『真実の沼で溺れ行く』
1
待っていれば来るだろう、という季時の予想は当たっていた。朝と呼ぶには少し遅めの午前十時。季時はチャイムに吸い寄せられるようにして、玄関を開けた。案の定、訪ねてきたのは、姫川だった。
「おはようございます、先生」
「おはよう」
「休日でも白衣を着ていらっしゃるんですね」
「君が来ると思っていたからね」
「……待っていてくださったんですか?」
「外に出よう」姫川を上がらせず、季時は素早く外に出て、鍵を掛けた。そして彼女を置いたまま、歩き出す。「君こそ、休日なのに制服なんだね」
「女子高生ですから」
「ふうん?」
「女子高生の戦闘服なんですよ、制服は」
「誰と戦うわけ?」
「将来とです」
「なかなかいいセンスだね」季時は視線を向けずに言った。
二人は、姫川家の管理地から出て、さらに学区からも離れた場所へと向かう。季時にも明確な目的地があったわけではない。が、消去法で選ばれたのは、駅だった。
「どこかへ出かけるんですか?」
「乗ろうか?」
「え?」
「君が乗りたいなら、電車に乗ろう」
「……先生、私、恥ずかしながら、電車に乗れないんです」
「へえ、宗教上の理由で?」
「一人で乗ったことがないんです」
「なるほどね。じゃあ、乗ってみよう。丁度行きたいところを思いついた」
簡単な説明を交えながら、季時は二人分の切符を買った。過去に取得したトレーナーズカードを持っている季時は、そのカードを利用して改札を抜けることも出来たが、なんとなく切符を利用したい気分だった。二人は改札を抜けたあと、しばらく待たなければ到着しない電車を、ホームのベンチで待つことにした。
「姫川君の目的は分かっている」
と、唐突に季時は言った。
「私の目的ですか」
「そうだ」
「季時先生に会いたい、とかですか?」
「うん。僕にどうして会いに来るか、という目的だよ」
「きっと、先生に懐いているんですね」
「いや、ヒメグマの件についてだよ」
姫川は一瞬首を傾げたが、「そうでした」と頷いた。
「結局、ヒメグマは消えてしまったんでしょうか」
「いや、見つかったよ」
「え」
心底意外そうに、姫川は季時を見つめる。それを見ながら、真剣に会話をしている季時とは別の人格が、美人はどんな表情をしても映えるようだ、と考えていた。
「……生きている、んですか?」
「生きているよ。元気に暮らしている」
「そう……です、か。良かったです」
「ただ、君に返すべきかどうか、迷っているんだ」
「……なんでですか? 見つかったなら――」
「電車が来るね」
ホームに流れてきた電車に乗り込む。日常的に電車の利用が少ないこの地方では、常に席数に余裕がある。季時と姫川は七人掛けの席に、二人だけで座った。
「先生、私、先生が何を仰っているのか良く分からなくて……説明していただけますか」
「うん。その前に、これ、見覚えある?」
季時は一枚の紙片を取り出した。それを受け取った姫川は、不思議そうに首を振った。
「そうか、まあ、いいんだ。ヒメグマとは直接関係のあるものじゃないからね」
地方から、さらに田舎の方へと、電車は走っていく。
「では、本題に入ってください」
「うん。じゃあ、もう一度確認しようか。君をいじめていた人間は、誰?」
「――前にも言いましたけれど、覚えていません」
「蜂ヶ谷君のことは覚えている」
「それは――だから、珍しい苗字だからです」
「確かに珍しい苗字だ。でも、そうじゃない」
「?」
「君をいじめていたのは、蜂ヶ谷君だけだからだ」
「……」
本当に、何一つ理解出来ない様子で、姫川は首を傾げる。
「それも実を言えば正確な表現ではないんだけどね。ひとまず、そう定義しようか」
「――よく、分かりません」
「まだ分からなくていい。時間はあるんだ。ゆっくり話そう」
2
