『日曜日は休みたい』
1
「……あの、症状が悪化したのは、僕の対応が悪かったせいでしょうか」
「いや、悪いのはタイミングだよ。季時君、なんでも自分を責める癖は、治した方がいい」
「そうですかね」
「そうじゃないと、私みたいになる」
「それは嬉しいお話ですけど」
「いや、君が私みたいになったら、私はまた自分を責めることになる」
2
季時の判断は間違っていないはずだった。病を抱えた生徒を、正しく治療へ導くのも、彼の仕事のひとつであるはずだ。季時は土曜のうちに、姫川を自宅へ連れて行って、両親へ事情を説明した。傍から見れば、「ちょっと変わっている」で済ませられるはずの姫川の行動も、病気である、という事実を突き付けられると、そう見えてくる。両親にもそうした覚えはあったようで、既に自分の存在すらも曖昧になっていた娘を見て、すぐに入院を決めた。
蜂ヶ谷へのフォローは後回しになった。それは学校が始まってからでいいだろう、と季時は考える。土日は完全に潰れてしまった。姫川の両親と共に、彼女を玉虫市にまで連れて行き、季時は久々に恩師の玉虫博士と会話をした。姫川は、玉虫大学付属病院に入院させることになった。距離はかなり離れているが、いざとなれば季時は空を飛んで玉虫市まで向かうことも出来るので、出来れば頻繁に様子を見たいと思っていた。
地元駅について、姫川夫妻と別れたあと、彼は駅前のベンチでぼんやりとしていた。山吹市のコーヒー店で買ったテイクアウト用のコーヒーカップの中に、冷えたコーヒーが二割ほど残っている。それをゆっくりと飲み進めていた。家に帰る気にもなれず、学校に行って作業をする気にもならなかった。事前に学校側とも連絡は取れているが、色々と作成しなければならない書類は多いはずだ。その作業は決して面倒なものではなかったが、今すぐにやる気にはなれなかった。曇天も、季時の心を暗くするのに一役買っていたのかもしれない。
二時間ほど、ベンチに座っていただろうか。数本の電車が停車しては、また走り去っていくのを見た。のどかな町だった。生物学教師としては物足りない職場なのではないかと、赴任した当初は思っていた。が、最近は、こういうのどかな暮らしも良いかもしれないと思うことがある。ポケモンが浸透していないからこそ、異質な人間が多く育つ。奇病を患う人間も、数多く存在する。宮野に、姫川に――少し離れた場所に住んではいるが、立花の住む地方も、さほどポケモン文化が盛んというわけではなさそうだ。もっとも、この田舎町に比べれば、多少なり専門的な知識を持つ人間は多いようだが。
何本目かの電車が停車して、数名の客が駅から吐き出されてくる。季時はその人数を眺める。もう夕方になろうという頃だった。暗くなる前に地元に帰ってきた、という人が大勢いる中に、一人だけ、旅人らしき人物を見つけた。季時はその風貌を懐かしく思った。季時自身、数年間、全国を放ろうしていた時期があった。彼の頃と比べ、現在は電子機器の利用も簡易的になっているはずだったが、その旅人は、わざわざ紙製の地図を広げていた。
暇な季時は、その旅人の行動を観察していた。そしてようやく目的地の目処をつけたらしい旅人が歩きだそうとしたところで――長く続いた曇天が、ついに雨に変わった。白衣を頭にかぶる。中身のなくなったコーヒーカップを、地面に置いた。少しずつ雨が溜まって行く。濡れるのは別に構わなかった。立ち上がるのが億劫だった。このカップが満たされたら、家に帰ろう、と思う。原始的なタイマーだった。
「……あの」
声を掛けられ、季時は視線をカップから上に向けた。観察していた旅人が声を掛けてきたようだった。
二十代くらいだろうか。背丈はそれなりだが、表情は幼く見える。童顔というより、多くの時間を無表情で過ごしてきたのだろう、という類の顔だ。季時自身がそうだから、よく分かる。
「なにかな」
「いえ、雨降ってるのに、大丈夫かな……と思いまして」
気付けば旅人は雨具を着込んでいた。いや、もともと着ていたのだろう。フードを被って、袖を元の位置まで戻しただけのようだった。
「今日は濡れて困るものは持ってきていないからね」
「ああ、なるほど……でも身体が冷えると人間って案外簡単に身体を壊しますから。折りたたみ傘なんてものがあるんですけど、良かったらどうです?」
「君、ポケモントレーナー?」
「え?」旅人は面を食らった。一瞬、話が通じていないのかとすら思ったからだ。「ええ……一応、エリートトレーナーってことになってますけど」
「ふうん。まあ、見た感じ、強そうだからね」
「そう見えますか」
「第一印象でね」
「ということは、あなたも強いんでしょうね。僕を見て、強そうだ……とか思う人って、そもそも、それ相応の実力がある人ばかりですから。まあ、人の力量を見定めるなんてことは、力量のある人間しか出来ないことですけどね……」
「どうして僕に声を掛けたわけ?」
