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「いやあ、今日はお客さんが沢山だねぇ」
「だねー」
幸せそうな孫と祖母……ではなくて、血縁関係にない僕のお婆ちゃんと赤火は、台所で夕飯でせっせと支度を行っていた。
支度。
何の支度か?
もちろん、仲直りパーティだ。
檜皮ジムでのバトル終了後、帰りが遅い僕を心配してお婆ちゃんが僕に電話をかけてきた。その電話で、とても悪い雰囲気の中にいるという旨を告げると、とりあえず二人とも家に呼ぶようにという勅令が下った。
何でもお婆ちゃん曰く、喧嘩してしまったあとの仲直りは、一緒にご飯を食べることが最高の手段なのだそうだ。実際、僕もそう思う。
トクサ少年は、今晩はフレンドリィショップでパンでも買って凌ぐつもりだったらしい。筑紫に至っては、なんと黄金にあるマンションで一人暮らしをしているということだったので、僕はその二人をまとめて無理矢理宿泊させることにした。
僕にはどうも、たまにお節介病が現れる。
確実に、お婆ちゃんの遺伝子だと思うけど。
「あの、トクサさん……えっと……」
「……」
「ごめんなさい……バトルになると、我を忘れるというか、その……」
「……」
「道場破りだったし、あそこまですんなり終わるとは思ってなくて……」
「……――!」
「っ! ご、ごめんなさい、そういうつもりじゃないんです……すみません……」
台所では、お婆ちゃんと赤火が。
床の間では、トクサ少年と筑紫が。
そしてそれに挟まれるような位置で、僕は自分の居場所を失って、困っていた。
――トクサ少年め……いっそ、気を失ってしまえばよかったのに……。
なんて禁句を言ってしまいそうなほど、トクサ少年の怒りのボルテージは限界で、それに謝罪する筑紫との光景は、何とも不憫なものだった。
バトル中は我を忘れる。
これは、僕にも共通することだ。
……というより、だからこそ僕は戦いが嫌いなのだけれど。そもそも人に対して乱暴になりたくないし、守るべきものがあるバトル――それは人間であったり、プライドであったりするけれど――なら、尚更に性格が凶暴になる。そして何より、僕は負けず嫌いなので、かなり攻撃的になってしまう。
……だから僕は、最初から戦おうとしない。
負けたくないから、戦わない。
無意味な争いが嫌いなんだ。
そんな僕に対して――筑紫は、勝ちたいから戦うタイプらしい。相手を負かすことに、一種の快楽を覚えるようなのだ。僕にはそれが分からないけれど、だからと言って否定するつもりもない。
勝つことが好きだから、好戦的。
それと均衡を保つように、普段は平和的な性格。
「あう……ハクロさん、どうしたら良いでしょうか」
バトル中の面影を全くと言っていいほど残していない筑紫が、茶の間から移動してきて、僕に尋ねてくる。本当に、この子があの殺気を放っていたのか、と、たった一時間前くらいのことなのに、それを僕は断言出来ない。
「うーん、こればっかりはなぁ……まあ、別に、トクサ少年は、君に対して怒っているわけじゃないと思うよ。君に負けた自分に腹が立ってて、それを受け入れるまでに、時間がかかってるだけだと思うよ」
「……僕は、何もしないほうがいいんでしょうか」
「まあ、そうだろうね」
自分に腹が立つ原因。
多分、プライド……何だろうなぁ。
現実逃避して失神してしまうような頃に比べたら、精神的には十分成長している方だとは思う。だけど、まだそれを認めるだけの精神的余裕が、トクサ少年にはないようだった。
床の間を覗くと、現在トクサ少年は、何やら熱心にノートに書き込みを行っている。今回の戦績なんだろうか。そういう姿を見ると、本当に、トレーナーとしては素晴らしいと思うのだけれど……人間としては、まだまだダメなのかもしれないなと、そんなことを思う。
ま、子どもの僕が言っても、説得力なんてないんだけど。
「あの、紫紺さん、僕も何か手伝いましょうか?」
筑紫はそのまま歩を進めて、台所に向かって尋ねる。じっとしているのが苦手なタイプらしい。
「あらあら、お客さんに手伝わせちゃって悪いねぇ。じゃあ、赤火ちゃんとお鍋を見ててくれる?」
「はい!」
言いながら、筑紫は台所に向かった。僕は筑紫と入れ替わるように床の間へと侵入して、畳に座って、トクサ少年に何を言うべきか、思案する。
ジム戦は――まあ、筑紫の圧勝と言って良かっただろう。
戦況から見れば、最終段階では、ほぼ瀕死のポケモンを含む二対一。トクサ少年も、いくらか健闘したという話に聞こえるけれど、あの戦いはどう考えたって、筑紫が仕向けたシナリオ通りに進んでいた。
スピアーの囮といい。
ヘラクロスの登場といい。
