『正義は雪解けのよう』
1
「例えばさ、本気になるってのはこういことだよ」
「はい」
「君が死にそうな時、君が大事にしているヒメグマが、勇敢にも身を挺して助けてくれようとするだろう」
「はい」
「そんな光景を期待するなら、君は本気になるべきだし、無理しないでいいと思うなら、君も無理をするべきではない、ということ」
「なるほど。ちなみに先生はどう考えるんですか?」
「うーん、僕のパートナーは死なないからね」
2
姫川は季時に頼まれて購買へ買い物に行っていた。校舎の外で考え事をしたかと思えば、季時はすぐに自分の研究室にこもってしまい、椅子に座って天井をぼんやりと見つめていた。姫川は所在なげに同じ空間にいたが、二十二分が経過して、初めて季時は「ちょっと購買にいってミルクコーヒーを買って来てくれ」と頼まれた。握らされたのは二百円。購買にある紙パックのジュースは一つ百円だった。自分の分もということか姫川は訊ねたかったが、季時があまりに上の空だったため、自分で決断することにした。
今、姫川は購買に立ち寄って、ミルクコーヒーを二つ購入した。姫川は、購買の販売員である女性の素性を知らない。どういう経緯でここにいるのか。どこかに務めているのか。何も知らないが、彼女はいじめとは無関係ということはよく分かっていた。だから姫川にとっては、校舎内において、数少ないオアシスと言えた。もっとも、他に生徒が居ないときに限るのだが。
普段、こんなに遅くまで学校に残ることはほとんどない。帰るための靴がなくなるとか、貴重品が盗まれたとか、そういう時以外は、いつも授業が終わればすぐに家に帰る。そうすることでそれ以上の被害がないと分かっているからだ。
「お待たせしました先生」
季時の部屋に戻っても、彼はまだ同じ恰好をしていた。そして、天井を見上げたままの体勢で、右手だけを挙げる。帰ってきたことには気付いている、というサインのようだった。
「ミルクコーヒーです」
「知ってる」季時は短く言う。「君を疑っているわけじゃないんだけど、君、紙パック、上手に開けられる?」
「なんですか?」
「飲み口を開けて、ストローを挿せるのか、という問いかけ」
「出来ますよ」
「本当に?」
姫川は黙ってその作業を行った。飲み口を開き、そこにストローを差し込む。そして季時に向けて差し出した。
「ほら。普通、誰でも出来ますよ」
「ああ、すごいね。これ、飲んでいい?」
「……まさか生徒に開けさせたんですか」
「ありがとう」季時は姫川からミルクコーヒーを奪い取る。「考え事をするには糖分が必要なんだ」
「先生はどうして勝手なんですか?」
「僕が君に聞きたいね」
「すみませんでした」
「謝られたかったわけじゃない」季時は呆れたような表情を作る。「君との会話は、どうも調子が狂うね」
「何か考えていらっしゃったんですか?」
「大体、いつもね、考え事をしてるよ」
「つい先ほどまでは?」
「ボールを隠すならどこかな、と考えていた」季時は紙パックをテーブルに置いて、ようやく視線を姫川に向けた。「が、やはり思考だけでは断定は出来ない。材料が足りない」
「それはそうですよ」
「だけど、それが分かっただけでも進歩はあったと言える。そして僕たちはその手がかりを見つけなければならないわけだ」
「そういうことになりますね」
「でも君は多分手がかりを掴めないだろうね」
「……はい」
「だから、そういうところまで考えていた」季時はまたミルクコーヒーを摂取する。「そこで迷宮入りだ。そこで君は来た。けど、糖分をとってみても、あまり変わらないね」
「糖分などというものは、とってもすぐには変わらないんじゃありませんか」
「僕の場合はプラシーボ効果だから」
「これからどうしますか?」
「家に帰ろうか?」季時は冗談でも言うように言った。「それとも、学校に喧嘩を売っても良い」
「前者の方が現実的です」
「うん。僕も大事にするのは得策ではないと考えている」
「根拠を聞いても良いですか?」
