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荻野さんと夢見屋は早々に身支度を調え、帰路についてしまった。出会いと別れはあっさりとしたものだ。帰り際、彼らとは連絡先を教え合った。いつか会う日が来るのかは分からない。それでも、確かに存在したという証拠を教え合うように、お互いのプライベートを、切り分けあった。
「本当に人形だけでいいんですか」
リーチェはまだ残っていた。僕が無理を言って、残らせた。下心なんかはない。人形が惜しくなったわけでもない。ただ、まだ、気になっていたことがあった。
今、僕たちはあたたかい紅茶を前に、向かい合っている。
「ええ」
「どうしてですか?」
「重たいでしょう?」リーチェは笑う。「重たいものは持てないの」
「お手伝いしますよ」
「いいえ、あなたは逢阪さんを待たなくては」
「僕はあなたに興味がある」
「個人的に?」
「ええ」
「でも……」
「ええ、分かっています。あなたにはあなたの生活があるし、それを侵す権限は僕にはない。それに、結局――」
「いえ、違うわ」
「まだ何も言っていません」
「あなたに興味があることと、人形を拝借したことには、関係はないの。言ったでしょう? 私が証明すると」
「一夜の恋を?」
「あなたは、あなたが思っている以上に素敵な人だわ。お話も、お声も、物腰も」
「光栄です」
「でも、すぐにその興味を満たすことは出来ないの。あまりに急でしょう? それに……」
「家に帰って人形を愛でなければ」
「ええ、そうなの」リーチェは子どものように笑う。「小さい頃から聞いていたの、逢阪了の西洋人形のお話。本場のものにはない精巧さと、惜しみなく使われた素材。どうしても手に入れたかったの。どうしても。どうしても」
「夢が叶って良かった」
「立花さんは、逢阪さんに怒られないかしら?」
「怒られるでしょうね、とても」
「……ごめんなさい」
「喜んで頂けた方が、救われます」
「ええ、そうですわね。ありがとうございます」
リーチェは夢のような笑顔を僕に向ける。ああ、感情とは残酷なものだ。そして男という生き物は、ひどく低脳だ。そんな自分が、どうしても憎めない。
「ところで、リーチェさん」
「何かしら」
「人形は、どこに隠していたんですか?」
「あとで、取り上げたりしない?」
「しませんよ」子どもみたいな言い方に、思わず笑ってしまう。「ただ、謎を綺麗に解かしてしまいたいだけです」
「ベッドの中ですわ」
「一度探しました」
「スカートの中は?」リーチェは問う。「一度探せばもうない、と決めつけたのではないかしら?」
「そうかもしれません」
「お人形のお部屋からは、ジュペッタの中へ。それからあとは、ベッドの中に隠したわ。そして今はまた、別のところへ」
「もし僕が紳士ではなかったら、どうしたんですか? つまり、その隠し場所に気付いたとしたら――」
「お人形よりも素敵なものが手に入ったかもしれないわ」
「それはあり得ないな。僕はあなたが思うほど、良い男じゃない」
「どうかしら。是非確かめたいわ」
「もう一つ、どうしても聞きたいことが」
「謎は残っていた方が、ロマンティックじゃないかしら?」
「いえ、それでも聞いておかなければ。マニューラが入れ替わるまで、ジュペッタは――」――それは、答えを聞きたくない質問だった――「――生きていたんですか?」
「ごちそうさま」
リーチェはティーカップを置いた。
「そろそろ帰りますわ」
「答えてくれないんですね?」
「きっとすぐに分かるわ」
「もう、これっきりですか?」
「いいえ、そんなことはないわ」
「いつ逢えますか」
「目印を残しておきますわ」リーチェはまた、僕に謎を残す。「それを辿って、会いに来てくださらない? 私、追いかけられるのって、好きだわ」
「構いませんよ」
「まあ、嬉しい」
「玄関まで送りましょう」
「お別れが辛くなるわ」
「せめてわがままを聞いてください」
彼女の手を取る。エスコートするように、ゆっくりと手を持ち上げ、手を引いた。
「人形を取りに行かないといけませんね」
「いいえ、ここにあります」
「どこに?」
「傘の中に」
閉じられた、中央が膨らんだような傘。人形が入らないサイズというわけでもない。ただ、扱いが少々乱暴ではないかと思った。愛好家にも種類がいるということだろうか。
彼女を玄関まで連れて行き、扉を開く。外は快晴だった。玄関マットを出すのを忘れていることに、今ようやく気付く。あとで出しておかなければならない。
「お人形をありがとう」
「どういたしまして」
「またお会いしましょう、戦さん」
「……その名前は嫌いです」
「でも、好きになってもらわなければ、困るわ」
「どうしてですか?」
「理由は二つあるの」
「僕の自惚れでなければ、一つは分かります。もう一つは?」
「一度嫌いになったものを、もう一度好きになっていただきたいから。そうしなければ、私はあなたに、もう一度会うことは出来ないもの」
「またなぞなぞですか」
「すぐに分かるわ。さようなら」
「さようなら」
彼女の後ろ姿は、あっさりと遠くなる。それを見送り切らないうちに、僕は扉を閉めた。とても空虚な静けさが屋敷中に敷き詰められているようだ。息苦しい。僕は駆け出すようにして、リーチェの部屋に向かった。女々しいだろうか。卑しいだろうか。僕はそのまま、彼女が一夜を過ごしたベッドに横たわり、目を閉じた。