『季時九夜と薄幸少女』 - 三章『木曜日は変化する』
『悲しみは弓を折った』
 1

「……ああ、おはようございます、先生」
「よく眠れた?」
「ええ。人がいる家で寝るというのも、なかなか乙なものですね」
「ふうん。一人暮らしなの?」
「いえ、実家では母と暮らしています」
「君、適当なことを言うんだね」
「先生ほどじゃないと思いますよ」
「真面目なことも言うんだね」

 2

 いくら悩もうと、いくら考えようと、平日の授業がなくなるということにはならない。昨晩、夜遅くなるまで森で殺されていたヒメグマの死体を調べて、それについての推理を重ねていた季時は、寝不足の頭で学校に向かうハメになった。もっとも、そのおかげでヒメグマの死体について、あるいは何故その死体がそこに置かれていて、ボールが破壊されていたのか、という謎については、ある程度の考えを進めることが出来たし、学校につく前には、結論を出すことも出来た。その閃きを得たのは通勤中のことだったので、これを立花戦は知らなかった。
 季時は生物学教師である以上、授業でポケモンを実験台に使うこともある。もちろん、解剖であるとか、生物実験のようなことは、高校では扱わない。そういうものは大学――それも、獣医学部などのような、特殊な学科でしか行わない。人間の死体を使った授業を行わないのと、本質的には同じと言える。しかしながら、当然と言えば当然のことだが、生物学教師である以上そうしたことを行う知識は持っているし、そうした学科を希望する生徒が現れた際に教え込む程度の知識と環境は、季時の部屋にはあった。季時はヒメグマの死体を『棺桶』に入れた状態で、壊れたモンスターボールと一緒に、学校へ持って着ていた。
 早朝、部屋に入ってすぐに、『棺桶』と壊れたモンスターボールの二つを、鍵の掛かる二つある引き出しのうち、大きな方にしまった。重要な書類などを入れておく引き出しで、滅多なことがない限り開かない。鍵を掛ける、などという行為がどれほど意味をなすことなのか分からない。季時にとっては、『無意味なことだ』と表現してしまっても良いかもしれない。だから彼にとってこの行為は、誰かに盗まれないようにするというよりは、少なくとも授業が終わるまで、今日の仕事の時間を終わらせるまでは、いつもと同じ、生物学教師として生活しようという、自分の心や、あるいは行動に対する施錠だった。
「……どうも僕らしくないな」
 と、独り言を呟いた。そもそも、独り言自体季時らしくはなかった。彼は今日の授業のスケジュールを確認する。行き当たりばったりに確認することも多い季時が、こんなに早い時間から授業に集中しようとするのは、ある意味、授業をないがしろにしているという意味だったかもしれない。
「……」
 果たして、姫川君は来るだろうか、という疑問を、季時は思い浮かべる。彼女に肩入れしすぎている、という側面もあったし、季時自身それには気付いていたのだが、どうしようもない。こういう時、大人は不便だと思う。公務員なら尚更だし、教師ならなおのことだ。一人の生徒のために他の授業を受けるべき生徒を犠牲にするのか、と問われたら、季時は自由な行動が出来なくなる。だから、季時はまずは仕事をしなければならない。教師としての職務を、全うしなければならない。
「……まあ、遅くなることはないだろう」
 最悪でも、未遂で終わるだろう――という気はしていた。何故なら、姫川が復讐する場合、彼女は学校に来なければならなくなるからだ。だからその前に職員室にでも行って――季時が職員会議以外で職員室に顔を出すなどということはほぼ奇跡と言っていい――姫川が出席したら自分に知らせてくれるよう、と要請すれば良いことだった。もし危険そうな状態であれば、自習もやむなしだろう、と彼は考える。人間とポケモン、あるいは将来有望な学生と、一生飼い慣らされるだけのポケモン、どちらが大事なのか、という問いがあれば、季時は「学生が大事だ」と答えなければならない。それでも、たった一時間の自習くらいなら、許されるだろう。生物学教師として示すべき模範は、そうしたものではないのか、とも思えた。
「……いや、色々考えすぎだ」
 季時は頭を振るって、雑念を掻き消した。考えすぎる必要はない。姫川が復讐をするなら――もし冷静な彼女が一晩のうちに復讐の炎を燃やし尽くしてしまったとして――学校に来るだろう。だから学校に来ない限り大丈夫。生徒と生徒の接触は、ほとんど学校で行われる。同時に、姫川自身、学校にボールを置いている状態で盗まれたのだから、そう考えることに特別な問題は見当たらないはずだった。
 しかし、季時は考えるべきだった。
 考えすぎるべきだった。
 考えすぎだと、自分らしくないというプライドのようなもので、思考を断ち切るべきではなかった。もっと、細部まで考えておくべきだったのだ。いじめた生徒が――姫川が復讐しようと考える対象の生徒が誰か分からないとはいえ、しかし、姫川という生徒が行える復讐のテリトリーに該当する生徒がいるのかどうかを判断してから、その考えを断ち切るべきだった。
「……よし、職員室に行こう」
 職員室は季時にとって、独り言を呟いて、自分を鼓舞しなければ行けないような場所だった。他の教師との関係は、良好とも言えないし、険悪とも言い難い。生徒同様、他の教師は季時のことを変わり者と思っているはずだった。しかし、生徒のためなら、その生徒のポケモンのためなら――それが姫川のポケモンを指すのか、加害者のポケモンを指すのかは分からないが――そのくらいのことはするべきだろうというのが、季時の考え方だった。
 季時九夜は、彼が思っているほど、面倒臭がり屋でも、素っ気ない人間でもなかった。
「とりあえず、授業が終わるまでは、平穏なはずだ」
 教師としてではない季時九夜は、ここで終わる。職員室に向かい、姫川の登校の有無を教えてくれるよう頼んだ時点で、彼はこの事件に対する思考を停止させた。もちろんそれは間違いだった。可能性は頭の片隅にでも、留めておくべきだった。それをしなかった、彼の失態と言って良かった。
 しかし、それでも。
 姫川という、地主の娘である彼女が、生徒の家の合い鍵を盗み出して侵入するということをこの段階で考えられる者がいるとは、思えない。