あの戦いで――筑紫は、何故ヌケニンを最後に選んだのか。僕は単なる偶然か、同士討ちに持ち込むためだと思っていた。スピアーが先鋒だったのも、ヘラクロスがその次に出て来たのも。全てが全て、そういう偶然が積み重なって行われたものだと、思っていた。
けれども。
まあ、考えておくべきだった。
というより――理解して、然るべきだった。
あの歳でジムリーダーなら、むしろ当然なのかもしれないけれど、筑紫は僕と同様に――
相手の手持ちのポケモンが、感覚的に分かる。
だからこそ、ルカリオを最後に残すような戦法を取ったのだと言う。そもそも、戦いを行う前から、『分かって』いたのだ。相手の手持ちが全て、『分かって』いた。だから筑紫は、扱うべきポケモンを、『選ぶことが出来た』し、戦いのシナリオを『選ぶことが出来た』のだと言う。
だから――最後の最後でヌケニンが出て来たことは、やはり偶然ではなくて、必然。実際、筑紫は僕のように、どれだけ育っているかを正確に判断することは出来ないらしいけれど、しかし、そんなものは大体で判断出来れば十分だ。だから筑紫は、素早さによる先手後手の読みを完璧に読み通した。そして相手の動きも、技も、読み通した。
ただ、エアームドの『燕返し』だけは、読めていなかったらしい。
エアームドは本来、燕返しなどを、自力で技として編み出さない。だから、エアームドが使用することが可能な技の一つである『燕返し』を予想して、『カウンター』を合わせることなど、不可能に違いないのだ。
なのに何故、筑紫が『カウンター』を選択したのかと聞くと、
「何ででしょうね」
と、筑紫は笑って言った。
本能的に。
或いは、直感的に。
……まあ、僕だってバトルする時に、多少の読み合いは行うけれど、実質的な『計算』なんてのは行わないし、そういう『感覚的』なものなのかも、しれない。
いつも、頭にあるのは一つだけ。
『ここで相手がこの技を使って、自分がこの技を使えば、理論的には自分が勝てる』
そういう、まさに机上の空論。
だから本当なら、『気合いの襷』が効果を成さず、エアームドが特殊攻撃を行っていたら、ヘラクロスは葬られていた可能性が高いのだ。
そしてヌケニンを引きずり出され、エアームドの飛行タイプの攻撃によって、勝負は二対ゼロという戦績で、終わっていた。
だけど終わらなかった。
ある意味では、だからこそ――ジムリーダー、なのだろうけれど。
筑紫は才能がある。
筑紫は努力をする。
そして運すらも――彼に味方しているらしい。
まあ、そうじゃなければ、あの歳でジムリーダーになんて、なれるはずがないに決まっているんだけれども。
トクサ少年はそれによって、この三ヶ月で再生してきたプライドを、破壊された。
「……ハクロさん」
「ん?」
ノートへの書き込みを行いながら、トクサ少年が尋ねてくる。
「……僕は、何がいけなかったんですかね」
その言葉に、僕は何と答えるべきなのか。
一度は僕が、壊してしまった少年だ。
その壊れた精神を、破壊し治すのも、また僕の役目なのかもしれないし――そうでないのかもしれない。
だったら一体、どうするべきなのか。
「いけなかったところ、ねぇ」
「ジムリーダーなら、育成もしっかりしているはずですよ。なら、他にももっと、強いポケモンはいたはずです」
確かにその通りだ。スピアーを使う必要性はどこにもなかったし、もっと育っているポケモンを使って力押しでねじ伏せるという手段だって、十分にあった。
「なのに負けました」
「そうだね」
「一体……何がいけなかったんですか」
食い下がるように……ともすれば、自分を否定してほしい、とでも言うように、執拗に尋ねてくるトクサ少年。
他に誰かいれば……特に、少佐でもいれば、こういう少年への対応は任せたいところだけど、生憎と今は、僕しかいないわけだし。
「まずはその考え方だろうね」
辛辣な気もするけれど、言っておく。
まあ、トゲを刺すなら、傷が治る前の方がいいはずだしなぁ。地獄を二度味わうよりは、いくらかマシだ。
「自分が弱いから負けたって考え方を、変えたらいいんじゃない? トクサ少年が負けたのは、相手が強かったからだよ」
「……それは、両方とも、同じ意味じゃないんですか」
「まあ見方によっては同じだろうけどさ。君は今、『足りない』んじゃないだよ。例えば百リットル入る容器が君だとしてさ、八十リットルしか入ってなかったら、それは『足りない』ってことだね」
「……はぁ」
「だけどトクサ少年は、もう十分に『足りてる』と思う。百リットル入ってる。だから問題は、『自分がいけなかった』んじゃなくて、『相手がよかった』ってことになる」
ある意味では、トクサ少年は十分すぎるほどだ。トレーナーとしての素質も、努力の量も。
「相手の容器が、僕の容器よりも、大きいってことですか?」
「そう。筑紫君なら五百リットル、とかね。数は適当だけどさ」
