃねーか……おい、青藍、どうする」
「どうするも、こうするも」青藍兄さんも、笑ってはいるが、すぐに決断出来ないところを見ると、焦っているようだった。「とりあえず、全力を出すしかないでしょう。ラプラス!」
 青藍兄さんは、モンスターボールを繰り出す。
 動きが少しだけ、乱雑。
 それは焦りを隠そうとしているのか――どうか。
「困りましたね」晶さんは、隣で、そんなセリフを呟く。しかし飄々としていた。困っているというよりは、明らかに、楽しんでいる。「二体いたなんて……想像だにしませんでした」
「こんなこと、有り得るんですかね?」僕は訊ねる。
「現に、有り得ていますね」晶さんは微笑む。「けれど、かなり希有なケースでしょうね。いえ、案外、過去の文献を紐解けばそうした事象も見つけられるかもしれませんけれど……」
 そのまま、晶さんは前方を見つめる。
 そこには、まるで僕らの目の方がおかしくなってしまったのではないかと疑うほどに、よく似た生き物が、存在していた。
 今まで僕たちが見ていた、麻痺をしている一匹のポケモンが、前方に。
 そして、それをコピーしたように、同じ存在が後方に、存在していた。
「双子……ですかね?」
「双子島ですからねぇ」
 晶さんは、何がおかしいのか、笑いながら首を傾げる。
 もう、そんな微細な関連性を信じるくらいでしか、この二匹の存在を受け入れることが出来なくなっていたとも、言えるのかもしれないけれど。
「ラプラス、妖しい光!」
「エレブー、電光石火だ!」
 二人の技選択を聞き、僕はその後の展開を――「――え?」は? 今、なんつった? ……二人が行った選択。それは、聞き間違いなのでは、と思うような選択だった。あまりにも、乱雑な選択。否、僕は今までのギンさんの技選択には、全く違和感を抱いていなかった。きっと僕でもそうする、というような選択ばかりしていた。
 だからこそ、安心して見ていられた。
 だからこそ、興味があったのだ。
 しかし、何故ここで、そんな――
 電光石火など――
 とにかく少しでもダメージを与えよう、などという思考にシフトしたとでも言うのだろうか。いや、まだ耐えられる局面のはずだ。にも関わらず、こんな――
「ギンさん、冷静ですね」晶さんが隣で、しかし僕の考えとは裏腹に――独り言のように、漏らした。「あるいは、回復剤があるから、様子を見ようとしているのか……」
「え?」僕は声を上げる。「あの、晶さん、ギンさんは」
「ほら、見て」
 僕は視線をエレブーに移した。電光石火。先手を取ることのみを追求した、威力の低い、単純明快な攻撃方法。エレブーの鈍そうな体でも、様々なポケモンが技を出す前に行う予備動作の前に動き出せば、相手に攻撃をすることが出来る。
 それが、電光石火の使命。
 速さのみに特化した、攻撃方法。
 しかし、リフレクターを張られたこの状況で、いくらエレブーが致命傷を負ってしまったからと言って、何故そんな攻撃手段を選んだのか。同じ打撃でも、せめて雷パンチを選択するだろうし――いくら相手が素早いからと言って、電光石火ごときで先手を取って、何の意味があるのだろう……と。
 そんな、あまりに愚かな思考を僕が展開した直後。
 エレブーはフリーザーに届く前に、膝を折っていた。
 自陣と、敵陣の狭間で。
 崩れ落ちるように――
「見てたでしょう?」晶さんが言う。僕は頷いた。「これで確定ね」
 …………そう、だった。
 晶さんの言っている言葉の意味が、僕にはようやく理解出来た。

 氷の飛礫。

 そう、だからつまり、それは――こちらの先制攻撃すら許されないという、絶対的な圧力の証左だった。
「ギンさん、ありがとうございます!」青藍兄さんは、謝辞を述べる。そう、この状況下でギンさんの行動を理解出来ていなかったのは、僕だけだった。恐ろしいまでに、エリートトレーナーとの――中でも特に優れているのであろう、この三人との――経験の差を、僕は知る。「この状況じゃ、とりあえずは一匹沈めないと、話になりませんね」
「ああ、麻痺してる方を集中的に狙うぞ」
 エレブーを囮にしたことを悔いているのか、ギンさんは凶暴な口調で言う。
「分かりました」
「幸い、二匹いるからな……僕と青藍で、一人一匹だ」
「やっと分子が揃いましたね」
 青藍兄さんは楽しそうだった。
 それでもまだ、この二人は、伝説を捕獲する気でいるようだった。
 恐ろしい。
 いや、それよりも、自分の傲慢さを恥じるべきだったかもしれない。
 エリートトレーナー。
 緑葉や、木賊のようなトレーナーとは違う。
 エリートトレーナーは、ジムリーダーや、四天王に近しい存在である。否、それともまた、毛色が違うのかもしれない。
 待ち受けるのではなく、立ち向かうことに特化した、戦闘知識を持ったポケモントレーナー……。
 そして、閃光。
 あるいは、暗闇なのか。
 ラプラスによる妖しい光が、麻痺をしているフリーザーの前で、炸裂した。混乱を促す攻撃。そうした状態異常の重ね掛けは、どこか、緑葉による戦術に似ている気もしたが――青藍兄さんの場合は、その確実性が、さらに顕著だった。
 フリーザーの頭が、一瞬揺れる。
 掛かったようだった。
「ハクロ! 頭回転させて、今の戦闘をターン制に置き換えて、技を割り出してくれ! 頭を使ってる暇がない!」確かにそうだった。見ている側としては考えるくらいしかやることがないけれど、向こうには、戦闘、道具の利用、等々の思考もある。フリーザーの技を割り出している暇は、ないのだろう。
「分かった!」
「頼んだぞ!」青藍兄さんは、どういうジェスチャーなのか、人差し指を天井に向けた。多分、ただのかっこつけだ。「ギンさん、エレブーは復活出来ますか?」