 3

 立花戦は季時がその日最初の授業を始めた時間、まだ彼の家にいた。季時の家の住み心地が良かった、というわけではない。単純に、季時がいつもの癖で、鍵を掛けて家を出てしまっていたのだ。その鍵も、季時が持って行ってしまっている。
「……困ったな」
 口には出してみるが、言うほど困ってはいない。彼にはほとんど、予定と言っていい予定がなかった。時間という概念に縛られることなく生きている立花だ。一日、いやたとえ一週間予定が狂ったところで、焦るようなことはない。ただ、逢坂巴という、彼の知り合いに連絡がつかないことは、少しだけ問題だと言えた。
「学校に行くのも問題だし、季時先生は仕事中だろうし……幸い、学校までの道程は覚えているから、合鍵でもあれば……鍵を掛けて、学校まで届けに行く、ということも出来るんだけど」
 部屋を見渡してから、考える。しかし流石に、親しみを持てる間柄とは言え、家探しをしても良いような関係とは言えない。
「……寝ようかな」
 誰かと一緒にいない、あるいは目的を持っていない時の立花は、このような振る舞いをすることが多かった。何もすることがないのなら、寝てしまった方が良い。その程度の考えを、いつも持っている。あまり、生に対して執着がないのかもしれない。
 これくらいは許されるだろう、と考え、水道水をもらう。日常的にあまり運動をしないタイプだったので、空腹は感じない。恐らく、一日絶食をしても、問題はないだろうというくらいだ。水道水を胃袋に貯め込み、トイレを借りた。手を洗い、顔もあらって、さてもうひと眠りしようと思ったところで――立花は、物音を聞いた。
 物音。
 それは明らかに、玄関からした音だった。
 郵便配達か――と思った。それか、ハンコを必要とするタイプの宅配物か。どちらにせよ、季時の今後の生活に影響を与える可能性があったので、ドアを開けようとも思わない。ただ、立花はじっと、聞き耳を立てていた。他人の家に閉じ込められる、というあまりに刺激のない状況に置かれていたからだろう。季時の私生活に、少しだけ興味が湧いた。
「……うん、学校だ」
 確認するような、決意するような声が聞こえた。立花は物音を立てないように玄関まで歩み寄り、覗き窓から外を見た。
 女子高生だった。
 制服を着て、鞄を肩に掛けていた。あまりよくは見えなかったが、美人に思えた。少なくとも立花の目にはそう映った。
「……ごめんなさい」
 独り言を口にしながら、女子高生はポストに何やら手紙のようなものを滑り込ませた。一瞬、ラブレターか何かか、と思ったが、ラブレターを送る時に謝罪の言葉を口にするのは理解しにくい。
 女子高生はそれだけ済ませると、すぐにいなくなってしまった。もちろん、立花はそれをどうこうしようとは思っていなかった。女子高生が、高校教師の家に、手紙を入れた。それ以上の観察には至らなかった。高校教師は大変そうだ、という、漠然とした気持ちを芽生えさせただけだ。立花は季時のベッドから枕を拝借すると、ソファに潜り込んだ。布団をかけて、昼過ぎくらいまでは眠ろうと思った。昼過ぎになっても季時から連絡がないようなら――少なくとも自宅に電話を入れるくらいの時間はあるはずだ――季時の数少ない蔵書を拝借して、読書でもしようと思った。本を読むのは、立花の趣味の一つだった。
 そして、睡眠へと至る時間経過の中で、立花はふと思い至る。
 あれは、姫川という少女なのではないか、と。