「ボールを盗んだ子たちは、実は良心の呵責に苛まれているだろう、というのが僕の意見だ。大体ね、いたずらとか、いじめなんて、最初のうちはちょっと度が過ぎた程度のものなんだよ。ハイになるんだろうね。まるで酔っている時に全裸になるようなものだ。けれど、しばらくして後悔が襲ってくる。そこで犯人たちは気付くんだね、なんてことをしたんだろうと。これはやっちゃいけないことなんだと思う。そこへ来て、例えば学校で『犯人を捜しています』なんてアナウンスをすれば、怒られたくないという一心で、ボールの存在そのものを消してしまうこともある。刺激することでさらなる悲劇を生むことがある」
「消すって……?」
「埋めるとか、海に沈めるとか、そういうこと」
「そんな」
「あくまでも例えだよ。でももっとひどい例えも出来る。だからこれは、デリケートな問題なんだ。それを今から考えようと思う。もしかしたら、さっきした威嚇は、逆効果かもしれない。そういう後悔も、今からする予定だ」
「悠長ですね」
「短気だと事件を見誤る」
「誤認逮捕ですか?」
「いや、スケールの話だよ」季時はもうミルクコーヒーを飲み干してしまった。「まあ、地道な捜査が一番かな。やっぱり、外に行こうか。中にいても仕方ない、という確認は出来た」
「思考と後悔はどうしたんですか?」
「ああ、もう終わったよ」季時は何でもないように言った。
3
結局ミルクコーヒーは季時が二本とも飲むことになった。姫川は少し不服そうにしていたが、教師から奢ってもらえるような関係にいつからなったのかと考えれば、答えを出せそうになかった。
「先生、私の記憶違いでなければ、なんですが、今朝先生のお宅にお邪魔した時、甘いものは苦手と仰っていませんでしたか?」
「朝に限っては甘いものは嫌いだ」
「そうでしたか。失礼しました」
「羊羹とかね、結構好きだよ」
「今度美味しいお菓子を持ってきますね」
「いや、そういうのはいらない。争いがなくならないからね」
「? 意味が分からないのですが」
「やられたらやり返すと争いは終わらない。同様に、送られたら送り返すという恩の押し付け合いも、永遠に終わらないんだよ。だから僕はね、お礼は貰わないようにしている」
「送る側にはなるんですか?」
「僕が他人に恩義を感じるような人間に見える?」
姫川は無言で首を振った。
二人は校舎を出ていた。姫川は、このまま帰宅するだろうからと、荷物を持たされていた。季時は本来であればもう家に帰る時間のようだったが(あるいは部活に顔を出すかどうかというところらしかったが)、姫川のために時間を割いてくれている。それは嬉しさ七割、申し訳なさ二割、トキメキ一割というところだった。
「例えば学校の裏手に森があるだろう」季時が言う。「そこにボールを隠すのはなかなか良いアイディアだ」
「どうしてですか?」
「森には野生のポケモンが生息している。だから基本的に立ち入り禁止だ。だけどボールは投げてしまえば良い。物理法則に従って、放物線を描きながら落下する」
「……あまり考えたくありませんね」
「なるほど、僕も同意見だ」
けれど季時は、その森に向かって歩を進めていった。生物学教師にして、闘技部という、ポケモンバトルという競技をメインの活動とする部活動の顧問をしている教師だ。姫川もそれに対してはあまり心配はしていなかった。季時はどういうわけだが、妙な安心感がある。安定感と言い換えても良い。飄々としているようだが、何とかしてくれそうな、強い信頼があった。
知り合って間もないのに。
どころか、会話をしてから、二日なのに。
「僕は森に入るけど、君も来る?」
「守ってくれますか?」
「教師になるときの契約にあったはずだから、その範囲でならね」
学校の裏手から森に至る通路には、小さな柵が設けられていた。木製だが、それなりに頑丈で、鍵も掛かっている。しかし、そこまで高さがあるわけでもないので、上ろうと思えば上れるし、実際、肝試し感覚で森に入る生徒は多いらしい。季時は白衣から鍵を取り出して、南京錠を外し、柵に巻き付いていた鎖を外した。
「鍵、先生が持っていたんですね」
「一応、学校の中では一番ポケモンの扱いに慣れているからね」
姫川は何となく、ドキドキしていた。季時と一緒にいることが、だろうか。それとも、入ったことのない危険な森に入るからか。この時、正直な感想を言えば、姫川は自分の探しているパートナーのヒメグマのことを、意識のうち、一割程度にしか考えていなかった。目標として、目的として、ただ把握はしていたが、そのことよりももっと大きな問題が、頭の中に居座っていた。