「え? ああ、出来るが――」何を、と言いかけて、ギンさんは頷く。「分かった、なるほどな。じゃあひとまず、ニドキングを出すぞ」
「ああ、じゃあ、攻撃はこちらが受けます!」
 そんな会話を聞き流しながら、僕は青藍兄さんの指示通りに、過去の戦闘を脳内で展開した。ターンごとに起きた『二匹目』が使ったであろう空白を、埋めなければならない。今まで発生した技の配置。相手は野生で、しかも伝説。普通、一般的なポケモンが扱える技は四つだ。これはポケモンたちの知能の限界に因るところが大きい。つまり、すぐに対応出来るのがその程度ということだ。格闘技の経験がある僕にしたって、すぐに出来る行動と言えば、突き、蹴り、捌き、くらいなものだ。正拳突き、裏拳、上段蹴りに――先生の杖を回避した時のような捌きが、限界。だとすれば、人間もポケモンも、似たようなものかもしれないけれど――って、こんなことを考えている場合ではない。
 技構成。
 思い出せ。
 何が起きたか――
「吹雪」これは確定、二度起きた。「絶対零度」で、サンダースが力尽きた。「氷の飛礫」そして、これも先ほど確定したばかりだ。「リフレクター」これも見た。僕は口に出す。晶さんの視線を感じる。独り言をぶつぶつと呟く少年を心配しているのかもしれない。しかし、僕は構わず続ける。「これの発生は同時じゃない。吹雪と絶対零度は、麻痺している方――つまり前方のフリーザーで、氷の飛礫は後方。リフレクターの所在だ」
 前方で、ニドキングが現れる。
「波乗り!」
「ラプラス、神秘の守り!」
 一ターン目を思い出した。二匹いたとして、その二匹ともが行動をしていない。否、何かしていたのだろう。けれど何も起きなかった。あの時感じた違和感は? 一体、何だっただろうか?
 二ターン目を思い出した。使われた技は、吹雪。これは、しかし一度だけだった。だからつまり、その時も、もう一匹は行動していなかったことになる。いや、そんなはずはない。この極限の状況下で、何もせずに休んでいるというようなおろかな行為、伝説級のポケモンがしでかすはずがない。だから、何かをしていたはずだ。けれど――それは、攻撃ではなかった。
 三ターン目を思い出した。もう一度、前方にいるフリーザーから吹雪。何か違和感。そう、白さが増していた。思い出す。白い。白さ――濃霧のような、吹雪の前兆のように感じたあれは――「――分かった、白い霧だ! 後方のフリーザーが使ってた!」僕は叫ぶ。前にいる青藍兄さんが、了承した、とでも言うように、右手を挙げる。親指が突き出していた。またかっこつけだ。
 二秒後、動き出す間もなく、ニドキングが沈む。
 再びの氷の飛礫に――沈められたようだ。
 ギンさんの咆吼が聞こえる。
 けれど、それを悲しんでいる場合ではない。
 四ターン目を思い出す。ここで、リフレクターが発生したはずだ。しかし、ではもう一匹は、この時に何をしていたのだろう? 先手を取らなかったのは何故だ? 電磁波が打たれたのは、一体、何ターン目だっただろう。麻痺し、先手を奪われたのはいつからだっただろう。思い出せ。サンダースの行動。影分身、影分身、十万ボルト、高速移動、電磁波。……ということは、五ターン目だ。ならばこの時、フリーザーは双方、先手を取っていたことになる。じゃあ、何故行動しなかった? 明らかに先手を取れていたはず。否、先手どころか、行動すら、していない。行動をしないなんてことが、あり得るのか?
 考えを止め、顔を上げる。
 ラプラスが、神秘の守りを展開した。麻痺をしているフリーザーは、動かない。行動をしようとしていない。痺れているのだろうか? 否、そういう様子ではない。はなから、動く気がないように見える。麻痺によって行動を規制されている時は、見た目からして、痺れているのが分かる。
 じゃあ、何故だ?
 僕は、自分に問う。
「吹雪、絶対零度、氷の飛礫、リフレクター、白い霧――」僕は言葉にする。「空白の間――」一体、何が起きた。「四ターン目のあと」そう、そのタイミングだ。氷の飛礫を撃った? いや違う。それは後方がしたこと。では前方のフリーザーは? その時一体、何をした。「絶対零度」絶対零度。絶対零度が、命中した。命中した――力量差があればあるほど、経験の差があればあるほど、命中率が高くなるとは言え――そう簡単に、命中していい技じゃない。
 初撃で当たっていいような、簡単な技じゃない。
 僕は、フリーザーを見る。
 しかし、視線は、合わなかった。
 何故、視線が合わないのだろう。
 僕はフリーザーの眼を視ているのに。
 いや、視られてはいない。視ようとしても、瞳は見えない。
 ――否、それで当然だった。
 何故ならフリーザーは、目を閉じているから――
「まさか、フリーザーって……」僕は、あらゆる可能性を、「え、そんな、極悪な……ことが、あり得る、のか?」導き出された答えに、納得が行かない。けれど、「兄さん、フリーザー、ヤバイ、気を付けて。っていうか」
「……何だ」
「地獄じゃねえか……」僕は思わず呟く。
 背筋が凍る。
 吹雪の猛攻など、比にならないほどの、絶対的な恐怖を、感じた。
「心の眼だ……」
 それ以外に、答えが見つからなかった。もっとも合理的に、先ほどの絶対零度の命中率を表現するには、運や力量差などという生やさしいものでは済まされない。理由は一つ、『事前に心の眼が開かれていたから』――としか、思えない。心の眼。そう、俗称されている、ポケモンたちの、野生の勘――あるいは、予見。
 慧眼。
 次に行う動作を、百パーセント必中させる、確率度外視の、補助行動…………!
