四章『金曜日は届かない』
『狂想曲と夜想曲から』
 1

「おはようございます季時先生っ」
「……おはよう。なんで家の前にいるのかな」
「先生と一緒に登校しようかと思ったんです」
「あそう。あんまりオススメしないな」
「どうしてですか?」
「目立つから」
「これ以上私の知名度が上がることはないと思います」
「いや、僕がさ」
「薄情なんですね」

 2

 金曜日という現象は素晴らしいと季時は思っている。公務員である季時は、基本的に土日は休日だ。加えて、闘技部という部活動は土日は練習を行わないという契約が交わされていた。もしあっても自主練習という形を取るため、季時には参加する義務がない。休日だからと言って別段やることがあるわけではないのだが、季時は休みが好きだった。ぼうっと考え事をしている時間が好きだった。
 だから、出勤してから授業が始まるまでのこの時間も、至福の時間と言えた。ひとりきりなら、尚至福であっただろう。
「……学校に来たのは評価しよう」
「ありがとうございます」
「ただ、僕につきまとうのはよろしくないな。授業に出た方が良い」
「先生の傍にいた方が良いと思ったんですけど」
「理由を聞こう」
「また復讐に走るとも限らないからです」
「……まあ」季時はコーヒーカップを置いた。「一理ある」
「ですよね?」
「ただ、君のヒメグマは――多分、無事だ。少なからず、あの囮君のようにはなっていないだろう」
「はい。それについては……ショックではありますけど、本音を言えば、良かった、と思っています」
「うん。まあ、君のその考えを薄情と表現したりはしない。それに、君が僕の部屋にいることで自制心を養えるというなら、それもいいかもしれない」
「ありがとうございます」
「しかしなあ……」
 昨晩の話し合いから、季時は少々気になることがあった。姫川から受け取った情報が、曖昧だったからだ。
 立花戦と出会ったことを、彼女は記憶している。が、自分が何をしでかそうとしたのかを、曖昧にしか覚えていないということだった。例えば、誰の家に向かおうとしたのか、ということを、正確に記憶していなかった。もっとも、あとで確認した、彼女が持っていた鍵に『蜂ヶ谷』という名前が記載されていたことから、どの家に侵入しようとしたかは判明したのだが――姫川はそれを、全く覚えていなかった。嘘をついているようでもなかった。
 何か違和感がある、と季時は思った。
 しかし、彼女がいじめを受けているのは本当だろう。常川から受けた情報が、季時にとって正確性のあるものだった。彼女を全面的に信頼するということではないが、少なくとも、彼女の情報は常に客観的だ。性質としては季時の観察に似ている。
「……」季時はそれとなく、尋ねることにした。「そう言えば、その蜂ヶ谷君という生徒は同じクラスなのかな」
「いえ、違うと思います」
「記憶にない?」
「名前に憶えはあるんですけど、同じクラスではないと思います」
「なるほどね。まあ僕も学生の頃は、同級生の名前なんてちゃんと記憶していなかったかな。今でも思い出せるのはほんのひと握りだ」
「そんなものですよね」
「それに今だって、自分の受け持っていない教室の生徒の名前は、正確には記憶していない」
「ラフな感じですね」
「目立てば嫌でも覚えるんだけどね」
 少しだけ、不穏な違和感を覚えていた。
 生徒名簿を確認する必要がある、と考える。そもそも季時は、姫川がなんという生徒からいじめを受けているのかも聞いていない。学校全体が認識しているいじめだ……ということを漠然と理解してはいるものの、それがどのくらいの範囲に渡っているのかまでは考えられていなかった。
 ポケモンが盗まれた、ということに気を取られすぎた上に、そのポケモンの生死の問題で思考が逸れすぎた。もう少し正確に、この問題を把握すべきだろう、と季時は思う。
「そう言えば、姫川君が告白された三年生って、なんて名前?」