「……その容器ってのは、一体何で決まるんですかね。場数ですか? 強さですか?」
「言葉のままだよ」
「と、言うと?」
「君は器が小さい」
「――――…………」
そもそも僕に言わせれば――って、自分自身もそうなのに言うのはおかしな話だけれど――勝ち負けにこだわっている時点で、器が小さい。それは、トクサ少年も、筑紫も、僕も。
百回やって百回勝つ人間なら、勝ち負けに執着してしまう気持ちも分かる。けど、戦えば勝つし、同じように負ける。そういう当然のことを、当然として流れるままに受け入れられないようじゃ、器として、全然ダメだ。僕自身も、負けるのが怖くて戦えないようじゃ、全然ダメだ。そもそも戦う資格が、ないのかもしれない。
そういう点で見れば……多分、僕の知る限りでは、一番器が大きいのは緑葉なんだろうと思う。
だからこういう、トクサ少年みたいなトレーナーへの指導は、緑葉が一番適任だろうなぁ、とは思うんだけれど……生憎と、今はここにいない。
僕らが僕らとして成長するために。
失敗したことを、封印するのではなくて。
成功したことを、次に繋いでいく。
それが出来たら――その時はじめて、器が少しずつ、大きくなっていくのだと思う。それは僕が、緑葉というトレーナーを見て、感じたことだ。
だけどそれはやっぱり、他人に言われて理解するようじゃ、まだまだ足りないと思う。だからトクサ少年も、何とかそれに、自分で気づいて欲しいところなのだけれど。
「……まあそれでも、時には我を通した方が成長するってことも、あるのかもしれないけどね」
「……いや、ちょっと、考えます」
そう言って、トクサ少年はノートをリュックにしまい、俯いた。トレーナーとして本気な人は、こうして悩むことが日常茶飯事なのだろう。僕のような道楽人間には、まったく、分からないことだ。
「お兄ちゃーん、お料理運んでー」
「あーはいはい……ま、僕の言ったことは、あんまり気にしないでよ」
トクサ少年に一声かけてから、僕は台所へと向かう。そもそも僕は、偉そうなこと言える立場じゃないのだ。確かに戦いでは強い方だけれど、強いのは僕じゃなくて、僕のポケモンだから。
「それじゃ、赤火ちゃんと筑紫君はこれ持ってってね。お願いね」
「はい!」
「はーい!」
台所に入ると、筑紫が味噌汁の乗った盆、赤火がご飯の乗った盆を持って移動するところだった。落としても大した失敗にならないご飯が赤火の役割、ってところが、流石お婆ちゃんって感じだ。
「それじゃハクちゃんはこれをお願いね」
言いながら、お婆ちゃんは僕におかずの乗った盆を渡してくる。僕はそれを受け取って、茶の間に向かおうとする……が、
「ハクちゃん」
と優しく呼ばれて、振り返る。
「なに?」
「自分を責めることは、悪いことじゃないのよ」
「……うん?」
突然、何の話だろう。
「あのトレーナーさんね。自分の悪いとこ探してたでしょう? あれはね、自分を責めて、ポケモンを守りたいだけなのよ」
……ああ。トクサ少年のことか。
弱いのはポケモンじゃなくて、自分だ、ってか。
「……まあ、そうかもね」
「戦い方だ何だ、って言ってもね、そんなのは、大したことじゃないんだよ。争いに勝つことよりも、ポケモンと信頼しあえるほうが、よっぽと大切なんだから」
「…………うん、まったく、その通りだ」
言葉も出ない。
お婆ちゃんに言われて、ついさっきまで、僕が煮詰めていた考えなんて、一瞬で崩れ去った。
技の選択とか、指示の出し方とか、ポケモンの数とか、順番とか。
才能とか、努力とか、運とか。
トレーナーとしての資質とか、努力とか、悩みとか……。
僕は本当、何言ってるんだろう。
ポケモンは、戦いの道具じゃないんだぞ。
◇
仲直りに一緒にご飯を食べることが最適な理由。
一つ、料理が美味しいから心が安らぐ。
二つ、同じ机なので必然的に顔を付き合わせることになる。
三つ、おかずを取る際に、同じ器を共有することになる。
……とまあ、そんな具合で、やっぱりお婆ちゃんの言っていたことは正しかった――はず、なの、だけれど。まあ、関係が完全に修復した、というわけではなかったわけだ。
無論、トクサ少年にしてみても、自分に非があることは分かっているようだ。だけれど、自分から怒り出した手前、自分から歩みよることも出来ない……という感じらしい。
まあ、気持ちは分かる。
自分で勝手に盛り上がって、自分で事態を静める作業というのは、とてつもなく辛いし、恥ずかしいことだ。
だから仲直りの場を設ける必要があった。
そして第一に、一緒にご飯。最高だった。実際のところ、ほとんど肩の荷が下りたような印象がある。
それでもまだ仲直り出来ていないという。困ったものだ。
だけれど! 僕らには、もう一つ、仲直りの方法があるじゃないか!
