『冷えた感情の置き場』
1
「教師も学校をサボれたらいいのに」
2
季時九夜は、彼にしては珍しく、ある出来事を引きずっていた。言わずもがな、姫川という女子生徒との出来事だった。
恐らく、どこかで楽観視していたのだろう、というのが、季時自身の見解だった。彼は、楽観視していた。あまり、深く考えていなかった。そういう悲劇が、果たして簡単に起こるはずはないと信じていた。願っていた。だからこそ、彼は姫川を学校の裏手にある森――これは正式名称は【怪暁の森】と言った――に連れて行った。そこの危険性と、そこの野生性を体験させて、そこにボールがなければ安心なのだということを言いたかった。
しかしながら、彼女はついていない。
ボールは、そこに投げ込まれていた。
そして、破壊されていた。
人工的に作られたボールは、恐らく野生のポケモンの手によって破壊されていた。そして、中にいたはずのヒメグマは、傷付けられていた。
……そんな甘い表現じゃないな、と、季時は思う。
そう、殺されていた。
獣医の知識を持つ季時が、治療を諦める程度に。
「……はあ」
大きく溜息を吐いた。
季時九夜は、実を言えば、あまり心が強い方ではない。自分自身をそう認識しないようにはしているが、どちらかと言えば繊細で、心が弱く、色々なことに影響を受けやすい。泣いている子がいれば、助けたいと思ってしまう。困っている人がいれば、力になりたいと思ってしまう。
悪いことが起きていれば、
正さなければと思ってしまう。
元々獣医を志そうとしたのだって、寄り多くの命を助けたいと思ったからだ。役に立てれば良いと思った。しかしそれをしなかったのは、彼はあまりに、生物の生死について敏感すぎた。命がなくなるということに、様々な影響を受けてしまう。
それでも、色々な経験をしてきた。
だから、仕事をしている間は、忘れられた。
朝、いつも通りに学校に来て、いつも通りに授業をした。普段なら、常川という生徒や、宮野という生徒がやってくるはずだ。割と色んな生徒が、季時の部屋を訪れる。しかし今日はその心配はないはずだった。わざわざ季時は部屋のドアに、「研究中」と張り紙をしておいた。それを押しのけてまで部屋に入ろうとする生徒は、普通いない。季時は、このまま帰宅する元気が出るまで部屋に居座って、気力が沸いたら真っ直ぐに家に帰ろうと思った。しかし、この部屋にいると、どんどん、帰る気力が失われていくようだった。
「……はあ」
少しでも気力を養おうと、まず季時はカゲボウズを繰り出した。部屋の中に、カゲボウズが浮遊する。それだけでは足りないと感じ、授業用に管理しているイーブイや、オタチ、ジグザグマ、等の小型種を繰り出す。普通の人間が狭い室内にポケモンを放すと大混乱になるのだが、ボールから放り出されたポケモンたちは、心配そうに季時の周りに集まった。
足下には四足歩行の毛皮たちが。膝の上にはオオタチが膝掛けのように垂れ下がり、机の上にはラルトスが乗っていた。ラルトスは季時の心情を理解出来たので、心配そうに、季時の頭を撫でていた。カゲボウズは心配そうに、季時の頭上を浮遊している。
「きゅーやん、いる?」
外から声が聞こえてきた。季時はそれを音としては認識していたが、言葉としては認識していなかった。頭の中には、ヒメグマの骸が映し出されていた。それを振り切るのは難しい。
「入るよ」
また音が聞こえたが、季時は動こうとしない。机に突っ伏したまま、ラルトスの拙い手つきに癒されていた。
「きゅーやん……うわっ、何これ」
入って来たのは、常川という生徒だった。
そもそも、ドアに「研究中」と貼られている時に、季時が研究をしていないことは、常川にとっては当然の事実だった。逆にそんな張り紙がしてあるということは、何かしらの問題が季時に起きている、ということだった。
実際、今日の季時は様子がおかしかった。
常川はそれを心配して、この研究室にやってきていた。
「きゅーやん?」
部屋に放たれているポケモンたちは、常川に慣れていた。季時と付き合いが長いからというのもあるし、季時自身が敵意を向けていないからだろう。
常川は季時に歩み寄り、彼に肩を叩く。
「……誰」
「常川だけど」
「常川君か」
季時は大きく息を吸いながら、体を起こす。怯えながらラルトスが後ろに下がっていった。カゲボウズは体を起こした季時の頭に上に腰掛ける。
「研究中だよ」
「嘘でしょ」
「そうだね」季時はコーヒーメーカーに視線を向ける。「すまないんだけど」
「分かった」