「心の眼…………ああ、ああ、そうか、そうか」青藍兄さんは、息を漏らしながら、呟いた。「分かった、なるほど、そういうこと、か。ああ、本当に、麻痺にして、混乱にして――それでもまだ、撃ってくるつもりってことか!」
「全く……そんな攻撃しなくても、吹雪で一撃だっつーんだよこっちは!」ギンさんが吠えた。そして、モンスターボールを繰り出す。「ラプラスを温存しろ! エレブーを回復する!」ギンさんは言いながら、モンスターボールを地面に炸裂させる。現れたのは――パルシェン。先ほどの戦闘で深手を負ったはずだったが、道中回復されたのか、体力に支障はないようだった。「タイプの相性で、少しは耐えてくれるだろうよ!」
「エレブー……先手が取れればいいですけどね」青藍兄さんは言いながら、モンスターボールをラプラスに向ける。そして、唸るような速さで、別のモンスターボールを繰り出した。「行け、ベトベトン!」
 青藍兄さんの煌びやかさとは無縁のようで。
 しかしどこかしっくり来る組み合わせ。
 そのベトベトンは、二年前にも、見たことがあった。
「爆発したりしねーだろうな」ギンさんは軽口を叩きながら、ポケットから道具を取り出した。それをモンスターボールの蝶番付近にセットして、道具そのものを捻る。控えのポケモンに利用するときのために、大体の道具には、そうした機構があった。「一時休戦だ」
 交代したばかりでは、攻撃が出来ない、あるいは道具を使っている間は、攻撃をしないというルールを、二人は頑なに守っていた。もちろん、やろうと思えば、その最中の攻撃もやって出来ないことはないだろうが、交代、道具の利用時に攻め込んでも、大した利益が上げられるとも思えない。
 その瞬間に、後方にいたフリーザーが、動き出す。
 凝りもせずに、氷の飛礫を放ってくる。
 攻撃の対象として選択されたのは――ベトベトン。
 拳台の氷の飛礫を体に直接受けたが――しかし、何とか持ちこたえる。
「一撃……いや、もう一ターンは凌いでくれると有り難いんだけどな」誰にともなく、青藍兄さんは言う。「ハクロ、フリーザーの体力、どうなってるか分かるか」
「後方は言わずもがな、かすり傷すらないだろうけど、前方にいる麻痺してるやつは――」僕はそちらを覗う。半分とは行かないまでも、三分の一までは、低下している。「あと少しで、半分かな、ってところ」
「勝てる気がしねぇな」ギンさんが言う。
「捕まえるんですよね?」青藍兄さんが言った。
「あ!」
 僕は声を上げた。愚かにも、フリーザーが動こうとして、痙攣し、地面に墜ちたのを見て、興奮していたようだった。ふいに恥ずかしくなり隣の晶さんを覗うと、どういう意味なのか、微笑んで、頷いていた。
 いや、まあ嬉しいじゃないですか。
 相手が攻撃出来ない状況って。
「麻痺はいい、素晴らしい」ギンさんは素直に言う。「よし、パルシェン――守るだ!」
「あ、そのパルシェン、そんなことが出来たんですか。捕まえておいて良かったですね、ギンさん」青藍兄さんは軽く呟く。「ベトベトン、金縛りだ!」
 僕は次第に、頭の中で、青藍兄さんに対する評価を二つも三つも上げていた。戦闘の出来ない、研究一本のポケモントレーナーかと思っていたけれど、それはまるで違った。流石はエリートトレーナーだけあって、技の構成、パーティの選択、戦術のバリエーション、ダブルバトルでの臨機応変さ……どれを取っても、間違いなく、一流だった。
 そして、僕の読みが正しければ、二人は雨乞いと雷のコンボを、次のターンでしかけるつもりなのだろう。
 ダブルバトルでの戦術も、まるで往年のパートナーのように、合わせている。
 そしてその前に、まず一度、相手の氷の飛礫を防ごう、という青藍兄さんの選択。
 恐ろしかった。
 ポケモンバトルって、こんなにも、奥が深いものだったのか。
 ポケモンは――戦いの道具ではない。
 そう、僕は今でも、思っているけれど。
 それでも今だけは、この戦いに、心を動かされていた。
「よっし! 読み通り!」ギンさんが大声を上げる。氷の飛礫が、パルシェンに向かって発射されたからだ。「行け、ベトベトン!」そしてギンさんはそのまま、青藍兄さんのベトベトンに向かって、そんなセリフを吐いている。
 ベトベトンは――しかし特徴的な動きを行ったりはしない。金縛り。それは制約や、呪いに近いものだ。ベトベトンの憎悪と、フリーザーが受ける衝撃。しかしその瞬間には、まだ効果を現さない。次に氷の飛礫を撃ち出す瞬間に、金縛りは、初めて意味を成す。
 だからこのターンは、ただの布石として過ぎ去り――
「よし、入れ替えだな」
「ええ、そうしましょう」
 ギンさんと青藍兄さんが、モンスターボールを取り出し、パルシェンとベトベトンを回収する。そして、二つのモンスターボールを繰りだそうとしていた。もはや、前方にいるフリーザーなど、眼中にない、とでも言いたげだった。
 しかし、その直後。

「……嘘、だろ」

 僕はとんでもない光景を、目の当たりにする。
 絶望。
