三章『木曜日は変化する』
『悪の花束と夢の精製』
 1

「あれ、お仕事中じゃないんですか?」
「あと二分で授業だね。鍵を掛けてきたのを思い出したんだ。君を閉じ込めたろう」
「先生に監禁されるようなら、あまり悪い気はしませんけどね」
「鍵を掛けずに家を出ていいし、居心地が良いなら僕が帰るまでいても良いけど」
「じゃあ、少しの間、鍵を掛けずに外出しても大丈夫ですかね」
「まあ、取られて困るようなものはないから構わないよ。僕の部屋に泥棒が入るとも思えないしね」
「分かりました。じゃあちょっと……行ってきます」
「? ああ、行ってらっしゃい」

 2

――開けようとしたところで、肩を叩かれた。そのときの姫川の驚愕度合いは、言葉で言い表すことは難しい。いや、言葉を失う、というのが、ある意味では正しい表現だったのかもしれない。
「こんにちは、姫川さん」
 そこにいたのは、姫川が初めて見る男で――立花戦という男だった。彼は人畜無害な笑みを浮かべて、姫川の肩に手を置いていた。彼女は、言葉を発することが出来ない。私服警官かなにかかとも思ったが、威圧感はない。ただ、真綿で首を絞められるような息苦しさは感じていた。
「あ……」
「僕は立花戦と言います。季時先生の知り合いで……まあ、偶然、君を見かけたんだけど」
「季時――先生、の」
 その名前を聞いて、少しだけ、ほっとする。と同時に、今度は種類の違う焦りが姫川を支配し始めた。精神的なものによる腹痛を感じる。
「とにかく、未遂で済んだ」
 立花は肩から手を離すと、姫川の右手にあった鍵を取り上げる。姫川がそれを拒めなかったのは、恐怖に支配されていたというのもあるし、立花の姿に、声に、何か安心していいような雰囲気が感じられたからだった。
 安心……頼れるような、不思議な雰囲気。
 この人の周りは大丈夫そうだ、という漠然とした雰囲気だった。
「あの……」
「未遂で済んだってことは、君は誰にも責められることはない。良かったね」
「季時先生は、学校ですよね?」
「うん。さっき電話で、あと二分で授業って言っていたから、そうだろうね。とにかく、人の家のすぐ前にいるっていうのはあんまり好ましくないから、少し離れようか」
 立花は姫川の手を取り、蜂ヶ谷家から離れる。名残惜しそうに、彼女は離れて行く家を眺める。ほっとしたような、計画が失敗に終わってもの悲しいような、複雑な心境だ。
「ああ、道端にベンチがある。いい町だ」
「あの」
「ひとまず、座って話そうか」
 立花に言われるがままに、姫川はベンチに腰掛ける。季時の名前が出ている以上、ナンパ目的であるとか、危険な相手というわけではないだろうが、もしそうだったとしてもこの男に抵抗出来るのか、姫川は不安になる。
 感情が感じられない。
 冷たい金属のような男だ。
 表情はやわらかく、口調も丁寧ではあるが。
「昔話をしていいかな」
 ベンチに座るなり、立花はそんなことを言った。脈絡のなさに驚くが、姫川は「昔話、ですか」と、それを促すような発言をする他ない。
「うん。昔話。僕はね、小さい頃、いじめられてたんだ」
 唐突な告白に、姫川はうまく反応が出来ない。いや、もし親しい間柄であったとしても、突然のいじめの告白に、うまく対処出来る自信なんてない。そんな芸当が可能なのは、過去にいじめを受けていたことのある人間か、あるいは季時のように、どこかネジの外れたような人種だけだろう。
「僕もだし、僕の友達もそうでね。もっと言えば、いじめというより、拒絶されていた。いや、ないものとして扱われていたかな」
「ないもの?」
「僕はどういう人間なのかというと、動物とか、生物から嫌われる体質でね。嫌われるというか、みんなが僕を避けて通る。だから小さい頃から、野生の生き物と仲良くすることなんか出来なかったし、特定のパートナーを作ることもなかった」
「……」
 不憫だ、と思った。と同時に、最初からパートナーを得られない人間と、自分のように、その最愛のパートナーを失った人間であれば、どちらがどれだけ不幸なのか――ということも、思う。