何も言わなかったが、常川はコーヒーをセットしにいった。季時はぼんやりとそんな常川の姿を眺める。まったく、やる気がなかった。
「どうしたのきゅーやん、今日、やる気なかったね」
「いつもない」
「空元気だったね、って言い直す」
「そうだったかな」
季時は今ようやくラルトスに気付いたように、机の上にいたラルトスを認識すると、左手を差し出して、握手をした。右手は膝の上に乗っていたオオタチを撫でている。靴の先で、ジグザグマの尻尾をいじっていた。
「サファリゾーンみたいになってるけど」
「行ったことあるの」
「小さい頃にね」
「ふうん」
季時はオオタチを持ち上げると、そこに顔を埋めた。ふかふかとした感触だった。「きゅーやんがおかしくなっちゃった」と、コーヒーメーカーをセットし終えた常川が言った。
「何かあったの?」
「うん」
「……何があったの?」
それとも、聞かない方が良いかな? と常川は言った。部屋を徘徊していたムンナが、常川の膝の上にやってくる。彼女はそれを抱きかかえて、撫でてやる。
「ポケモンが死んだ」
季時は簡潔に言った。
「……きゅーやんのポケモンが?」
「いや、知らないポケモンだ」
「……もしかして、姫川さんのポケモンなのかな」
「そうだ」
季時は五秒間、息を吐き続けた。
「どうしようもなかった」
「な、なら……仕方ないんじゃない? だって、きゅーやんのせいでそうなったわけじゃないんでしょう?」
「責任の所在と、感情の揺れは、別の問題なんだよ」
季時は常川に視線を向けない。
ひどく参っているようだ、と常川は思った。
過去に似たような経験があったような気がする。
真面目な時の季時。
いや、というより、余裕がない季時九夜。
過去に、軽い気持ちで「死んでしまおう」と思っていた時期がある常川は、その時に、季時のこの表情を見たことがあった。
時間を経て、知ることになる。
あの時の季時は、悲しんでいたのか、と。
「手短にするから、話をさせてほしい」
「うん」
「姫川君はいじめを受けていて……まあ、正直なところで言えば、集団生活において、そうした存在が生まれるのは仕方がないことだ。これは、ポケモンの世界だって同じなんだよ。むしろ、彼らの世界の方がひどいかもしれないね。強くなるために、一匹のポケモンを標的にして、いたぶるという種族もいる」
「……そうなんだ」
「だから僕は、いじめ自体をそこまで悲観しているわけじゃなかった。姫川君がそれに助けを求めてきたなら、手を貸そうと思った。もちろん、嫌いだけれどね。けど、教室の立場を利用して一人を助けても、次の標的が出てくるだけだ。根本的な解決にならないのなら、彼女が納得出来る立場にいさせるしかない」
「うん」
「けれど、あろうことか――いじめをする側の人間たちは、彼女のポケモンに手を出した。そのボールは、学校の裏手の森に投げ捨てられて……破壊された」
「破壊って……」
「ボールが、壊されていたんだ」
「……そんなこと、出来るの?」と、常川は当たり前の疑問を口にする。「ボールって、すごく頑丈なんじゃないの?」
「頑丈ではある。だが、それが不可能ということではない。百メートル落下しても、その落下先がコンクリートでも、壊れないだろう。けれどそれは、ボールを放る、という行為のための頑丈さであって、ボール自体を守るための行為ではない」
「そうなんだ」
「もしボールの開閉部の機構が故障したら、取り出せなくなるからね。外側から壊せるようには出来ている。特に、蝶番に当たる部分は、比較的脆く出来ているんだ」
「へえ」
少し、季時は調子が戻って来ることに気付いた。それが常川との会話によるものなのか、それともこうして蘊蓄を垂れているからなのかは分からない。
「そこを狙われて、破壊されたんだろう」
「破壊されるとどうなっちゃうの?」
「収縮していたポケモンが元の大きさに戻る。そして、死んだ」
「……野生のポケモンって、そんなに簡単に、ポケモンを殺しちゃうの?」
「その可能性もある。けれど、そうじゃない可能性もある」
「どういうこと?」
「例えば……ボールに収納される前に、ヒメグマが瀕死状態に追いやられて、その状態で森の中にボールを投げ込まれていたとしたら、放っておいても死んだかもしれない」
「……ひどい」
「あくまで可能性の話だ。でも、それが一番現実的かな。いや、でも、わざわざボールを破壊した野生のポケモンがいるとするなら、人間に飼われていたポケモンを虐殺することも、あり得なくはないのかもしれない」
「……コーヒーいれるね」