 どう足掻いても勝ち目のない戦いというものを、知る。
「兄さん、待って、交代しても、意味がない。っていうか、戦っても、意味が……ない。いや、そんな、え……伝説って――伝説のポケモンって、そうなのか? それが、アリなのか? だって、そんな……それじゃ、まるで、卑怯――どころか、卑怯どころか、無理じゃないか――どう足掻いたって、勝てるはずが、ないじゃないか。いいのか? このレベル差で、いくら、全体力を消耗させることが目的ではないにしたって……勝てるのか。これ、勝てるのか?」
「ハクロ君、大丈夫?」隣で、晶さんが心配した表情で尋ねてくる――けれど、大丈夫なはずが、ない。「どうしたの?」答えている場合でもない。
「兄さん! ギンさん! 無茶ですよ!」僕は言った。無茶なんて言葉、無理なんて言葉、無謀なんて言葉、無為なんて言葉、そんな言葉、無駄だって、僕は思っていたはずなのに――なのに今、その情景を見て、僕は、そう発言するしかなかった。「前方にいる、麻痺してたはずのフリーザー」
「それがどうした!」青藍兄さんはしかし、既にポケモンの入れ替えを、行っていた。「見たところ、別に変化が見られるわけでも――」
 青藍兄さんも、ギンさんも、晶さんも、フリーザーに視線を向けた。
 フリーザーは、依然、麻痺をしている。
 麻痺は、自然に癒えることは、ほとんど有り得ない。だから、その場に蹲るようにしているのは、別段、何もおかしい行動ではない。だからこそ、パルシェンが体を守り、フリーザーの氷の飛礫を受け、ベトベトンが金縛りを行ったあと――麻痺しているフリーザーが、何の行動も行わないことに、何ら違和感を、感じなかったのだけれど――
 でも、さっき、麻痺していた時に痙攣した姿を見ていた。そう、麻痺で動けないのなら、そうした動きを取る。同様に、混乱で自傷するのなら、それ相応の行動を、取るはずだった。
 しかし、何もせず、ただそこに、蹲っている。
 麻痺で痙攣したわけでも、混乱で自傷したわけでもない。
「傷が……完全に癒えてる」
 僕が言ったのか、
 誰が言ったのか。
「この体勢は……羽休め……ですね」
 それを言ったのは、多分、晶さんだった。
 この虚しさは、どこか、次元の違うものだったように思う。絶望とも、死とも違う……そう、まるで、これ以上何をしても、無意味なのではないかという、悲しさ。
 詰みだ。
 完全に、詰んだ。
 僕ら全員、恐らく、同じ感情を、抱いていた。

 ◇

 人は誰でも夢想する。
 あの時こうしていれば、こうはならなかった。
 あの時ああしていれば、ああはならなかった。
 人は誰でも想像する。
 けれど概ね、そんな妄想は、無意味に終わる。
 あの時僕が先陣を切っていれば、こうはならなかった。
 そんな無意味な思想を抱いたところで、それはイフでしかないのだから、無意味で、無駄で、不必要なものであるわけだ。
 だから――いくら想像したところで、無意味だ。
 展開の有無。
 選択の差違。
 確率の誘惑。
 そんなものを、あとで語っても、何の意味もない。
 そういうものは、真剣勝負のあとでは、むしろ美しくない穢れだった。
 ――だから。
「詰みだ」
 青藍兄さんも、ギンさんも、それでも最後まで、戦い抜いた。
 あの時こうしていれば、と思わないように、戦った。
 あの時ああしていれば、と思わないように、動いた。
 フリーザー二匹に対して。
 その戦況を事細かに語る必要も、もはやないだろう。ラプラスのあまごい、エレブーの雷の必中を狙った二人だったけれど――それが命中しても、体力を完全に回復したフリーザーには、致命傷には、至らなかった。何故なら当然、半分以上ダメージを与えたところで、フリーザーたちは、回復をしてしまうからだった。そしてこちらも、回復道具があるとするならば――もはや、無意味な争い。削り合い。一撃必殺の技をこちらが有していない限り、こちらに勝ち目は、皆無だった。
 だから――
「詰みですね。ダメだな、二匹相手は」
 青藍兄さんは諦めきれないような口調で、呟いた。
「負け惜しみかよ」ギンさんが言う。
「ええ……あるいは、マスターボールを持ってなかったことが敗因ですね」
「ばか、あんなもん実在しねーよ。空想上の存在さ」
 ギンさんは、素っ気ない口調で言いながら、モンスターボールを、今し方力尽きたウツボットに向けた。青藍兄さんも同様に、それをギャロップに向ける。
「終わり……だな」
 どちらともなく、呟く。
 それは正しく、まさしく順当な意味で、終わりだった。これ以上、どうすることも出来ない。そんな終わり方。正しく終わり。傷を癒す伝説相手に、道具を使うことの不必要性を理解し、それからは最高のバトルを、繰り広げただけだった。もう、これ以上はないくらいに、素晴らしいコンビネーション。だけれど、それでも、勝てるレベルでは、なかった。
 おしまい。
 終了。
 終焉。
 伝説との対峙は、幻のようだった。
 そしてそれは、幻のように終える。
 ―――――、――――。
 ――――!
 ――――!
