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「ごめん戦、遅れたのは私のせいじゃないんだ」
「誰も責めてないよ」
目覚めてから一時間ほどして、逢阪屋敷現当主、逢阪巴は帰宅した。疲労困憊という様子で、衣服にもくたびれた感じが見て取れた。大きな旅行鞄が二つ。どちらも趣味が良い。今日の服装は、赤と白のシマシマ模様の靴下に、ハーフパンツ、サスペンダー、ワイシャツにキャスケット。純和風の日本人とは思えない服装だ。もっとも、この一週間は外国に滞在していたわけであるし、それが似合っているのだから僕としても不満はない。
「疲れただろう。ごめん戦。一週間も一人で寂しかったよね」
「寂しさを感じたことは一度もなかったよ」
「そっか、ごめん戦、そうだよね。でもありがとう、おかげで助かったよ」
「お礼はまだ言わないで欲しい」
「どうして?」
「人形が盗まれた」
「ん?」
「人形部屋にあった、例の西洋人形。あれ、盗まれた」
「ああ……」巴はうんうんと頷いて、「とりあえず紅茶が飲みたいや」と、旅行鞄を置いたまま歩き出す。「ごめん戦、持ってきてくれない? あと、紅茶も淹れて欲しいんだ。こき使って悪いと思ってるんだけど」
「気にしないでいいよ。疲れてるんだろ」
「うん、ありがとう」
彼女の要望を全て的確にこなすには十分以上を費やす必要があった。その間にも、すすり泣きは断続的に続いていた。巴も気付いていることだろう。しかし、彼女はそれを話題にしない。僕が関与していることを知っているからだ。本人の口から語られるのを待つべきだろう。
彼女の部屋をノックする。「入っていいよ」という許可を聞いて、戸を開けた。
彼女の裸体が目の前にあった。
「なんで上を着てないんだ?」
「疲れちゃって。着替えようと思ったんだけど、何か適当な服を探す元気がなかったんだ。ごめん戦、何か適当に服を着せてほしいんだけど」
「女としての恥じらいはないの?」
「うん、なくなっちゃったんだ。戦に対しては、そういうものを感じないんだ。ごめん戦、自尊心を折るようなことを言って」
「いや、奇遇だ。僕もそうだから」
「ひどいことを言うんだね、戦は」
彼女のドレッサーから、セーターを取り出した。「ああ、うん、そんな感じでいいね」と彼女からの許可が下りたので、彼女に両手を上げさせて、セーターを着せた。
「下も着替えるべきかな」
「巴の好きにしたらいいよ」
「じゃあ、靴下だけ履き替えよう」巴はシマシマ模様の靴下を脱ぎ散らかして、腿のあたりまである黒い靴下を履いた。「ちょっと寒いからね、長い靴下の方が良いかと思って」
「それは名案だね。暖炉をつけようか?」
「もっとも冴えている答えだよ戦。紅茶もそこで飲もう」
彼女のために紅茶を運び、暖炉に火を付ける。この作業でも十分ほどを費やした。しかし僕には時間がたっぷりとあった。焦る必要はない。けれど、泣き声が聞こえる度に、急かされるような気持ちになった。
「巴、疲れていると思うんだけど」
「ううん、構わないよ。何か話があるんでしょ。話して、聞くから。ごめん戦、こんなに待たせてしまって」
「西洋人形が盗まれた」
「弥生さんかな」紅茶に口を付けながら、巴はすぐに答えた。「人形愛好家集団の一人だよ。苗字は失念しちゃったな。名前は弥生さん。あれ、苗字が弥生さんだったかな。ごめん戦、記憶力悪いからさ、私」
「いやいいよ。その人って、どういう知り合い?」
「知り合いという程でもないんだけど、一度うちに来たことがある人だよ。その時は、戦もいたんじゃないかな。何人かでまとまって来た時に、西洋人形をすごく気に入ってたから」
リーチェの話と同じだった。
巴の記憶力は決して悪くない。そんな一度会っただけの人間の名を記憶しているだけでも十分だった。
「その人じゃないの?」
「分からない。偽名を名乗っていた」
「そう。でもきっとその人だよ。戦が好きそうな感じの女の人だったからね。背が高くてすらっとしてて、上品だった。私は背も小さいしあまり上品とは言えないからね」
「巴のことを悪くは言ってないよ」
「ごめん戦、悪い癖だとは思ってるんだけど、なかなか治らないんだ。ネガティブなんだよね、私」
「気にしてないよ」
「でも、盗まれちゃったんだね。怒ろうかな? 一応、そういうことがないように留守番を頼んだんだし」
「覚悟の上だよ」
「ううん、でも、怒るなら戦じゃなくて弥生さんかな。あんなにあの人形はダメだって言ったのに」