「まあそれでも、僕はまだマシだった。いや、恵まれている方だったと言ってもいいだろうね」
「恵まれてる? それでですか?」
 あまりの激白に、姫川はつい言葉を返す。それは、姫川自身が自分の境遇を、「まだまだ幸せですよ」と言うようなものだ。そんなものはおかしい。信じがたいことだ。
「うん。僕はそれでも、人間とはかかわり合うことが出来るからね。こうやって、初対面の君とベンチに座ることも出来る。でも、僕の友達は、人間からも嫌われる体質だった。だから、幼い頃から、その存在を認められることすらなかったんだ。ないものとして、扱われたんだ」
「人間からも……嫌われる、ですか」
「そう。困った体質だよね。その友達自体に、なにか問題があるとか、そういうわけじゃないんだけど……ただね、どうしようもない体質っていうものがあって、そのせいで僕の友達は忌避され続けている。今もずっとそうだ。僕を含む、同じ血統の人間以外とは、関わりあえない」
「……」
 それは果たしてどれほどの孤独で、同時に、どれほどの地獄なのかと、姫川は想像してみる。両親がいて、季時という教師が助けてくれて、今、自分の敵か味方か分からないような男とベンチに座って、瞬間的に和やかな会話をしている。
「当然、その友達にもパートナーはいない。でも、もう流石に諦めがついているみたいだから、今更どうこうというわけじゃないみたいだけど……うん、そういう人間は、ずっとそうするしかない。人間と関わり合えず、関わり合えたとしても、人間性よりもその境遇に興味を持たれる。恨む相手がいないんだ」
「恨む……相手」
「例えば――君に説教をしに来たつもりじゃないんだけど――例えば君がなんらかの復讐のためにここに来て、それを実行しようとしていたのだとしてね。君はそれで復讐を果たせる。でも、復讐してもどうしようもないってことも、この世にはある。僕は、生まれつきこういう人間だ。誰も恨めない。僕を嫌う生き物たちを恨んでも仕方がないし、他の人間を恨んだところで、仕方がない」
「でも……」
「でも、私はパートナーを殺されたから……って、思ってるんだよね」
 優しい、あくまでも優しい口調で、立花は言葉を引き継いだ。
「うん。姫川さんには、恨むべき相手がいる。それは実は、とても幸せなことかもしれないし、もしかしたら、とんでもなく不幸なことなのかもしれない。多分ね、幸せとか、不幸せとかっていうのは、程度の差があるものじゃなくて、絶対的なものなんだろうね。僕が君より不幸なわけじゃないし、君が僕より不幸なわけでもない」
 姫川は言葉を発さない。
 ただ、立花の言葉を聞く。
「話に出した僕の友達も、僕より不幸と決めつけるわけにはいかない。けれど、不憫だなとか、かわいそうだな、とかは思うよ。だから僕はその友達と、出来るだけ一緒にいようと思っている。僕が運よく、友達と一緒にいられる人間なら――それが可能な限り一緒にいようと思うし、望みを叶えたいとも思う」
 立花は手に持っていた鍵を、姫川の手に再び握らせた。
「ごめん、君が季時先生に宛てた手紙を読んだんだ。懺悔のつもりだったんだろうと思うけど、まあそのおかげで、急いで君を探すことが出来た」
「いえ……多分そうだろう、と思っていたので、平気です」
「僕は君を止めに来たってわけじゃないんだ。まあ……なんて言うかな、そういう境遇で育ってきたから、したいようにすればいいっていうのが、僕の生き方なんだ。何事もね、したいように――自分の思った通りに生きればいい、って。人間は人間なりに、全員が全員、不平等に、違う種類の不幸を背負っているんだと、僕は思う。だから、みんな不幸な人間なら、幸せになるために、自分の思った通りのことをすればいいと思う。君がどうしても誰かに復讐をしたくて、そのために不法侵入をしようとするなら――無理には止めない。だから、鍵は返す」
「……じゃあ、どうしてさっきは」