 フリーザーが、何度か鳴いた。それは、僕らを追い払おう、という仕草に、聞こえないでもなかった。『もう戦えないのだろう? 力量差が判断出来たのなら、立ち去るが良い』――と、そんな風にも、聞こえた。
 あるいは、戦意喪失した僕らに攻撃を加えようとしないところを見ると、戦う価値もない相手として見られてしまったのか――
 青藍兄さんとギンさんは、フリーザーに背を向け、僕らの方に、歩み寄ってくる。表情は、しかし晴れやかだった。
「終わりだ。ダメだなありゃあ」
 遠方のフリーザーは、羽を閉じ、蹲っている。
 最初に出会った時と、まったく同じ姿。
 まるで、全身の疲れを癒しているかのような、そんな光景だった。
「はー……ちょっと、離れましょうか」青藍兄さんが提案した。僕らの視界の端にフリーザーがいるというのは、いくら向こうから敵視されなくなったからと言って――というより、もはや弱者として認定されてしまったのだろうけれど――健康上、よろしくなさそうだった。「ちょっと歩きましょう」
「そうですね」
 晶さんは、何というか、二人が負けたところで、大した感情の揺らぎを抱いてはいないようだった。あるいはそれこそが、強者の余裕なのだろうか。そんなことを思っていたら、またも、晶さんの視界に捉えられる。僕はすぐにそれから逃れた。見透かされるような晶さんの視線が、苦手だった。
 沈黙したまま、数十メートル、ひた歩く。
 そしてフリーザーたちの冷気も少し落ち着いた辺りで、僕らは立ち止まった。
「吹雪、絶対零度、心の眼、羽休め」青藍兄さんが呟く。それは、前方にいた、主に攻撃を担っていたフリーザーの技構成。「そして、リフレクター、白い霧、氷の飛礫に……羽休め、か」
「野生だから、それ以外にも、当然色々と技を使ってくるかもとは思ったが……なんてことはなく、そのままだったな。普通の戦いで、負けた」
「むしろ、徹底してましたよね」僕は言う。
「ああ」ギンさんは頷いた。
「それで、これからどうしましょうか」晶さんが、もっとも建設的な意見を述べた。「私としては、フリーザーも見られたし、戦闘も、力量も見られた。あとは道中、今までと同じように、フリーザーを安定させるためにも気性の激しいポケモンたちを沈静化させるのが一番かと思いますけれど……ここに来た私たちの役割としては」
「ああ、そうか、そういえば、そんな目的で来てたんですよね」ようやく思い出した。そもそも、フリーザーの代替えの時期だったはずだ。「えっと……え、じゃあ、僕たちは今、親のフリーザーを捕まえようとしてたってことですか? 本末転倒もいいところでは……?」
「うーん……それはまた、違う問題なんだな」ギンさんが言う。「僕が爺ちゃんに訊いた話じゃ、フリーザーが子孫を残すってのは、もう少し若い頃だと思うんだよな。ただ、ハクロ、お前が言っていたことを真に受けると、あの二匹のフリーザーは、ほぼ成長しきったレベルだっただろう?」
「え、ああ、まあそうですね」確かに、子孫繁栄というようなレベルではなかったように思う。
「そうなると、あれは――今この瞬間に生まれる氷鳥の雛が三代目だとして、初代だと思うんだよな。普通はあり得ないっていうか、知識として聞いたこともないから微妙なとこなんだが……まあ、生きていても、不思議じゃないかもな」
「あ、じゃあ親ではなくて……えーと、お爺ちゃんお婆ちゃん世代、ってことですか、あの二匹のフリーザーは」
「まあそんな感じだな」
「伝説にも系図があるんですねぇ……」
「まあ、伝説とは言え、生き物だからな」
 やけにリアルで、なんだか気分が悪い。
 つまり僕たちは、家族を崩壊させようとしているわけだ。
 なんだかちょっと嫌なような――しかし自然ってそんなものか、と思う僕もいた。
「まあとにかく、晶さんの言う通りにしますかね……ハクロが本気を出せば、あるいは倒すか捕獲するかは出来るかもしれませんけど……お前は興味なさそうだもんなぁ?」
「そういう言い方するとアレだけど……まぁ、僕は持て余すだろうね。それか、パソコンに預けっぱなしとかになりそう」
「伝説をか? そいつは傑作だな」ギンさんが笑った。
「ハクロは実際そうしそうだしな。じゃあ、戻りましょうか」
「うーん……なんかあっさりしすぎてねぇか? 僕としては、もう一度体勢を整えて再挑戦したいくらいだが……」ギンさんは納得が行かないようで、駄々をこねる子供のように話す。「それか一旦、双子島を出て準備を……いや、まあレベル差の問題で無理か。いや、それが無理って分かっただけでも、儲けもんかなぁ。なんか納得行かねーけど」
 僕は何となく、晶さんを覗う。
 その表情は――なんというか、複雑なものだった。自分ならあるいはフリーザーを捕獲出来るかもしれない、という自信に満ちた表情にも見えるし、かと言って、本当にそうだろうか、という、自分を疑うような表情にも、見える。
 あやふやな。
 あと数秒で崩れてしまうような、自信にも思えた。
「……とにかく、戻りましょうか」
 晶さんの発言に、僕たち三人は、頷いた。
 まるで呆気ない。
 本当に、ただの伝説見学ツアーだ。
 青藍兄さんだったか、ギンさんだったか、誰かが言っていたような気がするけれど。
 僕たちは、エリートトレーナーの二人が予め張っていた穴抜けの紐を辿り、帰路を歩いていた。時折岩場などに巻き付けてるので、曲がったり、降りたり、上がったり――という行為を繰り返す度に、紐に区切りをつけていた。張り巡らされている紐を辿って、僕たちは、入り口へと向かっていた。
 向かっていた。
 向かっていた。
 のだけれど。
 何だろう。
 寒い。
 何か、フリーザーとは別物の、寒さ。
 を。
 感じた。
 感じていた。
「あ……あれ?」
「……どうした?」
 体が震えていた。
 痙攣に近いような、震え。
 ガクガクガクガクガクガクガクガクガ/ブルブルブルブル/ガクガクガクガクガク、ギリギリギリギリ。ガタガタ/ガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタ/ガタガ/タガタガタガタガ/タガタガタガタガタガタ/ガタガタ/ガタガタ。