「……それ、気になってたんだけど、彼女から買わせてくれって交渉があったんだよね」
「よく知っているね。彼女と話したの?」
「まあ」
「ふうん。じゃあ知ってるかな。彼女ね、素体を探してるんだよ。お人形趣味というのも確かなんだけれど、そういうことじゃなくて、素体。ぴったり合う人形を探してるんだ」
「……何だって?」
「ぴったり合う素体だよ。ごめん戦、戦はあまりピンと来ないかな。じゃあ簡単に説明するけど、戦も知ってる通り、よく出来た人形には霊魂が憑依するよね。そうするとジュペッタっていう生き物が生まれる。でも、例外的に、姿が変わらない人形もあるよね」
「階段の和人形みたいな」
「そう。流石は戦だね、良い例だ。だけど、そういうのってなかなか合致しないんだ。うん、生前の趣味だったり、雰囲気だったり、そもそも人形の強度だったりね。それが合致しなくなると、中身は汚染されて真っ黒になって、表面は邪念が湧き出して薄汚れて、顔も表情もあくどくなって、気付いたらジュペッタみたいになるんだ。ここまで話すと戦も分かるかな」
「つまり……彼女は何か、特別な霊を憑依させる容れ物を探してたってことか?」
「そうだよ。そしてそれは逆説的に言えば、憑依させたい霊魂が気に入りそうな人形を持っていれば、その霊がやってくるという考え方にも繋がる。要は降霊儀式だね。だから売らないって言ったんだ。危険すぎるからね。大人しいジュペッタになれば良いけど、もし静お婆ちゃんみたいに素体と霊魂が協力し合っちゃうと、部屋の戸くらいなら簡単に壊しちゃうからね。そういう存在を探そうとしてるって言うんだから、断るしかなかったんだ。でも、盗まれちゃったんだね。それなら仕方ないよ。弥生さんが決めたことだから。戦はあまり悪くないよ。気にしないで。怒ったりもしないから。そんなに暗い顔しないでよ」
「……それ、危険なことなのか」
「危険だね、私は出来れば止めたいと思った」
僕は思案する。
恐らくそれは彼女の目的なのだろうが。
危険な真似をさせたくはなかった。
「ところで、ごめん戦、話の途中で悪いんだけど、さっきからこの屋敷にすすり泣きの声が聞こえてるよね。これ、何か分かる? それとも、私にだけ聞こえてるのかな。私にだけ聞こえてるなら、いいんだけど」
「いや、僕にも聞こえてるよ」
「何だろう?」
「綿だ」
「綿……ああ、黒い綿だよね」巴はすぐに正解を言い当てる。「それってつまり、ジュペッタの残骸だ」
「ジュペッタの残骸……?」
「戦はあまり詳しくないかな。ジュペッタの中にある綿は大抵真っ黒で、怨念がこもってるんだ。もちろん、戦が知っているようなジュペッタの『抜け殻』なら、綿は白いんだけどね。現在進行形で呪われている人形の綿は真っ黒で、それが意図せず、憑依したまま分離させられると、こうやって泣いたり怒ったり笑ったりするんだ。ごめん戦、説明が分かりにくいかな?」
「いや……つまりこの泣き声の主は、ジュペッタってことか?」
「この屋敷にある人形に呪われた素体は一体だけ、静お婆ちゃんのものだけだからね。それ以外にお人形が新しくやってきた心当たりがないなら、ジュペッタだと思うよ。一週間戦だけだったから、野生生物も寄りついたのかもしれないね。それとも、何か心当たりある? つまり、この屋敷にジュペッタを招いた記憶はあるかな?」
「……大いにある」
「じゃあ、見に行こうか」
巴は慣れた手つきで屋敷中の洋燈に明かりを灯しつつ、泣き声を頼りに、リーチェが使っていた部屋へ向かった。僕もそれに続き、机の引き出しを開ける。無理矢理押し込んだ黒い綿が、再び溢れだしてきた。
「そうだね、ジュペッタの残骸だ」巴は恐れる様子もなく綿を引っ掴んで、机の上に乗せていく。「ああ、それに、奥にも何かあるね」
引き出しの奥底に、ジュペッタの布があった。恐らくマニューラが身に纏っていたものと同じ……いや、待て、それはつまり、
「どうして壊されてるの?」
「なあ巴、生きてるジュペッタの綿は、黒いのか」
「正確には呪われている最中のジュペッタだね。ごめん戦、私、説明下手で」
「いや、大丈夫だよ。それより、そこで今泣いてるジュペッタは、つまり、壊される前まで、普通に、野生生物のように、僕たち人間のように、自我を持って動いていたっていうことか?」
「そうだよ?」
と、
巴はいとも簡単に言ってのける。
それはつまり、
人形を盗むために、ジュペッタを犠牲にしたということじゃないのか?