墓地として有名なのは、紫苑市と呼ばれる地域だろう。建物自体が墓地としての役割を果たす、『ポケモンタワー』がある。しかし、地方ではまだ平地に直接墓地を展開しているのが普通だ。季時が姫川を連れてきたのは、『公共霊園』と呼ばれている場所だった。ポケモン以外に、普通の動物も埋葬されている。
「……どうしてこんなところに?」
「どうしてだと思う?」
季時は、ある墓の前に立つと、途中で買ったミネラルウォーターを三分の一ほど、墓石にかけた。
「分かりません」
「君のヒメグマは、もしかしたら、ここで永眠することになったかもしれない。僕たちの住む町から一番近い霊園は、ここだからね」
「……でも、私のヒメグマは、生きているんですよね?」
「生きてはいる。しかし――」
季時は、墓石に手を置いた。
「このお墓はね、授業で協力してもらっていたポケモンの墓だ」
「……そう、なんですか。ポケモンって、なんか、死なない印象がありましたけど」
「まあ、寿命が大半だし、その寿命もものすごく長いからね。事故で死ぬってことは、ほとんどない」
「けど、お墓、多いですよね」
「人間と違って、一つの墓に何匹も入るって文化ではないからね。一匹につき、一つの墓を作る。ご丁寧にもさ」
「ああ……」
「それに、ポケモンのために墓を作るという文化自体、始まってから、まだ百年も経過していないんだ。すごく最近の文化。にも関わらず、ポケモンタワーとか、電子墓地みたいなのが溢れてきた。それだけ、数が多いんだよ。一人の人間が、何十、何百と所有する場合もあるし、そういう人間も、山のようにいる。墓地というシステムがパンクするのも、時間の問題だ」
「あの、そんなお話をするために、ここへ?」
「つまり何が言いたかったかと言うと……君のヒメグマは、一歩間違えば、ここにいたんだ」
「ええ、でも――」
「君に殺されて、ここに埋められていたかもしれないんだ」
季時の言葉を理解出来ず、姫川はただ季時をじっと見つめる。
「分かるかい?」
「――先生? あの、何を仰っているのか……」
「この景色を見るんだ。ここに眠るのは、人間に捕獲され、少なからず愛され、天寿を全うしたポケモンがほとんどなんだ。いたずらに殺されたわけでもなく、何かの犠牲になったわけでもない。ただ、愛されて、仕方なく死んでしまったポケモンなんだ。それでこの量だ。そして、ほとんどの墓に、一年に一度以上、供物が捧げられる」
普段と様子の違う季時に、姫川は何も言うことが出来ない。
「しかし、野生のポケモンの死体というものは、そのまま自然に還る。他のポケモンの食料になることもあれば、腐敗して、骨になることもある。君のヒメグマの代わりになくなったヒメグマも、放っておけば、そうなった」
「――なんで、なんで私にそんなお話をするんですか? 私は、被害者なのに……怒られたり、責められたりするのは、心外です。やめてください、先生。私は――私のせいじゃないじゃないですか」
今にも泣き出しそうな表情で、姫川は言う。しかし、季時は一切動じずに、言葉を続けた。
「そう、君は確かに被害者だ。今の君に、罪の意識はない」
「当たり前じゃないですか」
「しかし、だからこそ説明しなければならない。一から、順を追って。今回の悲劇は、君の自作自演が引き起こしたものだということをね」
3
「――自作自演? 何がですか?」
「『制限性記憶障害』という病気があってね。これが君の病名だ」
病気、という言葉に、姫川は顔を赤くした。身体が、少し震える。
「な――何を、仰っているんでしょうか。病気? 私がですか?」
「そう。都合の悪いことを忘れたり、記憶の正当性を保つために、不要な情報を忘れる病気のことだ。何らかのアクシデントに見舞われ、人生が上手く立ち行かないというときに、極稀に発症する。かなり珍しいケースで、僕も見るのは初めてだ」
「いえ、私は――」
「君はこの手紙に見覚えがないと言ったけど」季時はポケットから先ほどの手紙を取り出した。「これは、君が僕に宛てて書いた手紙なんだよ」