「ハクロ君?」
「おい、大丈夫かハクロ」
「どうした? 風邪でも……ってマジで大丈夫かお前」
「ハクロ君、ちょっと」
「おいおい……やばいぞこれ」
「寒いのか……?」
 いや、違う。これは恐怖だった。
 フリーザーの方が、まだまだ、幾分も、優しいのではないだろうかと思えるような、圧倒的な、絶対的な、恐怖感。僕はそれを、感じていた。ありとあらゆる感覚で。記憶も、蝕まれるレベルの。思い出される。奥の奥にしまっておいた思い出が、一気に引きずり出されて、周囲にあった最近の出来事が、全部、ぶちまけられてしまったような感覚を、僕は抱いた。
 怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。
 怖くて、怖くて、怖くて。
「先生だ」/――晶さんの右手/手右ポケットにモンスターボール手を/を手が握って「先生?」ギンさんの声/声のする方に「あ、そうだ、行かなきゃ」いけないのですうううう/うううう/「あれ、この洞窟、どういう構造になってるんですか」/「ハクロ君、大丈夫? 眼真っ赤だよ?」晶さんの口調が――/――「ハクロ、どうした。先生って、柳さんか」「そう」「洞窟は、双子島だから、出入り口が二つある構造になってるな」「ってことは、そうか、向こう側から」「おいおいおいおい、お前立つ」/立ち上がって駆け出して、思い切り転んだ。頭を打つ。頭突きをしたときと同じような痛み、鼻血のような匂い、おでのこあたりがもやもやする。かゆいような、いたいような、鼻先が痒い。あ、この感じ、姥目の森で味わった気がするけどあれに比べたら全然マシなのかもしれない鼻血だった/「ハクロ君!」「おいおい、待て待て待て待て! どうした!」/なんで走っているのだろう、多分、見なきゃいけないものがこの先にあるからだった。それは何だろうか? 恐怖を見に行くのではなくて、なんというか、そう、イベント。青藍兄さんや、ギンさんや、晶さんが見たがっていたものと同じようなもので、彼らにとってはそれがフリーザーという伝説の存在だったのかもしれないけれど、しかし僕にとっては、どちらかと言えば、この恐怖の根源をこの眼で確かめなければならないという/「何があるんだ」/首を掴まれた正確にはパーカーのフード/「先生だって」「先生って」「柳先生がいる。柳先生のポケモンだ」「なんでだよ」「分からないけど、向こうにいる、フリーザーと戦ってるんだ、絶対そうだ」「分かった、落ち着け、一緒に行こう」/手を離されて、僕は膝をついた。そしてすぐに立ち上がって、駆け出す。
「ハクロはどうしたんだ」と、ギンさん。
「上都地方の、柳さんをご存じですよね」青藍兄さんが言う。
「ああ……冬の柳。そういえば双子島に向かってるはずだったな」
「……ハクロ、知り合いなんです」
「へえ……?」
「ていうか、ポケモンの先生……ですかね」
「は?」
「その柳さんが、来てるみたいですよ」
「ここに?」これは晶さんの声だった。
 声が遠くから聞こえてくる。
 僕は走っていた。

 ◇

「雪女子、まずは好きに動いてみてくれ」
 僕が辿り着いた時には、先生がそんな指示を、ポケモンに与え終わったところだった。僕がその戦闘敷地内に入ると、先生はゆったりと振り返り、僕を見て微笑んだ。ように……見えた。
「やあ、来たかね。待っていたよ」
 ゆっくりとした口調で、先生は呟く。
「いえ……もっと前に、来てました、本当は」
「ああ、知っている。実は、陰で見せてもらったよ」先生は言う。「なかなかのトレーナーたちだね。それに、眼鏡の方は、駅で会った彼だろう」
「ええ……僕の兄です。偽物ですけど」
「そうか。よっぽど似ていたけれどね」
 僕は先生の隣に歩み寄っていった。
 先生の目の前には、ユキメノコ。
 氷タイプに対して、臆することなく――氷タイプで、攻めている。
 あるいは、飛行タイプを有しているフリーザーであるから、その選択は、完全なる間違いではないのだろう。
 氷使いの矜持として――氷使いの、プライドとして。
「先の戦いで、私は幸運にも、フリーザーたちの技を知ることが出来た」先生は笑っている。よほどこの状況が楽しいようだった。「無論、だからと言って今更対策など練られるわけではないが、これは大きな利益だ」
「ですね」
 僕は、眼前のポケモンを見遣る。
「先の戦い、見ていたんですよね」僕は言う。フリーザーたちは、まだ威嚇行動をしているだけで、戦闘を始めようとはしていない。「なのに、先生は、その……ポケモンを、一匹しか出していませんよね」
「そうだな」先生は頷く。「何故だと思う?」
「何故かは、分かるんですけど……いいんでしょうか」
「若者は、いちいち許可なんて取らなくていいんだ」
 先生に言われ、僕は素早く、モンスターボールを放った。
 もう止まらなかった。
 何だろう、この高揚感は。
 今まで、僕は抑えていたのかもしれない。
 そう、つまり――僕は、先生と戦いたかったのかもしれない。ずっと、そんな気が、今ならする。今なら、そう思うことが出来ていた。なんだろう、不思議だった。後付けだって構わないと思うような、感覚が、僕を覆っている。
「久しぶりだね……」
 先生は呟く。
 繰り出されたダークライは、それに呼応するかのように――先生を見て、一度だけ、瞬いた。そしてすぐに、視線を僕に向ける。どうもお久しぶりです――もしダークライが言葉をしゃべれたのなら、そう言っただろう。
「先生は、これから、何をされるおつもりなんですか」
「これから? 見れば分かるだろう。私を誰だと思ってるんだ」先生は、いつものような厳格さを既に打ち消し、まるで僕を仲間だと思っているかのような気軽さで、話しかけてきた。「私は冬の柳だぞ」
「はい。存じ上げてます」
「だったら分かるだろう?」先生は笑う。「私は聖人ではないし、博愛主義者でも、自然主義者でもない。ただ純粋に、氷ポケモンに魅せられた、一介のポケモントレーナーに過ぎん。その延長線上として、ジムリーダーになったに過ぎん」
「ということは、先生は、やっぱり――」
「ああ」
 先生は険しい表情で頷いて、フリーザーを、見据える。