「うーん、犯罪に対して思い入れはないんだけどね、誤解ってものが、僕は嫌いなんだ。あとは他人の思惑通りになること、とかね。だから、話は理路整然としておきたい」
 立花は優しく微笑む。
「君のヒメグマは、多分生きてるよ」

 3

 立花と姫川の遭遇を知らないまま、午前の授業を全て終えた季時は、自分の部屋で昼食をとっていた。思考を制限し、仕事に集中すると、こんなにも早く時間が経過するのかと驚いた。
 鍵を掛けた引き出しの中身について考える。
 季時は忘れていた。保守的になることで、そういう想像を欠落させていたのかもしれない。ポケモンという生き物のことを、誤解していた。
 ポケモン、という生き物は、本来慈愛に満ちている。
 種族を超えて助け合うことの出来る生き物だ。戦闘行為に特化し、まるで獰猛な生き物のように考えがちだが、本来はとても温厚である。そもそも、ポケモンが人里に下りて人間を襲うなどということはない。草むらや洞窟などでポケモンが人を襲うのは、単純に、縄張りを荒らされることを嫌うからである。
 そんな当たり前のことを忘れていたのは、おそらく、破壊されたモンスターボールを見たことによる、瞬間的な誤解だろう。
 時計を確認する。恐ろしいほど時間が経っていないことに気付いた。例えば、好きなことをしている間は時間が過ぎるのが早いという。しかしそれは、好きなことに没頭するあまり、時間経過というものを忘れるからだ。季時の場合、考えることが好きだった。一秒のうちに多くのことを考えれば、当然、それだけの時間が記憶に残る。記憶に残れば、当然体感時間は長くなる。思考時間がなくなればなくなるほど、時間というものは早く過ぎる。
 まだ昼休みは長い。
 季時は鍵を開けた。今一度、自分の想像の確かさを確認するためだった。
 引き出しから取り出した、破壊されたモンスターボール。
 ヒメグマは、ポケモンによる攻撃で瀕死状態に陥っていた。直接の死因は、その戦闘行為によるもの。そしてモンスターボール自体も、ポケモンによって破壊されている。
 しかし。
「――きゅーやん、どうしたの?」
 と。
 季時が慌てて振り向くと、そこには常川という女子生徒がいた。季時は壊れたモンスターボールを手にしたままだった。
「ああ……常川君、あのね」
「ノックはしたよ。十回くらい」
「あそう。優良生徒って他の先生に伝えておくよ」
「うわ、モンスターボール壊れてる」
「何か用?」
「用事がないと来ちゃダメだった?」
「いや、止めはしない」
「え?」
「君がもし、僕の部屋に入ってドアを閉めたら……」
「閉めたら?」
「僕の話が終わるまで、話し相手になってもらう。それでもいいなら、止めはしない」
「どうぞ」常川は呆れたように言って、部屋に入り、ドアを閉めた。「なにかあったの?」
「常川君は、これを見てどう思う?」
「壊れたモンスターボール」言いながら、常川はパイプ椅子に腰かける。
「例えば中にポケモンがいたら、どうなると思う?」
「え? 中にいたの?」
「仮定の話だよ」
「うーん……中のポケモンの状態による」
「つまり?」
「元気な状態なら、そのまま出てくるだけ。でも、瀕死状態だったら、外に放り出されて、死んじゃうかもしれないかな」
「うん、概ね正解。最近、真面目に授業を聞いてるんだね」
「まあね」
「瀕死状態のポケモンの生命活動を維持するための機能が、モンスターボールには備わっている。だから、たとえ致命傷を受けていたとしても、ポケモンはそう簡単には死なない。そもそも、野生のポケモンだって、そう簡単には死なないんだ。自然治癒力がすごいし、仲間が助けてくれるからね」
「うん」
「ところが――その生命維持機能が機能しないモンスターボールというものもある」
「それがその、壊れたモンスターボールってこと?」
「いや――これはね、劣悪な模倣品だ」
「模倣品?」
「モンスターボールっていくらするか知ってる?」
「二百円」
「そう。一般的に『モンスターボール』と言うと、この赤白のものを指す。一律で二百円。ちなみに僕みたいに、授業でモンスターボールを使うような人間は、百五十円で買える」
