四章『金曜日は届かない』
『コーヒーにミルクを』
 1

 結局授業に出ることのなかった姫川を家に帰らせ、仕事の時間が終わっても、季時は学校の中にいた。『研究中』の張り紙をドアに張り付けていた。普段であれば、それは誰にも干渉されたくないときに使われる道具だったが、今回はその言葉通り、真面目に研究をしていた。いや、研究というよりは調べものと言った方が適切だろうか。部屋の中にある本棚から何冊もの専門書を引っ張り出して、机の上に乱雑に広げていた。彼の表情は真剣そのもので、季時を知る生徒のほとんどが見たことのないものだった。
 しかし、当然のことだが、ドアの中の様子というものは、外側からは窺い知ることは出来ない。
 だから常川はいつものように、ともすれば季時のことを心配して、部屋に入った。連日の『研究中』の張り紙で心配になったというところもある。姫川のことで悩んでいるなら、協力出来ない代わりに、せめて話し相手になれればいいと思ってのことだった。
「……きゅーやんが本当に研究してる」
 ドアを開けたままの状態で、常川は言った。ノックをしなかったことについて何か小言を言われるのではないかとも思ったが、予想に反して、季時は穏やかだった。どころか、「ああ常川君、悪いんだけど、コーヒーを淹れてくれるかな」と、季時にしては珍しく、上機嫌に言うだけだった。
「珍しいね、きゅーやんがそういう本読んでるの」
「僕ほど毎日のように教科書を開く大人もいないと思うけどね」
「あれは仕事とか、授業のためでしょ?」
「これも似たようなものだよ」
 素早くコーヒーメーカーのセットを終えてから、常川は季時の読んでいた本の一冊を手に取った。『共鳴症例集』と書かれていた。
「どういう本?」
「普通の人生では一度も関わらない本」
「病気の本なの?」
「まあ簡単に言うとそうだね」
「難しく言うと?」
「極稀に、ポケモンとの関係が強固になりすぎたために発症することがある特殊な病気がある。それをまとめた本だね」
「へえ、きゅーやんも発症してそう」
「うん、僕も昔、発症したことがある」
「え、冗談のつもりだったのに。ごめん」
「別に謝る必要はないよ。僕にとっては病気という位置づけではないからね。ほら、ポケモンと喋れる、というやつは、その類だ」
「あ、あれ病気なんだ」
「特性とか特技と言えないこともないけれど、まあ普通ではあり得ない症状だから、病気に分類されるね。それは『依存性共有症』と言ったはずだよ」
「なんかイメージ悪い名前だね」
「本来あり得ないことだし、良いことばかりというものでもないからね。それが原因で日常生活に支障を来すこともある。ほら、宮野君とジュペッタも、同じ病気だっただろう」
「ああ、あれがそうなんだ。そっか、なるほどね……で、今は何を調べているわけ?」
「あ」
「え?」
「あった、これだ」季時はあるページを開いたまま、硬直する。「『制限性記憶障害』だって。これだよ」
「何が?」
「姫川君の病気だ」
 季時は部屋の中心にあるテーブルに『特異障害集』という名前の本を開いて置いた。とても古い本のようだったが、綺麗に保存されていたようで状態は良かった。
「障害って……」
「新版では本のタイトルは変わっているみたいだけど、昔はこういう扱いだったということだね。まあしかし、きっとこの病気の名前は、障害のままだと思うよ」
「どうして?」
「まず、この『制限性記憶障害』というものが珍しい。単純な名前だったのに忘れていたんだからね。学生の頃はこの辺の本の中身は全部覚えていたつもりなんだけど、あまり使われていないものや、特殊性のありすぎるものは忘れて行っていた。だからそれだけ、レアケースってことなんだ。実際、この本にすら、珍しいって書いてある。レアな症例を集めた本の中でも、極めつけのレアケースってことだ」
「どういう病気なの?」
「とても簡単に言うと、ポケモンと同じ忘却術が人間に身につくってことだ」
「忘却術って?」
「常川君も最近はバトルとかに詳しくなったと思うけど……ポケモンの技の上限が四つなのは知ってるよね」
「うん」
「それは効率を上げるためだったり、誤発を防ぐためだったり、いろいろ理由があるわけなんだけれど……大部分を占めるのは、ポケモンは古い出来事、無駄な出来事、辛かった出来事なんかを忘れようとする習性があるんだ。これは本能的なもので、どのポケモンにも共通して備わっている」
「へえ。そのうち授業で教わる?」
「いや、これは大学の領域かな」季時はマグカップにコーヒーを注いだ。「これが、稀に人間にも後天的に発症することがある。それが、姫川君の病気ってことだ」
「でも、姫川さんは記憶力が悪いようには見えなかったけど……頭も良いし、トップ合格って聞いたよ」
「とある分野に限るんだよ。例えばポケモンは、自分の飼い主や、仲間のことを忘れることはない。けれど、技選択に限っては記憶に制限をかける。姫川君の場合も同じだ。ある分野にだけ制限をかける。そして、その分野の中で、自分に都合の良い記憶だけを選り好んでストックしている」季時は満足そうにコーヒーを飲んだ。「うん、ストックという表現が一番しっくりくるね」
「でも、それなら普通、いじめを受けてることを忘れるんじゃないの?」
「うん。だから、最初はその可能性を考えなかったんだ。まさかあり得ないと思っていた。しかし、蜂ヶ谷君のことで、どうやらその症状が見え隠れしている気がした。調べてみたら案の定だったよ。多分、ほとんどの人はこの病気に気付かないだろうね。それくらい、レアな障害なんだ」
「レア、ねえ……」
「全種族から、自分の好みのポケモンの色違いと遭遇するのと同じくらいのレアリティだよ」
「ああ、それはものすごくレアだね」常川は深く頷いた。「それで、きゅーやんはこれからどうするの?」
「姫川君を救う必要がある」
「どうやって?」
「彼女が執着しているものを満たすんだ」
「ふうん。それ、きゅーやんは分かってるわけ?」
「それはもちろん、ヒメグマの救済だよ」