「ちょっとショッキングかもしれないよ」
「ショッキング、ですか?」
「うん。森ってねえ、そうだな、例えば……傷ついたポケモンが、瀕死の状態で寝転がっていたりする。あとは、血の痕があったりもするかな。爪痕の残る大木とか、折れた枝とか……そういうものが、結構ある」
「そう、なんですか」
「君はまだそういう授業をしたことがないから知らないだろうね。二学期くらいから、知るんじゃないかな」
季時と姫川が柵を越えると、季時は律儀に柵を閉めて、また鎖を巻き、南京錠を掛けた。
「季時先生、ポケモン持っているんですか」
「まあね。オノノクスを持ってきた」
「知らない名前です」
「あそう。まあ、男子に人気だからね」
最初に恐ろしい光景を想像したからか、森の中はそこまで恐怖に満ちているわけではなかった。死体もない。血痕もない。傷跡もない。ただ、鬱蒼としているだけだった。鳴き声は少しだけ聞こえるが、ほとんどが虫によるもののようだった。獣の鳴き声は、聞こえない。
「何故ここに来たかというとね」
「可能性が高いからですよね?」
「いや、過去にそういう事例があったからなんだ」
「そうだったんですか」
「その時は、いじめというか……喧嘩の方がしっくりくるかな。派閥同士の争いの末に、人間同士の争いの末に、ポケモンを犠牲にした。そんなに昔の話ではないよ。僕が赴任してからの話だからね」
「その時は、どうだったんですか」
「その事件が起きてからすぐに僕に相談があったから、僕が探しにいった。それで拾って来て、持ち主に返した。そのあと騒ぎを起こした連中をひどく叱ったよ。あの時の僕は若かったと言うことも出来る。けど、そうだな……自制が出来なかった、と言う方が、本当は正しい。怒り狂ったんだ。自分でも、あそこまで怒ることはなかったな、と思っている」
「季時先生がそんなに怒るなんて、想像出来ません」
「まあ、無駄なエネルギーだからね。言葉なんて、大声で言っても小声で言っても、いっそ文章で伝えたって、それ以上のことは伝わらないんだから」
「でも感情は伝わるのではないですか?」
「恐怖で支配した感情は、美しくない」
森を進むに従って、姫川は、自分の認識が多少間違っていることに気付いた。
どうやら、奥に進めば進むほど、森は荒廃していくらしい。
それは考えてみれば当然のことなのかもしれなかった。姫川は、ポケモンは人間を恐れるはずがなく、暴力的に支配してくる存在だとすら思っていた。けれど、人間の手によって育成されたポケモンは、野生のポケモンを凌ぐ。その上、人間の命令に忠実だ。となると、人間を恐れるポケモンがいても不思議はない。どころか、ポケモンにとって、人間は恐怖そのものと言えるのかもしれない。
だから、森の出入り口――人間の生活圏の範囲では、野生の匂いはしなかった。
しかし。
「……血なまぐさいですね」
「それが現実だよ」
森の中は、呼吸をするのが苦しくなるほどの血なまぐささで溢れかえっていた。鼻で呼吸をするのが辛いほどだ。ごくごく普通の生活をしている姫川にとっては、耐えがたい腐臭だった。
「嫌な匂いですね」
「僕も何度来ても慣れない」
腐臭。
あるいは獣臭さ。
耐えがたいと、耐えたくないと思った。
……同時に、姫川は不思議に思った。
こんな奥地に来るはずはないと。
いくらなんでも、ここまでボールを飛ばすのは無理だ。
空から落とすなら可能かもしれないが、高校生の身分で空を飛ぶことは不可能だ。特殊技能でもあればいいが、そこまでポケモンを飼い慣らせるような人材は、学生になどならない。
「あの、先生」
「何かな」
「ここが一番可能性が高いから来たんですよね」
「さっきも否定したつもりだったけど、もう一度言おうか」季時は垂れ下がっていた枝を持ち上げる。奥地に進めば進むほど、ジャングルと言い換えても良いほど、植物が生い茂っていた。「ここに来たのは、安心したいから」
「安心ですか?」
「最悪の可能性を想定したんだよ」
それは、どういう意味なのだろう。
姫川は何も問いかけない。
場所の悪い空気に中てられたのだろうか。
恐ろしくなってきていた。
何かを考えることが。
全てが悪い方向に向かっていく。
そして、前を歩く季時の足が止まった。
季時の足下だけを見て歩いていた姫川も、足を止める。そして、視線を上げた。
