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今日は雨は降っていなかった。家を出る際に持ってきた傘は無用に終わる。天気予報は当てにならないことがよく分かる。僕は新しく友達になったジュペッタの手を引いて、森の中を歩いていた。野生生物から一切の好意を一切受け取れない体質である僕が、とある事件を切っ掛けにして唯一巡り会えた、心を許せる存在。パートナー。もう一生、そんな存在とは一緒になれないのだと思っていただけに、最近の僕は、このジュペッタとの共同生活が楽しく、また、ようやく板に付いてきた頃だった。
彼は雄で、引っ込み思案。一緒に生活していて分かったのはそんなところ。僕は人間だし、野生の言葉は分からない。きっと彼も分かっていないのだろう。けれど、それでも幾度となく通じ合い、僕らはなんとか、お互いが心地良い距離感を持ちながら、こうして一緒にいることが出来ている。
僕が今日訪れる予定の『逢阪屋敷』は、無人ではない。今日は当主がいる。僕はその当主に呼ばれて、ここに来ている。屋敷の当主の名は、逢阪巴。彼女は最新機器にとても造詣が深く、僕のことも携帯電話で一発で呼び出した。もっとも、この屋敷には電気というものが通っていないので、携帯電話の充電は太陽光を利用した機器を用いる他ない。いい加減電気くらい引いたらどうだ、と思ってしまうが、彼女がそんな工事を依頼出来るはずがないということは、僕はよく分かっている。
チャイムを鳴らす。十秒ほど待って、ゆっくりと扉が開いた。まったくほんの少しの隙間。人間が一人通る分だけだ。
「ごめん戦、突然呼び出して」
「いや、気にしてないよ」
「ジュペッタもこんにちは。うん、入って。ごめん戦、もう少し開けないとジュペッタは入れないよね。手を繋いで来るなんて予想してなくて。今開けるから」
「ううん、大丈夫だよ」僕はジュペッタを抱える。「こうすれば問題ない」
「戦はいつだって冴えてるね」
巴に導かれ、広間へと向かう。
僕のことを戦と呼ぶこの女性こそ、『逢阪屋敷』の現当主、逢阪巴だ。若干二十三歳のカリスマ除霊師。除霊の仕事なんてそんなにないのかもしれないけれど、それでも割と忙しく働いていて、結構稼いでいるようだ。僕は今まで奉仕活動的にしていた『逢阪屋敷』の留守番の報酬として、最近いくらかお小遣いをもらっている。金銭感覚のおかしい巴のことなので、そろそろ「これ以上はいらない」と釘を刺す必要がある。
「ごめん戦、今お茶を持って来るから、座っていてくれるかな。ジュペッタもどうぞ」
「わかった」
僕はジュペッタをソファに座らせる。なんだかんだで、いつでも誰かが隣にいるというこの安心感を覚えてしまうと、なかなか抜け出せないものだ。手を握ったり、頭を撫でたり。人の目がないところでは、ついついこうした行為に勤しんでしまう。
あるいは――
ジュペッタに、誰かの面影を見ているのか。
「結局見つからないな」
分からない言葉を、ジュペッタに語りかける。
とある事件。
この『逢阪屋敷』で起きた、窃盗事件――あまりに字面が悪いことから、僕は便宜上『スケープゴート事件』と呼んでいるが――この事件の犯人である、リーチェという女性。ジュペッタは元々、彼女の持ち物だった。それが、事件の際、スケープゴートとして利用され、置き去りにされた。それでも尚、ジュペッタは元の飼い主を求めている。僕も、彼女にはもう一度会いたいと思っているところだ。だから、なんとか探しだそうとしているものの、なかなか出会えない。
ジュペッタから香る、彼女がつけていた香水の匂いも、ほとんど消えかかっている。
やましい感情は抜きにしても、とても重要な情報源だっただけに、それが完全に失われてしまう前に、次の手がかりを見つけなければならない。
「ごめん戦、待たせちゃったね」
「いや、あっという間だったよ」
「紅茶でいいよね。お菓子も持ってきたけど、食べる? それとも普通にお昼かな。ごめん戦、私あんまり、規則正しくお昼を食べるタイプじゃないからさ、戦が食べたかどうかっていうのも分からなくて」
「大丈夫、食べてきたから」
「良かった」