「へえ。教員価格ってやつなんだ」
「それよりさらに安く買えるモンスターボールが、最近出回ってる。これが模倣品」
「いくら?」
「二十円」
「やっす」
「もちろんセット販売だから、十個で二百円という値段で売ってる。それでも、一見してモンスターボールにしか見えないものがそんな低価格で売られていたら、買う人も出てくる。ポケモンリーグ非公認のアイテムであろうと、便利で安ければ、みんな買う」
「本当に? そんな怪しいものを?」
「うん。僕たちが住んでいる町や、この周辺っていうのは……他の地方に比べて、ポケモンに対する認識が低いから、そんなものには手を出さないってのが普通かもしれない。ああ、ほら、常川君と最初に会った町があるだろう」
「駅?」
「いや、車両基地がある町の方だ」
「ああ、うん。あれが?」
「あの辺の地方は、ポケモントレーナーっていう人種がすごく多い。僕が昔通っていた玉虫大学のある玉虫市周辺も、びっくりするくらいのポケモントレーナーがいる。ポケモンが人生の全てという人たちが多くいる」
「へえ。一介の高校生には縁遠い世界だね」
「もちろん、僕らもポケモンを生活の一部として取り入れているけど、ファッションやペット感覚じゃなくて、もう完璧にそれだけの人生を送っている人が多いんだ。仕事もせずに、ポケモンバトルでお金を稼いでいる連中がいる」
「うわあいいなあ、私もやりたい」
「でも、お風呂に入れないし、ベッドで眠れないよ」
「じゃあ、諦めることにするね」
「それがいい」季時は引き出しから『棺桶』を取り出す。「あと、せっかくだからこれも見せておこう」
「なにこれ? 特殊なボール?」
「僕らは『棺桶』って呼んでる」
「なに、『棺桶』って……」
「この中に、ポケモンの死骸が入ってる」
「え……」
「獣医とかが利用することもあるし、僕みたいな教師が使うこともある。モンスターボールが生命維持に特化しているとすれば、この『棺桶』は、腐敗や破損を防ぐためにある。人間の死体を冷凍保存するようなものと考えればいい」
「……なんで、そんなものがあるの」
「どうしてだと思う?」
「昨日言ってた、姫川さんのポケモン?」
「そう――だと、僕は思っていた」
 しかし、と言って、季時は『棺桶』を引き出しの中にしまう。
「どうやらこれは、姫川君のヒメグマではない。どうやら別のポケモンみたいだ」
「……どういうこと?」
「例えば――さっき、模倣品の話をしたけど……常川君とか、うちの学校の生徒みたいに、普通の学生をしていると分からないだろうけど、ポケモン中心の生活をしていると、モンスターボールってのはいくつあっても足りないんだよ」
「なんで?」
「何十匹というポケモンを捕まえるのが、ポケモントレーナーの仕事だからね。常川君たちみたいに、一匹捕まえて、それで終わりというわけじゃないんだ」
「えー、絶対管理出来ない」
「だね。まあでも僕は五十匹くらい管理しているし、百匹以上管理している人だっている」
「え、そんなに持ってる人いるんだ」
「まあね。でも、その全部が簡単に捕まえられるわけじゃない。僕みたいに仕事をしていればいいかもしれないけど、若いうちはお金もないし、子どものポケモントレーナーなんかも、モンスターボールをいくつも買うのは大変だ」
「なるほど」
「その問題点を突くようにして作られたのが、模倣品のモンスターボールなんだ。一回では捕まえられないポケモンも、十回モンスターボールを投げれば捕まえられるかもしれない。同じ値段なら、後者を選ぶ人も少なくない」
「でも、違法……なんだよね?」
「いや、厳密に言うと違法ではない」
「ええー、なんで?」
「そもそもね、昔はモンスターボールなんてものはなくて、凡栗っていう植物から捕獲玉を作っていたんだ。だから、捕獲玉の作成を違法にすると、捕獲玉を作れなくなる。許可制にすればいいという話もあるけど……例えば郷土料理は政府が作るから、一般家庭で作るのは禁止する、なんて言ったら、どんなことになるか分からないよね」