「名前……ですか? 忘れてしまいました。好みじゃなかったというのもありますし、こんな事態を巻き起こした人なので」
「なるほどね。まあそれもそうかもしれない」
 そんな簡単に片づけて良い問題ではない。
 人間の忘却というシステムは、そう簡単に行えるものではないし、自力で動かせるものでもないはずだ。季時は少しずつ、違和感を増大させていく。この姫川という生徒は、季時が想像している以上に、危険な状態にあるのかもしれない。
「じゃあ、明確にいじめを行うグループもあんまり覚えていないわけだ」
「そうですね。ほとんど」
「蜂ヶ谷さんって人だけ?」
「なんとなく名前が思い出せるのは。珍しい名前だからですかね? そう言えば、季時先生も珍しい苗字ですし」
「うん、なるほど」
 コーヒーを飲み終える。こんなに短時間で一杯のコーヒーを飲み干すのは初めてだった。
 違和感の正体を確かめる必要がある。
「姫川君は、授業は出るの?」
「出たくない……って言ったら、どうしますか?」
「特別にこの部屋にいてもいいよ」
「え、本当ですか?」
「その代わり、ずっとこの部屋にいるんだ。今日の授業が終わるまでね。僕は授業の合間とか、昼休みにここにくる。そのとき姫川君がちゃんとここにいると約束出来るなら、一日君に部屋を提供しよう」
「うわあ、嬉しい。先生、なんだか優しくなりましたね」
「どうかな」
 コーヒーカップを軽く洗いながら、季時は思う。
「一応言っておくけれど、常川君が来ても開けないように」
「常川先輩には弱いんですか?」
「僕は基本的に誰に対しても気弱だよ」

 3

「絹衣君、ちょっと」
 三年生の生物学の授業のあと、季時は一人の男子生徒を呼んだ。絹衣という男で、生徒の中では季時と繋がりの深い人間だった。現在は、闘技部の部長も務めている。
「なんですか?」
「最近、白凪君と上手くやってる?」
「え? そんなことを聞くんですか? 先生が?」
「いやこれはいわゆる日常会話というか、本題に入る前のクッションみたいなものなんだけど」
「どうしたんですか、先生らしくないですね」
「今まで一度だって僕らしかったことなんてないよ」
「ああ、いつもの先生だ」絹衣は笑顔を浮かべる。「先輩とは相変わらずですよ」
「あっそう」
「あ、なんか普段よりどうでもいい反応をしませんでしたか?」
「嫉妬しているんだよ」
「僕にですか?」
「あんな美人と付き合っているなんてね。どうせ最近授業態度が真面目なのも受験対策なんだろう。もし君が個人的に質問に来ても、僕は君に生物学を教えるつもりはない」
「……先生も人間だったんですね。というか、男だったんですね」
「僕をなんだと思っていたわけ?」
「先生もいつも美人と一緒じゃないですか」
「常川君のことを言ってる?」
「あと、一年の姫川って子のことも、噂になってますよ。ていうか、先生の中でも常川は美人なんですか」
「話を戻そうか」
「この前先輩とデートに行きましてね。私服の先輩もそれはまあ素晴らしくて」
「さようなら」
「ちょっとちょっと……先生から話しかけて来たんですよ」
「まあ、本題はそれなんだ」
 季時は絹衣の肩を抱いて、廊下に連れ出す。闘技部の部長と顧問という関係だから、ここまで親しくしていても不審がられないだろうという計算はあった。何より、男子生徒である。密談はしやすい。
「姫川君のことを聞きたい」
「聞きたい……と言われても、俺もそこまで詳しくないですよ?」
「知っていることだけでいい」
「何かあったんですか?」
「いじめの相談を受けた」
「へえ……季時先生が。珍しい」
「僕を顧問として慕っているなら協力して欲しい」
「そりゃまあ構いませんけど……あ、そうですね、先輩から身を引いてくれるなら考えます」
「君たちの幸せを心から願うよ」
季時はおどけた風に言った。
「まあ幸いお役には立てそうです。姫川って子に告白したのは、うちのクラスの飛鳥っていう男ですからね。まあこれがいわゆるイケメンというやつでして」