ということで……困った時は、裸で語り合うべし! である。
――。
――。
――カポーン。
「ハクロさん、狭いんですけど」
「うん……誤算だった」
あまりに狭い、風呂桶。
二年前に来た時は、風呂には入らなかったんだよなぁ。だから、三年か四年前。僕の体が、こんなに大きくなかった時が、この風呂に入った最後の記憶ということになる。
それも二人以上で一緒に入った記憶となると、小さい頃――本当に赤火くらいの年齢の頃――に、緑葉と一緒に入ったことくらいで、その時には全然問題ない広さだったんだけど。でも体も成長するって話だから……狭く感じるのも、当然だった。
それでも、僕とトクサ少年が何とか湯に浸かれているということは、一般的な風呂桶よりも、広々と設計されているのかもしれなかった。
まあ、流石に三人は入れないだろうけど。
「すみません、もうすぐ洗い終わりますからー」
目を瞑りながら頭をわしゃわしゃと洗う筑紫。その姿を見る限りでは、どう考えても、バトル中に存在していたジムリーダーと同じではない。
「ていうかハクロさん、何で風呂なんですか」
「いや……裸と裸のぶつかり合いなら、仲直りするかなぁ、って」
「別に喧嘩してるわけじゃないですよ、僕は」
「そりゃ、うん、そうなんだけど……」
……どうも、この選択は誤ったかもしれない。
まあ実際には、仲直りさせるための方法と言うより、「やだ! お兄ちゃんと一緒にはいるの!」と駄々をこねた赤火を僕から遠ざけるための策略だったのだ。そりゃ、いくらよく知っている子だとは言え、十五歳と六歳じゃ流石にまずいだろうと僕は思った。それに、実際一緒に入って、あとで緑葉にその事実が知れるのが恐ろしかった。
だからそれを断る理由として、僕は今現在、男三人で風呂に入っているわけだけれど……男三人って、絵的にどうなんだろう。少なくとも僕は、好ましくないんだが。
「まあ……赤火と入るより百倍マシか。ああそうだ、筑紫君、聞きたいことがあったんだ」
「あ、はいー、何でしょうか」
「今度の檜皮ジム戦って、いつなのかなって」
トクサ少年に挑戦させる、という意味合いではなく、来週とかだったら僕も挑戦しようかな、という意味合いだった。
前回緑葉と冒険した一件以来、タイミングが合えば、僕はジムバッジを回収して、秘伝マシンを使えるようになろうとしているのだった。
「うちのジムですと、実は先日終わってしまったばかりなんです。ですから、次回は一ヶ月後の最終週になってしまいますね」
「ほう」
言いながら、目を瞑りながらたらいを探す筑紫の頭に、僕はお湯をぶっかけてやる。この風呂場は古き良き時代の遺産なので、シャワーなどというアイテムが存在していないのだ。
「あー、ありがとうございます」
「はいよ。まあでも……一ヶ月後か、残念なところだ」
何処かの町のジム戦が行われるのは、月に一度。土曜日か日曜日のどちらかで、ランダムに二つのジムが選ばれる。なので、下手をすれば、実質二ヶ月程度の間が開くこともある。
例えば最初に一月の一週の土曜日に行われて、次回が二月の最終週の日曜日、ってことになると、かなりの期間、そのジムでは公認のジム戦が行われないことになる。
まあ、そんなわけだから『道場破り』なんていう制度が発達してきたわけだ。本来、上手くいけば一ヶ月で全ジムのバッジを制覇することも出来るが、大体にして、移動や何やらでジム戦の機会を逃すことがしばしばだから、難しいものなのだ。
それに……全てのジムバッジを集めたところで、ポケモンリーグを制覇出来るのかと言えば、そういうわけではないのだから、焦らずゆっくりと、機会を見てバッジを回収していくのが、正しいポケモントレーナーの成長と言えるのかもしれなかった。
「ん……そういえばさ」
「どうしました?」
「先週の土日にジム戦だったところって、檜皮の他に、どこ? もしかして丹波?」
「いえ、先週は、浅葱ジムでした。丹波は……確か、再来週の予定ですね」
「……、」
トクサ少年が一瞬、筑紫の言葉に反応した。何に反応したのか、と考えること数秒、そういえば、浅葱ジムの蜜柑ってジムリーダーは、トクサ少年と同じ、鋼タイプのポケモン使いだったか。少なからず、思うところがあるのだろう。納得。
しかし、緑葉は丹波にいるとのことだったから、てっきり僕は、緑葉が丹波でジム戦でも受けたのかと思ったけれど……ああ、いや、そうか。浅葱と丹波は海で繋がっているから、緑葉は浅葱から丹波に、南下していったのかもしれない。
風呂から出たら……今どの辺にいるのか、確認を取ってみよう。下手したら、寝ているのかもしれないけれど。
「ハクロさん、変わりましょう」
「ああ、おっけい」
僕は風呂から上がって、筑紫と交代し、椅子に腰掛ける。
旅人だけあってかなり汚れていたトクサ少年は、一番最初に身を清めた。その後、筑紫と一緒に風呂に(気まずいから)入りたくないのか、トクサ少年は筑紫と交代した。僕はその間ずっと風呂に浸かっていたので、正直なところのぼせる寸前であった。