 2

 季時にとって恩師を呼ぶべき存在は二人いるが、中でももっとも尊敬している人物は、玉虫博士という男だった。彼の名は、まさに『博士』となることを願ってつけられたものだった。そして実際、彼は玉虫大学で博士号を取得し、現在は教授としての地位についている。専門は、ポケモンと人体の双方向で共有される影響について、だった。
「申し訳ないです先生、こんな時間に」
「構わないよ季時君。この時間の方が暇なくらいさ。しかし突然どうしたのかね」
「ちょっとお聞きしたいことが……いえ、というか、教えていただきたいことがありまして」
「君が? はっは、生物学で君に教えられることなんて一つもないよ。私より若くて優秀な人材なんだからね」
「いえ、先生に専門についてお尋ねしたいんです」
「ふむ」
「『制限性記憶障害』をご存知ですか」
「もちろん。恐ろしく希少な障害だ」
 玉虫は即答した。季時は、流石だ、と思う。まるで生き字引のように、尋ねたことがぽんと返ってくる。
「僕が見ている生徒の一人が、どうやらそれと似た症状なんです」
「ほう、珍しいね……私も過去には二人しか見たことがない」
「女子生徒で、いじめを受けている生徒です」
「ああ、女性の方がかかりやすいからね」
「……そうなんですか? しかし、本には性別については特には記載されていませんでしたが……」
「私が過去に見た二人も女性だった。君の例で、女性が多いと判断しただけだよ」
 その適当さ、あるいは柔軟さは、季時が玉虫から多く学んだもののうちの一つだった。もっとも、季時の適当さは、少々ひねくれているが。
「普通、いじめを受けていたら、いじめを忘れるものではないか、と。しかし、この障害の場合は違うんでしょうか」
「そう、違う。あったことを忘れることはない。『目的』は忘れないが、『手段』を忘れると言えばいいかな。ポケモンと同じだ。『戦闘』そのものをやめることはなくとも、『攻撃』の種類は洗練されていく」
「ああ……」あまりに腑に落ちたので、思わず季時は言葉を漏らす。「とても分かりやすいです」
「だから主に、第一目的に不必要なものを削るわけだ。ポケモンも、弱い技を忘れていくからね。勝利のために」
「第一目的、ですか」
「いじめを受けているなら、復讐か逃避が目的になるはずだ」
「恐らくは」
「君の見立てでは?」
「恐らく、復讐かと」
「なら、君に出来ることは、それが達成されることを見守るか、手助けすることだ」
「大丈夫なんでしょうか」
「それは、大丈夫という概念の定義によることだよ、季時君」
 季時は思わず電話口で笑う。
「そうですね。確かにその通りです」
「心配はいらんよ。記憶障害とは言っても、全てを忘れてしまっているわけではない」
「はい」
「心があれば、取り戻せるものもある」
「ありがとうございます」
 季時はその言葉の意味を表面的にだけ捉え、受話器を置いた。