「君とどっちがかっこいい?」
「そりゃ飛鳥でしょうね」
「なるほど。それは相当だ」
「褒めてるんですか? それともささやかな報復ですか?」
「続けて」
「まあそれを姫川って子は断ったみたいで……でも、飛鳥はそんなに悪い男じゃないんですよ。振られたからと言って報復するような男じゃないですし、まあ性格が良くなきゃあそこまで人気者にはなりませんから」
「性格が悪くても顔が良ければ人気が出る、というものじゃないわけ?」
「アイドルとか、他校の生徒とかなら別かもしれませんけど、学校なんていう閉ざされた空間ですからね。いくら顔が良くても、性格が悪ければ嫌われますよ。まあ概して美人は性格も良いものですけどね」
「白凪君のことを言っているなら、僕は緩やかに君の内申に傷をつける」
「冤罪ですよ」
「続けて」
「まあだから……俺も騒ぎは知ってますけど、騒いでるのは一部の女子グループ……というか、まあ分かりやすく言えば『飛鳥ファンクラブ』みたいなものなんですよ。いや、飛鳥だけに限らず、校内にいる男子生徒……それもイケメンと言われるような連中に対して接するための集まりみたいなものですね」
「そんなものがこの世に実在するわけ?」
「白凪先輩ファンクラブというものもありましたけど、知らなかったですか?」
「知っていたら入ってるよ」
「なんでちょっと怒ってるんですか」
「まあ、伝統というか……名残じゃないですかね。古い時代にあったものが引き継がれたというか。とにかくそういう、部活動ともクラスとも違う、別箇の集団ですよ。多分、女子に聞いた方が詳しいと思いますけど」
「迷惑が掛かるだろう」
「俺は迷惑が掛かってもいいと……?」
「白凪君は卒業しているし、君が学校で孤立したところで、逃げ場はあるだろう」
「いやまあ……間違ってはいないですけど」
「それに君は闘技部の部長という肩書があるからね。僕と話していても不審がられることはないはずだ」
「それもそうですかね」
「まあ、大体わかった」季時はようやく絹衣から手を離した。「ありがとう、助かったよ」
「でも……止めるのは難しいんじゃないですか」
「止める止めないは別にいいんだ。ただ、ポケモンが盗まれてね」
「へ? そんな大事件になってたんですか」
「だから僕が力を貸しているわけだ」
「へえ……それはちょっと、いや、かなり許せないですね。窃盗ですか。しかもポケモンを……」
「あ、部長と顧問だ」
 廊下を通りすがろうとしていた常川が二人に気付き、にこやかに手を挙げた。生物室の付近の廊下は、二つの棟を繋ぐ渡り廊下の近くにあるので、人目につきやすい場所だった。
「ああ、常川……」
 絹衣が季時を見ると、「常川君は大体事情を知ってるよ」と返事があった。
「姫川さんのこと?」
「まあね」季時は頷く。「常川君に聞きに行くと、ただでさえ目立つからね」
「どういう意味でしょうか?」
「ああ、でもひとつだけ聞きたいことがある」
「なんなりと」常川はわざと目立った振る舞いをする。
「蜂ヶ谷、って子、知ってる?」
「んー、知ってるけど」
 濁すような言葉づかいに、季時は何かを感じ取った。
「僕が調べれば分かること?」
「どうだろ、簡単に言うと、留年した子」
「ふうん」
「きゅーやんは知らないんじゃないかなあ。去年まで一年で、今年も一年。生物学とは縁がないしね。そうでなくとも、一年生との関係が希薄だもんね、きゅーやん」
「否定はしない」
「その子がどうしたの?」
「んー、いや、あとは自分でなんとかする。それより、部活はどう?」
 その後、軽く闘技部についての話し合いをして、三人は別れた。
 常川の言う通り、季時は生徒との関わり合いが希薄だ。それは、意識的に行っていることだった。毎年、何十人何百人という生徒と巡り合い、別れていく。そうした寂しさを、季時は出来れば排除したかった。同時に、すれ違うだけのような間柄の人間が、教師という立場を利用して偉そうなことを口にするのも躊躇われる。