そして現在、筑紫とトクサ少年が一緒に風呂に入っている。
筑紫は体が小さいので、サイズ的には問題なかったけれど、問題は気まずさにある。
「い、いいお湯ですね」
「……ああ」
筑紫の笑顔が、泣いているように見える。とてつもなく不憫だ。
いやしかし、最初に出会った時から、そもそも筑紫とトクサ少年は、こんな感じだった気もする。バトルのイメージがあまりに鮮烈だったせいで曖昧だが……トクサ少年は、誰に対ても、大体こんな感じか。
だったら、筑紫が慣れることで、この仲違いは解消される気がするのだが。
「……ああ、そうだ。ハクロさん」
「ん、どうした?」
僕は先に頭を洗いながら、トクサ少年の問いかけに応じる。
「あの子……赤火、でしたっけ? 何なんですか。つい聞き損なっていたんですよ」
「ああ、赤火ね。でも、見た感じ、分かるでしょ?」
「…………娘さん、ですか」
「うん、精一杯のギャグをありがとう。正解は当たり前のように、緑葉の妹です」
トクサ少年に(引きつった)笑顔で答えながら、僕はシャンプーを手に取って、髪の毛を洗い始める。
僕は前髪が目にかかるくらい伸びていて、微妙に長いので、洗髪が面倒だ。しかし長いのは僕だけではなくて、筑紫は何か量が多いし、トクサ少年は切ってられるか! という感じで伸び放題なので、現在この空間にいる男は、総じて髪の毛が長い軟弱者である。
鉄さんと少佐と店長を見習えと思うほどに長い。正直むさ苦しいくらいだった。
「ああ、緑葉さんの妹……それは、似てるわけですね。えらい歳が離れているように見えますけど」
「まあ、九歳差くらいあるのかな。あんまり会ってない割には、仲いいらしいけど」
「……あのう、すみません。緑葉さんって、どなたですか?」
控えめに、筑紫が尋ねてきた。入れる会話には、何にでも入り込みたいタイプの人間らしい。とても社交的で良いことだ。
「ああ、筑紫君には言ってなかったっけ。僕の友達。で、トクサ少年に勝った女の子」
「……まあ、事実ですけど」
ぶっきらぼうなトクサ少年だった。怒っているというより、ふてくされているような。ふふふ、可愛いやつめ。とか僕は思いながら、蛇口からたらいにお湯を張って、頭から被る。流石に僕は、目を開けられる年齢だからね。
「それじゃあ、あの人は緑葉さんのお婆さんですか」
「いや、あれはうちのお婆ちゃん。赤火はー……何でだっけ。そうそう、里帰りに来てるらしいよ。で、僕はお墓参り兼里帰りなわけ」
「はあ……のんきなもんですね」
「まあ、僕は暇人だからねぇ」
言いながら、もう一度お湯を頭から被る。
「トクサ少年は、里帰りとかしなくていいの? お盆の季節なんだし、実家とかないのかい?」
「いや……僕は家を捨ててる身なんで」
当たり前のようにトクサ少年は言った。格好つけたいとかでは無くて、本当に捨ててしまったようだ。
「そう。まあ、そういうのも素敵だとは思うけどさ」
実際、家族は悲しむもんだろうな、と思う。家族を失っている僕だからこそ、そう感じてしまうのかもしれないけれど。
いなくならないと、分からないもんだしなぁ、家族の大切さなんて。いなくなるのと、離れるのでは、不安感の度合いが全く違うのだ。
「……あ、お、お前はどうなんだ?」
僕が会話を拾わずに黙っていると、ぶっきらぼうに、トクサ少年が筑紫に歩み寄る。トクサ少年もトクサ少年で、筑紫に申し訳ない気持ちがあるようだ。
「あ、僕ですか! えっと、僕は……その、両親は実は、海外にいるんです。というか、えっと、元々海外の出身で……だから、実家は海外にあるんですよ」
「ああ……そうなのか」
「え、じゃあ筑紫君のそれって、地毛? ていうかハーフ?」
「あ、はい。よく聞かれるんですけど、ハーフです。髪の毛も、地毛ですよ」
紫色の頭髪だったので、出会った時から不思議には思っていたけれど……なるほど、地毛か。
大概のジムリーダーは自己主張が激しくて、もともとが黒髪でも染髪している人が多い。しかし筑紫は正真正銘、地毛らしかった。まあでも、そりゃそうか。十歳そこらの少年が、髪の毛を紫色に染めるなんて考えにくいもんな。
「あ、でもさ、苗字は柳染だっけ? それに、本名も、筑紫……じゃなくて、植物の土筆なんでしょ? それは芸名っていうか、ジムリーダーとしての名前なの?」
「あ、いえ。柳染土筆は日本名なので、外国名も他にあります。……でも一応、そっちの経歴は原則非公開って事になっているので、すみません」
「ああ、ジムリーダーの素性は、原則非公開なんだっけ……そんな話、聞いたことあったな」
原則非公開。まあ、親しい間柄であれば、喋ってしまっても特に問題にはならないらしいけれど、有名人の知り合いとかは有名税が及ぶ可能性があるから、それを守るためにも原則非公開という体制を貫いているらしい。
そんな制度があるおかげで、僕は少佐が『何処かの軍隊の元少佐』って話は知っているけれど、それが何の軍隊だったかは知らないのだ。まあ別に、知りたくもないけれど。