常川は季時の分のコーヒーを用意して、彼の前に置いた。
季時はそれを飲んで、溜息をつく。
死、とは、何故こうも取り返しがつかないのか。
終わりなのだ。
死んだら、全て終わり。
それ以上、何もしてやれない。
だから季時は、終わりが嫌いだ。
「姫川君は、どうやら今日、学校には来ていないみたいだ」
「……そっか。そうだよね」
「僕はこれから姫川君のところに行って、これからどうするか、話し合うつもりだ。けれどそれをする気が重くて、ポケモンたちに癒されていた」
「きゅーやん、ポケモンと一緒だと、癒されるんだね」
「そりゃあ、誰だってそうだよ」
コーヒーカップをテーブルに置くと、ラルトスが興味深そうに中を覗いていた。
「常川君のおかげで、割と気が楽になった」
「そ。それは良かった」
「まあ、君を助けたことがあったから、持ちつ持たれつかな」
「それもそうだね」
常川は、今日は大人しかった。刺激したくないというわけではなかった。ただ、季時が素直だったので、こちらも素直になろうという程度の感覚だった。
「僕は、怒っているんだ」
「うん。そう見える」
「だから、僕とは関わらない方が良い」
「そうかな?」
「そうだ。常川君は、僕が事件を解決するまで、大人しくしていた方がいい」
「そう言われると、ちょっと手助けしたくなっちゃうけどな」
「お願いをしたら、聞いてくれるかな」
季時がそんな言い方をするとは思っていなかったので、常川は面を食らった。そして慌てて、「あ、うん。大人しくする……」と、これまた大人しく言った。
もう一度、コーヒーを口に含む。
部屋に放ったポケモンたちを眺める。
彼らが死んだら、僕はどう思うか。
季時はそう考えて、一つの結論を出す。
きっと、それをした者を、許さないだろう。
3
姫川、というのは、季時が暮らす家を含む周辺地域で、地主をしている一家の名前だった。季時が暮らす家は一軒家で、独身教師に格安で提供されている家屋だった。2DKの間取りで、季時はそれをほとんど持てあましていたが、もっと狭いアパートを借りてもほとんど家賃が変わらないので、それならばと快適な一軒家暮らしを選択していた。
姫川家は、立地条件的にかなり優れた場所にあった。少し小高い丘の上にあり、周辺には緑が生い茂っている。完全に孤立した一軒家で、周辺に家は見当たらない。その周辺も全て姫川の土地なのだろう。学校でコピーした地図をポケットにしまい、インターホンを押す。音声でのやりとりは出来るようだが、カメラはついていないタイプのインターホンのようだった。
「はい」
あまり音質が良くなかったので、その相手が誰かは分からなかった。しかし、女性ではあるようだ。季時が高校名と担当教科、そして自分の名前を名乗ると、返事の代わりに室内から足音が聞こえ、すぐにドアが開いた。
「……先生」
出て来たのは姫川だった。季時の観察が正確であれば、ドアには鍵が掛かっていたようだった。
「やあ、こんにちは」
季時は冷静さを心がけた。いっそ、姫川に恨まれたいとすら思っていた。お前のせいで、となじられてしまえば、気が楽だとも思った。
「……わざわざ来てくれたんですね」
「まあ、そうだね」
「どうぞ、上がってください」
「立ち話でもいいんだけど」
「親はいませんから」姫川は気怠い様子で言う。「遅くまで帰ってきません」
「ああ……じゃあ、尚更入りにくい、という気もするね」
「お願いします」
季時は観念したように、靴を脱いで、家に上がる。玄関からすぐのところに二階への階段があった。姫川のあとをついて、階段を上がる。彼女の部屋に通されるのだろう。
「もうすぐ担任しているクラスで家庭訪問だ」季時は世間話を始める。「去年は担任しているクラスがなかったから、この変だと初めての経験だ」
「以前の学校では?」
「毎年担当していたよ。まあ、色々な家庭があったね。以前赴任していたところは、うーん、土地柄というか、なんというか、ポケモントレーナー人口が多いところで」そこまで言って、ポケモンの話題を出すべきではなかったか、と気付いたが、今更止める方が不自然かと思い直す。どうも、頭の巡りが良くない。「だから、ご両親のうちどちらかが旅人だったり、という家庭も多かった。何の話をしていたんだっけ?」
「単身赴任の話です」
「ああそうだ。だから、親御さんがいない家に上がるのは、実は慣れてる」
季時は姫川の部屋に通された。実に女の子らしい部屋だった。簡単に室内を観察する。テーブルの上にノートパソコン。薄型テレビ。ベッド、ローテーブル、それを取り囲むクッション。クローゼットに、棚がいくつか。小さな本棚には、雑誌が綺麗に並んでいた。