 だから、自分を慕ってくれたり、自分を強く必要とする人間でなければ、積極的に関わり合おうとはしない。それが季時の教師としての振る舞い方だった。ならば、姫川の期待に応えるのも、自分の役目なのかもしれない。完全に贔屓をしているようなものだが、人間が関与している以上、仕方がないことだと思える。
 人間は自分勝手だ。
 いじめが勝手なら、それを救うのも勝手でいいのではないか。
 物事の判断もつけられぬまま、季時は動く。

 4

『貸し』というものは役に立つことが多い。授業のない時間を利用して、季時は図書室へと足を運んだ。学校司書の教師に、季時は『貸し』があった。そのときに相手をしたのは登校拒否気味の生徒だった。今では毎日学校に来るし、部活動にも熱心である。季時のおかげで一人の生徒が更正したと言ってもいい。ならばこの『貸し』は、返済を要求しても問題はないはずだ。
「突然お邪魔してすみません」
「いえ。でも、季時先生からお願いなんて、珍しいですね」
 司書の名前は笹倉と言った。彼女は図書室の管理の他に、スクールカウンセラーとしての役割も担当している。
 相談が目的であれば、例え授業中であろうと図書室を訪れることが出来る決まりがある。真剣な悩みを抱えた生徒は、幾人かここを訪れる。教師が訪れるのは、本当に極稀なことだった。
「問題のある生徒は先生に伺った方がいいかなと思いまして」
「ええ、どうぞ」
「姫川という生徒をご存じですか」
「はい」笹倉は淡々と頷く。「一度も相談に来たことはありませんけど」
「やっぱり」
「やっぱり?」
「他人に相談するようなタイプではないですから」
「でも、季時先生のところへは相談に行ったんじゃないですか?」
「相談というか、救難信号を出されました」ヒメグマのことについて話すべきか迷ったが、その前に別の疑問を解決することにした。「もう一人、別の生徒のことを伺いたいんですけど」
「誰でしょう」
「蜂ヶ谷という生徒なんですが」
「蜂ヶ谷皐月さんですね」
 流石はスクールカウンセラーだ、と季時は思った。難のある生徒のことは、あらかた把握しているのだろう。
「留年したって聞きましたけど」
「はい。今もほとんど学校には来ていませんね。転校を考えているとか。あるいはもしかしたら、退学してしまうかもしれません」
「退学……」
「ご実家が、ポケモン関連の事業をしているそうなんです。ああした世界では、学歴は必要ありませんし」
「まあそうですね」季時のように獣医を目指すとか、教師になろうというのでなければ、学歴は確かに不要だ。「……あの、何があったのか聞かせていただきたいんですけど」
「姫川さんと関係があるんですか?」
「可能性が非常に高いです」
「……そうですね」乗り気ではなさそうだったが、笹倉は語り始める。『貸し』の効力だった。「彼女もいわゆるいじめを受けていた生徒です……いじめって、なくなりませんね。どんな小さな集団でも、必ず起きる」
「ええ、程度の差はあれ、必ず発生しますね。自然界においても同じことです。しかし、腕力や体力の差でいじめられる自然界と違って、人間は何か切っ掛けがあることがほとんどです。何があったんですか?」
「デリケートな話題なんですけど……」
「口外はしません。本人にも確認を取ることはしません」
「どうしてもお知りになりたいんですか?」
「ええ、危険だからです」
「危険?」
「姫川君が危ない状況です」
「それは、精神的に、ですか?」
「はい。非常に危険です。記憶を改竄しているか、自動的に忘却している可能性がある」
「記憶を……?」
「自分に都合が悪いことや、自分に敵対するものに対して、忘却をする癖があるようです。あとは、精神的に不安定な部分が非常に多いし、言動もちょっと普通じゃない。例えば――笹倉先生、僕の話も他言無用でお願いしたいんですが」
「安心してください。校内で一番口の堅い人間です。秘密と言われたことであれば、誰にも言いません」
「……その、姫川君の実家は多くの家を管理する立場にあるわけですが」