「――知りません」
「うん。君は忘れている。その手紙は成功したとは言い難いアプローチだったから、忘れることにしたんだろう。うまくいかないことや、失敗したことは、忘れて行くように出来ている」
「私、自分のことを、そんなに記憶力の悪い人間だとは思っていないんですが……」
「その通り。目的達成のために忘れているわけで、それ以外の記憶に支障はないんだよ。学校生活以外――いや、いじめ問題以外の記憶は、鮮明なはずだ」
「だったら――」姫川は数秒間、言葉を構築した。季時の言葉を信用しはじめていたからこそ、それを否定する言葉を考えた。「――だったら、いじめられたことを忘れるのが、普通なんじゃないですか?」
「最初は僕もそう思っていた」
「なら」
「でも、君の目的が違ったんだ」
「目的って、何ですか?」
「それは、君がいじめられている環境を作り出す、ということ。確かに君は、上級生たちから目を付けられていたようだけど――無視されていただけらしいじゃないか。君が言っていた、ヒメグマを隠されたり、お弁当箱を捨てられたり――というような事実はなかったと聞いている。しかし、いないものとして扱われるのは、君には苦痛だったんだろう。だから自作自演をはじめたんだ」
「じゃあ、ヒメグマは……」
「ヒメグマはね、君が殺したんだ。君が君自身の手で、痛めつけて、殺したんだ」
4
「――嘘ですよ」
姫川は笑いながら言う。
「じゃあ、ヒメグマが偽物だったのはどういうことですか? 私がわざわざ、捕まえたって言うんですか?」
「いや、それをやったのは蜂ヶ谷君だ。ヒメグマはこの辺には生息していないからね、捕まえるのは難しい。ポケモンを金銭で売買するのは違法だし、高校生の君がヒメグマを捕まえることは出来ないだろう」
「どうして蜂ヶ谷さんが出てくるんですか」
「彼女の存在が事件をさらにややこしくしたからさ。彼女はね、君に同情していたんだ。経験者だから」
季時は緩く首を振った。とても悲しい表情をしていた。
「彼女は純粋なんだ。善と悪が同時に存在するタイプの人間でね。姫川君のような優れた人間が無視されているのは可哀想、と思っていたらしい。が、同時に、自分のような人間が声をかけて友達になろうと言うのも烏滸がましい――とも思っていた。まあしかし、これは他の生徒にも同様の感情かもしれないな。だから蜂ヶ谷君は、せめて君の負担が減るようにと、補助をした。君に頼まれて、君をいじめていたんだ」
「頼まれて……」
「いじめを受けることで、君の評判は多少回復したかもしれない。少なくとも、悲劇のヒロインとしての価値は上がった。かといって、いじめを受けている人間に手を差し伸べるのは難しい。ましてや、入学早々のこの時期じゃあ、君との繋がりも深くないだろうからね。君のいじめの予定はどんどんエスカレートしていって、最終的に、自分のポケモンを痛めつけるところに至った。自分自身が殴られたりするわけではなく、ポケモンが対象になったのは、まあ、仕方ないことと言えば仕方ないことだ。誰だって、痛い思いはしたくない」
「……」
姫川は、口を噤んだ。記憶にない情景が、フラッシュバックする。もしかしたら、本当にそんなことがあったのかもしれない、というような不安が、蔓延していた。
「ポケモンの世界には――『交換』っていうシステムがある。自分のポケモンと相手のポケモンを入れ替える。そうした場合、交換したポケモンの親権は、相手に渡る。普通――例えば、僕の持っているポケモンや、ポケモントレーナーの持っているポケモンっていうのは力が強い。強いポケモンは、所持する側も相応の力を持っていなければならない。が……低レベルなポケモン、愛玩用に飼われていた君のヒメグマと、愛好家が愛でるために飼っていた蜂ヶ谷君のヒメグマは、双方とも、レベルが低かった。つまり交換したあとでも、君がヒメグマを傷付けたとしても、抵抗することはなかったんだよ。どうしてこんなことをされるのか、とは思っただろうけどね」