「――半世紀ほど前の夢を、果たしに来た」
 先生は、嬉しそうだった。
 半世紀――先生の正確な年齢を、僕は知らなかったけれど、つまり、先生が若く、僕や、緑葉たちのような、あるいはもう少し上の年頃だった時代に――きっと、フリーザーを捕まえることを、夢見ていたのかもしれない。だから今、先生は、ここにいるのだろう。否――そのために、ここに来たのかもしれない。それを知って、自ら率先して、来たのだろう。おかしい、とは思っていた。昔から、世界の平和や、地域の平穏とは無縁の、ましてや仕事での遠征などまるで無関心な生活を送っている先生が、ポケモンリーグの要請だという理由だけで、関東くんだりまで足を運ぶ理由が、思い浮かばなかった。いくら桂さんの友人であったって、面倒臭いの一言で切り捨てられそうな、そんな孤独な人だったのに……。
 しかし、今この瞬間、僕は確信する。
 先生は、ジムリーダーでもなく、老人でもなく、仕事に疲れた大人でもなく、世間との関わりを煩わしく思うような人間ではない。
 否、あるいは、それら全てなのだろう。
 先生は、今も、ただのポケモントレーナーでしかないんだ。
「さて……フリーザーもいい加減警戒している。戦いを始めよう」先生は静かに告げる。「実を言うと……君と、君のポケモンに、期待しているところもある。君のポケモンは、捕獲という行為に対して、驚くほどに相性が良い。だろう?」
「はい……そうですね。僕が先生の役に立てるなら、何でも、申しつけてください」
 師弟関係というものは恐らくそういうものなのだろう。
 恩があろうがなかろうが、下心があろうがなかろうが、師匠が役立てと言えば、弟子は役に立ちたいと、願うしかない。
 先生が僕と僕のポケモンを利用すると言えば、喜んで頭を下げるだけ。
「手段は選ばん、私は、地位も名誉もいらない。ずるい大人で、大人げない人間で結構。ジムリーダーの称号も、エリートトレーナーとしての資格もいらない。私はただ、フリーザーを捕獲する。フリーザーを手中に収める。私の夢は、それだけ。それも、二体ともだ。失敗は許されん。さあハクロ、行くぞ」
「はい!」
 頭が揺らいでいた。
 膝から血が出ている。
 腕も擦った記憶がある。
 転び、ぶつけ、体中に傷を負っているはずだ。
 しかしそのどれもが、まるで気にならない。
 僕は先生が繰り出した、ユキメノコを見る。
 フリーザーに及ばずとも、かと言って、明らかに劣っているわけでもない。僕は、僕以外に、ここまでポケモンを育てている人に出会ったことが、今まで一度もなかった。そして、先生のポケモンたちの感覚が、洞窟内で僕を惑わせていた要素の一つだと、僕はようやく悟る。こんなに強いポケモンを所持していたなんてことを知らなかったから、判別出来ていなかったけれど……今なら分かる。
 フリーザーに、先生のポケモンたち。
 三者ある強者の『感覚』のうち、二者はそれらなのだろう。
 依然、もう一つの感覚は、分からないままだけれど――
「ダークライ、ダークホール!」
 僕は唸った。その怒号が幕開けだとでも言うかのように、相手のフリーザーも、威嚇を繰り返した。流石に野生の勘――あるいは年の功なのか、僕たちのポケモンが、周囲の野生ポケモンとは比べものにならないということを、理解したらしかった。
 フリーザーが、動き出す。
 しかし――当然ながら、先手を取ったのは、ダークライ。
 相手が伝説だろうが何だろうが、僕のダークライが後れを取るはずがない。
「落とせ」
 通常、睡眠状態に貶める技は、概ね、一体のポケモンにしか効果を成さない。が、しかし、ダークライのダークホールに関しては、そんな制限など、無意味だった。ダークホールは、『ポケモンを奈落に落とす』のではない。『空間を奈落に落とす』のだ。だから、一匹だろうと、百匹だろうと、関係ない。
 暗黒空間。
 対複数体状態異常補助技法。
 それに加え、圧倒的な命中精度。
「いつ見ても、反則級の技だ」先生が笑う。
「こいつの持ち味ですからね」
 しかし、当たり前の話だが――眠りに落ちたフリーザーは一体だけだった。命中しなかったわけではない。忘れていたわけではないけれど、当然のように、先の戦いでの麻痺効果が、フリーザーには残っていた。あの短時間で状態異常効果が抜けるはずがない。眠る暇も、なかったのだろうから――それは、当然。計算のうちだった。
「麻痺は少々厄介だな」先生は言う。「だが、先手を取らせないには良いかもしれん」
「半永久的に持続しますからね、戦闘時には」
 しかし、心の眼と絶対零度の組み合わせを持っているフリーザーだけが麻痺によって行動を許されているというのは、若干ではあるが、難しい問題だった。睡眠であれば、一ターンだけ凌げば再度眠らせることも難しくはないが、麻痺だと、万が一、二度続けて行動することが可能になった場合、その確実な攻撃を受けることになる。
 先生のポケモンは――うかがい知る限りでは、三匹。
 流石の先生でも、このレベルにまで育成するのは、三匹が限界だったのだろう。
 そして僕は、一匹。
 こちらを『絶対零度』で狙われたら、ほぼ終わりに近い。
 ユキメノコは最後の最後まで戸惑っているようだった――指示を貰えなかったのだから、当然だ――が、最終的には、氷、飛行タイプのフリーザーに向けて、氷タイプの攻撃を行った。「凍える風か。良い選択だ」先生はそう言った。そう、つまり、相手の速度を極限まで下げるつもりらしいということが、分かった。少なくとも、麻痺していないフリーザーよりも、ユキメノコは素早さが遅い。それを先手が取れるように切り替えるつもりなのだろう。
 それが先生の基本戦術。
 ふいに背後で起きた音を察知し、僕は振り返る。と、晶さん、ギンさん、青藍兄さんの姿がそこにはあった。いつからそこにいたのだろう。分からない。けれど、誰も口を開かず、僕たちの戦闘を見ていた。先ほどの僕と、同じ位置。しかし戦闘内容は、まるで違う。
「まずいな」先生が言う。視線を戻すと、フリーザーが眼を閉じていた。疑う余地もなく、心の眼だろう――「こんなことなら麻痺を治して眠らせたいところだが……どうもそういうわけにも行かないだろう」
