『罪のボーダーライン』
1
「先生、おはようございます」
「ああ、おはよう」
「朝はコーヒー……と思いましたけど、コーヒーメーカーはないんですね」
「あのねえ、姫川君」
「はい?」
「どうやって僕の家に入ったの? 鍵は?」
「掛かってましたよ?」
2
一日ごとに思考をリセットするというタイプの人間は少なからず存在するだろう。季時九夜もそうしたタイプの人間の一人だ。夜、寝る前に、今日がどういう日であったか、一日単位で見て、リターンの大きい日だったか。もし自分にとってのバックが大きい日であれば、その日は『良い一日だった』と定義出来るし、平坦であれば『普通の一日だった』となり、あまりないことだが、不利益を被ることがあれば、『最悪の日』となる。季時にとって、眠る前、つまり前日の月曜日は『普通の一日』だった。だが不思議なことに、季時の中で、思考や評価は連続していた。明日に予定が残る、という、あまりない現象が起きていた。一人の人間との関係が続く。もちろん、人間関係はずっと続いていくものだが、長期にわたる可能性がある約束事をするのは、季時にとっては珍しいことだった。
時刻は午前六時半。普段は七時に起床して、二分ほどで準備を済ませて出かけていく。だから、早起きに分類して良い時間帯だった。こうしたイレギュラーはあまり頻繁には起きない。事実、これより前に早起きした日は、季時にとって『最高の一日』に分類される日だった。ある女子生徒との出会いの日。前日のジョークになぞらえれば、彼にとって『一位』の少女との出会いだ。朝起きて、すぐに考えたのは、ヤブクロンのことだった。思い出の深いポケモンだ。
「あの、先生」
「うん、聞いてるよ。というか、音声入力装置に関しては問題はない。ただ、起動したてで、まだ暖まってないんだ」
「エンジンですか?」
「HDDかなあ。ほら、暖まってないだろ?」季時は少しずつ現状を把握し始める。「ああ、そうか、君……僕の住所は知っているわけだ」
「はい」
「昨日、葉書を直接、ポストに入れたわけだしね。なるほど、けど謎は解けないな。どうして、ここにいるわけ?」
「ごめんなさい先生、どういう質問か分からなくて」
「良いもの飲んでるね」ベッドに寝そべったまま、季時は姫川の持つ飲み物を指摘する。「コーヒー味?」
「コーヒー牛乳ですね。お飲みになりますか?」
「うーん、甘いんだろう。甘いのはあまりね」
「どうしてですか?」
「こっちのセリフなんだよ」季時は頭を掻きむしる。「僕は鍵を掛けていたはずだ。家に入れるはずがない。ピッキング?」
「もしかしたら夢という可能性も」
「ああ、そうか……じゃあ、寝よう」
「先生、お仕事ですよ」
「君ねえ……家は近所なの?」
「徒歩十分ほどです」
「へえ、じゃあ、家に帰りなさい。あらぬ噂を立てられると、大変なことになる」
「これ以上大変なことにはなりません」姫川は冷静なままで言った。「これ以上の地獄なんて、あり得ません」
「……たまに不憫な側面を見せるのはずるいな。君は悪い女になるよ。僕が断言しよう」
「経験則からのお言葉ですか?」
「何事にも圏外というものは存在するんだ」季時はようやくベッドから起き上がった。「はあ、着替えてくるから、ここにいるように」
「お手伝いしましょうか?」
「例えば?」
「ワイシャツを持って待機、とか」
「君、その……気分を害したら悪いけど、良い評判がなさそうだ。いや、実際、ないんだったか……調子が狂うな。君、もっと悲壮な感じになりなよ。いじめられっ子が元気でいられると、調子が狂う」
「先生……助けてください」
「ああ、良い感じだね」季時は笑った。
季時の家は無駄があまりない。寝る部屋と、着替える部屋と、荷物を置く部屋の三種類に分かれている。キッチンにあたる部屋はあるのだが、料理のようなことは行われない。屋根と壁があるだけの建物だ。それが季時には十分だった。
いつも通りの服装になり、白衣だけを手に持って部屋に戻る。姫川は言われた通りに、その部屋にいた。ただし、座標はずれ、体勢も変わっていた。
「おやすみ、姫川君」
「あ、突っ込みが薄いんですね」ベッドの中から、姫川の返事がある。「布団まで被っているんですけど」
「見れば分かるよ」
「中身は裸かもしれません」
「見なくても分かるよ」季時は白衣に手を通す。「周囲に服はないし、布団の中に隠しているとも考えにくい。僕の死角にあるとも考えにくいね。そもそも、裸になることで予測される結果が、あまりに悲惨だ。リスクが多すぎる」
「暖まってきました?」
「君、美人じゃなかったら、放り出してるところだよ」
「案外、人間的なことを仰るんですね、先生」