「まあそうだね」
「だからこの模倣品も、デザイン的な意味で違法になる可能性はあるけど……黙認されている。安価なボールとして機能しているんだ」
「でも、それは凡栗から作られてる……わけじゃないよね。見た感じ」
「うん。きっと見よう見まねで作ったか、製造情報を盗み出したか、社員が盗み出したかだね。流石に店に出荷出来るものではないから、ネット販売とかで取引されているらしい」
「ふうん」
「この壊れたボールはその模倣品で――それ故に、捕獲機能だけしか備えていない。だから、生命維持機能がなかった」
 季時は壊れたモンスターボールの欠片を持ち上げ、眉を下げた。
「その状態で、森に捨てられたんだ」
「……つまり、どういうこと?」
「普通、中にポケモンが入っているモンスターボールは、元気な状態のポケモンであれば、揺れることがある。ある意味、中のコンディションが理解出来るってことだ」
「だね。うちの子も揺れるし」
「さて……時折、人間の中に、モンスターボールの中に何のポケモンが入っているのかを当てられる人間がいる。エスパーというか、どちらかと言えば才能の部類かな。それと同じことを、ポケモンたちは当然することが出来る。同じ生物だからね。中にポケモンが入っているようだけど、どうやら身動きひとつしないボールが落ちているぞ……と」
「それだと……どうなるの?」
「森に住むポケモンたちはそれを見て、どう思うか。生命維持機能について、野生のポケモンが知っているとは思えない。ただ、捨てられたモンスターボールがあれば、同じポケモン同士、助け合おうとするだろう。それによって、森のポケモンたちはモンスターボールを破壊した。結果、中から出てきたポケモンは――既に死んでいた。そんな感じ」
「……嫌な話だね」
「うん。僕もそう思う」
「誰がそんなことを……」
「それが分からない。ただ、ひとつ言えることは、これは姫川君のヒメグマではないということ。そして、恐らくは姫川君のヒメグマだと思わせるために犠牲になった、別の個体だということだ」

 4

「ちなみに、君のヒメグマの性別は?」
「女の子、です」
「ああ……良かった」
 立花はほっと胸をなでおろした。
「じゃあ、違うはずだ。死んでいたヒメグマは、オスだったみたいだからね」
「え……本当、ですか」
「うん。ああ、本当に良かった、未遂で済んで」
 立花はやわらかい笑顔を浮かべた。
「それでもまだ、君のヒメグマがどこかに行ってしまったという事実は変わらない。だけど、復讐をしている場合ではないってことは……わかったよね。それは、ヒメグマを助け出してから」
「それは……はい、そう、ですけど」
「ちなみに、君が侵入しようとした家の子は、君をいじめてた人間の筆頭かな?」
「そういうわけじゃないです。でも、色々、やってきてたから……」
「なるほど。じゃあ、この鍵は返さないとね。どこから持ってきたのかは知らないけど」
「うち、色々な家を管理しているので……」
「ああ、そうなんだ。主犯の子の家の鍵は流石に持ってないの?」
「多分……ないです」
「そうか。それがあれば、今からそこに行けたのにね」
 ん……と、違和感を覚えた姫川は、立花に視線を向ける。
「今からって、どういうことですか?」
「君のヒメグマがいなくなった。で、その代わりに森の中にはヒメグマがいた。うん……これがどういうことか考えたんだ」
「どういうことですか」
「色々説は考えられるけど、つまり囮というか、ダミーだった。ヒメグマっていう種類は、どうやら、見た目だけではオスかメスかの判別が出来ないらしいし、季時先生もちゃんと調べた上で判断していた。となると……つまりは君を驚かそうとして、あるいは怒らせようとして、野生のヒメグマを使ったんだろう」
「そんな……」
「だったら、本物のヒメグマはまだ盗んだ生徒が持っている可能性が高い。だから、それを探しに行こう。心当たりのある家があれば、窓ガラスくらい、僕が蹴破るからさ」