「どうぞ、座ってください」
「まあ、立ち話もなんだからね」意味のない発言をして、クッションを避けて座った。「お邪魔します」
「どうぞ」
姫川は薄く笑う。笑おう、という努力に近かった。表情はやつれている。泣いていた、というより、疲れている表情だ。
「……」
謝ろうか、という気持ちもあった。しかし、謝罪は彼女のためにならない。自分のためのものだけだ、と、季時は考える。
「……今日、学校休んじゃいました」
姫川はクッションを抱き締めていた。その自然な抱き締め方を見て、季時は考えてしまう。もしかしたらそれは、ヒメグマのためにされる抱擁だったのではないか、と。
「そうみたいだね」
「一応、今まで、いじめを受けていても、学校、ちゃんと行っていたんですけど……なんか、負けたような気がするので」
「まあ、気持ちは分かる」
「でも先生、いじめなんて受けたことがなさそうですけれど」
「僕が学生の頃、クラスにそういうやつがいた。僕は当時からひねくれていたから、そいつと仲良くなろうとして……まあ、君の気持ちが分かるなんてのは失言だったかもしれないけれど、当時は、似たような境遇にあった」
「……そうなんですか」姫川は、少しだけ笑う。「先生、優しいんですね」
「いや、本当に、ひねくれているだけなんだ」
「先生、私」
「うん?」
「犯人を見つけ出して、殺したいんです」
と、姫川は、今までの口調と変わらない、まったく変わらない平坦さで、口にした。
「……それは、言葉通りの意味かな」
「そうです。復讐がしたいんです」
「…………」
こんな時、何を言えばいいのか。
言うべきことは決まっていた。
だが、どれを言えばいいのだろう。
教師としては――それを止めなければならない。犯罪を勧める教師などいてはならない。だから、それはいけないことだと、叱らなければならない。
大人としても――やはり、止めるべきだろう。気持ちは分かるが、と言って、止める必要があった。
しかし、季時九夜としては。
まあ、妥当な感情だろう。
そんな風に思っていた。
だから、
「まあ、妥当な感情だろうね」
と言うことにした。
「けれど、それでは君があまりに損をする」
「損得勘定で動くようなことですか」
「そう言われると、どうも違うようだね。今の僕の発言は、適当だった」季時は素直に頭を下げる。「すまない」
「いえ」
「だけど、それを容認はしたくない」
「争いが、争いを生むからですか」
それを聞いて、ああ、きっとこの子は頭が良いのだろう、と季時は思う。つい一日前に話した内容だった。それを既に、自分の中に取り込んでいた。
「それもある」
「それでも、これは感情論なんでしょうけれど、私はとても悔しいです。なんで私だけがこんな目に、と思います」
「君は、我慢強い」
「?」姫川は首を傾げた。「どういうことですか」
「すぐには実行をしない。感情論というなら、すぐにでも誰彼構わず首根っこを掴んで問いただす。けれど君はそうしない。つまり、我慢強くて、そして何より、温情深い」
「そんなことはありません」
「そんな君だから、僕は止めたいと思う」
「そんな私だから、とは?」
「感情的な子なら、感情的に行動して、いつかその熱が冷めることもある。でも、君のような子が計画を練ったら、それは絶対に起こる。そしてそれが達成されるまで、君はやめないだろう。だから、僕は君に計画をして欲しくない」
「私は、このまま、悲しい想いを続けろ、ということですか」
「それに対する返答を用意出来ていないことを、強く、申し訳なく思っている」
季時はまた、頭を下げる。自分のためでもない、彼女のためでもない、ただ反射的な謝罪だった。きっと、こんな季時を、あまり多くの人間は知らない。いつも飄々としていて、およそ感情的な行動を取らない人間だと思われているだろうからだ。
「時間が欲しい」
季時は言う。
「もう、君のヒメグマは帰らない。そして、君には復讐をして欲しくない。君にとっては、理不尽なお願いだろう。しかし、僕はヒメグマに何が起きたのか、どうしてあんな悲劇が起きたかを、調べるつもりだ。それまで、待っていて欲しい」
「……何を、ですか」
「復讐の計画を練ることをだ」
「先生が、それを調べたら?」
「復讐しよう」
季時はいつものような、軽薄な笑みを浮かべる。少し眠そうで、へらへらとしたような、そして何に対しても興味のなさそうな笑顔を浮かべる。
「僕が君に協力する」