「人間に手当てをさせてもらえるとも思えませんしね」
「そうだな。それはあとで考えるとして……さて、ユキメノコ、次は身代わりでもしておくとしよう」
「ダークライは……じゃあ、夢喰い」
 そんな順当な指令を出して。
 僕と先生は、フリーザーの動向を窺った。
「単純で、もっとも効果的な戦法だな」先生は、ダークライの行動に対して、そんな評価をする。「あるいはそれは、フリーザーの技の組み合わせにも言えることかもしれん」
 ダークライは、フリーザーの付近に出来た暗黒雲のようなものに手を突っ込んで、そこにあるものを、貪り喰っていた。その光景は、慣れない人間からしたら、恐ろしいの一言に尽きるだろう。あえて、後ろにいる三人の顔を見ることはしなかった。
 フリーザーは目覚めず、次に、ユキメノコが行動する。身代わり――それは、影分身のように、相手を攪乱するための技術ではなく、単純に、身を削って生み出す、自分の生命エネルギーのようなものだった。自分の体の一部を、攻撃対象として生み出す……というようなもの。それはつまり、絶対零度による攻撃への、防御手段、だったのだろう。
 フリーザーへの対策すら、練っているのか。
 そんなことを思うほど、完璧な動き。
 あるいは僕がいなくても、二匹の捕獲を完遂出来るような計画を、先生は練っていたのかもしれない。
「先生、お聞きしたいのですが」
「何かな」
「先生はこのフリーザーたちに、会ったことがあるんですよね」
「そうだな。君よりもう少し年を取っていたと思うが、会ったことがあるよ」
「それからずっと、今日のことを……?」
「いかにも。私がこの地位に上り詰めたのも、この日のためだ」
 先生は当たり前のように言ったあと、「ユキメノコ、ありがとう」と、ポケモンを入れ替える。まるで突然の入れ替えに、僕は戸惑うが――先生のすることに意見出来るはずもない。「トドゼルガ」と、先生はポケモンを繰り出した。
 氷タイプと水タイプを有する、海中に潜むポケモン。
「まずは一匹、確実に捕獲するつもりだ。しかし……君のダークライは、そう言えば、あまり攻撃手段がないんだったかな」
「あー……いえ、ちょっと思うところあって、整えてあったりして」
「ほう?」
「まあ大して変わってるわけじゃないんですけどね……」
 と。
 僕は呟いたあとで。
「ダークライ、ナイトヘッド」
 僕は命令を下した。
 木賊との戦いで思い知った――というほどでも、ないけれど。あるいは、筑紫との戦いで――否、緑葉との約束を果たすために、なのか。
 理由はどうあれ。
 僕はダークライの技構成を変更させていた。
 数ヶ月前――そう、朽葉で事件が起きたときに、少佐に口添えしてもらった、ポケモンの『技』のエキスパートの人の手によって。
「……またいやらしい技を、君は」
「ダークライに言ってください」
 と、言っている間に、ダークライはゆっくりと、着実に、僕の命令を実行した。何か、黒い靄のようなものがフリーザーを覆ったと思った直後には――フリーザーは明らかに衰退した。
 ナイトヘッド。
 技を使用するポケモンの成長度合い――あるいは経験量に応じた、固定された威力の傷を、相手に与える。どんなに装甲が堅くても、どんなに精神が強くても、そんなものには左右されない、完全固定の攻撃手段。
 いやらしい技と言えば、その通りではあるけれど――
「とにかく、減りましたね」
「ああ……いや、期待通り……どころか、想像以上だ。私と別れたあとも、ポケモンバトルは続けていたのだね。感心したよ」
「そんな……ただ、戦わなきゃ、耐えられなかっただけです」
 トドゼルガは交代したばかりで行動をせず――前方のフリーザーは眠ったまま。そしてもう一匹のフリーザーは――混乱からは解放された様子ではあるが、麻痺による異常で、こちらへの攻撃、あるいは補助行動を行わなかった。
 その理由は、いい加減、僕にも分かっている。
 自覚くらいはあった。
 強いポケモンに、トレーナーとしての才能――に、加え、運。
 圧倒的な、運。
 そんな犯則級の幸運、いっそ呪いなのかもしれないけれど……こと僕が対戦する場合に限っては、こちら側の『万が一』は必中に近く、敵側の『九割』は、ほぼ失敗すると言っても、過言ではない。
 だから相手が麻痺なら――九割近く行動を失敗すると言っても過言ではない。
「……しかし、君がいると、想像以上の余裕だな」
「そんな……先生がいるからじゃないですか」
「確かに私一人でも、十分に捕獲出来る用意はあった。だが……まるで緊張感がないな。イベントのようだ」
「十分イベントだと思います」
 そして僕はダークライに、『ナイトヘッド』を。先生はトドゼルガに――
「怒りの前歯だ」
 口元が思わず緩んでしまうような、技の選択。どう足掻いても、フリーザーを捕まえる気しかないというような、そんな構成。どこまでもいやらしく、どこまでも不格好で、戦略的で、理知的で、必死なパーティに、技。
 どう考えても、僕はこの人の弟子だ。
 そう考える他、僕の今の成長を理解することなど不可能だった。
 圧倒的なまでの――まるで伝説をコケにするかのような、戦闘。僕のダークライが繰り出した『ダークホール』によって眠りについてしまったフリーザーは、目を覚まそうとはしない。何故なら僕のダークライが繰り出した技であり、それを扱うトレーナーが、僕だからだ。
 理由なんて、それしかない。
 幸運こそが――誰も抗えない究極の運こそが、最強のカード。
 どんな技であろうと、どんなポケモンであろうと、どんな戦術であろうと。
 適わない。
 だから僕と先生は、何も恐れることなく、何の不安に怯えることもなく、順当に技を選び、順当にポケモンを入れ替え、順当な選択をした。そんな、欠伸が出るような究極的な手順を、解説する必要も、実況する必要も、もはやないだろう。あるいは自分の卑劣さにも似た幸運を、認識するのが怖いだけなのかもしれないけれど――
 とにもかくにも。
 青藍兄さんとギンさんがあんなに苦労し、苦心し、苦痛を受けた伝説を。
 僕と先生は、手中に収めた。

戯村影木 ( 2013/05/03(金) 13:05 )