「人間だからね。僕をなんだと思ってたの?」季時は意外そうに言って、荷物の類をポケットに詰め込む。「それじゃ、仕事に行ってくるよ」
「私も学校に行きます」
「裸で?」
「裸だと嬉しいですか?」
「さようなら」
季時は先に玄関に向かった。姫川は渋々とそれについてくる。拗ねている様子の表情もキュートだったが、気を許してはならない対象だった。
3
「君、今日もいじめられるの?」
「扱いがぞんざいになっていませんか」
いつもなら自転車を運転して通勤するのだが、今日はそれを手で押しながらの通勤となった。隣を姫川が歩いている。依存、という言葉が頭に浮かんだ。あるいはパートナー。ポケモンとの関係に似ている。つまり、過酷な野生の中で生まれたポケモンが、自分を欲し、自分を所有してくれる主に気を許し、依存するもの。これが成長すると共依存となる。事実、季時にとってパートナーのカゲボウズとの関係は、共依存に近い。彼女がなくては心許ないし、彼女も自分を探してくれる。
「君に情をかけるのは良くないと判断した」
「ひどい……私、こんなに慕っているのに……!」
「うん、僕はそういうのは効かない体質だから」
「可愛い女の子に迫られるのは、悪い気がしないのではありませんか?」
「慣れているからね」季時は飄々と言う。「それに君の上位互換に同じようなことをされていて、慣れている」
「常川先輩ですか」姫川は、敵意ある口調で言った。「同じ川なら、私でも良いんじゃないんですか」
「そうか」
「なんですか?」
「姫川ね。地主か」
「あ、知ってました?」
「いや、想像だけど、君の反応を見るに真実なんだろう。地主。まあ、大家、の方が一般的か。ふうん、マスターキーを盗んで来たんだろう?」季時は目を細めて姫川を見る。「大家の娘。管理地にある家なら入り放題ということか。悪い子だ」
「あ」
「何?」
「今の、キュンとしました」
「はあ?」
「悪い子だ、って」
「君、頭は大丈夫?」
「成績は良いです。トップ入学でした」
「ああ、それはいじめられるよ。運動神経もいいんだろう、どうせ」
「そうですね」
「僕も嫌いになりそうだよ」
「……嘘ですよね?」
「たまにそういうのを織り交ぜるのはやめないか」季時は首を振りながら言う。「ずるいっていうか、悪だよ。断定出来る。君の所業は悪だ」
「……はあい。なんて拗ねてみたりして」
「あのさあ」
季時が気まずそうに視線を逸らす。と、視線の先にあまり会いたくない人物がいた。季時はすぐに逃げる算段を立てたが、長期的な目で見ると得策ではないと判断した。
「常川君」
「…………」
じと、とした目で、常川は季時を睨む。その隣に姫川がいるのは、とても良くないことだった。
「…………おはようございます、季時先生」
「言い訳をさせて欲しい」
「いえ先生、ここは私が」
「君が喋るとややこしくなるからやめてくれるかな」
「…………はあ」
常川は溜息をついて、季時と姫川を見比べる。
「それもお仕事なんでしょう?」常川は季時の想像に反して、誤解をしているわけではないようだった。「大変そう」
「君って本当に素晴らしい人だ」季時は微笑む。
「でも、手貸したり出来ないよ。悪いけどさ、学校って色々あるし。姫川さんでしょ? 有名だもんね」
「いじめられているらしいよ」
「そうみたいだね。私は直接は関与してないけど、噂は聞くもん。ちょっと、大袈裟かなあとは思うけど……学校レベルだもんね。信じられない」常川は不機嫌そうだった。「でも、ごめん、手助けすると、他の色々に迷惑かかっちゃうから。手芸部とか、闘技部とか。人間関係もそうだし」常川は自分の所属するグループについて列挙する。「こうやって話してるのもあんまり良くないのかな。私、こういうの嫌いだけど……私自身は、協力してあげたいと思うけど、どうしようもないや。ごめんね、きゅーやん」
「いや、そういうことを期待していたわけじゃない。ただ、昨日、その……何か誤解を招くことがあっただろう?」
「破廉恥な?」
「あのねえ」
「冗談。きゅーやんがそういう人じゃないのは分かってるから」常川は毅然とした態度で言う。「でもさ、気をつけた方が良いと思うな。きゅーやん、生活しづらくなるよ」
「その可能性はある」
「それに、きゅーやん、一匹狼って思ってるかもしれいないけど、今は顧問でもあるんだからさ。迷惑かけないでよね」
小さく釘を刺され、季時は返答に窮した。自覚がなかったわけではないが、確かに、それにも影響を及ぼすようなら、あまり良い状況ではないのかもしれない。