「ええ、存じ上げています」
「その鍵のうちひとつを盗み出して、僕の家に不法侵入しました。朝、僕が目覚める前に」そこまで言って、季時は慌てて手を挙げた。「もちろん、誓って、何もありませんでしたが……すぐに家の外に出ましたから」
「季時先生にそういう心配はしていません」笹倉は笑いながら言う。「でも、かなり突飛な行動ですね」
「そうなんです。そのくらいしてくる生徒もいるかもしれない、と思いましたが、それにしても勢いがありすぎる。普通じゃない。あとは、僕が別室でここへ来る準備をしている間に、ベッドに潜り込んだり……」
「可愛い求愛行動とも取れますが」
「それならいいんですけどね。対処がしやすい、という意味では……」
「季時先生は、経験が豊富なんですね」
「あとは」意識的に発言を無視する。「情緒不安定です。落差が激しい。元気なときは、本当にいじめなんて受けているのかと思うほどなんですが、一度落ち込むとこの世の終わりみたいにブルーになる。それに――彼女は一度、復讐を試みたようです」
「復讐?」
「これについても不可解なところは多い。彼女は決して頭の悪い子ではないはずです。にも関わらず、僕との約束を簡単に反故にしようとした」
「衝動的だったということですか?」
「いや、それがどうも、計画的に感じられるんです。少なくとも、僕に謝罪文を差し出すくらいの精神的余裕はあったようです」
「追い詰められてやった、という可能性は?」
「否定出来ませんが、追い詰められたにしては段階をきちんと踏んでいる。多重人格とまでは言いませんが、いくつかの感情が、レベルでコントロール出来ているようなんです」
「……重症みたいですね。それで、蜂ヶ谷さんをお聞きになったのは、どうしてですか?」
「姫川君が、蜂ヶ谷宅の鍵を持ち出して、侵入しようとしたからです」
 その言葉を聞いて、笹倉は言葉に詰まる。あり得ない、というような言葉を発するつもりだった。
「……蜂ヶ谷さんがいじめに加担するとは思えません」
「どうも、その蜂ヶ谷という生徒の輪郭を想像するに、僕も同意見です。そして不思議な点はそこにあります」
「どういうことでしょうか」
「姫川君は、自分をいじめる生徒の名前を記憶していません。同様に、その発端となった男子生徒の名前も覚えていない」
「そういう振りをしているとも考えられませんか」
「可能性はあります。しかし、ある生徒の名前を口にしたら、それについては明確に認識していたようなんです。本当に人の名前を忘れてしまっているのか、あるいは演技をしているのか……しかし、演技をする利点が思い浮かびません」
「それはそうですが……」
「ですから、その蜂ヶ谷という子と彼女の接点が知りたいということです」
「接点と言っても、同じクラスだ、ということくらいしか……あ、そう言えば」
「なんですか?」
 少し言いにくそうにしながら、声を潜めて笹倉は言う。その行為は無意味に思えたが、季時に特別性を意識させるには十分だった。
「彼女、去年大事にしていたポケモンを事故で亡くしているんです。でも、本当に事故だったのかどうか曖昧で……」
「曖昧?」
「彼女が騒ぎにするのを拒んだので、知っているのは私と、当時の担任だった添木先生くらいなものです。ただ、いじめの延長だったんじゃないか、って」
「なるほど……分かりました。ありがとうございます」
「も、もういいんですか?」
「少し考えてみます。まだ、お尋ねするかもしれません」
 図書室を出ながら、多くの可能性を考慮する。
 推理をする上で大切なのは、本当にそんなことが起こるのか、という説得力よりも、可能か不可能かという、物理的な問題だ。季時はそれを重点的に捉え、思考を展開する。

 5

 季時が自分の部屋に戻ると、姫川は静かに椅子に座っていた。部屋を荒らした様子も、手をつけた様子もない。引き出しには鍵が掛かっているため、開けられる心配もない。
「あ、先生、お帰りなさい」
