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翌日の夕方頃に、僕は逢阪屋敷にたどり着いた。屋敷の中ではジュペッタに窮屈な思いをさせてしまっていたため、帰りはほとんど手を繋いで帰った。僕とジュペッタは流石に言葉を交わすことは出来ないけれど、それでも、手を握る力とか、歩く速度とかで、彼が少しだけ機嫌が良いらしいことを理解出来た。
「ごめん戦、まさか帰りに屋敷に寄るとは思っていなくて。もちろん予想くらいは出来たんだろうけど、戦はスーツを着ていったから、先に家に戻るかと思っていて」
「気にしてないよ。こっちこそ連絡もしないで悪かった」
「ううん。悪いのは私だから。ごめん戦。もう少しで準備は出来るから」
今現在、僕はソファの上で、ジュペッタを膝に抱えていた。森の中に位置する逢阪屋敷には、基本的に来客というものがない。だからなのだろう、巴は完全に油断をしていたようで、玄関を筆頭に、ドアというドア、窓という窓を開け放し、換気を行っていた。それどころか、暖炉の中をこれでもかというほど磨いたり、家中の家具を整備したり、脚立を利用して天井を掃いたりと、かなり大規模な清掃を行っていたようだ。加えて、疲れていたのか、それとも開放感を味わいたかったのか、巴は広間の中心にマットレスを引いて、全裸にタンクトップという状態で、寝転がっていた。彼女の供述を聞くところによれば、お風呂に入ろうと思い立って服を脱ぎはじめたは良いものの、肝心の風呂を沸かしていないことに気付き、それを待つ間、せっかくだから広々とした広間で寝転がってみようと思い立ち、気付けば寝ていたらしい。僕は巴の裸体であるとか、そうした間の抜けたところには慣れていたので、臀部を丸出しにしてうつ伏せになっていた巴を目覚めさせ、着替えに行かせた。
「ごめん戦。お待たせ」
「待ってないよ」
巴は下着を身につけ、ハーフパンツを穿いて戻ってきた。前がしっかり留まっていないのは、恐らくすぐに風呂に入るという意思表示なのだろう。
「巴、少しだらしがないよ」
「お風呂に入ろうと思ってるんだ」
「そうなんだろうね」
「ごめん戦。ちゃんと閉めるね」
「いや、先に風呂に入って来たらいいんじゃないかな」
「でも、戦は帰っちゃうよね」
「まあ、少し寄っただけだから」
「お風呂に入って行けば?」
「一応昨日入ったし、下着も新しいのをもらったんだ」
「そうなんだ。すごいんだね」
「すごかったよ」
巴は僕の前であまり恥じらいなくファスナーを上げ、ボタンを留める。決して彼女に女性としての恥じらいがないというわけではないが、家族と僕以外に忌み嫌われ、ほとんどの人が長時間同じ空間にいたがらない巴にとっては、そうした常識があまり備わらなかった。そして他人との干渉を抑えて生きてきた僕もまた、巴のそうした行動に、特別な感情は抱かない。
一心同体のように。
遠縁の共同体として、僕たちは存在する。
人払いと、
獣払いが、
この屋敷で暮らしている。
「戦のスーツ姿は見慣れないね」嬉しそうに、巴は僕のワイシャツをいじっている。「ネクタイは締めないのかな。多分、似合ったんだろうね。想像してみようかな。きっとすごく似合ったんだろうね。戦はあんまりネクタイを締めないからなあ。私はあんまり見たことがないんだよね」
「巴、仮面返すよ」僕は袋の中から仮面とネクタイを取りだした。「役に立った、というか……まあ、ありがたかった」
「ああ、うん。戻しておくね。ごめん戦、そうだよね、仮面を貸していたんだから、先に屋敷に寄るのは当然だった。夕飯でも用意しておくべきだったかな」
「それには及ばないよ」襟を立てて、ネクタイを締め直す。「少し疲れたしね。今日はゆっくり休もうと思う……」
「うん。そうだね。ごめん戦、隣に座っても問題はなさそうかな?」
「問題はないよ」
「へへ」巴は隣に座って、僕を眺める。「やっぱり戦はネクタイが似合うね」
「ありがとう」
「パーティ、楽しかった?」
「楽しかったと言えば、まあ」
「弥生さんには会えたのかな」
「ああ、うん。どうやら、まだ人形を求めて彷徨っているみたいだね。危険だから、止めさせたいんだけどね」