「でも、外国名も、似たようなものですよ。似たようなものというか、そのままというか……って感じですけど」
「名前って、土筆の方?」
「はい、そうです」
「うーん、土筆かぁ……土筆は確か、単品での植物じゃないんだよなぁ。何だかの付属品っていうか。トクサ少年、知ってる?」
「ええ。フィールドホゥスティル、ですね」
僕の無理矢理な振りに対して、ぶっきらぼうな口調で、しかしトクサ少年は、正解の名を口にした。
「発音に自信はないですけど、土筆の母体である植物の、『杉菜』の英語名だったはずです。学名はィクィシティァムアーヴェンス、です。まあ、どっちも名前には思えませんね」
「うぉ……どうしたんだトクサ少年。急に物知りキャラじゃん」
トクサ少年は何だか、頭良さそうでボケキャラ、というイメージがあったのに。裏切られた気分だ。
「いや、大して知りませんよ。ただ、そこら辺の植物だけ、詳しかっただけです。植物全般に詳しいわけでは、全くないですよ」
謙遜でも何でもないようにトクサ少年は否定した。
ィクィシティァムアーヴェンス……か。そんな言葉、聞いたことすらない。僕は英語が分かるって言っても、日常会話くらいだし、専門的になるとさっぱりだ。まあ、流石にフィールドホゥスティルが何を言わんとしているかは、分かるけれど。
「まあともかく……その辺が筑紫君の本名なわけだ」
「はい。それにしても、トクサさん、詳しいですね。調べたりしたんですか?」
「……まあ、何年か前にな」
「僕もその辺のことは、ちょっと調べたりしました。ああそっか、僕とトクサさんは、共通点があったんですね」
「共通点?」
トクサ少年と筑紫に、共通点なんかあっただろうか。僕にはどう見ても、正反対の二人で、トクサ少年が一方的に嫌っているようにしか見えないのだけれど…………ん、ああ。
「そっか、共通点と言えば、共通点か」
何だ……どんな共通点かと思ったら、そんなことか。まあ、些細なこととは言え、確かに普通の人間同士じゃあまり見られないような共通点だ。
自分の名前のことって、八歳くらいの頃に、異様に調べ始めたりするし。トクサ少年もその頃調べた記憶が、まだ頭に残っているのかもしれない。
「なるほどね。良かったじゃん、共通点。何ならせっかくだから、ついでに仲直りしときなよ」
僕は体を洗いながら、そんな適当なことを、二人に向けて言った。まあ別に、お互い忌み嫌い合っているわけじゃないし、ましてやどっちも、嫌いなわけじゃないはずだ。
喧嘩したわけじゃないからこそ、仲直りしにくいってのは、割と多いことだ。だからそういうのは、何でもない、どうでもいい切っ掛けで、忘れてしまうに限る。
どうでもいい仲違いだからこそ、どうでもいい理由で。
「あの、また戦ってくださいね」
おずおずと、筑紫は風呂桶の中でトクサ少年に手を伸ばす。
トクサ少年はしばし難しい顔をしてから、乱暴にその手を取って、数回上下させて、すぐに放した。
「……えへへ。良かったです。トクサさん、同い年だと思ってたので、出来れば友達になりかったんです」
「……同い年って、僕は十三歳だけどな」
「あ、トクサ少年って十三歳だったのか」
何だかんだで、今まで年齢を聞いていなかったような気がする。まあ、年齢なんて、そういう話題が出ない限り聞くこともないけれど。
「ええ……まあ、先月なったばかりですけど」
「じゃあやっぱり、僕と同い年ですよ。僕も再来月で、十三歳ですから」
「………………嘘だろ」
自分の隣でお湯に浸かっている、どう見ても十歳以下の少年に対して、トクサ少年は訝しむような視線を向けて、上下上下と、観察していた。
そんな筑紫は、えへへ、と笑顔を作って、何となく仲直り出来たことを素直に喜んでいるようだった。ほんと、こう見てるとどう見たって、ジムリーダーの風格はないよなぁ、とか。僕は純粋にそんなことを思った。
まあでも、お互い裸なんだから、見つめ合ったりすんのは絵的にどうなんだよ……と、少しお兄さんな僕は、体を洗いながら思っていたのでした。
◇
風呂から上がったあと、僕は一人で、夜の檜皮を散歩することにした。
散歩……とは言っても、何となく歩きたい気分になったとかいうセンチメンタルな意味ではなくて、緑葉に電話をかけるために、人気のない場所に行きたかったわけだ。
別に誰かに聞かれて困るような話をするつもりはないんだけれど――少しばかり、気恥ずかしいというものがある。
時刻は夜の十時。電話をかけるには些か非常識な時間帯だし、もしかしたら緑葉はもう眠っているかもしれないけれど、それでも僕は緑葉の声が聞きたかったから、電話をかけることにした。
というよりは――緑葉の言葉を、か。
自分勝手だなぁ、と、我ながら思う。
「…………まあ、寝てたら寝てたで、明日かけ直せばいいし」
まあ、僕がかけ直すよりも早く、緑葉から折り返しの電話がかかってくるだろうけど。
ポケギアに登録されている緑葉の番号を呼び出して、僕はコールする。味気ない電子音が鼓膜を揺らしている間、僕は適当に、檜皮の中を徘徊した。
「……はーい」