「誰が悪いとかじゃないんだよ、こういうの。どうしようもないことだってあるし。まあ、きゅーやんがしたいようにするのが一番だとは思うけどさ」常川はそう言ったあと、少しくらい表情で続ける。「ごめん、なんか、偉そうなこと言ってる?」
「正しい観察力だと思うよ」
「私、行くね」季時を見て、姫川に視線を移す。「あんまり、先生を困らせないでね」
そうして、常川は去って行ってしまった。
「先生の奥様ですか?」
姫川の問いかけに、季時はどう答えるか一瞬だけ考えた。けれどすぐに「僕は教師だからね」とわけの分からない返答をした。
4
季時が次に姫川と会ったのは放課後だった。彼女のパートナーであるヒメグマを探すためだった。
季時は闘技部という部活の顧問を担当している。が、滅多に顔を出す機会はない。部員たちは真面目で、教師の目がなくとも自主的に練習をする。季時はたまに顔を出して指導をする程度だった。だから基本的に、季時は放課後時間を持てあましている。すぐに帰らないのは、帰宅をすると仕事をしていないように思われるからだ。それに、家に帰ってもほとんどやることはない。人間関係にさしたる恐怖は持っていなかったが、他の教師陣から悪評を与えられるよりは良いと判断した。
「お待たせしました、先生」
姫川は単身、季時の研究室にやってきた。
「やあ。それじゃあヒメグマについての話をしようか」
季時は部屋に鍵を掛け、廊下へ向かう。姫川はよく分かっていない様子だった。一体どのようにしてヒメグマを探すのか。彼女はまだ、一言も、ヒメグマについての情報を語っていない。だというのに、季時は既にその見当がついているという様子だ。
「あの、先生、どこへ行かれるんですか?」
「ヒメグマを探しに」
「どこにいるか知ってるんですか?」
「いや、知らないけど」
「じゃあなんでそんなに足取りが軽やかなんですか?」
「さあ。歩きたい気分なんじゃないかな」
姫川は何も言わず、季時のあとをついていく。季時はいつも同じような服装をしている。それは面倒臭がりというよりは、合理的という雰囲気を与えてくれる。事実、季時はそうした理由で同じ服装をしているのだろう。イメージの保持であるとか、そうしたもの。
学校を歩いている途中、様々な生徒から、姫川は視線を向けられる。いじめの理由は至って明解だ。まず、顔が良く、ほとんどの女子に好かれる、王子様のような生徒がいる。その生徒は特定の恋人を持っていない。その王子様が姫川のことを好きになる。その時点で目を付けられることは必死なのだが、あろうことか姫川はそれを断った。そして姫川の味方は一人もいなくなった。
「さて、外に行くから靴を履き替えておいで。僕は職員用の通用口から外に出るから」
「あ、分かりました」
「どうかした?」
微細な変化を感じ取って、季時は訊ねる。
「いえ、なんでもありません」
「そう。じゃあ、外で」
視線を感じる。あまり意識していなかったが、今日はやけに意識してしまう。それは、この観察の対象が自分だけではなく、季時にまで及んでいると考えるからだった。
それは罪悪感だろうか。
季時を利用するだけのつもりだったのだが。
あるいは、季時は自分を遠ざけないだろう、という打算的な目論見による接触だったはずだ。それが、今は罪悪感に切り替わっている。
姫川は靴を履き替える。季時は既に外にいた。空を見上げている。そうした仕草が、様になるな、と彼女は思った。
「お待たせしました」
「その報告は不要だね」
「それで、これからどうするんですか?」
「ヒメグマがいなくなったって言ってたよね」季時は近くにあった花壇の脇に腰掛けた。「あ、君も座る?」
「失礼します」
「ヒメグマがどこかに消えた。その時の状況というか、どういう状態のヒメグマがいなくなったのかが聞きたいな」
「ボールに入った状態です」
「なるほど。つまりボールごと盗まれたわけだ」
「かもしれません」
「どうしてそういう行為をしたんだろう」
「それは……私が嫌われているからです」
「僕には理解しかねる行為だ。もし君のことが本当に憎いのだとしても、それを君以外の生き物に仕向けるのはおかしい。フェアじゃない。人としてどうかと思う。けれどそうしたことをする人間がいる」
「はい」
「僕は生物学教師だからね、ポケモンのことになると、少しだけ、感情的になる」季時は手を組んで、前を向いたまま喋る。昇降口から出てすぐの花壇。帰宅途中の生徒の姿が多い。「つまり少なくともこの学校の中に、それをした犯人がいるということになるね」
「……多分、ですけれど」
「盗まれたのは学校で、なんだろう?」
「そうです」
「知らないうちになくなってたわけだ」
「はい。教室に置いてあって」
「じゃあ、犯人は学内の人間だ」
「ですね」