「そうだね。私も心配だな。除霊っていうのは、まあ私がやっているくらいだから結構簡単なものなんだけど、降霊っていうのは危険なんだよね。霊が何に入っているか分かれば対処の使用もあるけど、どこに霊が入るか分からない降霊をして、その上それで出来上がった憑依物がどれほどの霊力を有しているかも分からないわけだから。でも、きっとやめないんだろうね」
「だろうね」
「そう言えば、巴は人形愛好会と関わり合いがあるんだよね? それって、結構古い繋がりなのかな」
「古い、と言えば古いかな……二年くらい前まで、私は日本の人形の除霊を主に請け負ってたから、あまり出張とかしなかったし、持ち込みが多かったから、戦にお留守番を頼むこともあまりなかったよね」
「あの頃は月に一回もなかったか」
「その頃、よく話したよ」
「でも突然みたいだね。逢阪屋敷は、人形愛好家の中では有名な場所、というイメージがあったけど……」
「うん。最初はね、桜祭さんっていう、結構有名な資産家の方に依頼を受けたんだ。除霊の依頼。それは逢阪製の人形じゃなかったんだけど、私のことを噂で知ったみたいなんだよね」
「逢阪、なんていう苗字の除霊師がいたら、まあ興味を引くだろうな」
「うん。それでね、その桜祭さんが私を人形愛好会の人に……主に桐島さんにだけどね、紹介してくれたんだ。まあもちろん、あまり歓迎はされなかったけれど、それでも縁は繋がって、それから桐島さんを通じて、海外の仕事なんかも請け負うようになったんだよ」
「へえ、そういう経緯があったのか」
「うん」
「もしかしたら、今日もいたのかもなあ」パーティを思い出しながら、僕は言う。「あるいはオークションにいたかも」
「誰が?」
「その、桜祭……これは苗字だよね」
「うん。フルネームは、桜祭雛さんっていう人」
「華やかな名前だ」
「そうだね。でもね、ごめん戦、こんなことを言うのは少しショッキングだとは思うんだけど、彼女はもう亡くなってるんだ」
と、巴は言う。
「亡くなった?」
「うん。一年くらい前かな。私もあまり親しい間柄ではなかったから、詳しいことは知らないけど、亡くなったっていう報告だけは聞いたよ。もちろんお葬式には危険だから行かなかったけどね。除霊師としての繋がりを広めてくれた人だから恩義は感じてるんだけど、なかなか何も出来なくてね、少し寂しいかな」
「なるほどね」
「それに、桜祭さん自身は、結構、不思議な人で……あまり私にね、嫌悪感を抱かなかったんだ。というか、人間全体に、あまり興味がなかったみたいで。生気がないっていうのかな……ううん、亡くなった方にこういうことを言うのは失礼かもね」
「でも、巴が言うんならそうなんだろうな。巴は専門家なわけだし」
「うん。それにちょっと変わっていて、生まれ変わったら人形になりたい、とか、人形みたいな姿に生まれ変わりたいとか、よく口走っていたよ。彼女自身、綺麗な方だったんだけど、完璧な造型が欲しかったみたいでね。だからつまり、熱狂的な人形コレクターの一人だったんだ」
「人形が趣味な人なんて、概ねそんなものなんだろうな」
「そうとも言えるかもしれないね。熱狂的なコレクターには、よほど美人か、よほど醜いか、という二通りが多くいる気はするよ。自分を重ねようとしている人は特に」
「少し、分かるけどね」
「戦も?」
「僕はなろうとは思わないけど、あれだけ整った顔立ちの人形を見れば、嫉妬はするだろう。静さんは、綺麗だし」
「静お婆ちゃんはきっと生前もあんな感じだったんだろうから、すごい美人だったんだろうね」
「あくまでも人間をモデルにしているからこそ、理想に重ねちゃうんじゃないかな。しかし、そういう女性がいたのか……少し、気になるな」
「桐島さんに聞けば話してくれるんじゃないかな。もしかして、気になったかな? それとも、何か別の思惑?」
「いや……」
「ねえ戦、せっかくだから夕飯を食べていけば良いよ」巴は唐突に提案する。「私、しばらく休暇だし、暇なんだよね。昨日からずっと屋敷の掃除をしていたくらい暇なんだよ。戦さえ良ければなんだけど。それで、明日は色々と買い出しにも行きたいし。ね、どうかな」
「ああ……」
「パーティの話も聞きたいし。私が紹介したパーティで、戦は目的を果たせたし、仮面だって私が貸し出したわけだし、戦は私に色々と説明する義務があるんじゃないかな」