 3

 結局夕方六時過ぎまで学校に残っていた季時は、闘技部の活動に顔を出すことにした。顧問として自主的に姿を見せるのは、非常に珍しいことだった。
「あ、先生……」
 宮野という生徒が一番最初に季時に気付いた。遅れて、集まっていた生徒全員が反応する。全員と言っても、三年生が一人、二年生が二人、見学中の一年生が四人いるだけだった。
「まだいたんだ」常川が近づいて来る。「しかも部活に来てくれるなんて」
「少し気まぐれでね」
「新入部員、入りそうだよ」耳打ちするように、常川は言う。「なんとか今年は続きそう。全員入れば、来年もかな」
「へえ、それは良かった。常川君、結構、熱心だよね」
「やるからにはね」常川は誇らしげに言う。「調べ物は終わったの?」
「うん。これから、蜂ヶ谷君の家に行って、彼女と話をする予定だ」
「家まで行くんだ」
「実を言うと繋がりがない家でもないんだ。生徒のことは、知らなかったけどね」
「ふうん」
「僕の見立てでは、彼女は悪い人間というわけでもないしね。面倒な話にはならないと思うよ」
「うーん、どうだろう。彼女、元々ストーカーだった、っていう話も聞いたことあるけど」
「それは過去の話だよ。罪が許されると言うわけではないけど、別問題という言葉もある。僕にだって、君にだって、過去はあるだろう?」
 季時の言葉に、常川はハッとしたように、「うん、そうだね」と言った。
 季時はそれからしばらくの間、部活の様子を見学していた。新入部員獲得のためか、活動内容は傍目に見て魅力的なものだった。今は、部長の絹衣と副部長の常川がバトルをしているところだ。愛玩用に飼われていた常川のピカチュウも、今では立派に戦闘をしている。
「先生……」
「やあ、宮野君」
 隣にやってきた宮野に、軽く手を挙げる。気分が良いのか、それとも、自分らしさを放棄しているのかは定かではない。
 ジュペッタを抱きかかえている彼女は、季時と同じ、『依存性共有症』を持っている。彼女の場合は多少症状が薄く、抱えているジュペッタとしか会話をすることは出来ない。が、それでも十分に珍しい体質だ。
「最近、ジュペッタとはどう?」
「仲良しです」
「そうか。声が聞こえなくなったりはしていない?」
「はい……えっと、聞こえなくなっちゃうこと、あるんですか?」
「ないこともない。まあ、本来あり得ない『聞こえる』が『聞こえなくなる』のは、それに輪を掛けてあり得ないことだから、ほぼないと言って良いくらいだけどね」
「そうですか。良かった……」
 季時は、宮野に対して、その現象が『病気』に分類されることを伝えていない。『依存性共有症』という名前すら教えていなかった。それを口にしてしまえば、彼女がさらに心を病む可能性もあるし、それが切っ掛けで、非難される可能性もあると思ったからだ。特技や特性なら許されても、病気と認識された途端に忌み嫌われることもある。
 異質というのは、どちらの方向であれ、疎まれる存在だ。それを、季時はよく知っている。
「先生、なんだか辛そうですね」
「ん?」
 どうして、と尋ねようとして、思いとどまる。そもそも、『依存性共有症』は、他人、他種族に対して、気持ちを知ろうという欲求から発症するものだ。季時自身がそうであるから、彼は直接口にすることはないが、『依存性共有症』を発症するような人間は、全員が全員、極度に他人を思いやる意識が強い。季時は自分自身にそれを適用しないが、しかし、『優しすぎる人間』こそが、それを発症させる。
「……宮野君は、相変わらず僕の苦手なタイプだ」
「えっ……ご、ごめんなさい」
「あ、いや、嫌いというわけじゃなくてね。なんていうかな、隠し事が出来ないタイプだ」
「そうですか……?」
「うん。ポケモンと喋れるような人は、概ねそうだよ」
「じゃあ、私も先生が苦手……なんでしょうか」
「最初、君の対応をした時の僕を、そう思わなかった?」
「……少し」
 昔を懐かしむようにして、宮野はうっすらと微笑んだ。
「まあ、今の僕は辛いというか、辛いことがこれから起こるんだろう、という憂鬱さで落ち込んでいるのかな」
「これから、ですか?」
「僕が考えていることを、これから確かめに行くんだけどね。それは多分正しい考察だから、それが辛いんだ。予想が当たるのが辛い」
「それって、しないといけないことなんですか?」
 想像の外側から飛んで来た言葉に、季時は一瞬固まってしまった。そんなことを言われるとは思っていなかった。頑張ってくださいとか、大変ですね、というような類の言葉を想像していた。
「……どうかな、その前提は確かめていなかった」
「先生らしくないですね」
「うん。今週はそういう言葉を多くかけられるような気がするな」
 季時の視線の先で、常川のピカチュウがダウンした。タイプ相性があるから、絹衣との戦いで敗北することは当然の結果だった。
 大切なのは、その後どう対応するか。
 次は負けないように育て上げるのか、相手に対して有利な環境を作り上げるのか、あるいは対戦自体を放棄していくのか。
「今の僕はね、多分、逃げるという選択肢もあるんだ。僕の中に存在する悪者を定義することなく、曖昧なまま、いつか忘れてしまうまで放置することも出来る」
「だと思います。私も、もともと、そういう風にしていました……」
「じゃあ経験者に聞いてみようかな。宮野君は、ジュペッタとだけ一緒にいて、学校にあまり来なかった生活と、今こうして学校で部活に参加しているのと、どちらが幸せかな」
 季時自身、最近の自分が、自分らしくないということには気付いていた。だからこそ、いっそ、自分らしくない質問を投げかけてみることにした。そして、どちらの答えが来てもいいように、心構えをした。
 過去の方が楽しかった、と言われても。
 現在の方が楽しいのだ、と言われても。
 どちらでも、それなりの言葉を返せるように身構えた。
 しかし、宮野はまたも季時の予想を裏切って、
「人間って……いつでも、今の状態にある程度満足出来るんだと思います……」
 と、控えめに言った。偉そうに聞こえないように、という努力が感じられる言葉遣いだった。
 またも予想外な言葉に、季時は一分間ゆっくりとその言葉を噛み締めてから、返答する。
「生きていればこそ、か」