「うーん、なるほど。無断で盗んだわけだ。そうか。段々腹が立ってきたな」季時は校舎を睨み付けながら言う。「聞いた時から、まあ予想はついていたんだ。つまり、ボールに収納された状態で盗まれた。そうでなければ、防衛本能が過剰とも言えるポケモンが易々と盗まれるはずがないからね。それに、運搬も不可能と言える。そして他人のポケモンを盗んで、それをボールから取り出す、ということも、普通の神経なら出来ない。何故ならポケモンは獰猛だから、自分が盗まれたのだと知れば、敵意を剥き出しにする。僕の知る限りでは、手のつけようがなくなったポケモンに対抗し得るほど、戦闘センスのある生徒はこの学校には少ない。そしてその数少ない生徒は、全員僕のよく知る生徒だ。彼らは絶対にそんなことはしない」
「なんだか意外な感じです。先生が、そういう、心情的な繋がりを信用するというのが……」
「僕は数学者や物理学者じゃない。生き物を相手にする職業だ」
「そうでしたね」
「話が飛んだね。つまり、君のヒメグマは今もボールの中に収納されたままということになる。あのボールは良く出来ていて、入れた状態で、一年放置しておいても、ポケモンに特別な害はない。睡眠状態というか、仮死状態というか、とにかく安全な状態と言える。だから僕はさほど心配はしていなかった。昨日君に話を聞いた時から、時間がかかっても大丈夫だと感じていた。が、今になってふつふつと怒りが沸いてきた。なんだか気が済まない。嫉妬とその報復のためにポケモンを利用した者がいるわけだ。それは許せない」
「……あの、なんだか、大事になっていませんか?」
「これは大事だよ」
季時は急に立ち上がる。
怒りを物理的に発散させる行為だ。
「いじめ問題というのはデリケートだ。学校側としても、ソフトな対応をせざるを得ない。しかしながら、対象が対象だ。僕はこれを公言すべきではないかと考える。学校に掛け合ってしまっても良いし、その結果、主犯に罰を与えることもやぶさかではない。が、それを君がきちんと望んでいるかどうか」
季時は立ったまま、姫川を見る。
「それが聞きたい」
「……私は、出来れば穏便に、とは思っています。それは、自分でもよく分からないんですけれど、なんとなくそう思うんです」
「それなら仕方ないな」季時は言う。「でも、もししばらく探して見つからなかったら、僕は強硬手段に出る。それは僕が君に協力する上で必要な行為だと理解して欲しい」
「……分かりました」
姫川は立ったままの季時を見上げ、ふと、ある疑問を抱いた。
「すみません、先生、質問があるんですが」
「なにかな」
「どうしてここでそんなお話をされたんですか? 先生の部屋でも良かったような。あるいは、おうちでも……」
「威嚇しているんだよ」
季時はいつも通りの、平坦な口調で言った。しかし、その声色は、いつもより強ばっているようでもある。
「もしかしたら、下校途中の生徒の中に、主犯がいるかもしれないわけだからね」
「威嚇、ですか」
「恐らく二、三年の生徒は、僕のことをこう評価している。『変わっていて、飄々としているが、怒らせるべきではない』それは、授業を受ける生徒では顕著だ。僕はポケモンを粗末に扱う行為に対しては、怒る」
「そうなんですか」
「だけど一年生は知らない。君のポケモンを盗んだ犯人は一年生である可能性が高い」
「どうしてですか?」
「単純に距離が近いというのもあるし、それに、この学校でポケモンの誘拐なんてことが起きて、季時九夜が黙っていると考える上級生はあり得ない」
「……そうなんですか?」
「そうだよ。事実僕は、黙っていない」
そうして、季時は深呼吸をして、目を閉じる。
怒りをコントロールする儀式だった。
姫川は分からない。
けれど、彼をよく知る人物が見れば分かるだろう。
季時は怒っている。
それも格別に。
彼の人生において、こうした卑劣な行為は、身近では起こらなかった。そもそも、そうした行為をする人間が極端に少ない。季時の周囲はポケモンが好きな人間で溢れていた。だからこそ、季時は慣れていなかった。
「姫川君」
「はい」
「君のヒメグマを盗んだ人間は、僕が定義する罪のボーダーラインを超えた」
「ボーダーラインですか」
「……やれやれ。困ったね。これは戦争だよ」
季時はいつものような、軽薄な口調で言った。しかし表情はいつも以上に鋭く、侮蔑に満ちていた。
姫川は、季時のことを頼もしいと思うと同時に、季時のことを傷付けたのだということを自覚し、今までの自分の考えなしの行動、あるいは愚かな振る舞いを後悔し、「ごめんなさい」と呟いていた。
季時は五秒間驚いたが、すぐに「謝る相手は僕じゃない」とだけ言った。