「そうだね」僕は肩を竦めた。「何か食べたいものは?」
「ああ、ううん、私が作るから、戦はゆっくりしていて。ただ、先にお風呂だけ入っても良いかな。戦はそのあと入ってよ。先に着替えてても良いけど。よく考えたら、戦の着替えはいくつかここに置いてあるんだからね」
巴は何が嬉しくなったのか、元気よく立ち上がって、僕の膝の上にいたジュペッタの頭をぽんと叩くと、小走りで広間から姿を消した。ジュペッタは何故叩かれたのか不思議に思ったようで、放心しながら頭を撫でていた。
「ああいう人なんだよ」と、通じていないであろう言葉をジュペッタに投げかける。「お前はもしかしたら知ってるのかな。桜祭雛さんだって。なんだか少し、僕と似ているかな。色合いがね」
「ぎゅ?」
「桃色というかね。そういうイメージがある」
「ぎゅる」
「分からないか。そうだよな」
僕も一緒にジュペッタの頭を撫でてやりながら、頭の中に、その名前を浮かべてみる。桜祭雛。ひな祭りのような名前だ。苗字の一部である桜も、初春をイメージさせる。あるいは、この地方においては、晩冬だろうか。
人形愛好会のメンバー。
恐らく女性だろう。
存命ではない。
彼女の持っていた人形はどうなったのだろう。
深月は知っているのだろうか?
彼女がどれくらいの期間人形愛好会に入っているのか、僕は知らない。けれど、どうも彼女は素性が知れない。素性が知れない状態でそう長く潜伏出来るものか、という気もした。そもそも、偽名である深月弥生の名前で、仮面屋敷までも欺いている。
そして僕は気付く。
「……なあジュペッタ」
「ぎゅる?」
「お前はなんでジュペッタになったんだ?」
「ぎゅ……」
「人形が好きだったから、人形に取り憑いたのかな。それとも……手当たり次第?」
通じないと分かっていても、訊ねてしまう。
もし生前に人形を愛していた女性がいて、その魂が再び現世で活動をするのだとしたら、その依り代として選ぶべきものは、人形であるべきだろう。
そして深月は、降霊を望んでいる。
桐島との会話。
ある女性の代わりに、人形愛好会のメンバーとなったという、深月。桜祭雛という女性が、もしその女性と同一人物なら――深月のやろうとしていることは、一体。
人形集め。
依り代の収集。
そして幾度かの降霊。
僕はそれを、深月の意志だと思っていた。いや、きっとそうなのだろうという意識が、まだどこかにある。けれど、深月のその病的と言って良いまでの人形への執着と、桜祭雛という人物の存在を知った今では――少し、見え方が変わってくる。
果たして深月は、人形が好きなのか。
そうした疑問が沸いてくる。
逢阪屋敷での事件のような、人形を次から次へと破棄していくようなスタイルに、人形愛を感じろというのは、もしかしたら、難しいのかもしれない。
仮面屋敷での事件のような、自分の欲しい人形のために、他の人形が盗まれても構わないというスタイルにも、もしかしたら、人形愛は感じられないのかもしれない。
果たして、深月は本当に、人形を欲しているのか。いやそうではない。恐らく手段のために、人形愛好会に属しているのだ。それは何のためなのか?
可能性の一つとして有り得、僕の脳裏に過ぎるのは、亡くなった桜祭雛の降霊。
人形のようになりたいと願う女性。
果たしてその死が、故意かどうか。
深月が降霊しようと願う魂。
儀式を行っても、魂が気に入る人形でなければ憑依しない、という不自然さ……
リーチェ。
深月弥生。
その偽名の意味するところ。
桜祭雛。
それは――
「何故僕は、昨日彼女を見逃したんだろうな」
自虐的に、笑いが溢れる。
「そもそも、色違いのメタモンなんて高価な生き物を取引に出せるってことは、それだけの財産がないといけない。でも、もし深月が資産家の親族なら、桐島が知らないはずはない……そうだろ?」
「ぎゅる……?」
「彼女は一体何者なんだ……」
テーブルに置かれたままの仮面に視線を向ける。
存在しない口元に、彼女の唇の形が浮かんだような気がした。
『チェリー』と、『みつき』と、『弥生』。
もしそれが、桜祭雛の降霊のために仕組まれた行動であるなら。
一番嘘に塗れているのは、彼女で、
特定の魂を人形に憑依させるという、彼女の目的すらも、自分の物ではないのなら――
「……彼女はまるで、マリオネットだ」