「……弥生さんは、素体を探しているって言ったよな」
「言ったよ」
「このジュペッタがそういう、一つ前の素体であった可能性ってのは、あるのか」
「除霊をすれば簡単に調べられるけど、その前にまず直してあげないとね。修復なら簡単だよ、詰めて縫うだけだから、五分もあれば終わるけど」
「……とりあえず、直してあげたい」
「いいよ、それが戦のお願いなんでしょう? うん、どうしたの、戦。ごめん戦、私、何か悪いこと言ったかな。どうしてそんなに哀しい顔をしているの?」
「いや……巴のせいじゃないよ。悪いけど、先に行って、暖炉のところで、直しておいてくれるか?」
「うん、分かった。ねえ、大丈夫だよ戦。何も怖いことなんてないからね。ジュペッタは呪いの人形だから、除霊しないとなくなったりしないよ。ただ分離して、壊れただけ。それが哀しくて泣いてるだけなんだよ。だからね、心配しないで」
「うん、ありがとう」
僕は洋燈を持って、人形部屋へと向かった。何故こんなに哀しい気持ちを背負ってしまっているのだろう。人形部屋の鍵は、昨晩、泣き声を聞いた時に閉ざしたまま。そう、あの時、泣き声はこの部屋から聞こえてきていた。つまり、この部屋にも、綿はあったのだ。
洋燈で照らしながら、くまなく部屋を探す。と、やはり見つけにくい位置に、見つけにくい真っ黒な色の綿が隠してあった。それは、握り締めてしまえば、片手で掴んでしまえるようなサイズ。西洋人形を隠すためだけに切り取られたような、とても矮小なパーツ。しかし、どんなに小さかろうが、分離してしまったが最後、ジュペッタはジュペッタではなくなってしまう。まるで絡繰りの歯車を一つ欠いたように、動かなくなってしまう。
僕はその一握りの綿を持って、一階へと降りた。既に巴は修繕作業に取りかかっていた。頭の部分はもう形になっている。
「これもそうだと思う」
「ああ、まだどこかにあったんだね。ありがとう戦、全部揃わないと意味がないからね」巴は疲れているだろうに、妙に明るい雰囲気だった。僕が悲しんでいることを理解しているのだ。付き合いは長い。本当に、忘れてしまうほど昔からの付き合いだ。「ねえ、このジュペッタは、どうしたの?」
「弥生さんのジュペッタだよ」
「ああ、うん」巴は深く頷いた。「ごめん戦、言葉にするのは残酷だって分かってるけど、確認するね。このジュペッタは、もともと、弥生さんが以前見つけた素体だったか、って言うことなんだよね」
「ああ」
そうだ。
恐らく、そうなのだろう。
そうじゃなければ、哀しすぎる。
一体、何の霊魂を憑依させたいのかは分からない。けれど、その召喚の儀式のために、彼女は何体もの素体を犠牲にし、何体もの霊魂を呼び寄せ、その願いが叶わず生まれたモンスターを、次の儀式の生け贄にしてきたのではないだろうか?