五回くらいのコールが終わった後、緑葉の寝ぼけた声が聞こえた。
やっぱり寝ていたらしい。悪いことをしたなぁ、と思ったけど……でも緑葉の声が聞けて、何だか安心した。
「ごめん、寝てた?」
「んー……寝てないよ。全然大丈夫」
「そっか……って寝てただろ、その声は」
「もうちょっとで寝るとこだったから、寝てないよー……」
眠りに入ったところか。
……最悪のタイミングじゃないか。
「ごめん」
僕は素直に謝罪の言葉を入れる。心情的には、喜びの方が多かったのだけれど。
「全然だいじょーぶー……そんで、何かあった?」
「あ、いや……えーと」
「うん?」
「あー……うん、大した用事じゃないんだけど。緑葉って今、どの辺にいるの?」
僕は適当に、理由をでっちあげて緑葉に告げる。
電話をした理由なんて、ただ緑葉と会話がしたかったというだけだ。
「今? えーと、槐の西側だね。牧場の近く」
「ああ、三十九番道路だっけ」
「うん。だから、そっちには明日の夕方には行けると思うよー」
明日の夕方か……。
午前中に墓参りを済ませておいたほうがよさそうだ。
「……ん、それだけ?」
「あ、ああ……うん。まあ、そのくらいかな」
「嘘だね。ハクロはそのくらいのことで電話しないもんね」
「うん……」
全く持って、その通りです。
そのくらいのことで電話するなら、僕は毎日だって、緑葉に電話したい。毎日、その日に起きた事を、聞き出して、話がしたい。
でもそんなことは出来ない。
あんまりうざったいことして……嫌われたくないし。
「どうしたのさ」
「んー……いや、うん……」
「はっきりしないなぁ」
「申し訳ない……」
「赤火が何かした? それとも、檜皮で何かあった?」
「まあ、あったと言えばあったかなぁ」
何かあったのか、と言われれば、心が折れているのかもしれない。何と言うか、例えば三ヶ月で劇的に成長したトクサ少年を見て、僕より年下でジムリーダーを任されている少年を見て、その二人は凄まじいまでに向上心があるのだな、という認識を僕はした。
対する僕は、毎日自堕落な生活をしていて、二人より年長者であるにも関わらず、適当な言葉で、結局言葉をはぐらかして、生きている。以前にトクサ少年とは一度バトルしたとは言え、一度きり、だ。
それなのに。
いや、それでも尚。
才能があって、努力をして、日々鍛錬を怠らず、研究に、育成に、成長に熱心な二人。普通に見たら、ポケモンを一匹しか持って無くて、修行は愚か、戦闘行為すらしようとしない僕なんか、二人に比べて天と地ほどの差があって当然なのに――
それでも、二人に対して、負ける気がしない。
どころか、まだまだ弱いな、とも思えてしまう。
おこがましいと分かっている。最低な考えだと理解している。
それでも、何となく。いや、絶対的に、僕は彼らより強いということを分かっている。それが苦しい。
努力をして、努力をして、努力をして。最強を目指そうとする彼らを、僕は見ているだけで、自分が持っているモノを分け与えてやることなんて出来ない。
こんなにも――不必要な才能を。
それを今日、あの二人のバトルを見たことで、悟ってしまったから。
そして、トクサ少年に、ポケモンを愛する心なんて説いた自分が――自分のポケモンを球体にずっと押し込めているだけで、一番酷いことをしている。
お婆ちゃんが言った言葉で、僕は酷く落ち込んでいる。
ポケモンは戦いの道具じゃない。
なのに――護身用などという名目で、そいつを肌身離さず持ち歩いている僕は、一体何なんだ。
一緒に冒険するわけじゃない。
一緒に戦闘するわけじゃない。
一緒に生活するわけじゃない。
一緒に――生きてさえいない。
一番最低なのは、僕じゃないか。
才能にかまけて、ポケモンの才能を殺した。
そんな最低のチームワークのくせに――それでもまだ、あの二人よりも、強い。僕はあの二人に、絶対に負けない。六対一で戦ったって、負ける気がしない。
ポケモンリーグだって――きっと、制覇出来るだろう。
そのくらいの強さを、自動的に手にしている。
「……ハクロ?」
「ん、どうかした?」
と、声に出そうとして、上手く声に出せない。
「……もしかして、泣いてる?」
「まさか。男の子が泣くはずないじゃないか」
と、言おうとしても、上手く声にならない。
おかしいな……泣くのは、僕じゃないはずなのに。
泣いている緑葉を慰めるのが、僕の仕事のはずなのに。
これじゃ反対じゃないか。
「何かあったでしょ。話してよ」
「いや、大したことじゃない。いつもの事だから」
「いつもの事って……ハクロはいつも、泣いたりしないじゃん」
「泣いてるよ」
「泣かないよ。檜皮から出たあとは、ハクロの泣き顔なんて、見たことないもん」
「ああ、そうだね。僕は緑葉のいないところで、毎晩泣いてるだけだよ。だから緑葉は、知らないんだろ」
自分の不甲斐なさに。
自分の不快さに。
そして一番は――一番大事な人の夢にとって、一番近い場所にいることが。
緑葉の夢を、叶えられるという自分に、腹が立って、泣くだけだ。