「それで、何の用?」
「ああ、ごめん戦、そうだったね、お願いがあって呼んだんだ。あのね、ちょっと、行って欲しいところがあるんだけど、いいかな? 仕事扱いでいいんだけど」
「買い出しか何か?」
「ううん、そういうのじゃないんだ。あのさ、ちゃんと報酬も払うし、それに……その、普段はこういうの、私も参加しようとはしないんだけどね、もしかしたら、戦が気になるかもしれないと思って、招待の手紙を取って置いたんだ。さっきね、一緒に持ってきたんだよ。これ、戦が直接読んだ方がはやいよね」
僕は巴から手紙を受け取る。
何かの招待状のようだった。参加、不参加、という二択のアンケートがついている。差出人を見ると――桐島究、という名前が見て取れた。どうやら、彼の所有する建物でパーティが行われるらしい。そのパーティの題名は、なんとも仰々しく、
『仮面舞踏会』
と、題されていた。
「確かに巴はスルーしそうだね」
「うん。いつもならね、そういう手紙をもらったら、すぐに捨てるようにしてるんだ。私はね、仮面をつけていても、あまり関係ないし……これはどうしようもない、体質だからね」自分の異能を咎めるような言い方だった。「でも、戦なら行きたがるんじゃないかなと思ってね、とっておいたんだ」
「そうなんだ」
「うん。普段ならね、そういうの、すぐ捨てちゃうんだ。ほんとにすぐ、見て、仕事の依頼とかじゃなければ、燃やして捨てちゃうんだけど、今回はね、ちょっと待ってと思って、考えて、もしかしたら、って、取って置いたんだ」
「……巴、どうした?」
「ん、何かな?」
「いや、巴が僕の顔をそんなに凝視することなんて普段ないからさ。どうかしたのかなと思って」
「別に?」
ぐりぐりと押しつけるような大きな瞳で、巴は僕を見つめてくる。なんとなく分かった。付き合いも長い。彼女は、僕のために何か行動したということを評価して欲しいようだ。なかなかどうして可愛いところがあるのが巴の良いところだ。普段、あるいは仕事をしている最中は、人との隔絶や疲れで、なかなかこうした一面を見せない。今はかなり長い休暇中のようで、そういう余裕が出て来たのだろう。
「巴」
「何かな?」
「隣に座る?」
「そうだね、いい考えだ」巴はゆっくり僕の隣に移動する。小柄なせいか、ジュペッタとまでは言わないが、人形が二つ、両隣にいるような錯覚をおぼえる。「戦は大きくなったね」
「ねえ巴、これの何が僕の役に立ちそうか、教えてもらってもいいかな」
「ああ……ごめん戦、舞い上がってた。あのね、その、差出人の……差出人であり、主催者であり、『仮面屋敷』って呼ばれる屋敷の当主でもある、桐島究っていう人なんだけど、私もよく知っている人なんだ。つまり、仕事だったり、プライベートで、何度か会ったことがある人なんだけど」
「巴が?」
「うん。もちろん、私と会ったあとは、大抵、二、三日体調を崩すんだけど……」
「すごい根気のある人だな」
「うん。その人ね、『人形愛好会』の会長さんも兼任しているんだ」
――と。
なんだか聞いたことのあるような名前を、巴は口にした。それは僕が追い求めているものの名前に類似している。あるいはそれこそが正式名称なのだろうか。
「つまり?」
「うん。あのね、戦が探している弥生さんも、もしかしたらそのパーティに来るかもしれないなと思って。だからね、本当なら捨てちゃうような手紙なんだけど、今回はね、特別にね、取って置いたんだ」
「そうか、ありがとう」
あまりに露骨なおねだりに根負けして、ついには僕は巴の頭を撫でるに至った。子どもの頃から一定して変わらないショートカット。頭の撫で心地は、彼には悪いが、ジュペッタの比ではない。
「えへへ」
「助かるよ」
「……えへへ」
「それで……これは僕が参加しても怒られないのかな? つまり、招待しているのは巴だろう? 本人が不参加でも?」
「うん。だけど、知人の同伴は大丈夫みたいだし、話だけは聞いているんだけど、毎回、かなりの大規模になるらしいんだ。だから、戦が行っても基本的には大丈夫だと思うよ。ごめん戦、もし戦がどうしてもって言うなら、私も行くけれど、基本的には行きたくはないかな。私が行くと、色々と、こじれるかもしれないし……ね」