「ああ、いえ……本当に、単純に、雨が降っていて大丈夫かな、と思ったんです。まあ、今までだったら――というか、平凡に暮らしていた頃なら、人には人の事情があるんだろう、そっとしておくのが大人なんだろう、とか思ってましたけど、最近旅づいてきたというか、色々な地方を回ってきたことで、困ってるかもしれないし、困ってないかもしれない人を見たら、とりあえず声を掛けておくのが正解かな、みたいな」
「なるほどね。疎まれたら?」
「まあそういうリスクもあるっちゃああるんですけど……なんですかね、リスクリターンってあんまり釣り合わないと思うんですよね。個人的に、こう……人に嫌われるリスクが十あったとしても、誰かと末永く付き合えるリターンが千あるなあって感じです」
「傘、借りていいかな」
「あ、ええ」
エリートトレーナーから差し出された折りたたみ傘を広げて、季時はベンチから立ち上がる。コーヒーカップを拾い上げて、中身を捨てた。
「どうしてこんな駅で降りたわけ?」
「え?」
「もう暗くなるよ」
「ああ……一応、この周辺で宿泊施設のありそうな駅で降りようかなと。この辺に住んでいらっしゃるであろう方に言うのもなんですけど、本当、泊まる場所少ないですよね……そもそもポケモンセンターがある場所すら少ないとは」
「ああ……残念だ」
「なんですか?」
「あの宿はね、もうやってない」
「……またまたあ。え、嘘ですよね?」
「三ヶ月前に潰れたよ。観光地でもなんでもない場所だからね。少子高齢化が進んでいて、宿を営んでいた老夫婦は隠居した」
「いや……え、本当ですかそれ」
「ポケギアかポケッチ、持ってないの? 多分調べれば出てくると思うけど」
「ちょっと思うところあって、電子機器と無縁の生活をしようかな……とか思っていたところだったので、持っていないんですよね。そういう類のものって、トレーナーズカードくらいなもので……ああでもボール自体が電子機器っちゃあそうですけど」
「次の電車、一時間後だよ」
「……マジですか。ちなみに、最寄りで宿のある場所ってどこかご存じですか?」
「傘を借りた」
「はい?」
「返さないといけないな」
「あ、いえ、高いもんじゃないんで大丈夫ですけど」
「うちに泊まれば?」季時はそう言って、歩き出した。「ちょっとね、ナーバスなんだよ、僕は」
「はあ……」
「若い子を捕まえて、昔話とかしたい気分でさ。他人に迷惑を掛けたい気分なんだよ。歳を取るのは怖いね。何が怖いって、この気分になったのが今週二度目ってことだ」
「いや、まあ、それは別に、構いませんけど……旅慣れたせいで、他人様の厚意を甘んじて受けられるような人間にはなったんですがね。あと、人様のお話を聞くのは割と好きなので、本当、泊めていただけるなら大歓迎ですけど」
「僕ね、教師なんだ」
「へえ、教師さんですか。僕はあんまり縁がない職業ですね……高校ですか?」
「うん。どうして?」
「白衣だったので」
「ああ。なるほど。君、いくつ?」
「えーと……十九歳です」
「へえ。若いなあ」
「あなたは――あー、お名前お伺いしてもいいですか。僕は白黒と申しますが」
「季時九夜」
「季時さんですか。いや、教師なら先生って呼ぶのがいいですね。季時先生の方がなんかしっくり来ますし」
「好きに呼んでよ」
「じゃあえっと……改めて、季時先生はおいくつなんですか?」
「君よりは上だ」
「でしょうねえ」
恐らくポケモンに囲まれ、ポケモンを扱う人間に囲まれて生きてきた少年と肩を並べ、季時は思う。もし姫川が彼のような世界に生きていたら、もしかしたら、疎まれたり、面倒事に巻き込まれたり、心を病んだり、病気になったりすることもなかったのでは、と。
そうすれば、自分のポケモンを痛めつけるなどという発想に至ることもなかったのではないか、と。
「そう言えば……ちょっと興味本位で聞きたいことがあるんだけど、エリートトレーナーになるような生活をしている白黒君は、例えば……ポケモンを殺せるかな。殺そうという決意を持てるだろうか」
「んー……難しいところですけど、僕は殺せますね」
「どうして?」
「殺せるって決めつけないと、自分が死ぬことになるからですね」
なるほどな、と季時は思う。立花の答えと方向性は同じだが、それに至るまでのプロセスがまったく違った。恐らく、このトレーナーは、ポケモンを自分と同等の存在として扱っているのだろう。いっそ、自分より格上と思っているのか。
「まあ確かに感覚としては殺せないですけど」
「それが普通だ」
「ちなみに季時先生は?」
「僕? うーん」
季時は五秒間立ち止まり、答えを出す。
「無理だ」
「どうしてですか?」
「多分、ポケモンを殺したら、自己嫌悪で死んでしまいそうだ」
「優しいんですね」
「弱いだけだよ」
「いやいや、そんなことないですよ。まあ、何となくですけど……季時先生と関わる学生さんは幸せそうだな、と思いました」
「ああ、そう……」
季時は折りたたみ傘を少しずらして、空を見た。まるで月曜日のような雨が続いている。