「な……にを、言ってるんですか。えっと……」
「立花戦。立花でいいよ」
「立花さん、私が夢見心地じゃなくて、ちゃんと立花さんの言葉を理解しているという前提でお尋ねしますけど、不法侵入をしようっていうことを、仰っているんですか」
「そういうことになるかな」
「犯罪ですよね」
「そうだね。だけど……別に、僕はなんとも思わない。出来ることなら、すればいい」
 立花はそう言ってベンチから立ち上がると、姫川に手を差し伸べた。
「もちろん、君に出来ないことなら、勧めはしない。もし君がさっきしようとしていたように、犯罪に手を染めてまで復讐がしたいなら、手伝う。そうじゃないなら、季時先生とちゃんと話した方が良い。無茶をするなら、先生より、無職の僕の方が合っているからね」
「復讐――は、したいとは思います」
「うん」
「でも、あのヒメグマが、私のヒメグマじゃないなら……死んじゃったヒメグマには悪いと思うけど、様子を見よう、と思います。というか、季時先生と、話をしようと思います」
「うん。それがいいんじゃないかな」
 立花は差し出した手を引っ込めると、また笑顔を浮かべて、手を叩いた。
「じゃあ、僕は帰る」
「帰るって……季時先生のおうちにですか?」
「いや、家に帰るよ。僕の用事は済んだと思うし……というか、本当はそこまで役に立っていなかったんだけど」
「何をしに来たんですか?」
「僕の体質を季時先生に貸しに来たんだけど、どうも自分では役に立てた気がしない。だからせめて君の役に立とうとしたんだけど、その必要もなさそうだから、帰ることにするよ。僕も僕で、やることがあるしね」
「……そうですか。すみません、ありがとうございました」
「何もしてないよ、僕は」
「未遂で済みました」
「そうだね。じゃあ、君がずっと純粋でいられることを祈っておくよ」
 立花は姫川を残しベンチから去ろうとしたが、歩を止めて、「そうだ」と思い出したように言った。
「諸事情あって、季時先生の家の鍵が開けっ放しなんだけど、もしかして、先生の家の鍵、持ってる?」
「あ、はい」
 姫川は頷いて、鞄から鍵を取り出した。
「持って来ています」
「ああ……僕は、家にあるかという意味で聞いたんだけど、まさか今現在所持しているとは思っていなかった……」
「一応、何かあったときのために……と思って」
「じゃあ、一緒に季時先生の家までついてきてくれるかな。先生の家に荷物を置きっ放しだから、それを回収したいんだ。そうしたら、君が鍵を掛けてくれれば、安心だし」
「……あの、すみません、立花さんと季時先生は、どのようなご関係なんでしょうか」
 立花はその質問に対し、しばらく考えて、答えた。
「異端者同士かな」

 5

 結局その日は姫川は登校しなかった。こうなったら彼女の家まで行って事情を話すのが得策だと思った季時は、定時に仕事を上がることにした。
 そのまま姫川の家に向かう方が早かったが、それでも自分の家がどのような状態にあるかは確認したかった。鍵が掛かっていれば立花がまだいるということだし、鍵が掛かっていなければ、立花は帰宅しているということになる。どちらにせよ一度家に寄って、動向を確認するべきだと思った。立花に対しては過度な優しさを見せる必要はないと思っていたが、それでも通さなければならない義理はある。
 季時が自宅に戻り、ドアを確かめると、鍵は掛かったままだった。立花はまだ家にいるようだと判断し、すぐ帰るのか、姫川の家まで行く間まだ残るのかを尋ねることにする。
「閉じ込めてしまって悪かった。ちょっと今朝はエンジンが掛かっていなかったみたいで」
 喋りながら家に入るが、立花の姿は見当たらない。もしかしたら寝室で寝ているのかもしれない、と思った。彼はそういう男だ。自分と同じで、他人の家で遠慮をするというような性格ではなさそうに思える。
「今から姫川君の家に行こうと思ってるから、出来ればもう少し留守番を頼みたいんだけど……」