「先生?」
「姫川君、何も見るな。目を閉じろ」
それは、季時にしては珍しく、愚かなアドバイスだった。動揺していたのだろう。きっと、頭が回っていなかったのだ。
だから、姫川は見ることになる。
森林道に落ちた、壊れたボールと、亡骸を。
4
膝から力が抜ける。
痛みを感じる余裕もなく、体が落ちる。
崩れ落ちた。
脱力した状態で倒れたために、手首を捻る。痛みはまだ感じない。嫌な音がした。折れたか、捻挫か。あとで痛くなるな、という感覚に襲われる。
「姫川君、戻ろう」
季時の声が聞こえた。顔を上げる。
「え」
何がですか、と姫川は言おうとした。
言葉が出ない。
ヒメグマの体が、落ちていた。
眠っているとは思えないような、
ヒメグマの、その体そのものが、
落ちていた。
「君を安心させるつもりだった」
「なにが、ですか」
「すまない」季時は姫川の手を握る。「最悪の状況は免れたと、安心して欲しかった」
「よくわからないです」
「しかし遅かった」
季時は握った手を引いて、肩にかけた。そうして立ち上がらせたあとも、姫川に歩くだけの力がないことを判断したのだろう、無理矢理に姫川を背負った。
「戻ろう」
「あの……先生、ききたいことが」
「あとで話そう」
「どうして帰るんです?」
目的は何だったのか。
そう、ヒメグマと、そのボールの回収。
あるじゃないか。
そこにあるのに、どうして。
「置いて行くんですか?」
「いや、そうじゃない。あとで僕が取りに来る。だから、姫川君は、まずは帰ろう」
「危ないじゃないですか」
「うん。そうだね、危険だ」
「置いて言ったら、野生のポケモンに、襲われるんじゃ……」
「姫川君、違う話をしよう」
「先生?」
「僕が軽率だった」
季時は抑揚のない声で言う。
姫川は、その季時の態度で、発狂するまでには至らなかった。ギリギリのところで、自我を保っていた。季時が、はぐらかすでもなく、感情的になるでもなく、淡々と話してくれているから、狂うことはなかった。
「僕は、あらかた森を散策して、何もないことを確認するつもりだった。ここが一番危険で、ここが一番悲劇を生むからだ。だけど、僕は軽率だった。先に下調べをしてから、君を案内するべきだった」
「よくわからないです」
「うん。難しい話をしてすまない。ただ、君を傷付けるつもりはなかった。すまない」
「あやまらないでください」
「謝らせてくれ」
「どうしてですか」
「自分に悪意を押しつけないと、自分が制御出来なくなりそうだ」
震えているのは、多分、季時ではない。
姫川は、段々と現実感が戻って来るのを感じていた。
もう、森をかなり引き返している。
季時の足取りはゆったりとしていたが、それでも一人で歩くと、歩幅が広かったため、自分の感覚とは違う早さで世界が切り替わっている。
振り返る。
あの景色は見えない。
「先生、これだけ答えてください」
「本当は答えたくない」
「お願いです」
「分かった。それを答えたら、静かに、落ち着いて、違う話をしながら、帰ろう。それを約束してくれるね」
「はい」
「じゃあ、いいよ」
いいよ、と言われて、姫川は泣きそうになる。
きっと、季時先生も崩れそうになっている。
それが分かった。
「ヒメグマは、死んでたんですか」
「ああ」
捻った手首に痛みを感じた。
涙が出る。
本気の涙なのだろうか。
必死に探したわけではなかったのに。
しばらく困った振りをしていたのに。
なくなってすぐ、探しに行ったわけでもないのに。
それでも何故か、ヒメグマとの思い出が思い出されて、姫川は泣いた。
季時の足が止まる。
姫川は、背負われたまま、季時にしがみついた。どこかに力を込めていないと、心が、何か大切な部分が、壊れてしまいそうだった。
どんな因果関係にあったのだろう。
果たして、自分の立ち位置とは。
人間同士の諍いに、何故。
季時は動こうとしない。
姫川が泣き止むまで、そこにいた。
腐臭が届かなくなった森。
虫の鳴き声だけが響いている。
ああ、パートナーは死んだのか。
その事実を、ようやく言葉として理解する。
「先生……」
「なんだい」
「私、悔しい……」
「僕もだよ」
季時の優しい声が、余計に涙を増幅させた。
そして姫川は誓った。
自分をいじめた者たちへの、復讐を。