「――――私、知りません」
「うん。君は知らない。覚えていないんだ」
「私が……ヒメグマを、殺したんですか……」
「もちろん君の計画では――死ぬことはなかったんだろう。ポケモンを飼う際に、モンスターボールの基本的な性能は知らされるはずだ。生命維持機能があることとかね。ただ、蜂ヶ谷君のヒメグマは、特殊な――言わば粗悪品であるモンスターボールに入れられていた。だから、瀕死状態のヒメグマは、傷付けられた後にあの森に投げ捨てられて、息絶えた」
「……じゃあ、モンスターボールが壊れていたのは、どうしてですか」
「ポケモンの本能によるものだ。人間の持ち物であるモンスターボールが落ちている。その中に、ポケモンの反応があった。例えば君は『制限性記憶障害』を患っていると言ったけど、もとはポケモンに見られる症状だ。同様に、これはもはや病気というよりは特殊能力の領域として認知されているけれど、ボールの中になんのポケモンがいるのか、ということを察知出来る人間がいる。それも、もともとはポケモンが持っている性質だ。だから、森の中に住んでいたポケモンは、瀕死のポケモンがこのボールの中にいるようだ――と判断した。それを救うために、ボールを破壊したんだ」
季時はポケットからボールを取り出した。ヒメグマの死体の入っている、『棺桶』だ。
「蘇生が間に合わなかったのか、破壊したときには既に事切れていたのか。とにかく、ヒメグマは死んだ。死んでしまったポケモンは、埋葬されたりはしない。ポケモン界では、死体は放置されるのが当たり前だからね」
「私が……やったんですか」
「そう。君がやったんだ」
季時は慈悲を見せない。淡々と、真実を口にする。憶測も多少なりあったはずだが、季時はそれを、事実として断言した。
「なんでこんなことになったんでしょう……」
「不運が重なった、というのが一番の理由だろうね。果たして事の発端は本当に君が上級生の告白を断ったからなのかと考えると、怪しいところだ。それも要因の一つではあるのかもしれないけれど、人間性に問題があったとも考えられる。僕は君をよく知らないから、『制限性記憶障害』がいつから発症していたのかも分からない。もしかしたら、小さい頃からだった可能性もある。だとしたら、君は都合の悪いことを忘れ、人間関係を上手く構築出来ていなかったかもしれない」
「……これは、治る病気なんですか」
「そう言われている。そのためには、大きな病院に行く方がいいね。重度の精神病だ。日常生活の中でゆっくり治していく、というようなタイプの病気じゃない」
「普通の高校生にはなれないんですね」
姫川は、笑顔になって言った。受け入れられたわけでも、吹っ切れたわけでもないだろう。しかし、季時の言葉を認めたようだった。
「『普通』なんて、別に面白くもなんともないよ。僕が断言する」
「確かにそうかもしれません。私にとっては、この一週間、季時先生といたことの方が楽しかったですから」
「それは……まあいいか。何か、飲み物でも買ってくるよ」季時は持っていた『棺桶』を姫川に手渡した。「これ、預かってて」
「はい」
「ちゃんと待っててくれよ」
「はい。ちゃんと待っています」
両手で『棺桶』を持って、姫川はうっすらと微笑んだ。
姫川に対して、辛い行為だということは分かっていた。しかし、どうしてもしなければならないことだった。
姫川が、季時に対して特別な感情を抱いているのは分かっていた。最初、彼女は常川の存在を、自分から口にしていた。ヒメグマをいじめの材料に利用したのも、季時を意識してのことだろう。だからこそ、力になりたいとも思ったが、同時に、許せない感情もあった。
果たしてどうするのが正解だったのだろう。
季時は自分がこんなに落ち込むことがあるのかと、笑いそうになりながら、思った。