緑葉の為に生きたくて、緑葉の欲しい物を持っていて、それを分け与えられなくて、そんなばかばかしい理由で流した涙なんて、緑葉に見せられるわけがない。
「…………」
「…………ごめん。会えるの、楽しみにしてる」
静かに言って、僕は電話を切った。
そのまま電源も落とす。
「はぁ……」
心を落ち着けようとして電話したはずなのに、心が荒れただけだった。
「こんなことなら……いつも通り、自己解決すりゃよかった」
自己解決出来た試しなんて、ないんだけどさ。
泣いた顔で家に帰るのも忍びない僕は、何となく、姥目の森に侵入することにした。子どもの頃は――とは言っても、まだまだ子どもだけど――夜遅くに森に近づいたら怒られたもんだけど、今ならもう、大丈夫だろう。
何しろ僕には、立派な護身用の道具が、あるからね。
「――――はっ」
自分自身を皮肉ったところで、傷つくのはポケモンなのに。
それでも僕は、自分を傷つけないために、ポケモンを傷つけるだけだった。
檜皮と森を繋ぐ連絡を抜けて、僕は姥目の森に満たされる。まとわりつくような湿気と熱気に毒されて、自分の毒々しさが、目立たなくなる。
このまま溶けて消えればいいのに、僕という人間はまだ生きたがる。そりゃそうか。死にたいわけじゃないし、生きたくないわけじゃないし。
ただ……自分が嫌いなだけだ。
このまま緑葉の所まで、徒歩で行こうかな、なんていうバカげた考えを頭の中に浮かべてすぐに諦める。これ以上緑葉と会話を重ねても、喧嘩にしか発展しなさそうだ。
姥目の森を適当に徘徊する。歩き慣れているはずの森も、昼と夜とでは大違いだ。とは言っても、元々この森は薄暗いので、あまり変化は無いのだけれど――実際には、夜だと何も見えないくらいに明度が下がる。
まあ実際のところ、逆に何も見えない方が、楽なんだけどね。
「……おーい、誰かいんのかー?」
僕は一瞬、突然聞こえたその声にドキリとする。が、すぐに声の主が鉄さんだと分かって、落ち着きを取り戻した。
ああ……まだ仕事してるのか。
本当に――努力するのは、やめてくれよ。僕の精神状態はこんなだって言うのに。
「お化けかー? 俺はお化け怖いぞー?」
「僕です……ハクロですよ」
僕は言いながら、声のする方に近寄っていく。ランプを地面に置いて木を伐採している鉄さんとカモネギの姿が、そこにはあった。
「なんだハクロか、どうしたんだこんな時間に」
「別に……何でもないですよ」
「そうか、何でもないにしては、声の出方がおかしいな。まるで泣いているようにも聞こえる」
「そうですか。それは、おかしいですね」
今の僕、そんなにおかしいのか。
僕にはさっぱり、分からないけれど。
いや、ていうか、気づいたら敬語だ。
仮面を被ってんのが、モロバレだ。
「んー、何かあったんだな。よし、そんじゃあ抱きしめてやろう。俺の胸で泣け」
「嫌ですよ。何でそんな暑苦しい胸で」
「お前なあ、男が泣いてる時は、年上の男にしか甘えられないもんだぞ?」
ランプの灯りでかろうじて見える鉄さんの顔は、笑顔だ。
聞き分けの悪い子どもを諭すような――そんな笑顔。
「女に甘える男はクズだな。年下に甘える男もゴミだ。だから、年上の男である俺に甘えておけ。今甘えないと、後悔するぞ? ん?」
鉄さんは、そのよく分からない理論に則って、僕を力強く抱きしめた。それは抗うにも抗えない力強さで、しかし僕自身、その力強さに抗うつもりもなく、ただただ圧倒的に、抱きしめられた。
多分これが、一番正しい解決方法なんだろう。
お婆ちゃんに泣きつくには、年を取りすぎた。
トクサ少年や筑紫に泣きつくには、距離を置きすぎた。
赤火に泣きつくには、プライドを育てすぎた。
緑葉に泣きつくには――僕は緑葉を、愛しすぎた。
そして嫌われたくないが為に、弱い部分を見せられない。
「僕だって……のうのうと、何の悩みもなく生きてるだけじゃないんですよ」
両親が居なくなってから、誰にも言えなくなった悩みを、初めて打ち明ける。
鉄さんが、ポケモントレーナーじゃないからこそ。
少佐のように――僕と戦って、討ち負ける人間じゃないからこそ。
素直に、甘えられた。
「僕だって強くなるために、冒険したかったんですよ」
同い年の子どものように。
その過程を踏みたかった。
「ポケモンリーグに夢を見たかったんですよ……」
こちらから願うよりも先に。
あちらから願われた。
「もしかしたら、筑紫とは……分かり合えると思ったのに」
僕より年下で、天才なら。
僕と同じだと思ったのに。
僕の足下にも及ばない程度の強さしか持ってなかったから…………。
僕は鉄さんに、理不尽な痛みを、吐き出した。
鉄さんには到底理解出来ないような話を。
鉄さんはポケモンを持ってはいても、トレーナーじゃない。
だから僕は、吐き出した。
自分の持った悩みを。
期待される辛さを。
憧れたい願いを。
鉄さんは黙って、僕の愚痴を聞いてくれた。
そしてずっと抱きしめてくれた。
それだけで――幾分も、僕は救われた。