「ああ、大丈夫だよ。僕が一人で行くから」
「そう? 良かった。うん、旅費とか、ちゃんとお金も渡すし、代わりと言うのもなんだけどさ、桐島さんに、ご挨拶してきて欲しいんだ。普段あまり顔も出せずに、筆無精ですみませんって」
「文通仲間か何かなのか」
「ううん、そういうわけじゃないけど、色々と懇意にしてもらっているから。元はと言えば、このお屋敷が人形愛好家の間で認知されるようになったのも、桐島さんのおかげなんだ。顔も広くて、精力的な人でさ。私みたいな人にも、構ってくれるし」
もちろん僕と巴の間には恋愛感情的なものはないはずだが、ここまで巴が一人の人間について熱く語るというのは、あるいは保護者的な立ち位置の僕としては気になるところだった。
「その桐島さんって人は……男性?」
「うん。あのね、結構かっこいい、男の人だよ。独身貴族なんだけど、いつも忙しくしてて、結婚どころじゃないんだって」
「ふうん……」
「どうかしたの?」
「いや、別に」
「ごめん戦、私と戦は付き合いが長いから、戦が隠し事をしようとするとすぐに分かるんだよね。どうかしたの?」
「いや……やけに饒舌だなと思って」
「嫉妬?」
「手紙はもらってくよ」
「逃げるのは良くないよ、戦」
「逃げてなんていないよ。用が済んだなら帰らないと、と思っただけだよ」
「四十代のおじさまだよ、桐島さんは」
巴は無表情で、こくんと小首を傾げる。
「何か心配した?」
「巴、今日、機嫌が良いね」
「そうかな」
「僕のこと、からかってるよね」
「……えへへ」
僕と巴は、こうした場合、からかわれている方が相手にげんこつを落としても良いような間柄だった。僕はもちろんそれを実行する。巴は反省したのか、少し涙目になりながら、頭を抑える。一体誰がこんな性格に育ててしまったのか。
あるいはそれは仕方のないことなのかもしれない。
僕や家族でなければ、心を許せない。
常に人と距離を置かねばならない、『人払い』などと自虐的に呼ばねばならぬほど、人に嫌われてしまう、あるいは人を拒絶してしまう異能を持ってしまったのなら。
「これは、参加に丸して出せばいいのかな」
「あ、うん。だけど、間に合うかな」
「ん?」
「パーティはね、明日の夜なんだ」
急いで会場を確認する。その屋敷がある場所は、明日の朝に発たねば到着しないような地方にあって、速達でも手紙が効力を持つか怪しい頃合いだった。
「巴、桐島さんに電話は出来る?」
「うん、出来るよ」
「参加するって伝えておいてくれる? もちろん、僕一人で、だけど」
「どうしてそんなに慌ててるの」
「時間がないからだよ、巴」
「ごめん戦、私、桐島さんのお屋敷に行ったことがないから、どのくらい遠いか知らなくて。もう、間に合わない?」
「いや、間に合うから大丈夫だよ。とにかく、今からすぐに準備をしないと……スーツでいいのかな。あと、仮面? 仮面なんてないぞ」
「仮面なら、うちにいくつかあるよ」
「ああ、そうなんだ。良かった、顔が隠せれば、きっと何でも良いんだよな。じゃあ、ちょっと、どれか借りて行くよ。どこにあるの?」
「ごめん戦、二階の『人形部屋』なんだけど、鍵は掛けたままなんだ」
「ああ、じゃあ勝手に鍵を借りて物色するよ。巴は桐島さんに電話してくれる? 鍵、巴の部屋だよね?」
「うん。あ、だけど、気をつけてね」
「うん?」
「仮面、了お爺ちゃんのお手製だから」
何を気をつけるのか分からなかったが、とにかく僕は頷いて、ジュペッタの手を引き、巴の部屋に向かう。
『仮面舞踏会』
なんとも仰々しい名前だ。
しかし、見た時にはまったく格好つけたネーミングだと思っていた名前だったが、リーチェが――あるいは弥生さんと呼ぶべきか――来ると知った途端に、とても魅力的な名前に思えてきた。仮面舞踏会。きっと彼女も、妖艶な仮面を付けて参加するのだろう。もし本当に彼女がやってくるのなら、だけれど。
「ジュペッタ、リーチェさんに逢えるかもしれないよ」
僕が言うと、言葉というよりは単語に反応したのだろう、ジュペッタは少しだけ嬉しそうに、跳ねて歩いた。