 4

 蜂ヶ谷家を訪れた季時は、人の良い彼女の両親に温かく迎え入れられた。初対面だったが、お互いにその存在を知っている間柄だった。ポケモン文化が多少遅れている地域であったため、専門的な会話が出来る関係は限られている。ポケモン愛好家の蜂ヶ谷にとって、季時という専門家は、興味の対象であった。
 家に上がってすぐ、季時は一番重要な用事を済ませることにした。蜂ヶ谷皐月との対話だった。と言っても、ただいくつかの事項を確認するだけだった。責め立てることもなく、追求するでもなく、ただ真実か否かを確認するだけの作業だった。蜂ヶ谷はそれを認め、真実を口にする。季時の予想は概ね当たっており、だからこそ季時は、その感覚の差違に、辛い思いをするだけだった。
 姫川が蜂ヶ谷の名前を記憶していたのも、彼女に復讐しようとしていたのも、恐らくは本能的な行いなのだろう。今から季時が、姫川の奇行を止めさせるためには、真実を確かめさせるしかない。それは翌日のことになるだろうが、多少なり気が重かった。
 確認を終えたあと、季時は蜂ヶ谷夫妻に、夕飯に招待されることとなった。彼らにも数点確認したいことがあったので、季時はそれを受け入れた。愛好家というだけあって、その知識には多少の偏りが見られたが、それでも一般人に比べれば、レベルの高い会話だった。
 模倣品のボールのこと。
 ポケモンの種類のこと。
 土地柄での扱いのこと。
 季時は、ポケモン愛好家とされる者たちの存在を、良いとも悪いとも認識していない。ただ、そのときの会話ではっきりしたことは、自分とは縁遠い存在なのだということだった。ポケモンに対する接し方が、自分とは違うのだと、はっきりと分かった。
 どちらの考えが正しいとも言えない。
 人間に影響を与えてしまうポケモン。
 こうした問題が起こる度に、季時は思う。
 人間とポケモンの共存は、上手く行っているのだろうか。
 本当は、ポケモンは人間を嫌っているのではないだろうか。
 そして人間も、ポケモンを大切に思えていないのではないだろうか。
 そんな、答えの出ない問題について、深く考えてしまう。


戯村影木 ( 2013/08/17(土) 11:39 )