「やあ」季時は自分の椅子に座って、そのまま頬杖をついた。「ひとつ、はっきりさせておきたいことがあるんだけど」
「なんですか?」
「君の望みは?」
「望み……」
「ヒメグマが帰ってくれば、それでいいかい? それとも、いじめをなくしたいかな」
「唐突ですね」
「運命というものはそういうものだよ」
「それは、もちろん、いじめがなければいいとは思いますけど……普通の、幸せな学生生活を送れればいいなとは思いますけど、多分、無理でしょうから、ヒメグマが帰ってくることを望んでいます」
「多分、そこまで無理ってこともない」
 季時は動かないまま、視線だけを姫川に向けた。
「君の敵の全体像が見えて来た。全校生徒の五パーセントってところだろう。ただ、その五パーセントの権力が強いから、残りの生徒は事を荒立てないようにしているように見える。いじめられている者を庇うことで、次のターゲットにされる、という二次災害を防ぐための防御策だ。それは、誰もがして当たり前の行為である」
「ですね。分かってます。そういうのは、仕方ないって」
「ただそれは、いじめられたことがない側の人間の考えだ」
「どういうことですか?」
「一度地獄の苦しみを味わった人間は……地獄を体験しても尚、生き抜いた人間は、怖いものなんてないんだ」
「……仰っている意味が、よく分かりません」
「蜂ヶ谷君は、どういう人?」
「どういう人って……」姫川は視線を上方向に向けて、記憶を引っ張り出す。「ちょっと暗い感じで、留年しているくせに一年生の言いなりになってる人です。三日に一回くらいしか来ませんけど、目立つから、よく覚えてます」
「君のことを直接叩いたり、罵倒するわけじゃないんだろう」
「それはそうですけど……いえ、実行犯はあいつです。最初に会った時、お弁当を捨てられたって話をしたと思いますけど、それをやってたのは蜂ヶ谷さんですよ」
「ふうん。彼女が好んで?」
「命令されて、です。二年の先輩からの命令とか聞いて、私に嫌がらせして……いじめられる立場から、私をいじめる立場に昇格したんじゃないですか」
「なるほど。蜂ヶ谷君が実行犯なのか」
「直接嫌われてるとか、恨まれてるとかはないですけど、噂だと、蜂ヶ谷さん、去年までストーカーだったみたいだから」
「ストーカー?」
「誰か忘れましたけど、モテる先輩に迷惑かけて、先輩たちに嫌われたみたいですよ。結局そのままいじめに発展して、留年するまで学校休んでたみたいですけど」
「ああ、なるほど……そういう存在がいるから、姫川君は学校には来るわけだね。何があっても」
「……そうです」
 ふてくされたように、姫川は言った。季時は一人、小刻みに頷いた。
「じゃあ、姫川君が昨日、蜂ヶ谷宅を狙ったのは、そういう恨みがあったからか」
「それもありますけど、単純にうちが管理している家でしたし、ポケモンもいっぱい飼ってるみたいだし……顔と名前もはっきり一致するしで、一番分かりやすかったからです」
「わかった、ありがとう」
 季時は手を挙げて姫川の話を制止すると、また思考の海で廻遊し始める。
 立花の言葉が思い出される。
 彼は、ポケモンのことを、ただの生き物としてしか認識していない。だから、いじめの延長で殺すことが可能かという問いに、否定の意を示さなかった。
 季時なら果たしてなんと答えるか。
 あるいは常川なら。
 絹衣なら。
 ポケモンに多く触れ合っている人間なら。
 果たして、それを可能とするだろうか。
 例えば季時は、草を抜ける。
 枝を折れる。
 憎い相手がいたとすれば、その人間が丹精込めて作った花壇を荒らせるだろう。
 季時には、そうした経験がないから。
 だが、何かを壊す時、それが創造を伴うと知った時、果たして躊躇わないだろうか。
 季時は考える。
 どうやらこの事件の鍵は、そういう、生き方の違い、経験値の違いによって引き起こされているような気がした。


戯村影木 ( 2013/08/08(木) 23:26 )