 4

 それらは姫川にとって、幸運な偶然だった。
 姫川が地主の娘であったこと。
 姫川家が管理する借家の中に、姫川をいじめていた生徒の実家があったこと。
 その生徒――蜂ヶ谷、という名前だった――は、ポケモン愛好家としてそれなりに有名であった、ということ。
 そこの家のマスターキーを、姫川家が直接管理していたということ。
 無論、そう易々と手に入れられるようなずさんな管理ではなかったが――姫川彩香本人が、その金庫のロックナンバーを知っていたということ。
 しかし、姫川がその日を実行日に選んだのは、不幸な偶然だった。両親が早朝から出かけてしまうという日で、それは前から決まっていた予定だった。いじめを受けている、ということを既に知っていた両親は、ついに家に引きこもるようになった娘を心配していたが――無理矢理事情を聴き出そうとか、学校に話を聞きに行こうとはしなかった。ただ、娘のしたいようにさせよう、という姿勢だった。部屋から出ないのなら、娘が「しばらく落ち着きたい」と言うのなら、三度の食事さえとってくれるなら、それでいいと思っていた。
 だから、心配はしていても、予定をずらすようなことはなかった。
 それは一見、姫川自身にとっては、幸運のようなものだった。本格的に考えていたわけではないが、それでも実行可能だろうと――蜂ヶ谷の家に復讐をすることは、少なくとも可能だろうと思っていた。もし何かされたら、復讐は出来ると考えていた。それがある意味では、姫川の心のよりどころだったと言える。
 それを実行する日が、ついに来た。
 もちろん、最後の最後まで、実行するかどうかは決めかねていた。もし障害があれば――例えば邪魔が入るとか、家に人がいるとか――やめようとは思っていた。けれどほとんどの偶然は、姫川にとって、良い方向に働いた。いや、それは不幸だったのだと言い換えても、間違いはないのかもしれないが。
 それでも、姫川が蜂ヶ谷宅まで来た時、そこには鍵が掛かっていた。鍵が掛かっていたから、開けられる。開けた時点で、姫川は犯罪者――いや、そもそも、季時の家に勝手に侵入した時点で、マスターキーを持ち出した時点で犯罪者なのだが。
 鞄の中から、マスターキーを取り出す。
 蜂ヶ谷、の名前と、住所が書かれたタグのついた鍵。
 それを右手に持って、姫川は鍵を――

戯村影木 ( 2013/07/25(木) 17:35 )