彼女は、荻野さんが階下に降りて、人形部屋に一人になった時、抱いていたジュペッタを切り裂いたのだ。そしてジュペッタの綿を抉り出し、その代わりに人形を詰め込んで、隠蔽した。綿は箱の群れに隠され、ジュペッタは活動を停止した。
その後は彼女が話した通りだろう。彼女は僕がジュペッタに疑いを掛けた絶妙のタイミングで、中身をマニューラへと移し変えた。綿はその間机の中に隠され、一人泣いていたのだろう。そしてリーチェは、一晩中、ジュペッタの泣き声を耳にしながら眠りに就いたのだ。なんて悲痛な叫びなのだろう。それを聞きながら、眠れたというのだろうか。
「戦、ひどい顔になっているよ」
「……ごめん」
「ううん、戦が謝ることじゃないよ。ほら、もう少しで出来上がるからね」巴はまるで子どもをあやす母親のようだった。「そうしたら、どうして欲しい? この子を人形に戻して欲しい? それとも……」
彼女がその続きを語らなかったのは、僕の体質を痛いほどよく知っているからだ。僕の右手の怪我に一切の質問を投げかけてこないことも、それを証明している。何年間もわかり合って、僕たちはここにいる。
「出来たよ」
ローテーブルの上に、ジュペッタが乗せられる。ジュペッタはじっと僕を見ていた。もう、自我があるのだろうか。それとも、何か儀式をしなければならないのだろうか。「除霊する?」と巴が聞いたので、僕は首を横に振った。
「もう、自我があるのかな」
「うん、だから……」
さわると危ないよ、と巴は言おうとしたのだろう。けれど、僕は構わずに、ジュペッタに触れた。抱き締めなければ気が済まなかった。彼女に捨てられてしまった、可哀想な人形。それはとてもつらいことだ。このジュペッタが僕なら、身を引き裂かれるような思いだろう。用済みの烙印を押され、背を裂かれ、綿を抉られ、布を利用され、閉じ込められ、涙の訴えも届かず、ただ泣くしなかった、哀れなジュペッタ。
僕はそれを抱き締めなければならなかった。
「……おかしいね戦、戦がこんなに抱き締めてるのに、狼狽えたりもしないんだね」
巴の冷静な発言で、ふっと我に返る。
「……そうだな」
「なんでかな。戦のことが好きなのかな。それとも、ゴーストだから、生前ほど、敵対心がないのかな。何にせよ、珍しいね、戦。うん、そう言えば、戦がゴーストと触れ合ってるのを見るのは、初めてかな。小さい頃から、普通の生き物ばかりに敵視されて、全員敵だって思い込んでいたもんね。それからは、自分から彼らに近づこうとはしなくなったもんね」
「……ああ」
「ねえ、除霊はやめておこうよ。戦。戦は昔からパートナーを欲しがってたんだから、この子と一緒になればいいよ。ね、それ、素敵なことだと思うな。私は、私はどう足掻いてもパートナーを得ることは出来ないし、戦や、血族の誰かとしかこうして一緒にいることは出来ないけど、戦はもっと繋がっていいんだよ。私は、それを見ていたいな。だって、その子はとっても嬉しそうだよ」
「そんなこと、分かるのか」
「うん。除霊師だからね、色々分かるよ」
僕はジュペッタを、リーチェがそうしていたように、抱えてみた。とても据わりの良いジュペッタは、僕の膝の上で、少しだけ反応を示した。居心地の良い座り方を模索するように、本当に些細に、動いた。
「かわいいね」
ジュペッタはしばらく緊張したようにじっとしていたが、ゆっくりと手を挙げると、その手を、玄関の方へ向けて小さく振った。まるで、外に連れて行け、と訴えているようだった。
「何言ってるか分かるか」
「流石に言葉までは分からないや。でもね戦、何かして欲しいみたいだよ。お願いをする時の気配がするから」
「ああ……そうか、君が目印なのか」
捨てられてしまっても、会いたがるものなのだろうか。捨てられてしまった主人に会うために、もし再び相まみえ、残酷な仕打ちをされることになろうとも、それでも再び会いたいと、願うものなのだろうか。
「なあ巴」
「なあに、戦」
「お金が欲しい」
「いくらくらい?」
「出来るだけたくさん」
「どこかに行くの?」
「かもしれない」
「いいよ、あげるよ。お金は、どうせ私には必要のないものだから。戦の役に立てるなら、あげるよ。でも、ごめん戦、すぐにはあげられない。今は持ち合わせがないから」
「ああ、すぐじゃなくてもいい。すぐ会えるとも限らないから。でも、出来るだけ早い方が良いかもしれない。また、哀しい儀式が始まる前にね」
「誰かに会いに行くの?」
「スケープゴートの、飼い主だよ」