 言いながら、寝室に向かう。と――ベッドの上には、立花ではなく、姫川の姿があった。彼女はベッドの中で、寝息を立てている。数日前の情景がフラッシュバックする。タイムスリップでもしたのかという可能性を、半ば本気で考えた。
「…………ん?」
 あらゆる可能性を導き出し、何故このような状況になったかを考えようとした。が、寝室の机の上に、メモ用紙があった。思考を中断して、そちらに集中する。まず名前を探した。やはり、立花からのものだった。
『どうやら僕は、デコイというものに縁が深いようです。なので、僕も入れ替わりというやつをしてみました。また気軽に呼んでください』
 メモを裏返してみる。もっと詳細な情報が書かれているかもしれないという淡い期待だったが、それは見事に裏切られた。
「なんだこれは……」
「…………ん、季時先生、ですか」
「ああ……起きたのか。いいタイミングで起きるね、君」
「今……何時ですか?」
「時間? 時間は……夕方の六時前だよ。なんで君、ここにいるの? 立花っていう男を見なかった?」
「立花さんは……いい人、でした。ちょっと変わってましたけど」
「ああ、僕の評価と概ね一致するね。そして大抵の人間は、変わっているけどいい人であることが多い。僕もそうだ」
「あの――その、色々、お話します。お話しないといけないことが、あるので……」
「へえ、奇遇だね。僕もだよ」
 椅子に腰掛け、季時は大きな溜息をついた。どちらかと言えば、安堵の意味合いが強かった。ここに姫川がいるということは、そして立花と会ったということは、少なくとも、大きな問題は起きていないだろうという予感があった。
「どちらから話そうか。僕から? 君から?」
「それじゃあ……私から」
「ああうん。どうぞ。それじゃあ、君はベッドから出て、荷物を全部持って、外に出て」
「ここじゃだめですか?」
「だめな理由が二つある」
「一つは……教師と生徒だから、ですか」
「うん」
「もう一つは?」
「状況が整理出来ていないから、落ち着きたい。コーヒーを買いに行かせてくれ」
「コーヒー……」それがどれくらい季時にとって重要なのかを思案したが、姫川には理解出来ない嗜好の範囲だった。「分かりました。重要なことなんですね」
「うん。重要だ。とてつもなくね」
「思考がクリアになるんですか?」
「いや、あの苦い液体を流し込むと、理不尽とか不可解とかを、一緒に飲み込んで、さあどうぞお話ください、という気持ちになる。だけどシラフのままだと、どうしてどうしてと、子どもみたいになる。だからコーヒーを飲んで、気持ちを落ち着かせる必要がある」
「分かりました。では、参りましょう」
「うん。ところで、彼は帰ったわけ?」
「はい。季時先生によろしくと言っていました」
「あそう。勝手だなあ」
「誰かに似てますね」
「僕以外に該当者が思いつかない」
 白衣の中に財布を移し替えて、季時は部屋を出た。外気に触れ、少しだけ想像力を豊かにする。もしかしたら姫川がこの家に来たのかもしれない。そこで立花と会って、昨晩の情報を伝えたのかもしれない。ヒメグマがどのようにして死んだかは話していなかったが、少なくともあれが姫川のものではないという話はしてあった。その後立花は、姫川を残し、戸締まりをしたつもりになったのかもしれない、という想像を巡らせた。季時にしては珍しく、半分しか合っていないようなお粗末な想像だった。
 このあとで、常川にしたのと同じ話を、姫川にしようと考える。少なくともそれで、姫川がおかしな行動に出ることはないだろうという目論見だった。これは、本来昨晩のうちに済ませておくべきことだったのだが――結果的に何もかもが未遂で済んだのだから、その判断が間違っていたとは言えないだろう。
「……まあ、今一番大事なことは、姫川君のヒメグマか。あの囮君には、悪いとは思うけどね……」
 少しして出て来た姫川が季時の家の鍵を閉めたことに対しては、季時はもう、何も言わないことにした。


戯村影木 ( 2013/08/06(火) 00:17 )